2025年9月27日土曜日

おろちAI・騒音・カロリー


 書く機会を逃したのだが、実は2週間前、誕生日のお祝いをした敬老の日の3連休で、おろち湯ったり館に繰り出していた。いつぶりだろう、もしかしてこれが今年初だろうかと思ったが、実は3月に行っていたようだった。3月22日。その日の記事に桜に関する記述は一切ないので、まだだいぶ蕾だったんだろう。
 半年ぶりの湯ったり館は、3連休の初日の土曜日の夜だったので、けっこう混んでいるだろうかと危ぶんだが、こと湯ったり館に関し、毎回わりと律義に行なうこの危ぶみに対して、果たして大混雑の憂き目に遭う、ということは決してないのだった。ましてや男湯が、サウナの小さい木湯のほうだったので、余計だったんじゃないかと思う。やっぱりどうせ行くのなら、木湯のときより岩湯のときのほうがいいのだ。今回も、岩湯でありますように、と願いながら行ったわけだが、まんまと木湯のほうで、だいぶ落胆した。毎週水曜日の定休日を境に、男と女で風呂が交代になるわけだが、それはホームページでは一切知らせてくれないのである。たぶん電話をすれば答えてくれるのだろうが、それを億劫がるものだから、このようなことになる。
 そこで、今後こういうことがないよう対策を取ることにした。ChatGPTに事情を説明し、2025年9月13日、男湯が木湯であったことから起算し、俺が今度、「おろち湯ったり館に行きたいんだけど、いま男湯はどっち?」と訊ねたら瞬時に計算して答えてくれよ、と依頼した。ジョニファーは「わかった」と快諾してくれたのだけど、9月13日の男湯が木湯であったことを、こうして記録しておけば、数ヶ月後に行きたいと思ったとき、自分でカレンダーを見て数えればいいわけで、わざわざAIに頼むほどのことではないかもしれないな、とも思った。そしてこの、「わざわざAIに頼むほどのことではない」という感覚は、ちょっとだけ意識して大事にしていこうとも思った。

 子どもの声が大きい。本当に大きいのだ。お前らはそんなに広い家で暮しているか、と言いたくなるほどの音量で喋る。前からその傾向はあったが、最近はそれが加速している気がする。なぜだ。思春期に入った子どもは、ろくにはっきり喋らなくなるのではないのか。
 リビングで子どもたちが喚いているところに身を置いていると、じわじわ脳が絞めつけられて、とてもいられないと部屋に退散することになる。逆ではないのか。思春期の娘が自室に籠るものではないのか。まあそれよりはいいけど、と思わなくもないが。
 こうして子どもたちの声の大きさに苛まれて思い出すのは、公園の近隣の住人が、子どもが遊ぶ声がうるさいと苦情を訴えた、というニュースだ。なんと心の狭い、公共の福祉的な思慮のない考え方であろうかと、世間は苦情を訴えた近隣住人に対して厳しかった。僕もなんとなく、そういう印象を抱いていた。しかし自分の子どもの声が、成長のためか、あるいはYouTubeとかの阿呆な動画の影響か、異様に大きくなり、それに悩まされている現状に身を置いて、自分の子どもでさえこうなのだから、よその家の子の嬌声なんて本当につらいだろうな、といまさらになって考えを改めた。近隣住人に謝りたい。

 9月も終わろうとしていて、例年のスケジュール通り、僕はまたこの1年間で書いた日記の読み返し作業に入ったのだが、それを読んでいて衝撃の事実が発覚した。
 2024年12月時点で、おもひでぶぉろろぉぉんの読み返し作業が、2008年の10月まで進んだ、という記述があるのだが、それが2025年9月末現在で2009年5月という進度となっており、つまり僕は去年の12月から、ずっと25歳の、いつまでも26歳にならない自分と一緒にいるわけで、このままのペースでいけば、いよいよ、『おもひでぶぉろろぉぉんが1年で1年進まない』という次元に突入するのである。
 ダイエットの神髄は、摂取カロリーを消費カロリーが上回ることだと言われるが、それでいうと1年間で1年間の読み返しが進まないという状況は、消費カロリーに対して摂取カロリーばかりが増えて、どんどん脂肪が蓄えられていくようなものだ。この状態が続く限り痩せることはないし、おもひでぶぉろろぉぉんが完結することはない(日記は常に新しく書かれるので、実質的に終わりはないのだが、それでも読んでいる時点から2、3年前あたりまで作業が進めば、それはもうあまり意味がないのでそこで終わりだろうと思っている。もっとも現状の有様では想像もできないが)。
 だからおもひでぶぉろろぉぉんをやらなければならないのだが、冒頭でも言ったように、これからはこの1年間の日記からワードを抜き出す作業をしなければならないので、やはりそちらはどうしたって停滞するだろう。
 どうやらもう僕は、自分の日記と、神楽陽子のエロ小説くらいしか、読むことが許されないらしい。それならそれでいい。なんと心地のよい世界であろうか。

