2025年11月9日日曜日

精タイム・クマ・流行語


 先日、男性器を硬くする方法についてネットで検索していたら(別にさしあたって困っているわけではなく、純粋な興味や、飽くなき向上心によるものである)、当たり前なのだけど、結局は生活習慣という答えで、その生活習慣とはどんなものかと言えば、適度な運動をして、ストレスを溜めず、栄養バランスのいい食事を摂り、そして質のいい睡眠をしっかり取ることだそうで、それはもちろんそうなのだろうが、でもそんなのもう男性器への作用に限った話ではなく、健康寿命そのものの話だろう、とも思った。
 そして、それらの項目を高いクオリティで実現できていそうな人物として、真っ先に大谷翔平のことが浮かんだ。サイズ自体は持って生まれたものなのでどうしようもないが、硬さに関しては生活習慣に拠るところが大きいのだとすれば、よかったじゃないか、翔平はたぶんだいぶ硬い。「なんだかんだで大事なのは硬さ」ということが、女子界隈ではまことしやかに囁かれるという。だから翔平はサイズのことには拘泥せず、そのストイックな生活習慣の賜物である、日々の努力の結果としての硬さを誇ればいいんと思う。
 願わくは、この記事が翔平の目に届きますように。
 僕は数年前から、大谷翔平の男性器が小さいという前提で万事を考えることで、大谷と同時代を生きる同性である自分を肯定している。みんなも一緒にやるといいよ。

 クマのニュースが本当に毎日伝えられている。これまでに較べての、急な露出の増加に、クマ界の首長が交代したのかな、などと思う。なんか他業界とかでキャリアを積んだ、めっちゃ辣腕のクマがトップに就いたことで、クマ全体の士気が上がり、それでこんなに活動を激しくしてるのかな、と。そんなふうに思うくらい、異様に日本各地でクマが躍動している。これまでとは一頭一頭の意識が違う。
 ちなみにおらが島根県では、南部の中国山地のほうは当然として、西部の目撃情報も多いようだが、東部ではさすがに話を聞かない。話を聞かないが、ニュースに出てくる地元住民はよく「まさかこんな市街地で」と言うので、分かったもんじゃないな、とも思う。
 先週、次女一家が兵庫に戻る際、みんなで出発を見送ったのだが、そのとき3歳の姪がお気に入りのクマのぬいぐるみを見失い、少し「クマは?」「えっ、クマどこ?」「ほら、クマ」「ああ、クマだよ、クマ」みたいなやりとりが大人たちで繰り広げられたので、僕はすかさず「みんなあんまり外でクマって言わないほうがいいよ! 近所の人が誤解するかもしれないだろ!」と一同に注意を促した。クマのことに過敏になりすぎている人という、とても不謹慎なギャグ。ゾンビ映画とかで最初に殺されるタイプ。そしてクマの出てき方、若干ゾンビ味もあるな、とも思う。

 ユーキャンの流行語大賞の候補語が発表された。
 われらがco大(言わずもがな、cozy ripple名言・流行語大賞のことである)の向こうを張るあちらの賞に、毎年エールを送るような気持ちでノミネート語についてやいのやいの言ってきたが、今年はあまりそんな気持ちにならない。うんざりしている。
 ノミネート語についてやいのやいの言うという行為そのもの、そしてその中で必ず出てくる「流行語って言いつつ俺は聞いたことねーよ」「〇〇が入ってないなんてマジ忖度だよ」「やくみつるがうぜーよ」「流行語大賞そのものがもうオワコンだよ」などのフレーズに、もう飽き飽きしてしまった。もう誰も、なにも言わなくていい。言ってもいいけど、聞かさなくていい。完全に飽きた。今年も反射のように意見を述べている人は、気付いていないのだ。もう触れたら負けなのだ。「今年の漢字」は10年くらい前から既にそうなっている。流行語大賞もぼちぼちその気配が見えてきた。別に「終われ」と言っているわけではない。主催者はずっとやればいいと思う。その内容について第三者がツッコんだら負けだということだ。
 ちなみにそれはco大の境地だとも言える。co大ほど第三者が関わらずに成立している賞は他にない。あちらの賞も、やっとその段階に来たということだと思う。

