2025年4月24日木曜日

タイヤ・味しらべ・義父と大谷

 先週末にようやくタイヤを交換したのだった。
 「おこめとおふろ」に書いたが、この2週前に実家の車とわが家の2台も一斉交換の予定だったのが、僕の車のノーマルタイヤのうち2つは必ず新調しなければいけないという判定をされ、その入荷を待っての再交換となったのだった。
 それで今週が始まり、既に木曜日なのだけど、先ほどはたと気づいたことには、僕は新しくしてもらったタイヤを、いちども見ていない。数万円を支払ったというのに、こんなに買ったものを見ないことがあるかよ、というくらいぜんぜん見ていないのだった。
 さすがに良くない気がする。田舎育ちじゃないから車にぜんぜん執着ない人なんですアピールはもういらない。安全意識的な意味で、僕はもう少し関心を持つべきではないかと思った。これでは替えてもらったタイヤが、ゴムではなくタピオカでできていても気付かない(だとすればよく今日までもったものだ)。
 明日の朝、車に乗る前にちゃんと見ようと思う。ただし新しくしてもらったタイヤ2本が、4本のうちのどれなのかが実はよく分かっていない。たぶん左右ではなく、前後だろうとは思う。果たして前輪なのか、後輪なのか。本当に意識が低いな。

 前に書いたか覚えていないが、岩塚製菓から出ている「味しらべ」というせんべいが、たまらなく好きだ。鈴カステラと双璧を成して、長く食べ続けている。パウダーまぶされてる系せんべいでは、「ハッピーターン」のほうが世間に浸透している感があるけれど、僕は断然「味しらべ」派だ。人にあげるときは「世界一おいしいおせんべいあげるよ」と言って渡すようにしている。そのくらい好き。そのくらいおいしい。
 そのためほぼ切らすことなく家に常備しているのだけど、そうなると他にお菓子がなくなったとき、ファルマンが食べるのである。現場を目にしたことはないが、ファルマンはお菓子を食べたあとの包装を捨てないので、喰ったことがすぐに判るのだ。
 別に食べるのはいい。俺の個人的なものだ、などと心の狭いことを言うつもりはない。食べるのはいいのだが、「味しらべ」を食べるときは、そのおいしさに必ず感動してほしいと思う。その感動を味わうために自分は「味しらべ」というお菓子を口に入れるのだという、確固たる自覚を持って食してほしい。ただ口さみしさとか小腹満たしのためだけに「味しらべ」を使わないでほしい。「味しらべ」でなくちゃダメ、というスタンスでなければ「味しらべ」を食べないでほしい。
 重ねて言うが、「喰うな」などと心の狭いことを言うつもりはないのだ。

 義父が仕事を辞めたのだった。
 長年勤めていた会社を65歳で定年退職し、そのあとで数年間勤めていた所を、今回辞めた次第である。そしてこの次というのは特に定まっておらず、義父は勤めというものから、いよいよ解脱する気配もある。わりと大きな会社に40年あまり勤めていたわけで、蓄えとか年金とかのことを思えば、家計的にはなんら問題ないのだろうと思う。
 問題があるとすれば、義父は仕事がないと、家でひたすらテレビのスポーツ中継を観続ける人であるという点で、ファルマンをはじめとする娘一同は、大いにここを心配しているのだった。すなわち、お父さんたちまちボケるんじゃないか、と。
 不都合なことに、大谷翔平の試合が、午前中、毎日のように放送されている。あれを眺めていたら半日があっという間に過ぎ去りそうだ。ファルマンは言った。
「大谷がホームランを打つたびに、父親のシナプスが破壊されている気がする」
 頭の中に、大谷が義父の脳内でバットを振り、義父のシナプスを粉砕している画が浮かんだ。あながちぶっ飛んだ空想でもないかもしれない。事実上、それに近い。
 大谷は今シーズン、何本のホームランを打つだろう。

