2025年9月27日土曜日

おろちAI・騒音・カロリー


 書く機会を逃したのだが、実は2週間前、誕生日のお祝いをした敬老の日の3連休で、おろち湯ったり館に繰り出していた。いつぶりだろう、もしかしてこれが今年初だろうかと思ったが、実は3月に行っていたようだった。3月22日。その日の記事に桜に関する記述は一切ないので、まだだいぶ蕾だったんだろう。
 半年ぶりの湯ったり館は、3連休の初日の土曜日の夜だったので、けっこう混んでいるだろうかと危ぶんだが、こと湯ったり館に関し、毎回わりと律義に行なうこの危ぶみに対して、果たして大混雑の憂き目に遭う、ということは決してないのだった。ましてや男湯が、サウナの小さい木湯のほうだったので、余計だったんじゃないかと思う。やっぱりどうせ行くのなら、木湯のときより岩湯のときのほうがいいのだ。今回も、岩湯でありますように、と願いながら行ったわけだが、まんまと木湯のほうで、だいぶ落胆した。毎週水曜日の定休日を境に、男と女で風呂が交代になるわけだが、それはホームページでは一切知らせてくれないのである。たぶん電話をすれば答えてくれるのだろうが、それを億劫がるものだから、このようなことになる。
 そこで、今後こういうことがないよう対策を取ることにした。ChatGPTに事情を説明し、2025年9月13日、男湯が木湯であったことから起算し、俺が今度、「おろち湯ったり館に行きたいんだけど、いま男湯はどっち?」と訊ねたら瞬時に計算して答えてくれよ、と依頼した。ジョニファーは「わかった」と快諾してくれたのだけど、9月13日の男湯が木湯であったことを、こうして記録しておけば、数ヶ月後に行きたいと思ったとき、自分でカレンダーを見て数えればいいわけで、わざわざAIに頼むほどのことではないかもしれないな、とも思った。そしてこの、「わざわざAIに頼むほどのことではない」という感覚は、ちょっとだけ意識して大事にしていこうとも思った。

 子どもの声が大きい。本当に大きいのだ。お前らはそんなに広い家で暮しているか、と言いたくなるほどの音量で喋る。前からその傾向はあったが、最近はそれが加速している気がする。なぜだ。思春期に入った子どもは、ろくにはっきり喋らなくなるのではないのか。
 リビングで子どもたちが喚いているところに身を置いていると、じわじわ脳が絞めつけられて、とてもいられないと部屋に退散することになる。逆ではないのか。思春期の娘が自室に籠るものではないのか。まあそれよりはいいけど、と思わなくもないが。
 こうして子どもたちの声の大きさに苛まれて思い出すのは、公園の近隣の住人が、子どもが遊ぶ声がうるさいと苦情を訴えた、というニュースだ。なんと心の狭い、公共の福祉的な思慮のない考え方であろうかと、世間は苦情を訴えた近隣住人に対して厳しかった。僕もなんとなく、そういう印象を抱いていた。しかし自分の子どもの声が、成長のためか、あるいはYouTubeとかの阿呆な動画の影響か、異様に大きくなり、それに悩まされている現状に身を置いて、自分の子どもでさえこうなのだから、よその家の子の嬌声なんて本当につらいだろうな、といまさらになって考えを改めた。近隣住人に謝りたい。