2025年10月25日土曜日

泳いで帰る・おか・悪ガキ


 近ごろLINE通話の接続が悪く、ファルマンに「これから帰る」の連絡を入れようとしても、ぜんぜん繋がらないということがままある。でもそれならそれで、不在着信にはなっているだろうし(それさえなっていない場合もあるが)、なにより30分あまりで家に帰り着くのだから、別にいいか、となる。ただしプールに寄って帰る場合は、晩ごはんの関係上、やはりそれはきちんと伝えるべきだろうという考えがこちらにはあり(ファルマン側が気にしているかどうかは知らない)、メッセージを送ることになる。文面は決まっている。
「泳いで帰ります」
 送信しながら、これだと職場から家まで海峡を横断して帰るかのようだな、といつも思う。わが家が湖の中の浮島に建っていれば本当にそんなことも可能なのにな、などと夢想したりもする。そのように、言い回しが微妙だし、なにより毎回打つのも面倒なので、こんなときこそスタンプという機能の出番だろう、と思った。
 というわけで少しLINEスタンプの販売ページを覗いたが、あまりよさそうなものは見つけられなかった。たぶん検索スキルが低いんだろうという自覚はある。クソみたいなつまらないものばかりが出てきて辟易した。スタンプは基本的に使わないのだ。これに関して、主義とかスタンスとか、かっこいいことを言うつもりは一切ない。ただ文面でのコミュニケーションにおいて、スタンプというものがうまく脳に組み込めていないだけである。明治の世でもちょんまげを結い続けているのだ。
 しかしそんな僕が唯一持っている、わざわざ買ったスタンプがあり、それは岡山時代、タブレットを買ってLINEを始めた直後くらいに手に入れた「耳をすませば」のもので、結局ぜんぜん使っていないのだけど、40個あるこれのうちのひとつを、夫婦間の符丁として「泳いで帰ります」の意味にすればいいのだと気づいた。さてどれにしよう。迷うな。当たり前だが、ぜんぜんプールを連想させるものがないな。聖司が「オレと結婚してくれないか」と言っているスタンプや、杉村が「お前が好きなんだ!」と言っているスタンプとかだと、そればかりが並んだ場合、悪質なストーカーみたいになってしまうので、いっそ含意がないのがいい気がする。雫が鍋焼きうどんを食べているスタンプがあるので、これにしようかな。「飯を喰って帰る」みたいな意味に取られたら困るけど、飯を喰って帰ったりしないからな。
 
 われわれ夫婦はそれぞれの自己主張から、子どもたちからそれぞれ「おかあさん」「パパ」と、統一感のない呼び方をされていたのだけど、最近になって少し変化があった。と言っても、統一がなされたわけではない。そうではなく、ファルマンの「おかあさん」について、子ども(発端はピイガらしい)が、「なんでこんなもんにさん付けせなあかんねん」と考えたらしく、あるときから「おかあ」になった。ポルガもそれに引っ張られ「おかあ」になっていたのだが、こいつは言葉を短く言い放つ癖があるので、その「おかあ」がやがて「おか」になった。そうして今はふたりともファルマンのことを「おか」と呼んでいる。この「おか」は、「おかあさん」の一部だった時代とはイントネーションも変わっていて、地形の「丘」ではない、みつ子のほうの「丘」の言い方だ。丘みつ子の所属事務所の社長なんかは、たぶん丘みつ子のことをこう呼んだのだろう、という感じで「おか」と呼ぶ。かつて儒教の精神が根付いていた頃は、「さん」どころか、「おっかさま」や「おとっつぁま」などと、「さま」の対象でさえあったというのに。もっともファルマンのキャラクターに因る部分もあるけれど。