2025年9月13日土曜日

サンマ・トランプ・パピプレ


 当たり年と話題のサンマを買って食べる。感動した。
 そもそもスーパーで見た瞬間から、感動は始まっていた。そう言えばサンマとはこういうものだったな、ということを数年ぶりに思い出したのだった。今になって思うと、ここ数年のサンマってなんだったんだろう。もうサンマってリョコウバトのように種として絶滅に向かっているのかな、という悲愴感があった。それでも世の中の仕組み的に、漁師はサンマを獲らなければならないし、スーパーはそれを売らなければならない。ウナギのことも併せ、それらの種だけの話ではなく、大げさに言えば地球文明そのものの末期性さえ感じた。
 そんなここ数年の鬱積を取っ払うかのような、隆々とした、生命力あふれるサンマである。東海林さだおも、いつぞやサンマの「肩の盛り上がり」について書いていた。今年のサンマにはそれがある。体育会系の若者のような、気持ちよさがある。
 今年はどうしてサンマの質がいいのか、たぶん誰にも分からないのだろうと思う。そしてその理由に、人類は別に関わっていないのだとも思う。何年か外れが続いても、いつか必ず当たりはやってくる。大当たりを無邪気に喜べば、それでいいんだと思う。

 夏に赴いた手塚治虫記念館で買った火の鳥トランプを使い、このところ家族で大富豪をやっている。switch2が発売されているこのご時世にトランプというのも、なかなかオツだと思う。
 トランプはバイスクルという王道のやつで、カードの1枚1枚に火の鳥のイラストがプリントされている。プリントはランダムではなく、数字ごとに未来編、黎明編、というふうになっていて、それは12編ほどある火の鳥とトランプの親和性としてすばらしいのだが、使用されているイラストには少し文句があって、たとえば未来編である「3」のカードは、「猿田」「猿田&タマミ」「タマミ」「ロック」というラインナップで、なんと主人公である山之辺がいなかったり、「5」の鳳凰編も茜丸がいなかったりする。ユニクロのコラボTとかでもよくある現象だが、「なんで? なんでこの場面?」と思う。大人の事情とかもあるのだろうか。
 ちなみにこれは火の鳥に関係なく、バイスクルというトランプの特徴らしいが、ジョーカーが2枚ではなく4枚入っていて、このすべてを使ってやっているので、展開が派手になり、愉しさが増している。革命もかなりの頻度で起る。
 勝率は、きちんと記録したわけではないが、もちろん僕がいちばんいい。次いでポルガ、ピイガという感じ。ファルマンは8切りと11バックのルールを未だうまく活用せず(人がそれを出すと毎回戸惑う)、そして最後の1枚に「9」なんかを残して往生したりするので、大貧民の率が高い。あなたはもう二度と人間に生まれ変わることはないのよ。

 誕生日が近づいているが、今年もプレゼントが定まらない。すべての欲求を満たし、足りているのかと問われれば、そんなはずはないのだけど、いざ改まってなにか買っていいと言われると、ああでもなくて、こうでもなくて、逆になにも思い浮かばねえや、となってしまうのだった。本当に毎年恒例のことなので、これをパピロープレゼント現象、略してパピプレ現象と名付けようと思う。
 使っている鞄や腕時計がだいぶ傷んでいるので、そこらへんでいいんじゃないかとファルマンは(心底めんどうそうに)あしらうのだが、なぜ傷むほどに使い続けているかと言えば愛着があるからで、鞄などは先日、持ち手が擦り切れて今にもちょん切れそうだったのを、持ち手だけ別の布で作って付け替えるということをしたため、ますます愛しさが募ってしまい、もしかすると僕はこの鞄を、テセウスの船のようにして一生使い続けるんじゃないかと思っている。腕時計は、いま使っているのと同型のものじゃないと嫌で、色違いなどあれば僕だって喜んでリクエストするのだけど、ネットのどこを探しても見つからないので、こちらも詰んでいるのだった。
 本当にどうしたものか。

