2025年9月13日土曜日

サンマ・トランプ・パピプレ


 当たり年と話題のサンマを買って食べる。感動した。
 そもそもスーパーで見た瞬間から、感動は始まっていた。そう言えばサンマとはこういうものだったな、ということを数年ぶりに思い出したのだった。今になって思うと、ここ数年のサンマってなんだったんだろう。もうサンマってリョコウバトのように種として絶滅に向かっているのかな、という悲愴感があった。それでも世の中の仕組み的に、漁師はサンマを獲らなければならないし、スーパーはそれを売らなければならない。ウナギのことも併せ、それらの種だけの話ではなく、大げさに言えば地球文明そのものの末期性さえ感じた。
 そんなここ数年の鬱積を取っ払うかのような、隆々とした、生命力あふれるサンマである。東海林さだおも、いつぞやサンマの「肩の盛り上がり」について書いていた。今年のサンマにはそれがある。体育会系の若者のような、気持ちよさがある。
 今年はどうしてサンマの質がいいのか、たぶん誰にも分からないのだろうと思う。そしてその理由に、人類は別に関わっていないのだとも思う。何年か外れが続いても、いつか必ず当たりはやってくる。大当たりを無邪気に喜べば、それでいいんだと思う。

 夏に赴いた手塚治虫記念館で買った火の鳥トランプを使い、このところ家族で大富豪をやっている。switch2が発売されているこのご時世にトランプというのも、なかなかオツだと思う。
 トランプはバイスクルという王道のやつで、カードの1枚1枚に火の鳥のイラストがプリントされている。プリントはランダムではなく、数字ごとに未来編、黎明編、というふうになっていて、それは12編ほどある火の鳥とトランプの親和性としてすばらしいのだが、使用されているイラストには少し文句があって、たとえば未来編である「3」のカードは、「猿田」「猿田&タマミ」「タマミ」「ロック」というラインナップで、なんと主人公である山之辺がいなかったり、「5」の鳳凰編も茜丸がいなかったりする。ユニクロのコラボTとかでもよくある現象だが、「なんで? なんでこの場面?」と思う。大人の事情とかもあるのだろうか。
 ちなみにこれは火の鳥に関係なく、バイスクルというトランプの特徴らしいが、ジョーカーが2枚ではなく4枚入っていて、このすべてを使ってやっているので、展開が派手になり、愉しさが増している。革命もかなりの頻度で起る。
 勝率は、きちんと記録したわけではないが、もちろん僕がいちばんいい。次いでポルガ、ピイガという感じ。ファルマンは8切りと11バックのルールを未だうまく活用せず(人がそれを出すと毎回戸惑う)、そして最後の1枚に「9」なんかを残して往生したりするので、大貧民の率が高い。あなたはもう二度と人間に生まれ変わることはないのよ。

 誕生日が近づいているが、今年もプレゼントが定まらない。すべての欲求を満たし、足りているのかと問われれば、そんなはずはないのだけど、いざ改まってなにか買っていいと言われると、ああでもなくて、こうでもなくて、逆になにも思い浮かばねえや、となってしまうのだった。本当に毎年恒例のことなので、これをパピロープレゼント現象、略してパピプレ現象と名付けようと思う。
 使っている鞄や腕時計がだいぶ傷んでいるので、そこらへんでいいんじゃないかとファルマンは(心底めんどうそうに)あしらうのだが、なぜ傷むほどに使い続けているかと言えば愛着があるからで、鞄などは先日、持ち手が擦り切れて今にもちょん切れそうだったのを、持ち手だけ別の布で作って付け替えるということをしたため、ますます愛しさが募ってしまい、もしかすると僕はこの鞄を、テセウスの船のようにして一生使い続けるんじゃないかと思っている。腕時計は、いま使っているのと同型のものじゃないと嫌で、色違いなどあれば僕だって喜んでリクエストするのだけど、ネットのどこを探しても見つからないので、こちらも詰んでいるのだった。
 本当にどうしたものか。