 9月も終わろうとしていて、例年のスケジュール通り、僕はまたこの1年間で書いた日記の読み返し作業に入ったのだが、それを読んでいて衝撃の事実が発覚した。
 2024年12月時点で、おもひでぶぉろろぉぉんの読み返し作業が、2008年の10月まで進んだ、という記述があるのだが、それが2025年9月末現在で2009年5月という進度となっており、つまり僕は去年の12月から、ずっと25歳の、いつまでも26歳にならない自分と一緒にいるわけで、このままのペースでいけば、いよいよ、『おもひでぶぉろろぉぉんが1年で1年進まない』という次元に突入するのである。
 ダイエットの神髄は、摂取カロリーを消費カロリーが上回ることだと言われるが、それでいうと1年間で1年間の読み返しが進まないという状況は、消費カロリーに対して摂取カロリーばかりが増えて、どんどん脂肪が蓄えられていくようなものだ。この状態が続く限り痩せることはないし、おもひでぶぉろろぉぉんが完結することはない(日記は常に新しく書かれるので、実質的に終わりはないのだが、それでも読んでいる時点から2、3年前あたりまで作業が進めば、それはもうあまり意味がないのでそこで終わりだろうと思っている。もっとも現状の有様では想像もできないが)。
 だからおもひでぶぉろろぉぉんをやらなければならないのだが、冒頭でも言ったように、これからはこの1年間の日記からワードを抜き出す作業をしなければならないので、やはりそちらはどうしたって停滞するだろう。
 どうやらもう僕は、自分の日記と、神楽陽子のエロ小説くらいしか、読むことが許されないらしい。それならそれでいい。なんと心地のよい世界であろうか。

2025年9月13日土曜日

サンマ・トランプ・パピプレ


 当たり年と話題のサンマを買って食べる。感動した。
 そもそもスーパーで見た瞬間から、感動は始まっていた。そう言えばサンマとはこういうものだったな、ということを数年ぶりに思い出したのだった。今になって思うと、ここ数年のサンマってなんだったんだろう。もうサンマってリョコウバトのように種として絶滅に向かっているのかな、という悲愴感があった。それでも世の中の仕組み的に、漁師はサンマを獲らなければならないし、スーパーはそれを売らなければならない。ウナギのことも併せ、それらの種だけの話ではなく、大げさに言えば地球文明そのものの末期性さえ感じた。
 そんなここ数年の鬱積を取っ払うかのような、隆々とした、生命力あふれるサンマである。東海林さだおも、いつぞやサンマの「肩の盛り上がり」について書いていた。今年のサンマにはそれがある。体育会系の若者のような、気持ちよさがある。
 今年はどうしてサンマの質がいいのか、たぶん誰にも分からないのだろうと思う。そしてその理由に、人類は別に関わっていないのだとも思う。何年か外れが続いても、いつか必ず当たりはやってくる。大当たりを無邪気に喜べば、それでいいんだと思う。

 夏に赴いた手塚治虫記念館で買った火の鳥トランプを使い、このところ家族で大富豪をやっている。switch2が発売されているこのご時世にトランプというのも、なかなかオツだと思う。
 トランプはバイスクルという王道のやつで、カードの1枚1枚に火の鳥のイラストがプリントされている。プリントはランダムではなく、数字ごとに未来編、黎明編、というふうになっていて、それは12編ほどある火の鳥とトランプの親和性としてすばらしいのだが、使用されているイラストには少し文句があって、たとえば未来編である「3」のカードは、「猿田」「猿田&タマミ」「タマミ」「ロック」というラインナップで、なんと主人公である山之辺がいなかったり、「5」の鳳凰編も茜丸がいなかったりする。ユニクロのコラボTとかでもよくある現象だが、「なんで? なんでこの場面?」と思う。大人の事情とかもあるのだろうか。
 ちなみにこれは火の鳥に関係なく、バイスクルというトランプの特徴らしいが、ジョーカーが2枚ではなく4枚入っていて、このすべてを使ってやっているので、展開が派手になり、愉しさが増している。革命もかなりの頻度で起る。
 勝率は、きちんと記録したわけではないが、もちろん僕がいちばんいい。次いでポルガ、ピイガという感じ。ファルマンは8切りと11バックのルールを未だうまく活用せず(人がそれを出すと毎回戸惑う)、そして最後の1枚に「9」なんかを残して往生したりするので、大貧民の率が高い。あなたはもう二度と人間に生まれ変わることはないのよ。