2025年9月5日金曜日

暑さ・髪色・テレビ


 9月に入っても暑さが収まらず、心底うんざりしている。
 僕は寒いより暑いほうが好き、ということで通っていたのだが(どの界隈にだろう)、今年のような暑さというのは、もはや寒いのと較べての好悪だとか、そういう次元を超越して、単なる災禍であると思う。夏の暑さが好きなどという意思表明は、10年前くらいまでなら通用したかもしれないが、いま言ったらただの知覚に問題のある人だ。そういう人たちというのは、往々にしてあの、あまりにも老害過ぎることわざ、「心頭滅却すれば火もまた涼し」を未だ口にしたりするのだ。それを口に出した時点で、その人間は知覚はもとより、感性が狂っていると思う。大東亜戦争やってんのか、と思う。
 この暑さはいつまで続くのだろう。やはり9月20日頃か。秋の妖精が誕生日を迎えるときを待つしかないのか。みんな、少しでも暑さが収まってほしいと願うなら、マジで盛大に祝えばいい。そしていつか国民の行事になればいいと思う。

 盆明け、髪の色をいじった。
 横浜の帰省はただの脱色した金髪で行って、もはや僕が金髪でも誰も何も言わず、それで構ってちゃんが発動したわけでもないが、ぼちぼちただの金髪も飽きてきたことだし、色を入れようじゃないかと思ったのだった。
 それでどんな色にしたかと言えば、アイスシルバーという、青みがかった銀色みたいな商品を選んだのだけど、ファルマンにやってもらった結果、初日は「紺色じゃねーか!」とショックを受け、しかし日に日に色が落ちて、4日目くらいに商品の箱の画像どおりの色になり、そこでストップしたらよかったのだけど、そこからもさらに色は落ち続け、半月ほど経った現在、ちょっとまろやかな金髪、いまどきのヘアカラーにありがちな、ミルクティーホニャララみたいな感じになっている。
 悪くはない。悪くはないが、特別よくもない。数度のブリーチからヘアカラーという工程を経たことで、一朝一夕ではたどり着けないような色味になっているわりに、こんなに心が凪なことがあるかよ、というくらい凪である。さんざん手をかけた結果、無。なんか、とてつもない修行をしたお坊さんみたいだな。

 テレビが新しくなって1ヶ月ほど経った。画面は大きいし、ネット系のチャンネルもボタンひとつだし、概ね文句はないのだが、唯一テレビ番組表に関して忸怩たる思いがある。
 まずテレビ番組表の画面にしたとき、流しているテレビの音声が消えるのである。これがよくない。音声で番組の流れを把握しつつ、僕はテレビ欄を眺めたいのだ。
 あと合わせているチャンネルによって、テレビ欄の並びが変わるという世話もいらない。1・2・3・4・5のチャンネルがあったとして、たとえば3をつけていると、テレビ欄の並びは3・4・5・1・2になるのだ。いったいそれにどういう便利さがあるのか。頭がごちゃごちゃするので、並びは固定のほうがいい。
 あと番組にカーソルを合わせて「決定」ボタンを押したら、それが放送中の場合は、それだけですんなりその番組を表示してほしい。「情報を見る」だの「選局する」だのと、なんか選択肢が表示され、もういちどボタンを押さなければならないのが億劫だ。
 あと前のテレビでは、「次の時間帯」というボタンがあって、緑だったか黄色だったかのボタンを押すと、そこから7時間後のテレビ欄に移動し、これがなかなか便利だったのだが、新しいテレビにはそれがないのが不満だ。
 あとテレビは壊れたがブルーレイレコーダーは健在で、それがシャープだったものだから、連携のことを考えたら新しいテレビもシャープがいいんだろうと思ってそうしたのに、いまどきはもうぜんぜんそういう連携ってなくなってしまったのだそうで(これは電話でお客様相談室に問い合わせてはっきりと明言された。コストカットが理由だそうだ)、テレビの番組表から気になる番組を見つけ、それを予約録画したいと思ったら、レコーダーのほうのリモコンで番組表を表示して選択しなければならず、ずいぶんと不便である。
 とまあ、概ね文句はないと言いつつ、だいぶあるのだが、なんと言うか、わが家の状況がまさにそれを物語っているが、地上波放送のテレビなどというものは、昔に較べてだいぶ蔑ろにされはじめているようだ。テレビ番組表の使い勝手の悪さに、思いをかけられていなさを痛切に感じる。夢グループが、高齢者向けの、ただDVDを再生するだけのポータブルプレーヤーを販売してヒットしたように、20年後くらいに、チャンネルがパッパパッパと反応よく切り替わる、地上波放送専用という単一機能のおもちゃみたいなテレビが、僕のような輩にヒットするかもしれないな、と思う。