2025年4月19日土曜日

お天道様・あんぱん・ひょん

 生成AIで作ったエロ画像をポスターにしてフリマサイトなどで販売していた人たちが逮捕されたのだった。何人か捕まったのだが、そのうちのひとりは、1年間で1000万円ほどの売り上げだったとのことで、少しびっくりした。
 しかし不思議だったのは、逮捕と言うけれど、いったいなんの罪なのだろうか、ということだ。画像そのものは生成AIを使って販売者本人が作ったものに違いないようで、だとすれば著作権関係ではない(生成AIに学習させている元の写真なり絵なりの話になってくると、きっとややこしい、一筋縄ではいかない話になってくるのだろうけど)。
 罪状として個人的な感覚から思い浮かんだのは、「お前それでそんな金儲けするなんてのは、どう考えても人道から外れてるだろ罪」で、パターンから作っているオリジナルのスイムウェアを材料費・工賃・送料込みで1500円などで売っている身からすると、生成AIで作った画像を印刷してポスターにしたものを販売して年間1000万円というのは、どう考えてもその罪に抵触してくる。「お天道様は見てんだよ罪」だ。
 本当にそういうことかと思い、気になったので検索してみたら、もちろんそんなはずはなく、「わいせつ物頒布等の罪」だそうで、どうも購入者の元に届くポスターは、局部にボカシが入っていない無修正のものだったようで(販売ページではもちろん入っていたようだ)、それで引っ掛かったらしい。そうなのか。現代でも局部にボカシって、やっぱり入れなきゃいけないのか。入れたからなんだってんだ、という気もするのだけど。
 あと生成AI画像で1000万というインパクトで、思わず頭に血が上ってしまったけれど、1枚どう考えても1000円以下だろうそれで1000万円の売り上げを作ろうとしたら、それはそれで結構な労力なのではないかという気がしてきて、世の中にはもっと人道から外れた金儲けをしている輩がいくらでもいるよな、と反省した。動画配信の人とか、デイトレーダーとか、プロ野球選手とか。

 母から久々にクール宅急便が届き、中にあんぱんがたくさん入っていた。
 もしかしたら世間的にもそうなのではないかと思うが、4月に入ってから、わが家のあんぱんの購入量はにわかに増加しており、ここへ来て届けられた手製のあんぱんに、普段の5割増くらいで喜んだ。その旨を母に礼がてら伝えたところ、「たしかに最近、人にあんぱんをあげるととても喜ばれる。朝ドラは強いね」というメッセージが返ってきて、そうか、うちの母は、人にあんぱんを配っているのか、となんとなく感慨深い気持ちになった。
 それにしても、わが家に届いたあんぱんは20個ほどで、人にも配っているのだとすれば、母はいったいどれほどの数を焼いているのだろう。たぶんすごく焼いている。家のオーブンレンジで、いちどにいくつ焼けるのか。9個くらいのものではないか。傍目から見たら、えっなんでそんなに作んの、業者なの、と思うほど焼いている。でもその感じが、血筋なので手に取るように分かる。届いたあんぱんを見て、ピイガはすぐに粘土細工でミニチュアのあんぱんを作り、そこからシリーズとしてさまざまな種類のパンも作りはじめた。たぶん、そんなに作ってどうするの、という量をこれから作るのだろうと思う。

 ファルマンがいま観ている韓流ドラマは、主人公の女の子ひとりに、複数のイケメンが懸想し、それぞれの恋愛の発展や、つばぜり合い、そして男同士の友情なんかもあって……、という、これまで人類がひとりも思いつかなかったようなとても斬新なストーリーだそうで、とてもおもしろいらしい。
 しかしその主人公の女の子というのは、(もちろんドラマのヒロインなのだから美形なのだが)昔からずっとモテ続けてきたわけではなく、むしろ恋愛には奥手だったりするのだが、そんな主人公がどうして急に複数のイケメンから懸想される今の状況になったかと言えば、それはファルマン曰く、「ひょんなことから」だそうだ。
 知っていた。それまで別にモテてなかった主人公が、急に周囲の異性から一斉にアプローチを受けることになるきっかけ、それはいつだって「ひょんなことから」なのだ。そういう、二次元のドリーム的な物語を、僕は腐るほど読んできた。世の中にはさまざまな「ひょん」があって、そして「ひょん」の数だけ夢がある。だからあの文庫レーベルは、二次元ひょん文庫と言い換えてもいい。
 妻もようやく「ひょん物」の良さに気付いたか。ようこそ。

