2025年10月25日土曜日

泳いで帰る・おか・悪ガキ


 近ごろLINE通話の接続が悪く、ファルマンに「これから帰る」の連絡を入れようとしても、ぜんぜん繋がらないということがままある。でもそれならそれで、不在着信にはなっているだろうし(それさえなっていない場合もあるが)、なにより30分あまりで家に帰り着くのだから、別にいいか、となる。ただしプールに寄って帰る場合は、晩ごはんの関係上、やはりそれはきちんと伝えるべきだろうという考えがこちらにはあり(ファルマン側が気にしているかどうかは知らない)、メッセージを送ることになる。文面は決まっている。
「泳いで帰ります」
 送信しながら、これだと職場から家まで海峡を横断して帰るかのようだな、といつも思う。わが家が湖の中の浮島に建っていれば本当にそんなことも可能なのにな、などと夢想したりもする。そのように、言い回しが微妙だし、なにより毎回打つのも面倒なので、こんなときこそスタンプという機能の出番だろう、と思った。
 というわけで少しLINEスタンプの販売ページを覗いたが、あまりよさそうなものは見つけられなかった。たぶん検索スキルが低いんだろうという自覚はある。クソみたいなつまらないものばかりが出てきて辟易した。スタンプは基本的に使わないのだ。これに関して、主義とかスタンスとか、かっこいいことを言うつもりは一切ない。ただ文面でのコミュニケーションにおいて、スタンプというものがうまく脳に組み込めていないだけである。明治の世でもちょんまげを結い続けているのだ。
 しかしそんな僕が唯一持っている、わざわざ買ったスタンプがあり、それは岡山時代、タブレットを買ってLINEを始めた直後くらいに手に入れた「耳をすませば」のもので、結局ぜんぜん使っていないのだけど、40個あるこれのうちのひとつを、夫婦間の符丁として「泳いで帰ります」の意味にすればいいのだと気づいた。さてどれにしよう。迷うな。当たり前だが、ぜんぜんプールを連想させるものがないな。聖司が「オレと結婚してくれないか」と言っているスタンプや、杉村が「お前が好きなんだ!」と言っているスタンプとかだと、そればかりが並んだ場合、悪質なストーカーみたいになってしまうので、いっそ含意がないのがいい気がする。雫が鍋焼きうどんを食べているスタンプがあるので、これにしようかな。「飯を喰って帰る」みたいな意味に取られたら困るけど、飯を喰って帰ったりしないからな。
 
 われわれ夫婦はそれぞれの自己主張から、子どもたちからそれぞれ「おかあさん」「パパ」と、統一感のない呼び方をされていたのだけど、最近になって少し変化があった。と言っても、統一がなされたわけではない。そうではなく、ファルマンの「おかあさん」について、子ども(発端はピイガらしい)が、「なんでこんなもんにさん付けせなあかんねん」と考えたらしく、あるときから「おかあ」になった。ポルガもそれに引っ張られ「おかあ」になっていたのだが、こいつは言葉を短く言い放つ癖があるので、その「おかあ」がやがて「おか」になった。そうして今はふたりともファルマンのことを「おか」と呼んでいる。この「おか」は、「おかあさん」の一部だった時代とはイントネーションも変わっていて、地形の「丘」ではない、みつ子のほうの「丘」の言い方だ。丘みつ子の所属事務所の社長なんかは、たぶん丘みつ子のことをこう呼んだのだろう、という感じで「おか」と呼ぶ。かつて儒教の精神が根付いていた頃は、「さん」どころか、「おっかさま」や「おとっつぁま」などと、「さま」の対象でさえあったというのに。もっともファルマンのキャラクターに因る部分もあるけれど。

