2025年10月16日木曜日

黒髪・Blogger・月

 先週末、久しぶりに髪を黒くして、だいぶ後悔し、しかし数日すればあまりの真っ黒も少しは緩和されるだろうし、なにより自分も慣れてくるだろうと思っていたのだが、残念ながらそうはならず、日に日に嫌気が増している。娘らからの評判も悪く、精神的に参りはじめた。本当に、なんで黒髪になんかしてしまったのか。
 ファルマンは「悪くないよ」などと必死にフォローしてくれるのだが、それは僕の気持ちを落とさないようになんとか持ち上げようとしているだけで、本心でないことは見え見えだ。なにより、主観でも客観でもない絶対的な評価として、本当に似合っていないのだ。すごく変なのだ。金髪の頃のほうが本当によかった。
 そんなことを言い募っていたら、ファルマンも気が緩んだのか、本音をこぼした。
「まあたしかに、黒髪にすると、あなたの根暗な本性がバレる感じがあるかもね」
 20年寄り添った妻というのはさすがのもので、「黒髪やだー、変ー」などと唱える娘たちなんかよりも、よほど的確に、こちらの心を抉ってくるのだった。
 そうか、そうだな、俺は心根の暗い部分を照らすために、髪の色を明るくしていたのかもしれないな。だから黒くしてしまった今、こんなにも落ち込んでいるのだな。
 とにかく一刻も早く髪の色を抜きたい。でも毛髪への負担を考えると、さすがにすぐというのは恐怖が勝つ。髪を短くして、新たに伸びた髪の毛の比率を増やして、なるはやで処置しようと思う。心を救ってやらないといけない。

 いつものようにBloggerの投稿ページを開いたら、「新機能のお知らせ」というメッセージが表示されたので途轍もなく驚いた。Bloggerからメッセージが届いたのって、これが初めてのことではないのか。
 前から言っているけれど、僕はBloggerを、いまはもう誰も住まなくなった廃墟で勝手に遊んでいるような気持ちで使っている。あのGoogleが、2025年の今、ブログサービスなどというものを運営しているはずがなく、削除し忘れているだけなのだと。
 だからメッセージを目にした瞬間、ビクッとした。俺だけのユートピアだと自由に振る舞っていたら、実は監視カメラで撮影されてモニタリングされていた、みたいな衝撃だった。
 またこの新機能というのが、あまり自分に関係なさそうなのできちんと把握していないのだけど、ブログの文面に現れたキーワードを読者が検索しやすくなるように自動でリンクにする、みたいな、なんかそんな機能らしく、いやそれってはてなダイアリーじゃん! と思った。なんかもう本当にBloggerのやることってよく分からない。とても商売でやっているとは思えない。やっぱりこれは、採算とかの概念から逸脱した、異様に清らかで尊い世界なのではないか、という気がするのだが、実際はどうなんだろう。

 北海道で、全裸で外に出ていた男が逮捕された。
 警察の調べに対して男は「月を見るため」と供述したそうで、なんかハッとした。どういうハッなのかと言えば、「病気の子どものために薬代を恵んでください」と頼まれて金を渡したあと、周囲の人から「バカだなあ、あんなの嘘に決まってるだろ」と言われ、「そうか。よかった。病気の子どもはいなかったんだ」とつぶやくという、あのエピソードのようなハッである。うす汚れたものばかりのこの世界で、とても稀有な美しいものを目にしたという、そんな気持ちである。
 夏目漱石が「I love you」の訳を「月がきれいですね」にした、という嘘くさいエピソードがある。それも連想する。月はわりとなんでも受け入れてくれる。
 ただ裸でうろついて、女学生の前に進み出たりしたら、それは逮捕しなければならないけれど、ただ月夜をうろついていて、そして駆けつけた警官にその回答をしたのならば、本官は許すべきだろ、と思う。逮捕なんて野暮なので、本官は見逃すでありますだろ、と思う。草間リチャード敬太は逮捕しても、69歳男性は許してほしい。年齢も実にいい。