 誕生日が近づいているが、今年もプレゼントが定まらない。すべての欲求を満たし、足りているのかと問われれば、そんなはずはないのだけど、いざ改まってなにか買っていいと言われると、ああでもなくて、こうでもなくて、逆になにも思い浮かばねえや、となってしまうのだった。本当に毎年恒例のことなので、これをパピロープレゼント現象、略してパピプレ現象と名付けようと思う。
 使っている鞄や腕時計がだいぶ傷んでいるので、そこらへんでいいんじゃないかとファルマンは(心底めんどうそうに)あしらうのだが、なぜ傷むほどに使い続けているかと言えば愛着があるからで、鞄などは先日、持ち手が擦り切れて今にもちょん切れそうだったのを、持ち手だけ別の布で作って付け替えるということをしたため、ますます愛しさが募ってしまい、もしかすると僕はこの鞄を、テセウスの船のようにして一生使い続けるんじゃないかと思っている。腕時計は、いま使っているのと同型のものじゃないと嫌で、色違いなどあれば僕だって喜んでリクエストするのだけど、ネットのどこを探しても見つからないので、こちらも詰んでいるのだった。
 本当にどうしたものか。

2025年9月5日金曜日

暑さ・髪色・テレビ


 9月に入っても暑さが収まらず、心底うんざりしている。
 僕は寒いより暑いほうが好き、ということで通っていたのだが(どの界隈にだろう)、今年のような暑さというのは、もはや寒いのと較べての好悪だとか、そういう次元を超越して、単なる災禍であると思う。夏の暑さが好きなどという意思表明は、10年前くらいまでなら通用したかもしれないが、いま言ったらただの知覚に問題のある人だ。そういう人たちというのは、往々にしてあの、あまりにも老害過ぎることわざ、「心頭滅却すれば火もまた涼し」を未だ口にしたりするのだ。それを口に出した時点で、その人間は知覚はもとより、感性が狂っていると思う。大東亜戦争やってんのか、と思う。
 この暑さはいつまで続くのだろう。やはり9月20日頃か。秋の妖精が誕生日を迎えるときを待つしかないのか。みんな、少しでも暑さが収まってほしいと願うなら、マジで盛大に祝えばいい。そしていつか国民の行事になればいいと思う。

 盆明け、髪の色をいじった。
 横浜の帰省はただの脱色した金髪で行って、もはや僕が金髪でも誰も何も言わず、それで構ってちゃんが発動したわけでもないが、ぼちぼちただの金髪も飽きてきたことだし、色を入れようじゃないかと思ったのだった。
 それでどんな色にしたかと言えば、アイスシルバーという、青みがかった銀色みたいな商品を選んだのだけど、ファルマンにやってもらった結果、初日は「紺色じゃねーか!」とショックを受け、しかし日に日に色が落ちて、4日目くらいに商品の箱の画像どおりの色になり、そこでストップしたらよかったのだけど、そこからもさらに色は落ち続け、半月ほど経った現在、ちょっとまろやかな金髪、いまどきのヘアカラーにありがちな、ミルクティーホニャララみたいな感じになっている。
 悪くはない。悪くはないが、特別よくもない。数度のブリーチからヘアカラーという工程を経たことで、一朝一夕ではたどり着けないような色味になっているわりに、こんなに心が凪なことがあるかよ、というくらい凪である。さんざん手をかけた結果、無。なんか、とてつもない修行をしたお坊さんみたいだな。