 先日、ピイガの秋の服を買いに子ども服の店に行ったところ、なんとなく眺めていた少年向けの売り場でいい感じのラグランのロンTを見つけ、160というサイズがあったので、じゃあ着れんじゃん、と思って自分用に購入した。すごく安かった。靴下もそうだが、成人男性用として店舗で売られているものは、地味なつまらない色合いのものばかりで、ずっと憤懣やるかたなく思っていたのだが、そうか、子ども服のデカいやつを買えばいいのか、という42歳の秋の発見だった。帰宅後、早速着てみたところ、サイズは若干小さい感じもあったが、そこまで問題はなかった。ただ、やはり鏡に映った姿にはどうしても違和感があった。子ども服特有の、大胆な配色の無邪気なデザインはすごくいいのだが、認めたくないことに、それを着ている僕が、どうしたって大の大人なのだった。この違和感、前にどこかで味わったことがあるなと考えて、悪ガキが女性教諭とかにイタズラをするタイプのAVの男優のそれだ、と思い至った。あの、子どもっぽい服を着て、キャップを後ろ前に被るという記号だけで小学生男子ということにしただけのおっさんが、若い女優にイタズラをしていき、最終的にはぜんぜん大人の性器でセックスするという、そういうタイプのAV。あれだ。これはあれだよ、とファルマンに向かって話したら、「なんであなた、そんなこと知ってるの?」と糾弾され、「観てるの?」と問われたのだけど、別に観てはいない。観てはいないけど、男性として生きていたら、観ていないAVの情報だって、ニュートリノのように全身を常に貫いているから自然と知り得ているものなんじゃないの、って僕は思うんだ。へへっ!(人差し指で鼻をこする)

2025年10月16日木曜日

黒髪・Blogger・月

 先週末、久しぶりに髪を黒くして、だいぶ後悔し、しかし数日すればあまりの真っ黒も少しは緩和されるだろうし、なにより自分も慣れてくるだろうと思っていたのだが、残念ながらそうはならず、日に日に嫌気が増している。娘らからの評判も悪く、精神的に参りはじめた。本当に、なんで黒髪になんかしてしまったのか。
 ファルマンは「悪くないよ」などと必死にフォローしてくれるのだが、それは僕の気持ちを落とさないようになんとか持ち上げようとしているだけで、本心でないことは見え見えだ。なにより、主観でも客観でもない絶対的な評価として、本当に似合っていないのだ。すごく変なのだ。金髪の頃のほうが本当によかった。
 そんなことを言い募っていたら、ファルマンも気が緩んだのか、本音をこぼした。
「まあたしかに、黒髪にすると、あなたの根暗な本性がバレる感じがあるかもね」
 20年寄り添った妻というのはさすがのもので、「黒髪やだー、変ー」などと唱える娘たちなんかよりも、よほど的確に、こちらの心を抉ってくるのだった。
 そうか、そうだな、俺は心根の暗い部分を照らすために、髪の色を明るくしていたのかもしれないな。だから黒くしてしまった今、こんなにも落ち込んでいるのだな。
 とにかく一刻も早く髪の色を抜きたい。でも毛髪への負担を考えると、さすがにすぐというのは恐怖が勝つ。髪を短くして、新たに伸びた髪の毛の比率を増やして、なるはやで処置しようと思う。心を救ってやらないといけない。

