2025年8月1日金曜日

生きているだけで・奇特・純粋理性批判

 ここ数日、スーパーに行ってもあまり食材を買う気が起きず、店内をさんざん巡った挙句、スポーツドリンクと食パンしかカゴに入ってない、なんてことが何度かあった。こんなことは今まで経験がなく、どうしてだろうと思案した末に、そうか、俺はいま、暑さで食欲が減退しているのだな、と思い至ったのだった。今年の、この10日間ほどは、なんだか本当に暑くて、そのくらい参っている。創作も筋トレもすべて諦め、ただ精いっぱい生きている。そのため晩ごはんの献立を考えるのも非常に苦労している。ひとりだったら毎晩、なんかしら魚を唐揚げにしてレモンをかけたもので酒を飲み、そのあと少しだけ冷たい麺を啜って終わらせていると思う。でも子どもがいるのでそうもいかず、苦労して捻り出している。盆の休みあたりを境に、いくらかフェーズが変わることを切に願っている。こんな状況で思い出すのは、去年のやす子とフワちゃんのことだ。「生きているだけで偉いのでみんな優勝でーす」と言ったやす子に、フワちゃんは「お前は偉くないので予選敗退でーす」と言ったのだった(本当はもっとひどいフレーズも含む)。夏、生きるのに精いっぱいになるたびに、僕はこのことを思い出すのだろうと思う。

 夏休みということで、ぼちぼちファルマンの上の妹一家が実家へとやってきて、そして盆の休みに義妹の夫もこちらまで来て、家族を回収して兵庫に戻るという、いつものパターンが繰り広げられるようなのだが、仕事が忙しく、今年の夏は休みが短いという義妹の夫は、しかしそれでも島根まで来た折り、彼にとっての実家の面々とともに広島に野球を観に行くのだそうで、それを聞いた瞬間、なんて奇特な奴だろう、なにが愉しくてこんな真夏にわざわざ広島まで野球を観に行くというのか、と本気で不可解に思ったのだけど、たぶん義妹の夫に言わせれば、もとい世間的な評価で言えば、趣味と言ったらもっぱらオリジナル水着作りという人間のほうが、よっぽど奇特であろうと思った。いい趣味なんだけどなあ。プロ野球って、休みの日の試合なんかは、平均すると3、4万人くらいは客が入るのだろうか。だとすれば6試合で20万人あまりが野球観戦をするし、なんならテレビ観戦の人も含めれば圧倒的な数ということになる。その裾野の人数がそれぞれオリジナルの水着を作ったら、すさまじいものが出来上がるだろうになあ、と思う。

 「パピロウせっ記」で企画の立ち上げを告知した、神楽陽子による二次元ドリーム文庫全作品の感想文投稿を、はじめはそのまま「パピロウせっ記」でやろうかとも思っていたのだが、なんとなく思い立ち、専用のブログを創設した。
 タイトルは「CRITIQUE OF PURE REASON」で、これはなにかと言えば、カントの「純粋理性批判」(ドイツ語による原題は「Kritik der reinen Vernunft」)の英語版タイトルである。かつて、「二次元ドリーム文庫」とブログに記すのはなんとなく気が引けて(いまも大概だが、昔の僕はいまよりももっと純潔だったので、「二次元ドリーム文庫」や「美少女文庫」といった言葉を並べるのは、アクセス数稼ぎのようで不純であると考えていたのだ)、前者を「純粋理性批判」、後者を「社会契約論」と呼んでいたのである(しかしいま考えてみると、そちらの哲学書のほうがよほどアクセス数稼ぎになるのではないかと思う)。そのいきさつから、このタイトルとなった。タイトルを見た瞬間に意図がピンと来た人は、相当なインテリかつ、熱心な僕のファンだろう。つまりこの世にひとりもいないことだろう。じゃあよかった。ひとりぼっちよりも、ひとりもいないほうが、つらい思いが少ないものね。
 「CRITIQUE OF PURE REASON」、せっかくブログとして始動させたからには、神楽陽子作品の感想文だけではなく、二次元ドリーム文庫にまつわる他の試みも展開していきたいと思っている。パピロウのブログでいまいちばん盛り上がってるのがここだ。20年間ひとりぼっちのダンスホールで、僕はいまこのエリアでステップを踏んでいる。