 テレビが新しくなって1ヶ月ほど経った。画面は大きいし、ネット系のチャンネルもボタンひとつだし、概ね文句はないのだが、唯一テレビ番組表に関して忸怩たる思いがある。
 まずテレビ番組表の画面にしたとき、流しているテレビの音声が消えるのである。これがよくない。音声で番組の流れを把握しつつ、僕はテレビ欄を眺めたいのだ。
 あと合わせているチャンネルによって、テレビ欄の並びが変わるという世話もいらない。1・2・3・4・5のチャンネルがあったとして、たとえば3をつけていると、テレビ欄の並びは3・4・5・1・2になるのだ。いったいそれにどういう便利さがあるのか。頭がごちゃごちゃするので、並びは固定のほうがいい。
 あと番組にカーソルを合わせて「決定」ボタンを押したら、それが放送中の場合は、それだけですんなりその番組を表示してほしい。「情報を見る」だの「選局する」だのと、なんか選択肢が表示され、もういちどボタンを押さなければならないのが億劫だ。
 あと前のテレビでは、「次の時間帯」というボタンがあって、緑だったか黄色だったかのボタンを押すと、そこから7時間後のテレビ欄に移動し、これがなかなか便利だったのだが、新しいテレビにはそれがないのが不満だ。
 あとテレビは壊れたがブルーレイレコーダーは健在で、それがシャープだったものだから、連携のことを考えたら新しいテレビもシャープがいいんだろうと思ってそうしたのに、いまどきはもうぜんぜんそういう連携ってなくなってしまったのだそうで(これは電話でお客様相談室に問い合わせてはっきりと明言された。コストカットが理由だそうだ)、テレビの番組表から気になる番組を見つけ、それを予約録画したいと思ったら、レコーダーのほうのリモコンで番組表を表示して選択しなければならず、ずいぶんと不便である。
 とまあ、概ね文句はないと言いつつ、だいぶあるのだが、なんと言うか、わが家の状況がまさにそれを物語っているが、地上波放送のテレビなどというものは、昔に較べてだいぶ蔑ろにされはじめているようだ。テレビ番組表の使い勝手の悪さに、思いをかけられていなさを痛切に感じる。夢グループが、高齢者向けの、ただDVDを再生するだけのポータブルプレーヤーを販売してヒットしたように、20年後くらいに、チャンネルがパッパパッパと反応よく切り替わる、地上波放送専用という単一機能のおもちゃみたいなテレビが、僕のような輩にヒットするかもしれないな、と思う。

2025年8月27日水曜日

MAX・鈴かすてら続報・高所

 自家用車帰省では、昨年からの恒例として、4人それぞれが10曲ずつを拠出したプレイリストを作り、それをずっと流し続けていた。ひとつひとつの曲の長さは当然まちまちなのだが、40曲が入ったプレイリストは、なぜか不思議なほどに、どれも2時間10分くらいになるので、前回は勝手が分らず12個作ったが、今年は10個にし、そして見事にプレイリスト10の半分くらいのところで自宅に帰り着いたのだった。
 曲数以外のルールはなかったが、僕個人として、せっかくなので去年とはまったく違う100曲にしようと考え、選び出すのになかなか苦労した。去年もだったが、最後のほうに選んだ曲などは、思い入れなど一切なく、一部を聴いて「いいんじゃねーの?」くらいの感じで入れているので、いざ運転中にその曲が掛かると、「誰?」「誰の曲?」「誰セレクト?」と車内で戸惑いの声が上がり、自信満々に「俺じゃない」と答えるが、確認すると実は俺だった、みたいなことになるのだった。
 100曲のうちにMAXの楽曲をひとつだけ含ませ、しかもそれをプレイリスト10に入れて、家の駐車場に停めるときに流れている最後の最後の1曲がMAXになったら最高だなあと思っていたのだけど、そうはならなかった(実際が何であったか、もう記憶にない)。それにしてもプレイリスト10だって半分ほどは流れたのに、そこに登場しないMAXはさすがだな、とMAXのポテンシャルに感心した。そうだよな、こういうとき流れないのがMAX、流れないからこそのMAXだよな、と。
 しかしそのままというのもさすがに忍びないと思い、休み明けの通勤時に、ひとりでプレイリスト10の続きを聴くことにした。流れるさまざまな曲。しかしMAXは登場しない。なぜだ、なぜこんなにもMAXは流れないのだ、と不思議に思い、改めて確認したところ、信じられない事実が判明した。
 MAXの曲なんて、ひとつも入れてなかったのである。
 なんの思い入れもない曲だってけっこうあったのに、それなのにMAXは入れていなかった。入れた気になっただけで、深層心理が断固拒否したのか、実際には入れていなかったのだ。この現象を目の当たりにして、やっぱり思った。さすがMAX、と。