 いつものようにBloggerの投稿ページを開いたら、「新機能のお知らせ」というメッセージが表示されたので途轍もなく驚いた。Bloggerからメッセージが届いたのって、これが初めてのことではないのか。
 前から言っているけれど、僕はBloggerを、いまはもう誰も住まなくなった廃墟で勝手に遊んでいるような気持ちで使っている。あのGoogleが、2025年の今、ブログサービスなどというものを運営しているはずがなく、削除し忘れているだけなのだと。
 だからメッセージを目にした瞬間、ビクッとした。俺だけのユートピアだと自由に振る舞っていたら、実は監視カメラで撮影されてモニタリングされていた、みたいな衝撃だった。
 またこの新機能というのが、あまり自分に関係なさそうなのできちんと把握していないのだけど、ブログの文面に現れたキーワードを読者が検索しやすくなるように自動でリンクにする、みたいな、なんかそんな機能らしく、いやそれってはてなダイアリーじゃん! と思った。なんかもう本当にBloggerのやることってよく分からない。とても商売でやっているとは思えない。やっぱりこれは、採算とかの概念から逸脱した、異様に清らかで尊い世界なのではないか、という気がするのだが、実際はどうなんだろう。

 北海道で、全裸で外に出ていた男が逮捕された。
 警察の調べに対して男は「月を見るため」と供述したそうで、なんかハッとした。どういうハッなのかと言えば、「病気の子どものために薬代を恵んでください」と頼まれて金を渡したあと、周囲の人から「バカだなあ、あんなの嘘に決まってるだろ」と言われ、「そうか。よかった。病気の子どもはいなかったんだ」とつぶやくという、あのエピソードのようなハッである。うす汚れたものばかりのこの世界で、とても稀有な美しいものを目にしたという、そんな気持ちである。
 夏目漱石が「I love you」の訳を「月がきれいですね」にした、という嘘くさいエピソードがある。それも連想する。月はわりとなんでも受け入れてくれる。
 ただ裸でうろついて、女学生の前に進み出たりしたら、それは逮捕しなければならないけれど、ただ月夜をうろついていて、そして駆けつけた警官にその回答をしたのならば、本官は許すべきだろ、と思う。逮捕なんて野暮なので、本官は見逃すでありますだろ、と思う。草間リチャード敬太は逮捕しても、69歳男性は許してほしい。年齢も実にいい。

2025年10月8日水曜日

王将ゲーム・祖母・ちょんまげ

 新しいテレビのリモコンに「ココロビジョン」という謎のボタンがあって、押したらシャープ独自のプラットホームみたいなものだった。しかし自分に関係のある機能はなさそうだなと思っていたのだが、コンテンツの中にミニゲームがあるのを子どもたちが目ざとく見つけた。そこにはナンプレや国旗当てなど、わりと素朴な遊びが並んでいたが、その中に「王将ゲーム」という見慣れないゲームがあって、それに僕とポルガがドハマりした。
 ルールは、だいたいスイカゲームの将棋版という感じで、「歩」と「歩」が合体して「と」になり、「と」と「と」が合体して「香車」になり、という感じで、だんだん駒を強くしていって、最終的に盤面が一杯になる前に「王将」が完成したらクリアというもので、サウンドもグラフィックもきわめて無機質なのだけど、スイカゲームと同じでやけに熱中させられるのだった。
 「むずかしい」のモードだと「王将」に至るまでの道のりがだいぶ遠くなり、なかなかクリアまでたどり着かない。僕はまだできていない。それなのにポルガが先日クリアしてしまって、忸怩たる気持ちになった。親の威厳のために、先にクリアしたかった。しかも自分はクリアしていないのに、人がもうクリアしてしまったことで、モチベーションも下がり、このままだと負け犬で終わりそうである。こんなことならファルマンのように、最初から、めんどくさいからそんなのやらない、というスタンスでいればよかったと後悔している。