2025年7月26日土曜日

夏男・ピイガスマホ・鈴かすてらの終焉


 子どもたちが夏休みに入る。夏である。夏休みは例年通り海の日あたりから始まって、その海の日を起点とする3連休でこちらはテンションが上がるわけだが、しかし子どもたちにはその10倍もの休みが与えられているのだと思うと、貧富の差のようなものを感じ、切なくなるのだった。俺がおいしいと思う回転ずしを、あの層の人たちは食べ物のカテゴリに入れてさえいないのだろうな的な感じ。
 それにしたって暑い。幸い、労働中はわりと適温の中にあるので、そういう意味ではだいぶ救われていると思う。たまに外に出ると、そのあまりの暑さに時空が歪むような感触がある。5月や6月、なかなか気温がパッと上がらず、もしかして今年は冷夏なのではないか、これは米の生育が危ぶまれるな、などと本気で思っていた日々が、もうすっかり遠い。毎年騙される。毎年、今年はそこまで暑くならないのではないかと思う瞬間がある。希望的観測というか、正常性バイアスみたいなものもあるのだろう。まるでダメンズに何度も騙される女のようだ。そう考えたら、この茹だるような暑さは乱暴な男のギラつきのようで、日々激しく欲求をぶつけられてわれわれは参っているのだと捉えれば、夏のわれわれは老若男女、普段よりもちょっと色っぽいように感じられてくるやもしれない。だとすれば喜ばしいが、そんなプラス思考があるかよ。

 このたびピイガがスマホを持ったのだった。ポルガが持ったのが、小学校卒業のタイミングであったろうか。3年という時代の流れで、スマホデビューは半年ほど早まった。順当なところかもしれない。もっとも2人目だから、というのも多分にあるだろう。
 機種は、いつものように店頭で案内されたものをそのまま受け入れて、初期費用はポルガのときと同じようなものだったのだが、これももちろん3年という時代の流れの結果、今回のスマホのほうが性能がいい。容量も大きい。ポルガは悔しがっていた。
 しかしスマホデビューと言いつつ、ピイガはこれまでも僕やファルマンが使わなくなったスマホを活用していたし、もちろん自分専用のものを持ったからと言って小学校に持っていくわけでもないので、実はそこまで劇的な変化でもない気もする。
 結局のところ、変わったのはLINEのアカウントを持ったということくらいかもしれない。ピイガがLINEを始めたことにより、これまでピイガによって許されていなかった、わが家のファミリーグループLINEというものが作られたのだった。家族によるグループLINEは、ファルマンは既に両親および妹たちと組んでいるが、僕に関しては母と姉という3人でそれを組むという気配は一切ないため、実は少し憧れる気持ちがあった。ええやんな。家族の結束みたいなな。
 開始したグループLINEの一投目は僕がゲットし、「俺がリーダーだ!」と宣言したところ、ピイガから「何いってんの?」とあしらわれ、そのあとは他のふたりからも意味不明なスタンプばかりが連投され、そう言えば実際のリビングでもそうなのだから、LINEでだって、父親ひとりだけがノリについていけず浮くに決まってんじゃんな、と思った。