2025年10月8日水曜日

王将ゲーム・祖母・ちょんまげ

 新しいテレビのリモコンに「ココロビジョン」という謎のボタンがあって、押したらシャープ独自のプラットホームみたいなものだった。しかし自分に関係のある機能はなさそうだなと思っていたのだが、コンテンツの中にミニゲームがあるのを子どもたちが目ざとく見つけた。そこにはナンプレや国旗当てなど、わりと素朴な遊びが並んでいたが、その中に「王将ゲーム」という見慣れないゲームがあって、それに僕とポルガがドハマりした。
 ルールは、だいたいスイカゲームの将棋版という感じで、「歩」と「歩」が合体して「と」になり、「と」と「と」が合体して「香車」になり、という感じで、だんだん駒を強くしていって、最終的に盤面が一杯になる前に「王将」が完成したらクリアというもので、サウンドもグラフィックもきわめて無機質なのだけど、スイカゲームと同じでやけに熱中させられるのだった。
 「むずかしい」のモードだと「王将」に至るまでの道のりがだいぶ遠くなり、なかなかクリアまでたどり着かない。僕はまだできていない。それなのにポルガが先日クリアしてしまって、忸怩たる気持ちになった。親の威厳のために、先にクリアしたかった。しかも自分はクリアしていないのに、人がもうクリアしてしまったことで、モチベーションも下がり、このままだと負け犬で終わりそうである。こんなことならファルマンのように、最初から、めんどくさいからそんなのやらない、というスタンスでいればよかったと後悔している。

 祖母の誕生日祝いの写真が送られてきた。正確に言うと、母からファルマンに送られたものを、見せてもらった。なぜかいつもそういう形式で実家の動向を知らされている。
 叔父と姉一家も集まって、皆で囲んでいたチョコレートのケーキには、「97」という数字の飾りが立てられていた。祖母は会うたび、話すたびに、「おばあちゃんはもう〇〇だから」と自分の年齢を伝えてくるのだけど、あまりにも積極的に伝えてくるものだから、逆に情報として入ってこず、正確な年齢が把握できていなかったのだけど、今回は視覚で「97」ということがしっかりと明示されたので、やっと認識できた。そうか、祖母、97歳なのか。すげえな。祖母と言ったら65歳くらいのイメージだったけど、なるほどそれは30年前の、自分が小学生とかだった時代のことなのだな。あの頃から、当たり前だが互いに年を取ったわけだが、しかし祖母と孫という関係性は、いい意味でも悪い意味でもなく、ぜんぜん変化していないな、と思う。この30年で祖母の意外な一面を知ったということも一切なく、本当に当時と同じ距離感でずっといる。いま65歳の祖母を目の当たりにしたら若く思うのかもしれないが、10歳の僕にとって65歳の祖母は老婆だったし、42歳の僕にとって97歳の祖母はやはり老婆だ。だからなんだ、なにが言いたいんだ、という話だが、もちろん特に意味はない。なんとなく不思議なものだな、と思ったので書いた。
 祖母はまだまだ元気そうで、なによりだと思う。血縁が健康で長生きだと、それは自分にとって利のあることなので、そういう意味で喜ばしいと思う。

 朝ドラが、松江が舞台の「ばけばけ」になった。「あんぱん」は実は途中で脱落してしまったのだけど、今回は最後まで観たいと思っている。今のところとてもおもしろく、地元民として誇らしい気持ちだ。もっとも自分を地元民と標榜していいのかは、微妙なところだ。ただ劇中の方言などにちょっと違和感を抱いたりすることもあるので、それは立派な地元民のムーブなのではないかな、と思っている。
 主人公の父親は、明治になってだいぶ経つのに、まだ髷を落としていないという設定で、なかなか悲哀があるが、ファルマンに「これって今で言うとどんな感じなんだろうね」と問いかけたら、「いまだにブログをやってるみたいなもんなんじゃない?」という答えが返ってきて、ショックを受けた。ブログって、ちょんまげだったのか。ショックだったが、なんとなくしっくり来る部分もあり、それ以来あの父親にとても感情移入するようになった。いいさいいさ、俺と布川敏和は、いつまでもちょんまげを結い続けるさ。