2025年4月12日土曜日

広末・テレビ・水はけ

 広末涼子が愉快だった。
 僕は残念ながら、「自称広末涼子」というニュース報道のくだりの際は、勤務中だったため居合わせられなかったのだけど、それを抜きにしてもやっぱりおもしろいと思う。思えばこういうスカッと笑える芸能ゴシップ、かなり久しぶりなんじゃないか。こうして今回のニュースを目の当たりにしたことで、中居正広の話って、さすがにぜんぜん笑えなかったんだな、と気づかされた。
 伝えられている奇行のひとつ、「広末でーす」と通りすがりの人に突然声をかけたといわれている場所は、浜松のサービスエリアであるようで、たしか去年の夏にわが家も寄ったし、また横浜に車で行くのだとしたら、今度も立ち寄る可能性は十分にあり、その際はぜひ「広末でーす」の吹き出しを持って記念撮影したいものだな、などと思う。あるいはサービスエリア側が用意してくれないだろうか。
 ところで先日ファルマンの誕生日の祝いをした際、ケーキにロウソクを立てたのだけど、42という数字はチョコプレートにチョコペンで記したので、ロウソクはなんか波状にくねくねした長細いものにしたのである。それを扱う際に僕は、「ジュンさんが1本1本くねくね曲げてくれたんだから大事にしなきゃな……」と、『この世のロウソクはすべてキャンドル・ジュンが手掛けていると信じ込んでいる人』というボケをして、ファルマンに失笑されたのだけど、本当にもう、キャンドル・ジュンのことだけで十分ありがたかったのに、さらに今回のことがあって、広末涼子というのは本当に尊い存在だな、としみじみと感じた。思わず音楽配信サービスで広末涼子のプレイリストをダウンロードし、通勤中に聴いてしまうほどだ。その際ランダムで再生していたら、「ヨリミチ」という曲が掛かったので、浜松サービスエリアに寄り道して運転を交代しなければこんなことにはならなかったろうになあ……、などと思ったり、歌詞をとても噛み締めながら聴いている。こんなことをしているときが人生でいちばん愉しい。生きている意味があるな、と思う。
 このまま順当にいけば、年末のヌーボ的な企画のゲストは、去年のフワちゃんの流れそのままに、ほぼ決まりだな、と思う。なんかサンデージャポンみたいになってきたな。

 子どもがテレビを使ったあと、入力2のままスイッチを切るのが嫌である。テレビの状態に戻してから切りなさいよ、と思う。思うし、言いもする。しかしあまり守られない。
 わが家のテレビは、入力1がビデオ、入力2がインターネットの映像サービスおよびゲームとなっていて、なので子どもたちは圧倒的に入力2ばかりを使うのである。でもテレビなんだから、本分はテレビなんだから、次に点けた人が、なにも出力されていない真っ黒の入力2の画面に対峙するはめになるのは、なんか間違っているだろう、と思う。
 思っていた。だから確信を持って、正義の名の下に、子どもたちに向かって注意をしていた。しかし最近になって、なんかこの図式って、絵に描いたようないわゆる老害なのではないか、という疑念が生じてきて、注意の声も勢いを減じてきている(それにしても子どもたちはこちらの注意に対して一切の服従をしないことである)。
 僕の中に確固としてある、テレビは地上波放送を受信して映す機械であるというイメージ、これがもう子どもの世代にはぜんぜん共通していない。僕自身はもちろん、入力1のビデオを観たあとも、必ずテレビのモードにしてから電源を切るのだけど、そのあと子どもがテレビを点けたら、それはもう一瞬で入力2に切り替えるのである。「いまなんかおもしろいのやってるかな」とか、「今晩どんな番組があるのかな」などと考え、ザッピングすることはもちろん、テレビ欄を確認したりするという発想は一切ないようである。
 老いては子に従えではないけれど、今後ますますこの流れは加速し、われわれはどんどん端に追いやられる。テレビのスイッチを切るときはモードをテレビにして消しなさいなどという注意は、実用性ではなく、もはやおじいちゃんは作法的な観念で言ってんのかな、というふうに取られるようになり、やがてはひいじいさんのおまじないや迷信(あるいは妄言)みたいになるのかもしれない。切ない。「夜明け前」読もうかな。

 これから男陣営からはブーイングを受けるであろう、機密事項をリークします。
 女性と違い、男は小便のあと、拭かないじゃないですか。それは性器の構造的に水はけ? 水切り? がよいので、拭かなくても問題ないとされているからだけど、たしかに女性のそれほどの必須性はないかもしれないが、でもぜんぜん大丈夫かと言えば、実はそんなことない。ないよ。俺だけじゃないよ。絶対みんなそうだよ。液体の注ぎ口が、液体を注いだあと、拭かずにいて湿り気を帯びないなんてこと、理屈としてあるわけないだろ。放出後、しばらく振って、中のものをしっかり出し切るというのとは、これは別の話で、そうしたあとでも、とにかく先端から液体が出ているわけだから、その部分は濡れているに決まっている。
 それで僕はなにが言いたいのかと言えば、今後は男も小便のあとペーパーで拭きましょうよ、ということを提案したいわけではなく、じゃあなんなのかと言えば、実は特に理由はない。とにかく性器の話をしたかっただけかもしれない。ピュアだな。