 イオンの鈴かすてらがまた終わったかもしれない。そして今回の終わりは、本当の終わりのような気がする。前までは、店頭から姿を消すという終わり方だっため、いつか復活してくれるかもしれないという望みがあり、実際にその通りになったわけだが、今回の終わり方は、これまで鈴かすてら(100g入り)があった所へ、鈴カステラ練乳風味(70g)が並んでいるからだ。目にした瞬間、売り場で膝から崩れ落ちそうになった。
 思えば常に恐怖感はあった。この値上げ値上げのご時世で、100g入り100円のこの上質な食べ物が販売され続けているのは、大企業イオンであればこその成せる業であり、たぶん道理からは外れている。いつ終了したって文句は言えない、と。
 でも、前にも言ったけど、ステルス値上げならば、別に不満はなかったのだ。内容量が100gから75gになったら、一抹の寂しさは覚えるだろうが、僕はその分、1.25倍の頻度で購入し続けたろうと思う。
 許せないのは、表面を練乳風味という名の砂糖蜜でコーティングする、その悪手だ。たぶんそのほうが、期限が伸びたり、重量を稼ぎやすかったり、いろいろコスパがいいのだろうと思う。鈴かすてら界隈で徒党を組んでいるわけではないので定かではないが、近ごろ鈴かすてらにはこのような細工がなされている製品が多いけれど、これを肯定的に捉えている購買客など存在しないように思う(世の中にはいろんな人がいるので、そんなこともないかもしれない)。それくらい、僕にとってあれは忌々しいものだ。あのタイプの鈴カステラ本体は、なぜか押し並べてカッサカサだからだ。あれは鈴かすてらの形をした、ぜんぜん別の食べ物だと思う。あれを食べて「鈴かすてらなんてそんなに美味しいもんじゃないよね」だなんて、口が裂けても言わないでほしい。
 これまでの鈴「かすてら」から、鈴「カステラ」になった、というところに、これまで熱い思いであの上質な鈴かすてらを作り続けていた、しかし時代に抗えずにとうとう砂糖蜜コーティングを受け入れざるを得なくなった担当者の、気概を感じる。「かすてら」のやわらかさを失った、これはカッサカサの「カステラ」という別個の食べ物ですよ、というメッセージだと思う。そうに違いないと思う。メッセージは受け取った。今まで本当にありがとう。僕はまた旅に出なければならない。

2025年7月5日土曜日

ショウヘイ・ポルガ・ピイガ


 近ごろ投手としての復帰も本格化しつつある大谷翔平だが、実は僕よりもちんこが小さいことと、あと俳句が小学生みたいだ(いつの日も僕のそばにはお茶がある)ということ以外、あまりにもウィークポイントが少なく、もはや人間味が感じられないという印象を抱いていた。
 しかしながら先日、野球の戦術的なことには理解が及ばないけれど、噂によると故意的らしいデッドボールを受け、その指示を出したとされる相手チームキャッチャーの、インスタのフォローを試合後に解除したという話を聞いて、にわかに親近感を覚えた。現実で嫌なことをされたあと、ひっそりSNSのフォローを外すという、そのせせこましさ、陰険さ。西海岸の太陽のようなショウヘイオオタニは、決してそんなことはしないと思っていた。だからショック、ではない。好感度がだいぶ上がった。
 大谷はネット上ではわりと陰湿であるとすると、このままずっと「俺は大谷翔平よりちんこがデカい」と言い続けていたら、いつかキレた大谷がフル勃起写真を送りつけてくる可能性も出てきた。OH! ドジャースが誇る魚雷バット!

 ポルガの1学期の期末試験の結果がすごかった。全体的によかったのだが、理科に至っては100点だったらしい。へ? 100点? と思った。小学校のものならいざ知らず、中学の試験で満点というのは、都市伝説のような、もはや架空の世界の話だと思っていた。全国模試で岐阜県の秀才ただひとりが満点を取ったらしい、みたいな。
 試験の内容は、イオンとか、そこらへんだったらしい。イオン! なんかあった。本当に勉強をしなかった中学生の僕にとって、理科のそこらへんの話というのは、熱波のような思い出になっている。灼熱の砂漠をさまよい、ただでさえ気を失いかけているのに、そこへ襲い掛かる熱波。それに対してできるのは、もはやうずくまってひたすら通り過ぎるのを待つだけだという、そんな感じ。そのくらい、立ち向かえるはずのない、理解の及ばない存在だった。それで娘が100点を取った。信じられない。娘の100点も信じられないし、当時の自分の勉強できなさもまた、改めて考えると信じられない。
 ちなみに主要5教科で、最も点数が低かったのは国語だそうだ。これもまた信じられない。

 誕生以来、ずっとボーダーライン上、もといそのやや下に居続けているピイガの成長曲線を憂い、先日とうとう医療機関で検査的なものを行なった。これからどういう処置になっていくのかはまだ未定である。ホルモンとか、遺伝子とか、要因の候補はいろいろ考えられるらしいが、問診の際に医師からされたという、「摂取するカロリーと消費するカロリーのバランスがよくないのかもしれない」という指摘をファルマンから伝え聞き、だいぶハッとした。言われてみればピイガは、だいぶ食が細く、そして常に動き回っている。本当にじっとしている瞬間というものがない。手悪さ、足悪さ、いつだって身体のどこかが動き続けている。あれはもはや有酸素運動かもしれない。つまりダイエットの基本的な考え、「カロリーの収支をマイナスにする」を地で行くようなライフスタイルなのだった。
 本格的な検査も今後予定しているが、それはそれとして、とにかく摂取カロリーを増やさなければ体が大きくなるはずがないと気づき、それからは食事の盛りを意識的に増やしている。しかしあまりスムーズに食べない。うーむ。

