というわけで普通の週末として過してもよかったのだが、父の日という理由にかこつけて、食費とは別の会計から拠出し、うなぎの蒲焼を買う、ということをしたのだった。そんなわけで日曜日ならぬ土曜日の晩は、うな丼であった。うな丼は、やはりクラクラするほど美味しくて、満ち足りた。僕があまりにも喜びながら食べるものだから気遣って、というわけでは決してなく、ファルマンはうなぎがぜんぜん好きじゃない、むしろ少し苦手であるという理由により、2口ほど齧ったファルマンのうなぎも僕の所に来て、ホクホクした気持ちになった。あなた、そんなに好きならもうちょっとたまに買って食べれば、とファルマンに言われたけれど、たぶんしない。そんなふうにちょくちょく会ったりしないからこその関係性なのだとも思う。自分自身も、人にとってそういう存在でありたいものだ。たまに会うと最高にハッピーで、しかも精がつく存在。なんだその尊さ。
ピイガが相変わらずスライムを捏ねている。様子を見ていると、スライムを作っているというより、捏ねている。とにかく捏ねるのが好きで、その副産物としてスライムという物体が生じている、という感じである。暇さえあればボウルの中でネチョネチョやっている。
そのさまを見て、もしもこいつが男だったら、きっとめちゃくちゃちんこをいじっていたのだろうな、と思った。ちんこがあればそれで事足りることを、ないものだから、仕方なくその代替としてスライムを用いているという、そういうことなんだろうと思う。
天津木村のエロ詩吟に、「終わったあとのちんちんと愉しそうにじゃれあってる彼女を見たら、ああこの子、子ども好きなんやろうなって思う」というネタがあるが、なんとなくそれも連想した。あると思う。
今年は田んぼやカエルやサギの話をいちどもしていなかった。
もちろん今年も毎年恒例の風景が展開されている。苗が育ちつつある田んぼには、早くもおたまじゃくしが泳いでいる。田植えがだいたいGWだから、わずか1ヶ月ほどである。サイクルが早い。他の生き物の命の呆気なさを眺めていると、人生における悩みなどというものは、すべて、完全になにもかも、抱く必要のない、余計なものなのかもしれないと思えてくる。たぶん実際そうだ。
サギは今年もたらふくカエルを食べたことだろう。サギにはもちろん歯などないわけで、カエルは丸呑みにされるわけだが、だとすれば躍動するカエルは、サギの胃の中で、どのように消化されてゆくのだろう。しばらくは生きるし、なんならカエルは胃の中に仲間を見つけ、胃の中で交尾へと至ることだってあるかもしれない、などと思った。それはしあわせなことであるような気もするし、逆にそんな不幸はこの世に他にないような気もする。
しかしすべてはどうでもいい些末事でもある。田んぼを眺めていると、いろいろ思う。