 トップバリューの鈴かすてらを喪失し、パピロウがどうしているのか、みんな気を揉んでいると思う。鈴かすてらってほら、パピロウの身体の8%くらいはそれで出来ているわけだから、それが欠けると、致命傷とまではいかないが、だいぶ身をえぐられてる感が出てくる。だからみんな心配していると思う。夏の帰省を挟んだことで報告が遅くなってしまい、不安が募り、せっかくの夏休みに影を落としてしまった向きもあるかもしれない。その人たちには、申し訳ないという気持ちとともに、両手いっぱいの「ありがとう」を捧げたい。
 さてそれでようやくのご報告なのだが、いまはどうしているのかと言うと、無印良品の「豆乳とおからの鈴カステラ」に落ち着いている。
 トップバリューが斃れたとき、実は心はもう定まっていたのだ。これはもう、無印良品しかないだろうな、と。そこに回帰するしか残された道はないな、と。
 そうなのだ。回帰なのだ。都会で暮らしていた頃、身近にトップバリュー商品などなかった。なので池袋の書店員時代は、PARCOの無印良品で買った鈴カステラをひたすら食べていた。だから味に関してはいちおうの保証があった。このたび久しぶりに食べてみたところ、やっぱり大丈夫だった。豆乳とおからなんか使うなよ、牛乳と小麦粉だけで作れよ、とは思うものの、ぜんぜんおいしいので許せる。
 ちなみに内容量は72gで、お値段120円。しかし120円のお菓子シリーズを3つ買うと300円になるということで、実質は100円だ。内容量は、前までは95gだったのが、実質値上げで72gに変更になったようで、たしかにこれまでの100g入りのトップバリューのものに較べると、だいぶ頼りない量だ。でも内容量を減らしてでも、同じものを売り続けてくれることが尊い。僕はトップバリューにもそれを望んでいた。
 トップバリューの買いだめしたものがなくなりそうなタイミングで、まず6袋買い、先日それがなくなりかけたので、次は9袋買った。無印良品はゆめタウンにしかないので、行くたびに賞味期限との兼ね合いを考慮しつつ、なるべく目一杯買うという、当分はこのスタイルで生き延びようと思う。鈴かすてらボートピープルの暮しは厳しい。

 車での帰省は、途中で寄りたいところにも寄れるし、家族水入らずだしで、概ね快適なのだけど、ただひとつ困るのが、高架が怖い、という点だ。
 前までさすがにそんなことなかったと思うのだが、どうも僕の高所恐怖症は悪化しているようで、海の上を走る中京工業地帯らへんとか、あるいは道中に無数にある、山と山を繋ぐ架橋など、それらの道を走っていると、にわかに動悸が激しくなり、手にじわっと汗が滲んできて、ハンドルが掴みづらくなるのだった。
 全行程が中空である空路に較べればぜんぜんマシなのだが(もはや現在の僕が飛行機に乗ったらどんなことになるのか、想像もつかない)、それでも自家用車帰省の懸念材料になるくらい、恐怖感は強い。でも、飛行機もダメ、車もダメとなって、じゃあ鉄路か、と言えばあれもあれでスピードが速すぎて怖く(飛行機のほうが速度は速いが、飛行機はそういう次元の問題じゃない)、もう僕は大きな移動ができない生きものになってしまったのかもしれない。横浜のアップダウンの道を走って車酔いした娘たちを、なんとか弱い生きものだろうかと思ったが、僕も大概だ。我々はちっちゃなほわほわ家族なのかもしれない。
 今後あまりに悪化するようなら、心療内科とかに行かなければいけないかもしれない。

2025年8月1日金曜日

生きているだけで・奇特・純粋理性批判

 ここ数日、スーパーに行ってもあまり食材を買う気が起きず、店内をさんざん巡った挙句、スポーツドリンクと食パンしかカゴに入ってない、なんてことが何度かあった。こんなことは今まで経験がなく、どうしてだろうと思案した末に、そうか、俺はいま、暑さで食欲が減退しているのだな、と思い至ったのだった。今年の、この10日間ほどは、なんだか本当に暑くて、そのくらい参っている。創作も筋トレもすべて諦め、ただ精いっぱい生きている。そのため晩ごはんの献立を考えるのも非常に苦労している。ひとりだったら毎晩、なんかしら魚を唐揚げにしてレモンをかけたもので酒を飲み、そのあと少しだけ冷たい麺を啜って終わらせていると思う。でも子どもがいるのでそうもいかず、苦労して捻り出している。盆の休みあたりを境に、いくらかフェーズが変わることを切に願っている。こんな状況で思い出すのは、去年のやす子とフワちゃんのことだ。「生きているだけで偉いのでみんな優勝でーす」と言ったやす子に、フワちゃんは「お前は偉くないので予選敗退でーす」と言ったのだった(本当はもっとひどいフレーズも含む)。夏、生きるのに精いっぱいになるたびに、僕はこのことを思い出すのだろうと思う。