 先日、ピイガの秋の服を買いに子ども服の店に行ったところ、なんとなく眺めていた少年向けの売り場でいい感じのラグランのロンTを見つけ、160というサイズがあったので、じゃあ着れんじゃん、と思って自分用に購入した。すごく安かった。靴下もそうだが、成人男性用として店舗で売られているものは、地味なつまらない色合いのものばかりで、ずっと憤懣やるかたなく思っていたのだが、そうか、子ども服のデカいやつを買えばいいのか、という42歳の秋の発見だった。帰宅後、早速着てみたところ、サイズは若干小さい感じもあったが、そこまで問題はなかった。ただ、やはり鏡に映った姿にはどうしても違和感があった。子ども服特有の、大胆な配色の無邪気なデザインはすごくいいのだが、認めたくないことに、それを着ている僕が、どうしたって大の大人なのだった。この違和感、前にどこかで味わったことがあるなと考えて、悪ガキが女性教諭とかにイタズラをするタイプのAVの男優のそれだ、と思い至った。あの、子どもっぽい服を着て、キャップを後ろ前に被るという記号だけで小学生男子ということにしただけのおっさんが、若い女優にイタズラをしていき、最終的にはぜんぜん大人の性器でセックスするという、そういうタイプのAV。あれだ。これはあれだよ、とファルマンに向かって話したら、「なんであなた、そんなこと知ってるの?」と糾弾され、「観てるの?」と問われたのだけど、別に観てはいない。観てはいないけど、男性として生きていたら、観ていないAVの情報だって、ニュートリノのように全身を常に貫いているから自然と知り得ているものなんじゃないの、って僕は思うんだ。へへっ!(人差し指で鼻をこする)

2025年10月16日木曜日

黒髪・Blogger・月

 先週末、久しぶりに髪を黒くして、だいぶ後悔し、しかし数日すればあまりの真っ黒も少しは緩和されるだろうし、なにより自分も慣れてくるだろうと思っていたのだが、残念ながらそうはならず、日に日に嫌気が増している。娘らからの評判も悪く、精神的に参りはじめた。本当に、なんで黒髪になんかしてしまったのか。
 ファルマンは「悪くないよ」などと必死にフォローしてくれるのだが、それは僕の気持ちを落とさないようになんとか持ち上げようとしているだけで、本心でないことは見え見えだ。なにより、主観でも客観でもない絶対的な評価として、本当に似合っていないのだ。すごく変なのだ。金髪の頃のほうが本当によかった。
 そんなことを言い募っていたら、ファルマンも気が緩んだのか、本音をこぼした。
「まあたしかに、黒髪にすると、あなたの根暗な本性がバレる感じがあるかもね」
 20年寄り添った妻というのはさすがのもので、「黒髪やだー、変ー」などと唱える娘たちなんかよりも、よほど的確に、こちらの心を抉ってくるのだった。
 そうか、そうだな、俺は心根の暗い部分を照らすために、髪の色を明るくしていたのかもしれないな。だから黒くしてしまった今、こんなにも落ち込んでいるのだな。
 とにかく一刻も早く髪の色を抜きたい。でも毛髪への負担を考えると、さすがにすぐというのは恐怖が勝つ。髪を短くして、新たに伸びた髪の毛の比率を増やして、なるはやで処置しようと思う。心を救ってやらないといけない。

 いつものようにBloggerの投稿ページを開いたら、「新機能のお知らせ」というメッセージが表示されたので途轍もなく驚いた。Bloggerからメッセージが届いたのって、これが初めてのことではないのか。
 前から言っているけれど、僕はBloggerを、いまはもう誰も住まなくなった廃墟で勝手に遊んでいるような気持ちで使っている。あのGoogleが、2025年の今、ブログサービスなどというものを運営しているはずがなく、削除し忘れているだけなのだと。
 だからメッセージを目にした瞬間、ビクッとした。俺だけのユートピアだと自由に振る舞っていたら、実は監視カメラで撮影されてモニタリングされていた、みたいな衝撃だった。
 またこの新機能というのが、あまり自分に関係なさそうなのできちんと把握していないのだけど、ブログの文面に現れたキーワードを読者が検索しやすくなるように自動でリンクにする、みたいな、なんかそんな機能らしく、いやそれってはてなダイアリーじゃん! と思った。なんかもう本当にBloggerのやることってよく分からない。とても商売でやっているとは思えない。やっぱりこれは、採算とかの概念から逸脱した、異様に清らかで尊い世界なのではないか、という気がするのだが、実際はどうなんだろう。

 北海道で、全裸で外に出ていた男が逮捕された。
 警察の調べに対して男は「月を見るため」と供述したそうで、なんかハッとした。どういうハッなのかと言えば、「病気の子どものために薬代を恵んでください」と頼まれて金を渡したあと、周囲の人から「バカだなあ、あんなの嘘に決まってるだろ」と言われ、「そうか。よかった。病気の子どもはいなかったんだ」とつぶやくという、あのエピソードのようなハッである。うす汚れたものばかりのこの世界で、とても稀有な美しいものを目にしたという、そんな気持ちである。
 夏目漱石が「I love you」の訳を「月がきれいですね」にした、という嘘くさいエピソードがある。それも連想する。月はわりとなんでも受け入れてくれる。
 ただ裸でうろついて、女学生の前に進み出たりしたら、それは逮捕しなければならないけれど、ただ月夜をうろついていて、そして駆けつけた警官にその回答をしたのならば、本官は許すべきだろ、と思う。逮捕なんて野暮なので、本官は見逃すでありますだろ、と思う。草間リチャード敬太は逮捕しても、69歳男性は許してほしい。年齢も実にいい。