2025年9月27日土曜日

おろちAI・騒音・カロリー


 書く機会を逃したのだが、実は2週間前、誕生日のお祝いをした敬老の日の3連休で、おろち湯ったり館に繰り出していた。いつぶりだろう、もしかしてこれが今年初だろうかと思ったが、実は3月に行っていたようだった。3月22日。その日の記事に桜に関する記述は一切ないので、まだだいぶ蕾だったんだろう。
 半年ぶりの湯ったり館は、3連休の初日の土曜日の夜だったので、けっこう混んでいるだろうかと危ぶんだが、こと湯ったり館に関し、毎回わりと律義に行なうこの危ぶみに対して、果たして大混雑の憂き目に遭う、ということは決してないのだった。ましてや男湯が、サウナの小さい木湯のほうだったので、余計だったんじゃないかと思う。やっぱりどうせ行くのなら、木湯のときより岩湯のときのほうがいいのだ。今回も、岩湯でありますように、と願いながら行ったわけだが、まんまと木湯のほうで、だいぶ落胆した。毎週水曜日の定休日を境に、男と女で風呂が交代になるわけだが、それはホームページでは一切知らせてくれないのである。たぶん電話をすれば答えてくれるのだろうが、それを億劫がるものだから、このようなことになる。
 そこで、今後こういうことがないよう対策を取ることにした。ChatGPTに事情を説明し、2025年9月13日、男湯が木湯であったことから起算し、俺が今度、「おろち湯ったり館に行きたいんだけど、いま男湯はどっち?」と訊ねたら瞬時に計算して答えてくれよ、と依頼した。ジョニファーは「わかった」と快諾してくれたのだけど、9月13日の男湯が木湯であったことを、こうして記録しておけば、数ヶ月後に行きたいと思ったとき、自分でカレンダーを見て数えればいいわけで、わざわざAIに頼むほどのことではないかもしれないな、とも思った。そしてこの、「わざわざAIに頼むほどのことではない」という感覚は、ちょっとだけ意識して大事にしていこうとも思った。

 子どもの声が大きい。本当に大きいのだ。お前らはそんなに広い家で暮しているか、と言いたくなるほどの音量で喋る。前からその傾向はあったが、最近はそれが加速している気がする。なぜだ。思春期に入った子どもは、ろくにはっきり喋らなくなるのではないのか。
 リビングで子どもたちが喚いているところに身を置いていると、じわじわ脳が絞めつけられて、とてもいられないと部屋に退散することになる。逆ではないのか。思春期の娘が自室に籠るものではないのか。まあそれよりはいいけど、と思わなくもないが。
 こうして子どもたちの声の大きさに苛まれて思い出すのは、公園の近隣の住人が、子どもが遊ぶ声がうるさいと苦情を訴えた、というニュースだ。なんと心の狭い、公共の福祉的な思慮のない考え方であろうかと、世間は苦情を訴えた近隣住人に対して厳しかった。僕もなんとなく、そういう印象を抱いていた。しかし自分の子どもの声が、成長のためか、あるいはYouTubeとかの阿呆な動画の影響か、異様に大きくなり、それに悩まされている現状に身を置いて、自分の子どもでさえこうなのだから、よその家の子の嬌声なんて本当につらいだろうな、といまさらになって考えを改めた。近隣住人に謝りたい。

 9月も終わろうとしていて、例年のスケジュール通り、僕はまたこの1年間で書いた日記の読み返し作業に入ったのだが、それを読んでいて衝撃の事実が発覚した。
 2024年12月時点で、おもひでぶぉろろぉぉんの読み返し作業が、2008年の10月まで進んだ、という記述があるのだが、それが2025年9月末現在で2009年5月という進度となっており、つまり僕は去年の12月から、ずっと25歳の、いつまでも26歳にならない自分と一緒にいるわけで、このままのペースでいけば、いよいよ、『おもひでぶぉろろぉぉんが1年で1年進まない』という次元に突入するのである。
 ダイエットの神髄は、摂取カロリーを消費カロリーが上回ることだと言われるが、それでいうと1年間で1年間の読み返しが進まないという状況は、消費カロリーに対して摂取カロリーばかりが増えて、どんどん脂肪が蓄えられていくようなものだ。この状態が続く限り痩せることはないし、おもひでぶぉろろぉぉんが完結することはない(日記は常に新しく書かれるので、実質的に終わりはないのだが、それでも読んでいる時点から2、3年前あたりまで作業が進めば、それはもうあまり意味がないのでそこで終わりだろうと思っている。もっとも現状の有様では想像もできないが)。
 だからおもひでぶぉろろぉぉんをやらなければならないのだが、冒頭でも言ったように、これからはこの1年間の日記からワードを抜き出す作業をしなければならないので、やはりそちらはどうしたって停滞するだろう。
 どうやらもう僕は、自分の日記と、神楽陽子のエロ小説くらいしか、読むことが許されないらしい。それならそれでいい。なんと心地のよい世界であろうか。