2025年6月24日火曜日

23区・韻・回避


 もはや遠い国の話だが、東京都議選をやっていた。そう言えば前回の選挙のときにも憤った気がするが、なぜ都議選の開票速報はNHKで全国放送され、そのせいで大河ドラマの放送に影響が出たりするのか。首都というだけで、ただの一地域だ。僕は興味ない。
 それでも見るともなしに速報番組を眺めていたら、東京23区というものは、あのあまり大きくない東京都の、その半分よりも小さい面積の中で、ずいぶん細かく分割されているものだと、いまさらながらしみじみと感じ、たとえば23区と出雲市を並べたらどういうスケール感になるのだろうと疑問に思ったので、ChatGPTに訊ねてみた。
 その結果、東京23区が約628 km²であるのに対し、出雲市は約624 km²と、ヤラセなのではないかと思えるくらい、だいぶ近似しているのだった。そうなんだ、東京23区と出雲市って、ほぼ同じ面積なんだ。へええ。ちなみに人口は、前者が約973万人、後者が約16万人ということで、ここには約60倍の開きがある。そしてこれは人口密度にすると、約15,510人/km²と約262人/km²だそうである。い、1平方キロメートルに、1万5千人? と驚くが、光ヶ丘団地のことなどを思えば、たしかにそういうことになってくるか、と納得する感じもある。これでもかつては都民だったし、長女は東京生まれなのだ。ただしもうその片鱗はない。先日ポルガは登校の際、スピードの遅い耕運機に狭い農道を塞がれ、遅刻しかけたそうである。14年前の練馬では到底想像できなかった未来へとたどり着いている。

 先日「nw」に投稿した「Nobitattle サマーコレクション 2025」の中で、ゼブラ柄の水着にChatGPTがつけたコピー、「俺たちの縞は、逃げるため。でもあいつの縞は、挑むためだ。Nobitattle.」というものに対して僕は、「音による韻ではなく、「逃」と「挑」の、漢字のつくりによる韻みたいな小粋なことをしていて、憎らしいと思った」というコメントをしているのだけど、投稿した翌日ふとした瞬間に、漢字のつくりによる韻ってなんだよ! 漢字のつくりが一緒ってことは、それすなわち韻が共通なんだろ! と思い至った。
 思い立った瞬間、すごい羞恥が襲った。だって何を隠そう、卒論はいちおう漢詩をテーマに書いたのである。当時は実際に漢詩を作り、本当にあっているかどうかは判らないが、平仄とかのルールも必死に守っていたじゃないか。そんなお前がなぜ、つくりが同じ漢字は同じ音という基本的なことに気付けなかったのか。ChatGPTは「逃」と「挑」で対句にしつつ韻を踏む漢詩的キャッチコピーという離れ業をしていたというのに。
 ……というところまでを書いて、しかし実際に確認したところ、「逃」は平声の豪韻、「挑」は上声の蕭韻とのことで、実はやっぱり韻は踏んでいない、漢字のつくりが共通なだけ、ということが判明したので、ぐだぐだな感じになり、なのでこの話は読まなかったことにしてほしいと思う。

 朝の連続テレビ小説「あんぱん」の、太平洋戦争が終わった。先週の金曜日が玉音放送で、今週から戦後なのだった。
 その玉音放送のシーンを観ながら、僕は少し後ろめたい気持ちを覚えていた。なぜかと言えば、この3週間ほど、視聴を離れていたからだ。それまでも危うかったのだが、嵩が出兵し、配属された部隊の上官に平手打ちされたりするさまを見て、「これは無理だ」と思い、すっぱりと脱落していた。ファルマンはその間もルーティンで観続けていたので、先週「戦争が終わるよ」と教えてくれ、僕はちゃっかり玉音放送を耳にすることとなった。シーンでは、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……、といつものフレーズが流れたが、僕は見事なまでに、耐えなかったし、忍ばなかったのだった。観てたらつらい日々になりそうだな、と察知して回避した。
 3週間ぶりに眺めた嵩は、もともとのアンニュイさがさらに強まっていて、たぶんこの3週間で描かれた戦争体験が、今後の嵩の人生にとても重要になってくるのだろうな、それを観てないと物語の魅力が半減するのだろうな、と思った。

