僕とメガネの付き合いは車の運転をきっかけに始まっていて、だから基本的にメガネは運転のためという考えがベースにあるのだが、でも以前はそれを運転以外の場面でも掛け続けていた。しかし前回か前々回あたりに作り直した運転用のメガネは、ずいぶん度が強いものになって、そうじゃないと規定に満たないというからそれはしょうがないのだけど、それまでの単に目がちょっと良くなる次元のメガネではなくなってしまったため、日常の、食事であったり縫製であったり読書であったりの、手元の作業の際にはとても掛けていられず、結果として運転時以外は裸眼の人となっていた。
しかし最近になって、物がぼやけるとか、具体的にそういう症状があるわけでは決してないのだけど、微妙に違和感というか、ちょっとした不都合を感じる場面が現われはじめたので、じゃあもう運転用とはぜんぜん違う目的のメガネというものを持つことにしよう、と考えたのだった。
ここまでを読んで、読者諸兄の頭の中には、ひとつの疑念が思い浮かんでいることだろうと思う。41歳。微妙な違和感。手元用のメガネの必要性。え、それって……。
違う。そういうんじゃない。パピロウに限ってそんなことあるわけないだろ。
否定の明確な根拠がある。ご褒美で買う、という点だ。もしも本当にその理由で買うのなら、それはご褒美という名目ではなく、必要な支出ということになるだろう。そうじゃないんだ。ご褒美なんだ。カジュアルな気持ちで買うんだ。信じてほしい。俺は信じてる。
ポルガが学校の友達と映像通話をする。いや映像通話というか、ただLINEをずっと繋げて、もちろん会話もするが、黙って互いに勉強したり趣味のことをしたりもするようで、話には聞いていたが、いまどきの若者は本当にそういうことをするのだ。
なんで学校が終わったのに学校の人と繋がろうとするんだ、やっと解放された自分の時間だろうと、この若者文化を初めて知ったときには思ったが、部屋でひとり裁縫をしたり筋トレをしたりする際、まったくの無音はなんとなく味気なくて、音楽を流したり動画を再生したりする自分の姿に気付き、しかも主目的ではないそっちのセレクトに時間をかけたりしているバカバカしさのことを思うにつけ、気の置けない友達と、意識しているともしていないとも言えない絶妙な距離感で繋がってるのって、たしかにちょっといいかもなあと思うようになった。
いいかもなあと思ったが、もちろん僕にそんな相手はいない。いるわけがない。老若男女、どのパターンを想像しても、誰とも繋がりたくない。唯一この人となら繋がってもいいなと思ったのは、パラレルワールドの僕自身だ。そこと繋がれたら、僕たちは時にはしゃべり、時には黙り、ずっと愉しく過せると思う。そんなスマホアプリがあればいいのにな。
わりと何度も書いてきた今年の射精回数についてだが、ある境地に至った。
10月までの回数が、去年の総計に対してバチバチな感じだったので、11月に奮起し、12月はこれで余裕かと思いきや、体調を崩したことでなかなか際どくなった、というのがここまでの流れだが、今年も残すところ10日あまりとなったところで、今年の射精回数を表示していたモニターは、スルスルと頭上から降りてきた「?」のパネルによって、閉ざされたのである。もうここから先は、数字とにらめっこして回数を調整するようなことはできない。そもそもがするべきではなかった。去年の108回という数字を凌駕するためにする射精は不純だ。射精は回数を増やすためにするのではない。欲求と快楽のためにするのだ。2年目という、1年目という分かりやすい標的がある状況にあって、僕はそんな大事なことを忘れてしまっていた。とは言えこれは11月の盛んだった射精を否定するものではない。あれはあれでよい経験だった。
射精についてとても真摯に向き合った結果、こんな境地に至ることができた。もはや気分は頂上戦争のときのエースだ。俺は……もうどんな未来も受け入れる。差し伸べられた手はつかむ。俺を裁く白刃も受け入れる。もう、ジタバタしねえ……みんなにわりい。
元日に「?」のパネルが外され、そこにどんな数字が現われようとも。