2025年9月13日土曜日

サンマ・トランプ・パピプレ


 当たり年と話題のサンマを買って食べる。感動した。
 そもそもスーパーで見た瞬間から、感動は始まっていた。そう言えばサンマとはこういうものだったな、ということを数年ぶりに思い出したのだった。今になって思うと、ここ数年のサンマってなんだったんだろう。もうサンマってリョコウバトのように種として絶滅に向かっているのかな、という悲愴感があった。それでも世の中の仕組み的に、漁師はサンマを獲らなければならないし、スーパーはそれを売らなければならない。ウナギのことも併せ、それらの種だけの話ではなく、大げさに言えば地球文明そのものの末期性さえ感じた。
 そんなここ数年の鬱積を取っ払うかのような、隆々とした、生命力あふれるサンマである。東海林さだおも、いつぞやサンマの「肩の盛り上がり」について書いていた。今年のサンマにはそれがある。体育会系の若者のような、気持ちよさがある。
 今年はどうしてサンマの質がいいのか、たぶん誰にも分からないのだろうと思う。そしてその理由に、人類は別に関わっていないのだとも思う。何年か外れが続いても、いつか必ず当たりはやってくる。大当たりを無邪気に喜べば、それでいいんだと思う。

 夏に赴いた手塚治虫記念館で買った火の鳥トランプを使い、このところ家族で大富豪をやっている。switch2が発売されているこのご時世にトランプというのも、なかなかオツだと思う。
 トランプはバイスクルという王道のやつで、カードの1枚1枚に火の鳥のイラストがプリントされている。プリントはランダムではなく、数字ごとに未来編、黎明編、というふうになっていて、それは12編ほどある火の鳥とトランプの親和性としてすばらしいのだが、使用されているイラストには少し文句があって、たとえば未来編である「3」のカードは、「猿田」「猿田&タマミ」「タマミ」「ロック」というラインナップで、なんと主人公である山之辺がいなかったり、「5」の鳳凰編も茜丸がいなかったりする。ユニクロのコラボTとかでもよくある現象だが、「なんで? なんでこの場面?」と思う。大人の事情とかもあるのだろうか。
 ちなみにこれは火の鳥に関係なく、バイスクルというトランプの特徴らしいが、ジョーカーが2枚ではなく4枚入っていて、このすべてを使ってやっているので、展開が派手になり、愉しさが増している。革命もかなりの頻度で起る。
 勝率は、きちんと記録したわけではないが、もちろん僕がいちばんいい。次いでポルガ、ピイガという感じ。ファルマンは8切りと11バックのルールを未だうまく活用せず(人がそれを出すと毎回戸惑う)、そして最後の1枚に「9」なんかを残して往生したりするので、大貧民の率が高い。あなたはもう二度と人間に生まれ変わることはないのよ。

 誕生日が近づいているが、今年もプレゼントが定まらない。すべての欲求を満たし、足りているのかと問われれば、そんなはずはないのだけど、いざ改まってなにか買っていいと言われると、ああでもなくて、こうでもなくて、逆になにも思い浮かばねえや、となってしまうのだった。本当に毎年恒例のことなので、これをパピロープレゼント現象、略してパピプレ現象と名付けようと思う。
 使っている鞄や腕時計がだいぶ傷んでいるので、そこらへんでいいんじゃないかとファルマンは(心底めんどうそうに)あしらうのだが、なぜ傷むほどに使い続けているかと言えば愛着があるからで、鞄などは先日、持ち手が擦り切れて今にもちょん切れそうだったのを、持ち手だけ別の布で作って付け替えるということをしたため、ますます愛しさが募ってしまい、もしかすると僕はこの鞄を、テセウスの船のようにして一生使い続けるんじゃないかと思っている。腕時計は、いま使っているのと同型のものじゃないと嫌で、色違いなどあれば僕だって喜んでリクエストするのだけど、ネットのどこを探しても見つからないので、こちらも詰んでいるのだった。
 本当にどうしたものか。

