2025年6月24日火曜日

23区・韻・回避


 もはや遠い国の話だが、東京都議選をやっていた。そう言えば前回の選挙のときにも憤った気がするが、なぜ都議選の開票速報はNHKで全国放送され、そのせいで大河ドラマの放送に影響が出たりするのか。首都というだけで、ただの一地域だ。僕は興味ない。
 それでも見るともなしに速報番組を眺めていたら、東京23区というものは、あのあまり大きくない東京都の、その半分よりも小さい面積の中で、ずいぶん細かく分割されているものだと、いまさらながらしみじみと感じ、たとえば23区と出雲市を並べたらどういうスケール感になるのだろうと疑問に思ったので、ChatGPTに訊ねてみた。
 その結果、東京23区が約628 km²であるのに対し、出雲市は約624 km²と、ヤラセなのではないかと思えるくらい、だいぶ近似しているのだった。そうなんだ、東京23区と出雲市って、ほぼ同じ面積なんだ。へええ。ちなみに人口は、前者が約973万人、後者が約16万人ということで、ここには約60倍の開きがある。そしてこれは人口密度にすると、約15,510人/km²と約262人/km²だそうである。い、1平方キロメートルに、1万5千人? と驚くが、光ヶ丘団地のことなどを思えば、たしかにそういうことになってくるか、と納得する感じもある。これでもかつては都民だったし、長女は東京生まれなのだ。ただしもうその片鱗はない。先日ポルガは登校の際、スピードの遅い耕運機に狭い農道を塞がれ、遅刻しかけたそうである。14年前の練馬では到底想像できなかった未来へとたどり着いている。

 先日「nw」に投稿した「Nobitattle サマーコレクション 2025」の中で、ゼブラ柄の水着にChatGPTがつけたコピー、「俺たちの縞は、逃げるため。でもあいつの縞は、挑むためだ。Nobitattle.」というものに対して僕は、「音による韻ではなく、「逃」と「挑」の、漢字のつくりによる韻みたいな小粋なことをしていて、憎らしいと思った」というコメントをしているのだけど、投稿した翌日ふとした瞬間に、漢字のつくりによる韻ってなんだよ! 漢字のつくりが一緒ってことは、それすなわち韻が共通なんだろ! と思い至った。
 思い立った瞬間、すごい羞恥が襲った。だって何を隠そう、卒論はいちおう漢詩をテーマに書いたのである。当時は実際に漢詩を作り、本当にあっているかどうかは判らないが、平仄とかのルールも必死に守っていたじゃないか。そんなお前がなぜ、つくりが同じ漢字は同じ音という基本的なことに気付けなかったのか。ChatGPTは「逃」と「挑」で対句にしつつ韻を踏む漢詩的キャッチコピーという離れ業をしていたというのに。
 ……というところまでを書いて、しかし実際に確認したところ、「逃」は平声の豪韻、「挑」は上声の蕭韻とのことで、実はやっぱり韻は踏んでいない、漢字のつくりが共通なだけ、ということが判明したので、ぐだぐだな感じになり、なのでこの話は読まなかったことにしてほしいと思う。

 朝の連続テレビ小説「あんぱん」の、太平洋戦争が終わった。先週の金曜日が玉音放送で、今週から戦後なのだった。
 その玉音放送のシーンを観ながら、僕は少し後ろめたい気持ちを覚えていた。なぜかと言えば、この3週間ほど、視聴を離れていたからだ。それまでも危うかったのだが、嵩が出兵し、配属された部隊の上官に平手打ちされたりするさまを見て、「これは無理だ」と思い、すっぱりと脱落していた。ファルマンはその間もルーティンで観続けていたので、先週「戦争が終わるよ」と教えてくれ、僕はちゃっかり玉音放送を耳にすることとなった。シーンでは、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……、といつものフレーズが流れたが、僕は見事なまでに、耐えなかったし、忍ばなかったのだった。観てたらつらい日々になりそうだな、と察知して回避した。
 3週間ぶりに眺めた嵩は、もともとのアンニュイさがさらに強まっていて、たぶんこの3週間で描かれた戦争体験が、今後の嵩の人生にとても重要になってくるのだろうな、それを観てないと物語の魅力が半減するのだろうな、と思った。

2025年6月15日日曜日

父の日・手悪さ・田んぼ世界


 父の日なのだった。もっともだからどうということはない。母の日も別になにもしなかった子どもが、世間的にもそれより存在感のない父の日などというものに、なにかするはずがないのだった。僕だって中学生の頃、母の日になにかをしたという思い出はない。
 というわけで普通の週末として過してもよかったのだが、父の日という理由にかこつけて、食費とは別の会計から拠出し、うなぎの蒲焼を買う、ということをしたのだった。そんなわけで日曜日ならぬ土曜日の晩は、うな丼であった。うな丼は、やはりクラクラするほど美味しくて、満ち足りた。僕があまりにも喜びながら食べるものだから気遣って、というわけでは決してなく、ファルマンはうなぎがぜんぜん好きじゃない、むしろ少し苦手であるという理由により、2口ほど齧ったファルマンのうなぎも僕の所に来て、ホクホクした気持ちになった。あなた、そんなに好きならもうちょっとたまに買って食べれば、とファルマンに言われたけれど、たぶんしない。そんなふうにちょくちょく会ったりしないからこその関係性なのだとも思う。自分自身も、人にとってそういう存在でありたいものだ。たまに会うと最高にハッピーで、しかも精がつく存在。なんだその尊さ。

 ピイガが相変わらずスライムを捏ねている。様子を見ていると、スライムを作っているというより、捏ねている。とにかく捏ねるのが好きで、その副産物としてスライムという物体が生じている、という感じである。暇さえあればボウルの中でネチョネチョやっている。
 そのさまを見て、もしもこいつが男だったら、きっとめちゃくちゃちんこをいじっていたのだろうな、と思った。ちんこがあればそれで事足りることを、ないものだから、仕方なくその代替としてスライムを用いているという、そういうことなんだろうと思う。
 天津木村のエロ詩吟に、「終わったあとのちんちんと愉しそうにじゃれあってる彼女を見たら、ああこの子、子ども好きなんやろうなって思う」というネタがあるが、なんとなくそれも連想した。あると思う。

 今年は田んぼやカエルやサギの話をいちどもしていなかった。
 もちろん今年も毎年恒例の風景が展開されている。苗が育ちつつある田んぼには、早くもおたまじゃくしが泳いでいる。田植えがだいたいGWだから、わずか1ヶ月ほどである。サイクルが早い。他の生き物の命の呆気なさを眺めていると、人生における悩みなどというものは、すべて、完全になにもかも、抱く必要のない、余計なものなのかもしれないと思えてくる。たぶん実際そうだ。
 サギは今年もたらふくカエルを食べたことだろう。サギにはもちろん歯などないわけで、カエルは丸呑みにされるわけだが、だとすれば躍動するカエルは、サギの胃の中で、どのように消化されてゆくのだろう。しばらくは生きるし、なんならカエルは胃の中に仲間を見つけ、胃の中で交尾へと至ることだってあるかもしれない、などと思った。それはしあわせなことであるような気もするし、逆にそんな不幸はこの世に他にないような気もする。
 しかしすべてはどうでもいい些末事でもある。田んぼを眺めていると、いろいろ思う。