 夏休みということで、ぼちぼちファルマンの上の妹一家が実家へとやってきて、そして盆の休みに義妹の夫もこちらまで来て、家族を回収して兵庫に戻るという、いつものパターンが繰り広げられるようなのだが、仕事が忙しく、今年の夏は休みが短いという義妹の夫は、しかしそれでも島根まで来た折り、彼にとっての実家の面々とともに広島に野球を観に行くのだそうで、それを聞いた瞬間、なんて奇特な奴だろう、なにが愉しくてこんな真夏にわざわざ広島まで野球を観に行くというのか、と本気で不可解に思ったのだけど、たぶん義妹の夫に言わせれば、もとい世間的な評価で言えば、趣味と言ったらもっぱらオリジナル水着作りという人間のほうが、よっぽど奇特であろうと思った。いい趣味なんだけどなあ。プロ野球って、休みの日の試合なんかは、平均すると3、4万人くらいは客が入るのだろうか。だとすれば6試合で20万人あまりが野球観戦をするし、なんならテレビ観戦の人も含めれば圧倒的な数ということになる。その裾野の人数がそれぞれオリジナルの水着を作ったら、すさまじいものが出来上がるだろうになあ、と思う。

 「パピロウせっ記」で企画の立ち上げを告知した、神楽陽子による二次元ドリーム文庫全作品の感想文投稿を、はじめはそのまま「パピロウせっ記」でやろうかとも思っていたのだが、なんとなく思い立ち、専用のブログを創設した。
 タイトルは「CRITIQUE OF PURE REASON」で、これはなにかと言えば、カントの「純粋理性批判」(ドイツ語による原題は「Kritik der reinen Vernunft」)の英語版タイトルである。かつて、「二次元ドリーム文庫」とブログに記すのはなんとなく気が引けて(いまも大概だが、昔の僕はいまよりももっと純潔だったので、「二次元ドリーム文庫」や「美少女文庫」といった言葉を並べるのは、アクセス数稼ぎのようで不純であると考えていたのだ)、前者を「純粋理性批判」、後者を「社会契約論」と呼んでいたのである(しかしいま考えてみると、そちらの哲学書のほうがよほどアクセス数稼ぎになるのではないかと思う)。そのいきさつから、このタイトルとなった。タイトルを見た瞬間に意図がピンと来た人は、相当なインテリかつ、熱心な僕のファンだろう。つまりこの世にひとりもいないことだろう。じゃあよかった。ひとりぼっちよりも、ひとりもいないほうが、つらい思いが少ないものね。
 「CRITIQUE OF PURE REASON」、せっかくブログとして始動させたからには、神楽陽子作品の感想文だけではなく、二次元ドリーム文庫にまつわる他の試みも展開していきたいと思っている。パピロウのブログでいまいちばん盛り上がってるのがここだ。20年間ひとりぼっちのダンスホールで、僕はいまこのエリアでステップを踏んでいる。