2025年9月5日金曜日

暑さ・髪色・テレビ


 9月に入っても暑さが収まらず、心底うんざりしている。
 僕は寒いより暑いほうが好き、ということで通っていたのだが(どの界隈にだろう)、今年のような暑さというのは、もはや寒いのと較べての好悪だとか、そういう次元を超越して、単なる災禍であると思う。夏の暑さが好きなどという意思表明は、10年前くらいまでなら通用したかもしれないが、いま言ったらただの知覚に問題のある人だ。そういう人たちというのは、往々にしてあの、あまりにも老害過ぎることわざ、「心頭滅却すれば火もまた涼し」を未だ口にしたりするのだ。それを口に出した時点で、その人間は知覚はもとより、感性が狂っていると思う。大東亜戦争やってんのか、と思う。
 この暑さはいつまで続くのだろう。やはり9月20日頃か。秋の妖精が誕生日を迎えるときを待つしかないのか。みんな、少しでも暑さが収まってほしいと願うなら、マジで盛大に祝えばいい。そしていつか国民の行事になればいいと思う。

 盆明け、髪の色をいじった。
 横浜の帰省はただの脱色した金髪で行って、もはや僕が金髪でも誰も何も言わず、それで構ってちゃんが発動したわけでもないが、ぼちぼちただの金髪も飽きてきたことだし、色を入れようじゃないかと思ったのだった。
 それでどんな色にしたかと言えば、アイスシルバーという、青みがかった銀色みたいな商品を選んだのだけど、ファルマンにやってもらった結果、初日は「紺色じゃねーか!」とショックを受け、しかし日に日に色が落ちて、4日目くらいに商品の箱の画像どおりの色になり、そこでストップしたらよかったのだけど、そこからもさらに色は落ち続け、半月ほど経った現在、ちょっとまろやかな金髪、いまどきのヘアカラーにありがちな、ミルクティーホニャララみたいな感じになっている。
 悪くはない。悪くはないが、特別よくもない。数度のブリーチからヘアカラーという工程を経たことで、一朝一夕ではたどり着けないような色味になっているわりに、こんなに心が凪なことがあるかよ、というくらい凪である。さんざん手をかけた結果、無。なんか、とてつもない修行をしたお坊さんみたいだな。

 テレビが新しくなって1ヶ月ほど経った。画面は大きいし、ネット系のチャンネルもボタンひとつだし、概ね文句はないのだが、唯一テレビ番組表に関して忸怩たる思いがある。
 まずテレビ番組表の画面にしたとき、流しているテレビの音声が消えるのである。これがよくない。音声で番組の流れを把握しつつ、僕はテレビ欄を眺めたいのだ。
 あと合わせているチャンネルによって、テレビ欄の並びが変わるという世話もいらない。1・2・3・4・5のチャンネルがあったとして、たとえば3をつけていると、テレビ欄の並びは3・4・5・1・2になるのだ。いったいそれにどういう便利さがあるのか。頭がごちゃごちゃするので、並びは固定のほうがいい。
 あと番組にカーソルを合わせて「決定」ボタンを押したら、それが放送中の場合は、それだけですんなりその番組を表示してほしい。「情報を見る」だの「選局する」だのと、なんか選択肢が表示され、もういちどボタンを押さなければならないのが億劫だ。
 あと前のテレビでは、「次の時間帯」というボタンがあって、緑だったか黄色だったかのボタンを押すと、そこから7時間後のテレビ欄に移動し、これがなかなか便利だったのだが、新しいテレビにはそれがないのが不満だ。
 あとテレビは壊れたがブルーレイレコーダーは健在で、それがシャープだったものだから、連携のことを考えたら新しいテレビもシャープがいいんだろうと思ってそうしたのに、いまどきはもうぜんぜんそういう連携ってなくなってしまったのだそうで(これは電話でお客様相談室に問い合わせてはっきりと明言された。コストカットが理由だそうだ)、テレビの番組表から気になる番組を見つけ、それを予約録画したいと思ったら、レコーダーのほうのリモコンで番組表を表示して選択しなければならず、ずいぶんと不便である。
 とまあ、概ね文句はないと言いつつ、だいぶあるのだが、なんと言うか、わが家の状況がまさにそれを物語っているが、地上波放送のテレビなどというものは、昔に較べてだいぶ蔑ろにされはじめているようだ。テレビ番組表の使い勝手の悪さに、思いをかけられていなさを痛切に感じる。夢グループが、高齢者向けの、ただDVDを再生するだけのポータブルプレーヤーを販売してヒットしたように、20年後くらいに、チャンネルがパッパパッパと反応よく切り替わる、地上波放送専用という単一機能のおもちゃみたいなテレビが、僕のような輩にヒットするかもしれないな、と思う。