2025年10月8日水曜日

王将ゲーム・祖母・ちょんまげ

 新しいテレビのリモコンに「ココロビジョン」という謎のボタンがあって、押したらシャープ独自のプラットホームみたいなものだった。しかし自分に関係のある機能はなさそうだなと思っていたのだが、コンテンツの中にミニゲームがあるのを子どもたちが目ざとく見つけた。そこにはナンプレや国旗当てなど、わりと素朴な遊びが並んでいたが、その中に「王将ゲーム」という見慣れないゲームがあって、それに僕とポルガがドハマりした。
 ルールは、だいたいスイカゲームの将棋版という感じで、「歩」と「歩」が合体して「と」になり、「と」と「と」が合体して「香車」になり、という感じで、だんだん駒を強くしていって、最終的に盤面が一杯になる前に「王将」が完成したらクリアというもので、サウンドもグラフィックもきわめて無機質なのだけど、スイカゲームと同じでやけに熱中させられるのだった。
 「むずかしい」のモードだと「王将」に至るまでの道のりがだいぶ遠くなり、なかなかクリアまでたどり着かない。僕はまだできていない。それなのにポルガが先日クリアしてしまって、忸怩たる気持ちになった。親の威厳のために、先にクリアしたかった。しかも自分はクリアしていないのに、人がもうクリアしてしまったことで、モチベーションも下がり、このままだと負け犬で終わりそうである。こんなことならファルマンのように、最初から、めんどくさいからそんなのやらない、というスタンスでいればよかったと後悔している。

 祖母の誕生日祝いの写真が送られてきた。正確に言うと、母からファルマンに送られたものを、見せてもらった。なぜかいつもそういう形式で実家の動向を知らされている。
 叔父と姉一家も集まって、皆で囲んでいたチョコレートのケーキには、「97」という数字の飾りが立てられていた。祖母は会うたび、話すたびに、「おばあちゃんはもう〇〇だから」と自分の年齢を伝えてくるのだけど、あまりにも積極的に伝えてくるものだから、逆に情報として入ってこず、正確な年齢が把握できていなかったのだけど、今回は視覚で「97」ということがしっかりと明示されたので、やっと認識できた。そうか、祖母、97歳なのか。すげえな。祖母と言ったら65歳くらいのイメージだったけど、なるほどそれは30年前の、自分が小学生とかだった時代のことなのだな。あの頃から、当たり前だが互いに年を取ったわけだが、しかし祖母と孫という関係性は、いい意味でも悪い意味でもなく、ぜんぜん変化していないな、と思う。この30年で祖母の意外な一面を知ったということも一切なく、本当に当時と同じ距離感でずっといる。いま65歳の祖母を目の当たりにしたら若く思うのかもしれないが、10歳の僕にとって65歳の祖母は老婆だったし、42歳の僕にとって97歳の祖母はやはり老婆だ。だからなんだ、なにが言いたいんだ、という話だが、もちろん特に意味はない。なんとなく不思議なものだな、と思ったので書いた。
 祖母はまだまだ元気そうで、なによりだと思う。血縁が健康で長生きだと、それは自分にとって利のあることなので、そういう意味で喜ばしいと思う。

 朝ドラが、松江が舞台の「ばけばけ」になった。「あんぱん」は実は途中で脱落してしまったのだけど、今回は最後まで観たいと思っている。今のところとてもおもしろく、地元民として誇らしい気持ちだ。もっとも自分を地元民と標榜していいのかは、微妙なところだ。ただ劇中の方言などにちょっと違和感を抱いたりすることもあるので、それは立派な地元民のムーブなのではないかな、と思っている。
 主人公の父親は、明治になってだいぶ経つのに、まだ髷を落としていないという設定で、なかなか悲哀があるが、ファルマンに「これって今で言うとどんな感じなんだろうね」と問いかけたら、「いまだにブログをやってるみたいなもんなんじゃない?」という答えが返ってきて、ショックを受けた。ブログって、ちょんまげだったのか。ショックだったが、なんとなくしっくり来る部分もあり、それ以来あの父親にとても感情移入するようになった。いいさいいさ、俺と布川敏和は、いつまでもちょんまげを結い続けるさ。