2025年6月15日日曜日

父の日・手悪さ・田んぼ世界


 父の日なのだった。もっともだからどうということはない。母の日も別になにもしなかった子どもが、世間的にもそれより存在感のない父の日などというものに、なにかするはずがないのだった。僕だって中学生の頃、母の日になにかをしたという思い出はない。
 というわけで普通の週末として過してもよかったのだが、父の日という理由にかこつけて、食費とは別の会計から拠出し、うなぎの蒲焼を買う、ということをしたのだった。そんなわけで日曜日ならぬ土曜日の晩は、うな丼であった。うな丼は、やはりクラクラするほど美味しくて、満ち足りた。僕があまりにも喜びながら食べるものだから気遣って、というわけでは決してなく、ファルマンはうなぎがぜんぜん好きじゃない、むしろ少し苦手であるという理由により、2口ほど齧ったファルマンのうなぎも僕の所に来て、ホクホクした気持ちになった。あなた、そんなに好きならもうちょっとたまに買って食べれば、とファルマンに言われたけれど、たぶんしない。そんなふうにちょくちょく会ったりしないからこその関係性なのだとも思う。自分自身も、人にとってそういう存在でありたいものだ。たまに会うと最高にハッピーで、しかも精がつく存在。なんだその尊さ。

 ピイガが相変わらずスライムを捏ねている。様子を見ていると、スライムを作っているというより、捏ねている。とにかく捏ねるのが好きで、その副産物としてスライムという物体が生じている、という感じである。暇さえあればボウルの中でネチョネチョやっている。
 そのさまを見て、もしもこいつが男だったら、きっとめちゃくちゃちんこをいじっていたのだろうな、と思った。ちんこがあればそれで事足りることを、ないものだから、仕方なくその代替としてスライムを用いているという、そういうことなんだろうと思う。
 天津木村のエロ詩吟に、「終わったあとのちんちんと愉しそうにじゃれあってる彼女を見たら、ああこの子、子ども好きなんやろうなって思う」というネタがあるが、なんとなくそれも連想した。あると思う。

 今年は田んぼやカエルやサギの話をいちどもしていなかった。
 もちろん今年も毎年恒例の風景が展開されている。苗が育ちつつある田んぼには、早くもおたまじゃくしが泳いでいる。田植えがだいたいGWだから、わずか1ヶ月ほどである。サイクルが早い。他の生き物の命の呆気なさを眺めていると、人生における悩みなどというものは、すべて、完全になにもかも、抱く必要のない、余計なものなのかもしれないと思えてくる。たぶん実際そうだ。
 サギは今年もたらふくカエルを食べたことだろう。サギにはもちろん歯などないわけで、カエルは丸呑みにされるわけだが、だとすれば躍動するカエルは、サギの胃の中で、どのように消化されてゆくのだろう。しばらくは生きるし、なんならカエルは胃の中に仲間を見つけ、胃の中で交尾へと至ることだってあるかもしれない、などと思った。それはしあわせなことであるような気もするし、逆にそんな不幸はこの世に他にないような気もする。
 しかしすべてはどうでもいい些末事でもある。田んぼを眺めていると、いろいろ思う。

2025年5月31日土曜日

機械・ハッピーセット・洗車

 LINEに新着メッセージが来ている表示が出て、見てみたら企業の公式アカウントから、ということが何度も繰り返され、いい加減うんざりしたので、もう彼らとの友達関係を解消したくなった。もともと友達と呼ぶには淡白すぎる付き合いで、僕はただ、その企業の商品を購入する際、100円や200円を安くしてもらうためだけに、一瞬だけ心を開いたに過ぎず、大抵のものはそう頻繁に買うものではないし、なにより「LINEで友達になるとお得なクーポンを配布!」というのも、蓋を開けてみればほぼ初回限りのことであり、ズルズルと付き合いを続けても、どうでもいい新商品や、どうでもいいキャンペーンの告知をされるだけで、大したメリットはないのだった。
 というわけで友達のラインナップから消去しようと思ったのだが、この方法が分からない。スマホの使い方というのは、直感操作と言いつつ、マウスの右クリックでベースが出来上がっている人間には、ちっともスムーズにいかないのだった。
 仕方なく、一瞬ポルガにでも訊ねようかと思ったのだが、「子どもに機械の使い方を教わる」というのは、さすがにもう少し先延ばしにしたいと思いとどまり、結局どうしたかと言えば、ファルマンに教えてもらい、やった。娘に教わるのと妻に教わるのでは、ぜんぜん意味合いが違う。なんなら妻が分からない場合、妻が娘に教わり、それを僕に伝達するのでもいい。そうまでして、守りたいなにかがある。