2025年9月5日金曜日

暑さ・髪色・テレビ


 9月に入っても暑さが収まらず、心底うんざりしている。
 僕は寒いより暑いほうが好き、ということで通っていたのだが(どの界隈にだろう)、今年のような暑さというのは、もはや寒いのと較べての好悪だとか、そういう次元を超越して、単なる災禍であると思う。夏の暑さが好きなどという意思表明は、10年前くらいまでなら通用したかもしれないが、いま言ったらただの知覚に問題のある人だ。そういう人たちというのは、往々にしてあの、あまりにも老害過ぎることわざ、「心頭滅却すれば火もまた涼し」を未だ口にしたりするのだ。それを口に出した時点で、その人間は知覚はもとより、感性が狂っていると思う。大東亜戦争やってんのか、と思う。
 この暑さはいつまで続くのだろう。やはり9月20日頃か。秋の妖精が誕生日を迎えるときを待つしかないのか。みんな、少しでも暑さが収まってほしいと願うなら、マジで盛大に祝えばいい。そしていつか国民の行事になればいいと思う。

 盆明け、髪の色をいじった。
 横浜の帰省はただの脱色した金髪で行って、もはや僕が金髪でも誰も何も言わず、それで構ってちゃんが発動したわけでもないが、ぼちぼちただの金髪も飽きてきたことだし、色を入れようじゃないかと思ったのだった。
 それでどんな色にしたかと言えば、アイスシルバーという、青みがかった銀色みたいな商品を選んだのだけど、ファルマンにやってもらった結果、初日は「紺色じゃねーか!」とショックを受け、しかし日に日に色が落ちて、4日目くらいに商品の箱の画像どおりの色になり、そこでストップしたらよかったのだけど、そこからもさらに色は落ち続け、半月ほど経った現在、ちょっとまろやかな金髪、いまどきのヘアカラーにありがちな、ミルクティーホニャララみたいな感じになっている。
 悪くはない。悪くはないが、特別よくもない。数度のブリーチからヘアカラーという工程を経たことで、一朝一夕ではたどり着けないような色味になっているわりに、こんなに心が凪なことがあるかよ、というくらい凪である。さんざん手をかけた結果、無。なんか、とてつもない修行をしたお坊さんみたいだな。

 テレビが新しくなって1ヶ月ほど経った。画面は大きいし、ネット系のチャンネルもボタンひとつだし、概ね文句はないのだが、唯一テレビ番組表に関して忸怩たる思いがある。
 まずテレビ番組表の画面にしたとき、流しているテレビの音声が消えるのである。これがよくない。音声で番組の流れを把握しつつ、僕はテレビ欄を眺めたいのだ。
 あと合わせているチャンネルによって、テレビ欄の並びが変わるという世話もいらない。1・2・3・4・5のチャンネルがあったとして、たとえば3をつけていると、テレビ欄の並びは3・4・5・1・2になるのだ。いったいそれにどういう便利さがあるのか。頭がごちゃごちゃするので、並びは固定のほうがいい。
 あと番組にカーソルを合わせて「決定」ボタンを押したら、それが放送中の場合は、それだけですんなりその番組を表示してほしい。「情報を見る」だの「選局する」だのと、なんか選択肢が表示され、もういちどボタンを押さなければならないのが億劫だ。
 あと前のテレビでは、「次の時間帯」というボタンがあって、緑だったか黄色だったかのボタンを押すと、そこから7時間後のテレビ欄に移動し、これがなかなか便利だったのだが、新しいテレビにはそれがないのが不満だ。
 あとテレビは壊れたがブルーレイレコーダーは健在で、それがシャープだったものだから、連携のことを考えたら新しいテレビもシャープがいいんだろうと思ってそうしたのに、いまどきはもうぜんぜんそういう連携ってなくなってしまったのだそうで(これは電話でお客様相談室に問い合わせてはっきりと明言された。コストカットが理由だそうだ)、テレビの番組表から気になる番組を見つけ、それを予約録画したいと思ったら、レコーダーのほうのリモコンで番組表を表示して選択しなければならず、ずいぶんと不便である。
 とまあ、概ね文句はないと言いつつ、だいぶあるのだが、なんと言うか、わが家の状況がまさにそれを物語っているが、地上波放送のテレビなどというものは、昔に較べてだいぶ蔑ろにされはじめているようだ。テレビ番組表の使い勝手の悪さに、思いをかけられていなさを痛切に感じる。夢グループが、高齢者向けの、ただDVDを再生するだけのポータブルプレーヤーを販売してヒットしたように、20年後くらいに、チャンネルがパッパパッパと反応よく切り替わる、地上波放送専用という単一機能のおもちゃみたいなテレビが、僕のような輩にヒットするかもしれないな、と思う。