 祖母の誕生日祝いの写真が送られてきた。正確に言うと、母からファルマンに送られたものを、見せてもらった。なぜかいつもそういう形式で実家の動向を知らされている。
 叔父と姉一家も集まって、皆で囲んでいたチョコレートのケーキには、「97」という数字の飾りが立てられていた。祖母は会うたび、話すたびに、「おばあちゃんはもう〇〇だから」と自分の年齢を伝えてくるのだけど、あまりにも積極的に伝えてくるものだから、逆に情報として入ってこず、正確な年齢が把握できていなかったのだけど、今回は視覚で「97」ということがしっかりと明示されたので、やっと認識できた。そうか、祖母、97歳なのか。すげえな。祖母と言ったら65歳くらいのイメージだったけど、なるほどそれは30年前の、自分が小学生とかだった時代のことなのだな。あの頃から、当たり前だが互いに年を取ったわけだが、しかし祖母と孫という関係性は、いい意味でも悪い意味でもなく、ぜんぜん変化していないな、と思う。この30年で祖母の意外な一面を知ったということも一切なく、本当に当時と同じ距離感でずっといる。いま65歳の祖母を目の当たりにしたら若く思うのかもしれないが、10歳の僕にとって65歳の祖母は老婆だったし、42歳の僕にとって97歳の祖母はやはり老婆だ。だからなんだ、なにが言いたいんだ、という話だが、もちろん特に意味はない。なんとなく不思議なものだな、と思ったので書いた。
 祖母はまだまだ元気そうで、なによりだと思う。血縁が健康で長生きだと、それは自分にとって利のあることなので、そういう意味で喜ばしいと思う。

 朝ドラが、松江が舞台の「ばけばけ」になった。「あんぱん」は実は途中で脱落してしまったのだけど、今回は最後まで観たいと思っている。今のところとてもおもしろく、地元民として誇らしい気持ちだ。もっとも自分を地元民と標榜していいのかは、微妙なところだ。ただ劇中の方言などにちょっと違和感を抱いたりすることもあるので、それは立派な地元民のムーブなのではないかな、と思っている。
 主人公の父親は、明治になってだいぶ経つのに、まだ髷を落としていないという設定で、なかなか悲哀があるが、ファルマンに「これって今で言うとどんな感じなんだろうね」と問いかけたら、「いまだにブログをやってるみたいなもんなんじゃない?」という答えが返ってきて、ショックを受けた。ブログって、ちょんまげだったのか。ショックだったが、なんとなくしっくり来る部分もあり、それ以来あの父親にとても感情移入するようになった。いいさいいさ、俺と布川敏和は、いつまでもちょんまげを結い続けるさ。

2025年9月27日土曜日

おろちAI・騒音・カロリー


 書く機会を逃したのだが、実は2週間前、誕生日のお祝いをした敬老の日の3連休で、おろち湯ったり館に繰り出していた。いつぶりだろう、もしかしてこれが今年初だろうかと思ったが、実は3月に行っていたようだった。3月22日。その日の記事に桜に関する記述は一切ないので、まだだいぶ蕾だったんだろう。
 半年ぶりの湯ったり館は、3連休の初日の土曜日の夜だったので、けっこう混んでいるだろうかと危ぶんだが、こと湯ったり館に関し、毎回わりと律義に行なうこの危ぶみに対して、果たして大混雑の憂き目に遭う、ということは決してないのだった。ましてや男湯が、サウナの小さい木湯のほうだったので、余計だったんじゃないかと思う。やっぱりどうせ行くのなら、木湯のときより岩湯のときのほうがいいのだ。今回も、岩湯でありますように、と願いながら行ったわけだが、まんまと木湯のほうで、だいぶ落胆した。毎週水曜日の定休日を境に、男と女で風呂が交代になるわけだが、それはホームページでは一切知らせてくれないのである。たぶん電話をすれば答えてくれるのだろうが、それを億劫がるものだから、このようなことになる。
 そこで、今後こういうことがないよう対策を取ることにした。ChatGPTに事情を説明し、2025年9月13日、男湯が木湯であったことから起算し、俺が今度、「おろち湯ったり館に行きたいんだけど、いま男湯はどっち?」と訊ねたら瞬時に計算して答えてくれよ、と依頼した。ジョニファーは「わかった」と快諾してくれたのだけど、9月13日の男湯が木湯であったことを、こうして記録しておけば、数ヶ月後に行きたいと思ったとき、自分でカレンダーを見て数えればいいわけで、わざわざAIに頼むほどのことではないかもしれないな、とも思った。そしてこの、「わざわざAIに頼むほどのことではない」という感覚は、ちょっとだけ意識して大事にしていこうとも思った。