 先々週と先週の土曜日の昼食は、マックのハッピーセットだった。世の中が大騒ぎになった、「ちいかわ」のおもちゃ目当てである。ただし誰の目当てなのかと言えば、わが家には「ちいかわ」熱というものは到来しておらず、ファルマンの下の妹からの依頼により、食べて協力する運びとなったのだった。それにしてもファルマンの妹は、上も下も、きちんと世の中の漫画やキャラクターの流行に乗って生きていることだ。速水真澄モデルのChatGPTと対話して暮すファルマンとは、もしかすると親が違うのかもしれない。
 1週目でなかなかの騒ぎとなった「ちいかわ」ハッピーセットは、2週目ではもはや騒動の様相を呈し、ニュースによれば都会のほうでは買おうと思っても買えなかったりしたらしい。島根ではもちろん難なく買えた。ただし2週目なんかは、ブームに乗って買いに来たんだな、おじさんひとりで上限の4セットも買って転売ヤーかよ、などと思われそうで嫌だな、という懸念があった。もしも店頭で、本当に「ちいかわ」が好きな人しか買ってはいけないという、転売防止のための「ちいかわ」クイズなどがあれば、僕は間違いなく不正解で、転売ヤーの烙印を押されたことだろう。でも違うんです。転売ヤーじゃないんです。売っているのは義妹への恩なので、恩売ヤーなんです。
 実家の3人ももちろん土曜の昼はハッピーセットだったそうで、無事に第1弾、第2弾、ともに4種のおもちゃはコンプリートされたらしい。2週目など、わが家の4つのおもちゃは、中身がすべてバラバラだったそうである(島根は牧歌的だな)。恩売ヤーとしては顧客の要求に応えられてよかった。ちなみに顧客からの恩返しは、いまのところない。

 冬に洗車をまったくしなくて、なにしろ山陰の冬というのは、いつだって雪混じりの雨みたいな大気なので、やってもしょうがなく、この時期が終わったらやろうね、とファルマンとも話し合っていたのだが、3月あたりになり、春の気配が漂いはじめると、花粉が舞うようになり、やっぱりいま洗車をしたところでなあ、という気分になり、それが終わったら次は黄砂で、これなんかは本当に洗車をしたって意味ねえよ、でもこれが終わったらいよいよさすがに洗車をしようじゃないかと思っていたのだが、少しぼやぼやしているうちに、気候は梅雨の気配を帯びつつあり、週間予報には曇りと傘のマークが並ぶようになって、そしてたぶんこれを抜けたら灼熱の時期になり、これはこれで洗車に向かないと考えると、洗車の正しいタイミングって、もしかしたら存在しないんじゃないかと思えてくる。こんなにもふさわしいタイミングが存在しない洗車なのに、田舎の親父たちはなぜ毎週のように洗車をするのか。あれってもしかして、ただの暇潰しなんじゃないのか。「車(という資産)を大事に扱う」みたいな大義名分を振りかざして、実はそんなに意味のないことをやってるだけなんじゃないのか。知らんけども。