2025年7月26日土曜日

夏男・ピイガスマホ・鈴かすてらの終焉


 子どもたちが夏休みに入る。夏である。夏休みは例年通り海の日あたりから始まって、その海の日を起点とする3連休でこちらはテンションが上がるわけだが、しかし子どもたちにはその10倍もの休みが与えられているのだと思うと、貧富の差のようなものを感じ、切なくなるのだった。俺がおいしいと思う回転ずしを、あの層の人たちは食べ物のカテゴリに入れてさえいないのだろうな的な感じ。
 それにしたって暑い。幸い、労働中はわりと適温の中にあるので、そういう意味ではだいぶ救われていると思う。たまに外に出ると、そのあまりの暑さに時空が歪むような感触がある。5月や6月、なかなか気温がパッと上がらず、もしかして今年は冷夏なのではないか、これは米の生育が危ぶまれるな、などと本気で思っていた日々が、もうすっかり遠い。毎年騙される。毎年、今年はそこまで暑くならないのではないかと思う瞬間がある。希望的観測というか、正常性バイアスみたいなものもあるのだろう。まるでダメンズに何度も騙される女のようだ。そう考えたら、この茹だるような暑さは乱暴な男のギラつきのようで、日々激しく欲求をぶつけられてわれわれは参っているのだと捉えれば、夏のわれわれは老若男女、普段よりもちょっと色っぽいように感じられてくるやもしれない。だとすれば喜ばしいが、そんなプラス思考があるかよ。

 このたびピイガがスマホを持ったのだった。ポルガが持ったのが、小学校卒業のタイミングであったろうか。3年という時代の流れで、スマホデビューは半年ほど早まった。順当なところかもしれない。もっとも2人目だから、というのも多分にあるだろう。
 機種は、いつものように店頭で案内されたものをそのまま受け入れて、初期費用はポルガのときと同じようなものだったのだが、これももちろん3年という時代の流れの結果、今回のスマホのほうが性能がいい。容量も大きい。ポルガは悔しがっていた。
 しかしスマホデビューと言いつつ、ピイガはこれまでも僕やファルマンが使わなくなったスマホを活用していたし、もちろん自分専用のものを持ったからと言って小学校に持っていくわけでもないので、実はそこまで劇的な変化でもない気もする。
 結局のところ、変わったのはLINEのアカウントを持ったということくらいかもしれない。ピイガがLINEを始めたことにより、これまでピイガによって許されていなかった、わが家のファミリーグループLINEというものが作られたのだった。家族によるグループLINEは、ファルマンは既に両親および妹たちと組んでいるが、僕に関しては母と姉という3人でそれを組むという気配は一切ないため、実は少し憧れる気持ちがあった。ええやんな。家族の結束みたいなな。
 開始したグループLINEの一投目は僕がゲットし、「俺がリーダーだ!」と宣言したところ、ピイガから「何いってんの?」とあしらわれ、そのあとは他のふたりからも意味不明なスタンプばかりが連投され、そう言えば実際のリビングでもそうなのだから、LINEでだって、父親ひとりだけがノリについていけず浮くに決まってんじゃんな、と思った。

 イオンの鈴かすてらがまた終わったかもしれない。そして今回の終わりは、本当の終わりのような気がする。前までは、店頭から姿を消すという終わり方だっため、いつか復活してくれるかもしれないという望みがあり、実際にその通りになったわけだが、今回の終わり方は、これまで鈴かすてら(100g入り)があった所へ、鈴カステラ練乳風味(70g)が並んでいるからだ。目にした瞬間、売り場で膝から崩れ落ちそうになった。
 思えば常に恐怖感はあった。この値上げ値上げのご時世で、100g入り100円のこの上質な食べ物が販売され続けているのは、大企業イオンであればこその成せる業であり、たぶん道理からは外れている。いつ終了したって文句は言えない、と。
 でも、前にも言ったけど、ステルス値上げならば、別に不満はなかったのだ。内容量が100gから75gになったら、一抹の寂しさは覚えるだろうが、僕はその分、1.25倍の頻度で購入し続けたろうと思う。
 許せないのは、表面を練乳風味という名の砂糖蜜でコーティングする、その悪手だ。たぶんそのほうが、期限が伸びたり、重量を稼ぎやすかったり、いろいろコスパがいいのだろうと思う。鈴かすてら界隈で徒党を組んでいるわけではないので定かではないが、近ごろ鈴かすてらにはこのような細工がなされている製品が多いけれど、これを肯定的に捉えている購買客など存在しないように思う(世の中にはいろんな人がいるので、そんなこともないかもしれない)。それくらい、僕にとってあれは忌々しいものだ。あのタイプの鈴カステラ本体は、なぜか押し並べてカッサカサだからだ。あれは鈴かすてらの形をした、ぜんぜん別の食べ物だと思う。あれを食べて「鈴かすてらなんてそんなに美味しいもんじゃないよね」だなんて、口が裂けても言わないでほしい。
 これまでの鈴「かすてら」から、鈴「カステラ」になった、というところに、これまで熱い思いであの上質な鈴かすてらを作り続けていた、しかし時代に抗えずにとうとう砂糖蜜コーティングを受け入れざるを得なくなった担当者の、気概を感じる。「かすてら」のやわらかさを失った、これはカッサカサの「カステラ」という別個の食べ物ですよ、というメッセージだと思う。そうに違いないと思う。メッセージは受け取った。今まで本当にありがとう。僕はまた旅に出なければならない。