 子どもの声が大きい。本当に大きいのだ。お前らはそんなに広い家で暮しているか、と言いたくなるほどの音量で喋る。前からその傾向はあったが、最近はそれが加速している気がする。なぜだ。思春期に入った子どもは、ろくにはっきり喋らなくなるのではないのか。
 リビングで子どもたちが喚いているところに身を置いていると、じわじわ脳が絞めつけられて、とてもいられないと部屋に退散することになる。逆ではないのか。思春期の娘が自室に籠るものではないのか。まあそれよりはいいけど、と思わなくもないが。
 こうして子どもたちの声の大きさに苛まれて思い出すのは、公園の近隣の住人が、子どもが遊ぶ声がうるさいと苦情を訴えた、というニュースだ。なんと心の狭い、公共の福祉的な思慮のない考え方であろうかと、世間は苦情を訴えた近隣住人に対して厳しかった。僕もなんとなく、そういう印象を抱いていた。しかし自分の子どもの声が、成長のためか、あるいはYouTubeとかの阿呆な動画の影響か、異様に大きくなり、それに悩まされている現状に身を置いて、自分の子どもでさえこうなのだから、よその家の子の嬌声なんて本当につらいだろうな、といまさらになって考えを改めた。近隣住人に謝りたい。

 9月も終わろうとしていて、例年のスケジュール通り、僕はまたこの1年間で書いた日記の読み返し作業に入ったのだが、それを読んでいて衝撃の事実が発覚した。
 2024年12月時点で、おもひでぶぉろろぉぉんの読み返し作業が、2008年の10月まで進んだ、という記述があるのだが、それが2025年9月末現在で2009年5月という進度となっており、つまり僕は去年の12月から、ずっと25歳の、いつまでも26歳にならない自分と一緒にいるわけで、このままのペースでいけば、いよいよ、『おもひでぶぉろろぉぉんが1年で1年進まない』という次元に突入するのである。
 ダイエットの神髄は、摂取カロリーを消費カロリーが上回ることだと言われるが、それでいうと1年間で1年間の読み返しが進まないという状況は、消費カロリーに対して摂取カロリーばかりが増えて、どんどん脂肪が蓄えられていくようなものだ。この状態が続く限り痩せることはないし、おもひでぶぉろろぉぉんが完結することはない(日記は常に新しく書かれるので、実質的に終わりはないのだが、それでも読んでいる時点から2、3年前あたりまで作業が進めば、それはもうあまり意味がないのでそこで終わりだろうと思っている。もっとも現状の有様では想像もできないが)。
 だからおもひでぶぉろろぉぉんをやらなければならないのだが、冒頭でも言ったように、これからはこの1年間の日記からワードを抜き出す作業をしなければならないので、やはりそちらはどうしたって停滞するだろう。
 どうやらもう僕は、自分の日記と、神楽陽子のエロ小説くらいしか、読むことが許されないらしい。それならそれでいい。なんと心地のよい世界であろうか。

2025年9月13日土曜日

サンマ・トランプ・パピプレ


 当たり年と話題のサンマを買って食べる。感動した。
 そもそもスーパーで見た瞬間から、感動は始まっていた。そう言えばサンマとはこういうものだったな、ということを数年ぶりに思い出したのだった。今になって思うと、ここ数年のサンマってなんだったんだろう。もうサンマってリョコウバトのように種として絶滅に向かっているのかな、という悲愴感があった。それでも世の中の仕組み的に、漁師はサンマを獲らなければならないし、スーパーはそれを売らなければならない。ウナギのことも併せ、それらの種だけの話ではなく、大げさに言えば地球文明そのものの末期性さえ感じた。
 そんなここ数年の鬱積を取っ払うかのような、隆々とした、生命力あふれるサンマである。東海林さだおも、いつぞやサンマの「肩の盛り上がり」について書いていた。今年のサンマにはそれがある。体育会系の若者のような、気持ちよさがある。
 今年はどうしてサンマの質がいいのか、たぶん誰にも分からないのだろうと思う。そしてその理由に、人類は別に関わっていないのだとも思う。何年か外れが続いても、いつか必ず当たりはやってくる。大当たりを無邪気に喜べば、それでいいんだと思う。