2025年8月27日水曜日

MAX・鈴かすてら続報・高所

 自家用車帰省では、昨年からの恒例として、4人それぞれが10曲ずつを拠出したプレイリストを作り、それをずっと流し続けていた。ひとつひとつの曲の長さは当然まちまちなのだが、40曲が入ったプレイリストは、なぜか不思議なほどに、どれも2時間10分くらいになるので、前回は勝手が分らず12個作ったが、今年は10個にし、そして見事にプレイリスト10の半分くらいのところで自宅に帰り着いたのだった。
 曲数以外のルールはなかったが、僕個人として、せっかくなので去年とはまったく違う100曲にしようと考え、選び出すのになかなか苦労した。去年もだったが、最後のほうに選んだ曲などは、思い入れなど一切なく、一部を聴いて「いいんじゃねーの?」くらいの感じで入れているので、いざ運転中にその曲が掛かると、「誰?」「誰の曲?」「誰セレクト?」と車内で戸惑いの声が上がり、自信満々に「俺じゃない」と答えるが、確認すると実は俺だった、みたいなことになるのだった。
 100曲のうちにMAXの楽曲をひとつだけ含ませ、しかもそれをプレイリスト10に入れて、家の駐車場に停めるときに流れている最後の最後の1曲がMAXになったら最高だなあと思っていたのだけど、そうはならなかった(実際が何であったか、もう記憶にない)。それにしてもプレイリスト10だって半分ほどは流れたのに、そこに登場しないMAXはさすがだな、とMAXのポテンシャルに感心した。そうだよな、こういうとき流れないのがMAX、流れないからこそのMAXだよな、と。
 しかしそのままというのもさすがに忍びないと思い、休み明けの通勤時に、ひとりでプレイリスト10の続きを聴くことにした。流れるさまざまな曲。しかしMAXは登場しない。なぜだ、なぜこんなにもMAXは流れないのだ、と不思議に思い、改めて確認したところ、信じられない事実が判明した。
 MAXの曲なんて、ひとつも入れてなかったのである。
 なんの思い入れもない曲だってけっこうあったのに、それなのにMAXは入れていなかった。入れた気になっただけで、深層心理が断固拒否したのか、実際には入れていなかったのだ。この現象を目の当たりにして、やっぱり思った。さすがMAX、と。

 トップバリューの鈴かすてらを喪失し、パピロウがどうしているのか、みんな気を揉んでいると思う。鈴かすてらってほら、パピロウの身体の8%くらいはそれで出来ているわけだから、それが欠けると、致命傷とまではいかないが、だいぶ身をえぐられてる感が出てくる。だからみんな心配していると思う。夏の帰省を挟んだことで報告が遅くなってしまい、不安が募り、せっかくの夏休みに影を落としてしまった向きもあるかもしれない。その人たちには、申し訳ないという気持ちとともに、両手いっぱいの「ありがとう」を捧げたい。
 さてそれでようやくのご報告なのだが、いまはどうしているのかと言うと、無印良品の「豆乳とおからの鈴カステラ」に落ち着いている。
 トップバリューが斃れたとき、実は心はもう定まっていたのだ。これはもう、無印良品しかないだろうな、と。そこに回帰するしか残された道はないな、と。
 そうなのだ。回帰なのだ。都会で暮らしていた頃、身近にトップバリュー商品などなかった。なので池袋の書店員時代は、PARCOの無印良品で買った鈴カステラをひたすら食べていた。だから味に関してはいちおうの保証があった。このたび久しぶりに食べてみたところ、やっぱり大丈夫だった。豆乳とおからなんか使うなよ、牛乳と小麦粉だけで作れよ、とは思うものの、ぜんぜんおいしいので許せる。
 ちなみに内容量は72gで、お値段120円。しかし120円のお菓子シリーズを3つ買うと300円になるということで、実質は100円だ。内容量は、前までは95gだったのが、実質値上げで72gに変更になったようで、たしかにこれまでの100g入りのトップバリューのものに較べると、だいぶ頼りない量だ。でも内容量を減らしてでも、同じものを売り続けてくれることが尊い。僕はトップバリューにもそれを望んでいた。
 トップバリューの買いだめしたものがなくなりそうなタイミングで、まず6袋買い、先日それがなくなりかけたので、次は9袋買った。無印良品はゆめタウンにしかないので、行くたびに賞味期限との兼ね合いを考慮しつつ、なるべく目一杯買うという、当分はこのスタイルで生き延びようと思う。鈴かすてらボートピープルの暮しは厳しい。