2025年7月5日土曜日

ショウヘイ・ポルガ・ピイガ


 近ごろ投手としての復帰も本格化しつつある大谷翔平だが、実は僕よりもちんこが小さいことと、あと俳句が小学生みたいだ(いつの日も僕のそばにはお茶がある)ということ以外、あまりにもウィークポイントが少なく、もはや人間味が感じられないという印象を抱いていた。
 しかしながら先日、野球の戦術的なことには理解が及ばないけれど、噂によると故意的らしいデッドボールを受け、その指示を出したとされる相手チームキャッチャーの、インスタのフォローを試合後に解除したという話を聞いて、にわかに親近感を覚えた。現実で嫌なことをされたあと、ひっそりSNSのフォローを外すという、そのせせこましさ、陰険さ。西海岸の太陽のようなショウヘイオオタニは、決してそんなことはしないと思っていた。だからショック、ではない。好感度がだいぶ上がった。
 大谷はネット上ではわりと陰湿であるとすると、このままずっと「俺は大谷翔平よりちんこがデカい」と言い続けていたら、いつかキレた大谷がフル勃起写真を送りつけてくる可能性も出てきた。OH! ドジャースが誇る魚雷バット!

 ポルガの1学期の期末試験の結果がすごかった。全体的によかったのだが、理科に至っては100点だったらしい。へ? 100点? と思った。小学校のものならいざ知らず、中学の試験で満点というのは、都市伝説のような、もはや架空の世界の話だと思っていた。全国模試で岐阜県の秀才ただひとりが満点を取ったらしい、みたいな。
 試験の内容は、イオンとか、そこらへんだったらしい。イオン! なんかあった。本当に勉強をしなかった中学生の僕にとって、理科のそこらへんの話というのは、熱波のような思い出になっている。灼熱の砂漠をさまよい、ただでさえ気を失いかけているのに、そこへ襲い掛かる熱波。それに対してできるのは、もはやうずくまってひたすら通り過ぎるのを待つだけだという、そんな感じ。そのくらい、立ち向かえるはずのない、理解の及ばない存在だった。それで娘が100点を取った。信じられない。娘の100点も信じられないし、当時の自分の勉強できなさもまた、改めて考えると信じられない。
 ちなみに主要5教科で、最も点数が低かったのは国語だそうだ。これもまた信じられない。

 誕生以来、ずっとボーダーライン上、もといそのやや下に居続けているピイガの成長曲線を憂い、先日とうとう医療機関で検査的なものを行なった。これからどういう処置になっていくのかはまだ未定である。ホルモンとか、遺伝子とか、要因の候補はいろいろ考えられるらしいが、問診の際に医師からされたという、「摂取するカロリーと消費するカロリーのバランスがよくないのかもしれない」という指摘をファルマンから伝え聞き、だいぶハッとした。言われてみればピイガは、だいぶ食が細く、そして常に動き回っている。本当にじっとしている瞬間というものがない。手悪さ、足悪さ、いつだって身体のどこかが動き続けている。あれはもはや有酸素運動かもしれない。つまりダイエットの基本的な考え、「カロリーの収支をマイナスにする」を地で行くようなライフスタイルなのだった。
 本格的な検査も今後予定しているが、それはそれとして、とにかく摂取カロリーを増やさなければ体が大きくなるはずがないと気づき、それからは食事の盛りを意識的に増やしている。しかしあまりスムーズに食べない。うーむ。