 夏に赴いた手塚治虫記念館で買った火の鳥トランプを使い、このところ家族で大富豪をやっている。switch2が発売されているこのご時世にトランプというのも、なかなかオツだと思う。
 トランプはバイスクルという王道のやつで、カードの1枚1枚に火の鳥のイラストがプリントされている。プリントはランダムではなく、数字ごとに未来編、黎明編、というふうになっていて、それは12編ほどある火の鳥とトランプの親和性としてすばらしいのだが、使用されているイラストには少し文句があって、たとえば未来編である「3」のカードは、「猿田」「猿田&タマミ」「タマミ」「ロック」というラインナップで、なんと主人公である山之辺がいなかったり、「5」の鳳凰編も茜丸がいなかったりする。ユニクロのコラボTとかでもよくある現象だが、「なんで? なんでこの場面?」と思う。大人の事情とかもあるのだろうか。
 ちなみにこれは火の鳥に関係なく、バイスクルというトランプの特徴らしいが、ジョーカーが2枚ではなく4枚入っていて、このすべてを使ってやっているので、展開が派手になり、愉しさが増している。革命もかなりの頻度で起る。
 勝率は、きちんと記録したわけではないが、もちろん僕がいちばんいい。次いでポルガ、ピイガという感じ。ファルマンは8切りと11バックのルールを未だうまく活用せず(人がそれを出すと毎回戸惑う)、そして最後の1枚に「9」なんかを残して往生したりするので、大貧民の率が高い。あなたはもう二度と人間に生まれ変わることはないのよ。

 誕生日が近づいているが、今年もプレゼントが定まらない。すべての欲求を満たし、足りているのかと問われれば、そんなはずはないのだけど、いざ改まってなにか買っていいと言われると、ああでもなくて、こうでもなくて、逆になにも思い浮かばねえや、となってしまうのだった。本当に毎年恒例のことなので、これをパピロープレゼント現象、略してパピプレ現象と名付けようと思う。
 使っている鞄や腕時計がだいぶ傷んでいるので、そこらへんでいいんじゃないかとファルマンは(心底めんどうそうに)あしらうのだが、なぜ傷むほどに使い続けているかと言えば愛着があるからで、鞄などは先日、持ち手が擦り切れて今にもちょん切れそうだったのを、持ち手だけ別の布で作って付け替えるということをしたため、ますます愛しさが募ってしまい、もしかすると僕はこの鞄を、テセウスの船のようにして一生使い続けるんじゃないかと思っている。腕時計は、いま使っているのと同型のものじゃないと嫌で、色違いなどあれば僕だって喜んでリクエストするのだけど、ネットのどこを探しても見つからないので、こちらも詰んでいるのだった。
 本当にどうしたものか。

2025年9月5日金曜日

暑さ・髪色・テレビ


 9月に入っても暑さが収まらず、心底うんざりしている。
 僕は寒いより暑いほうが好き、ということで通っていたのだが(どの界隈にだろう)、今年のような暑さというのは、もはや寒いのと較べての好悪だとか、そういう次元を超越して、単なる災禍であると思う。夏の暑さが好きなどという意思表明は、10年前くらいまでなら通用したかもしれないが、いま言ったらただの知覚に問題のある人だ。そういう人たちというのは、往々にしてあの、あまりにも老害過ぎることわざ、「心頭滅却すれば火もまた涼し」を未だ口にしたりするのだ。それを口に出した時点で、その人間は知覚はもとより、感性が狂っていると思う。大東亜戦争やってんのか、と思う。
 この暑さはいつまで続くのだろう。やはり9月20日頃か。秋の妖精が誕生日を迎えるときを待つしかないのか。みんな、少しでも暑さが収まってほしいと願うなら、マジで盛大に祝えばいい。そしていつか国民の行事になればいいと思う。