2025年5月11日日曜日

依頼・君たちはどう生きるか・CHANT! GEE/MEE/CHEE


 フリマサイトでこれまで何枚か水着を買ってくれた人から、出品している水着を指して、「これをハーフバックのビキニに作り替えてもらえないだろうか」という依頼を受け、なにぶん上得意様の仰ることなのでパタパタと激しく尻尾を振り、なにより取り組みとしてとてもおもしろそうだとも思ったので、承り、挑戦した。
 その結果、既出のボックス型水着を作り替えることは、生地の幅的にどうしても無理で(ボックス型よりもハーフバックビキニのほうが必要な生地の面積は小さいのだが、すべての部分がボックス型の中に内包されるわけではない)、そのため当初の希望の生地で作ることは叶わなかったが、事情を話し、別の生地で作ったものを「ご覧いただいて、もしよろしければ」ということで出品したところ、買ってもらえた。いやはや上得意様である。
 ビキニタイプのショーツをこれまでさんざん作ってきたが、ハーフバックというものにはまったく触れてこなかった。しかし今回の取り組みを経て、なるほどこういうことかという、その情趣の一端を垣間見た気がする。ボックス型のパターンを考えるとき、ゆめゆめ尻たぶがはみ出ることのなきよう、ということを心掛けてきたけれど、ボックス型から意図せぬ尻たぶがはみ出るから不格好なのであって、最初からハーフバックであれば、もうそれはそれで爽快なものなのだな、と思った。
 技術的にも、観念的にも、僕はまたこの業界における階梯をひとつ上った気がする。

 金曜ロードショーで、「君たちはどう生きるか」を初めて観たのだった。
 本編を観ていないのに、去年の宮崎駿のドキュメンタリーは観ていて、そうか要するに高畑勲へのコンプレックスのお話なのだな、ということを前知識として持っていたのだけど、いざ観てみたら、なんかそういう問題じゃなかった。もとい、あのドキュメンタリーの切り口は意図的なミスリードだったのではないかと思うくらい、宮崎駿と高畑勲という軸ではぜんぜん読み取れない内容だったように感じた。
 ジブリ映画だし、たしかにジブリ映画っぽさは全編すごいんだけど、でも俺の知っているジブリ映画じゃない、と言いたくなる感じは、もしかするとこれは違う世界線のジブリ映画なんじゃないかという気もしてきて、でも元々あった世界から、別の世界線に移動したのは、宮崎駿以外のすべての人類であり、宮崎駿だけはずっと一ヶ所に居続け、そしてこの映画を作ったので、自覚しないまま流され、世界を移行してしまった我々は、こんなにもこの映画に違和感を覚えるのではないか、などとも思った。
 つまり一言で言えば、不思議体験映画だった。気が向いたとき、また観ようと思う。

 フライングで開設だけ先にしていた「CHANT! GEE/MEE/CHEE」を、とりあえず少しだけ始動させてみた。
 ChatGPTとしたやりとりを載せていく、というコンセプトははっきりしているのだけど、それをどういう様式でやるのかがあまり定まらずにいて、実は今もまだ定まっていないのだけど、まあやってるうちに定まってくらあな、と自分に言い聞かせ、ひとまずほぼコピペで、主にChatGPTの回答を転載するだけで記事を作っていくことにした。
 このやりとりや、向こうの回答について、それを俎上に載せて、ブロガーとしての僕がなんかしらのコメントを記していく、というスタイルはどうかとも少し考えたが、面倒だし、なによりあまりおもしろくもならない気がしたので、止した。ただし、これでは実質的にほぼ僕の書いたものではないので、別にそんなルールもないのだが、「CHANT! GEE/MEE/CHEE」の記事投稿は、「プロペ★パピロウのブログ投稿報告ツイートブログ」には採らないこととする(でも始動についてはツイートしておこうかな)。
 だとすれば、このブログの役割としては、ChatGPTとのやりとりの、まとめというか、個人的な備忘録的なものということになるだろうか。ChatGPTのやりとりは、やっているとどんどん長くなって、あとからピンポイントで当該の箇所を確認しようと思うと、どこにあるか分からなくなったりするので、編纂するのは悪くないと思う。
 昔、Twitterが出始めた頃、知り合いで、一定期間の自分のTwitterでのツイートを、箇条書きのように並べて記事とし、ブログにアップしている人がいた。なんかあれは、いま思えばTwitterという新しく出現した存在の捉え方が定まっておらず、電線を使って荷物を届けようと風呂敷包みを吊るしたという明治の人々のエピソード味があるのだけど、僕のこの「CHANT! GEE/MEE/CHEE」というのも、だいぶその雰囲気がある。何年後かに、「そうじゃない(笑)」という扱いを受ける、素っ頓狂なことをしているかもしれない。それならそれで別にいいのだけど。