2025年4月3日木曜日

侍タイ・エイプリルフール・おばぁ

 映画「侍タイムスリッパ―」がPrime Videoに出たので、ファルマンと観た。噂どおり、とてもおもしろかった。盤石ではない態勢の中、監督ががんばって作って、公開後に評判を呼び、どんどん上映館が増えていった、というストーリーがあるようで、観ていて、なるほどそういう境遇でこの映画は作られたのだな、という情熱を感じ取った。映画に限らず、もといクリエイティブ関係に限らず、ありとあらゆる、作られるものの価値というのは、どれだけ情熱をもって作られたかなのだな、ということを最近しみじみと思うのだけど、この映画を観て改めてそれを実感した。
 知っている俳優がひとりもいないというのも新鮮な経験で、あのドラマに出てた人だな、とか、あの番組でダウンタウンと絡んでたな、などという雑念が一切生じず、物語に没頭できてよかった。ぜんぜん知らない人たちだけだと、その役をやっているその人しか知らないので、ワンチャン本当にそういう人なのかもしれない、という気持ちになるのだった。ファルマンにそう言ったら、「私は人の顔を覚えないから、いつだってそういう気持ちでドラマを観てる」と言われ、それは人生が愉しいかもしれないな、と本心から思った。

 エイプリルフールで、今年も企業がジョーク企画をやって、失敗したりしていた。中でもいちばん失敗したのは、持ち帰り弁当のほっかほっか亭で、価格高騰によって米が確保できなくなり、今後はおかずだけの販売になります、みたいなジョークを発表したところ、さすがに時勢的に笑えない、不謹慎だ、などと叩かれ、謝罪していた。
 毎年こうやってジョークのあんばいを失敗して怒られる企業があるけれど、別に絶対にやらなければいけないわけでもない企画に自主的に参加して、自主的に参加するということは自信があるからなのに、それでいて外して、謝罪までしなければならなくなるという、このかっこ悪さたるや、すさまじいものがある。ウケると思っていたのにマジ叱られ、という部分に、共感性羞恥が刺激され、自身の嫌な思い出までよみがえってきたりする。
 そもそもエイプリルフール企画って、もうぜんぜんおもしろくないと思う。怒られないやつも、おもしろいかと言えば別におもしろくなくて、それはもはや、この体制叩き体質の世の中において、「不謹慎ではないという看過」をいただいているだけであり、つまり手を出したところで、ゼロかマイナスしか得られないのだ。百害あって一利なし。ならば参加しないのがいちばん賢い。
 こんなことを言うと、現代はエイプリルフールを愉しむ心の余裕さえ失ってしまったのだな、などと嘆く輩がいるかもしれない。そういうことではない。流行語大賞もそうであるように、大衆が、遍く共有する趣向というものが、存在しなくなったのだと思う。

 「マツコの知らない世界」で40代50代の婚活事情を特集していて、おそるおそる観た。なかなかすさまじい内容だった。結婚とか、出産とか、子育てとか、話がセンシティブすぎて、迂闊に発言ができないけれど、そういったややこしいことを考えていると、僕の頭の中に、沖縄のおばぁがポンッと現れ、そのおばぁはなんでも分かってるような顔で、こんなことを言うのだった。
「腰を振ればいいさぁ」
 僕が「まあとにかく腰を振ればいいんだよ」と言ったら、それはフジテレビ的な、野卑な男性主義になってしまってよろしくないけれど、同じ内容でも沖縄のおばぁなら許されるんじゃないかな、と思う。そういう考えから誕生した、イマジナリーおばぁなのだと思う。
 イマジナリーおばぁに怖いものなどない。
「とりあえずキープしとけばいいさぁ」
「はじめ痛くても、すぐによくなってくるさぁ」
「外に出せばなんくるないさぁ」
 次々に繰り出される最低発言。でも大丈夫。沖縄のおばぁだから。そういうvtuberとしてデビューしようかな。もういるかな。