 盆明け、髪の色をいじった。
 横浜の帰省はただの脱色した金髪で行って、もはや僕が金髪でも誰も何も言わず、それで構ってちゃんが発動したわけでもないが、ぼちぼちただの金髪も飽きてきたことだし、色を入れようじゃないかと思ったのだった。
 それでどんな色にしたかと言えば、アイスシルバーという、青みがかった銀色みたいな商品を選んだのだけど、ファルマンにやってもらった結果、初日は「紺色じゃねーか!」とショックを受け、しかし日に日に色が落ちて、4日目くらいに商品の箱の画像どおりの色になり、そこでストップしたらよかったのだけど、そこからもさらに色は落ち続け、半月ほど経った現在、ちょっとまろやかな金髪、いまどきのヘアカラーにありがちな、ミルクティーホニャララみたいな感じになっている。
 悪くはない。悪くはないが、特別よくもない。数度のブリーチからヘアカラーという工程を経たことで、一朝一夕ではたどり着けないような色味になっているわりに、こんなに心が凪なことがあるかよ、というくらい凪である。さんざん手をかけた結果、無。なんか、とてつもない修行をしたお坊さんみたいだな。

 テレビが新しくなって1ヶ月ほど経った。画面は大きいし、ネット系のチャンネルもボタンひとつだし、概ね文句はないのだが、唯一テレビ番組表に関して忸怩たる思いがある。
 まずテレビ番組表の画面にしたとき、流しているテレビの音声が消えるのである。これがよくない。音声で番組の流れを把握しつつ、僕はテレビ欄を眺めたいのだ。
 あと合わせているチャンネルによって、テレビ欄の並びが変わるという世話もいらない。1・2・3・4・5のチャンネルがあったとして、たとえば3をつけていると、テレビ欄の並びは3・4・5・1・2になるのだ。いったいそれにどういう便利さがあるのか。頭がごちゃごちゃするので、並びは固定のほうがいい。
 あと番組にカーソルを合わせて「決定」ボタンを押したら、それが放送中の場合は、それだけですんなりその番組を表示してほしい。「情報を見る」だの「選局する」だのと、なんか選択肢が表示され、もういちどボタンを押さなければならないのが億劫だ。
 あと前のテレビでは、「次の時間帯」というボタンがあって、緑だったか黄色だったかのボタンを押すと、そこから7時間後のテレビ欄に移動し、これがなかなか便利だったのだが、新しいテレビにはそれがないのが不満だ。
 あとテレビは壊れたがブルーレイレコーダーは健在で、それがシャープだったものだから、連携のことを考えたら新しいテレビもシャープがいいんだろうと思ってそうしたのに、いまどきはもうぜんぜんそういう連携ってなくなってしまったのだそうで(これは電話でお客様相談室に問い合わせてはっきりと明言された。コストカットが理由だそうだ)、テレビの番組表から気になる番組を見つけ、それを予約録画したいと思ったら、レコーダーのほうのリモコンで番組表を表示して選択しなければならず、ずいぶんと不便である。
 とまあ、概ね文句はないと言いつつ、だいぶあるのだが、なんと言うか、わが家の状況がまさにそれを物語っているが、地上波放送のテレビなどというものは、昔に較べてだいぶ蔑ろにされはじめているようだ。テレビ番組表の使い勝手の悪さに、思いをかけられていなさを痛切に感じる。夢グループが、高齢者向けの、ただDVDを再生するだけのポータブルプレーヤーを販売してヒットしたように、20年後くらいに、チャンネルがパッパパッパと反応よく切り替わる、地上波放送専用という単一機能のおもちゃみたいなテレビが、僕のような輩にヒットするかもしれないな、と思う。