 車での帰省は、途中で寄りたいところにも寄れるし、家族水入らずだしで、概ね快適なのだけど、ただひとつ困るのが、高架が怖い、という点だ。
 前までさすがにそんなことなかったと思うのだが、どうも僕の高所恐怖症は悪化しているようで、海の上を走る中京工業地帯らへんとか、あるいは道中に無数にある、山と山を繋ぐ架橋など、それらの道を走っていると、にわかに動悸が激しくなり、手にじわっと汗が滲んできて、ハンドルが掴みづらくなるのだった。
 全行程が中空である空路に較べればぜんぜんマシなのだが(もはや現在の僕が飛行機に乗ったらどんなことになるのか、想像もつかない)、それでも自家用車帰省の懸念材料になるくらい、恐怖感は強い。でも、飛行機もダメ、車もダメとなって、じゃあ鉄路か、と言えばあれもあれでスピードが速すぎて怖く(飛行機のほうが速度は速いが、飛行機はそういう次元の問題じゃない)、もう僕は大きな移動ができない生きものになってしまったのかもしれない。横浜のアップダウンの道を走って車酔いした娘たちを、なんとか弱い生きものだろうかと思ったが、僕も大概だ。我々はちっちゃなほわほわ家族なのかもしれない。
 今後あまりに悪化するようなら、心療内科とかに行かなければいけないかもしれない。

2025年8月1日金曜日

生きているだけで・奇特・純粋理性批判

 ここ数日、スーパーに行ってもあまり食材を買う気が起きず、店内をさんざん巡った挙句、スポーツドリンクと食パンしかカゴに入ってない、なんてことが何度かあった。こんなことは今まで経験がなく、どうしてだろうと思案した末に、そうか、俺はいま、暑さで食欲が減退しているのだな、と思い至ったのだった。今年の、この10日間ほどは、なんだか本当に暑くて、そのくらい参っている。創作も筋トレもすべて諦め、ただ精いっぱい生きている。そのため晩ごはんの献立を考えるのも非常に苦労している。ひとりだったら毎晩、なんかしら魚を唐揚げにしてレモンをかけたもので酒を飲み、そのあと少しだけ冷たい麺を啜って終わらせていると思う。でも子どもがいるのでそうもいかず、苦労して捻り出している。盆の休みあたりを境に、いくらかフェーズが変わることを切に願っている。こんな状況で思い出すのは、去年のやす子とフワちゃんのことだ。「生きているだけで偉いのでみんな優勝でーす」と言ったやす子に、フワちゃんは「お前は偉くないので予選敗退でーす」と言ったのだった(本当はもっとひどいフレーズも含む)。夏、生きるのに精いっぱいになるたびに、僕はこのことを思い出すのだろうと思う。

 夏休みということで、ぼちぼちファルマンの上の妹一家が実家へとやってきて、そして盆の休みに義妹の夫もこちらまで来て、家族を回収して兵庫に戻るという、いつものパターンが繰り広げられるようなのだが、仕事が忙しく、今年の夏は休みが短いという義妹の夫は、しかしそれでも島根まで来た折り、彼にとっての実家の面々とともに広島に野球を観に行くのだそうで、それを聞いた瞬間、なんて奇特な奴だろう、なにが愉しくてこんな真夏にわざわざ広島まで野球を観に行くというのか、と本気で不可解に思ったのだけど、たぶん義妹の夫に言わせれば、もとい世間的な評価で言えば、趣味と言ったらもっぱらオリジナル水着作りという人間のほうが、よっぽど奇特であろうと思った。いい趣味なんだけどなあ。プロ野球って、休みの日の試合なんかは、平均すると3、4万人くらいは客が入るのだろうか。だとすれば6試合で20万人あまりが野球観戦をするし、なんならテレビ観戦の人も含めれば圧倒的な数ということになる。その裾野の人数がそれぞれオリジナルの水着を作ったら、すさまじいものが出来上がるだろうになあ、と思う。

 「パピロウせっ記」で企画の立ち上げを告知した、神楽陽子による二次元ドリーム文庫全作品の感想文投稿を、はじめはそのまま「パピロウせっ記」でやろうかとも思っていたのだが、なんとなく思い立ち、専用のブログを創設した。
 タイトルは「CRITIQUE OF PURE REASON」で、これはなにかと言えば、カントの「純粋理性批判」(ドイツ語による原題は「Kritik der reinen Vernunft」)の英語版タイトルである。かつて、「二次元ドリーム文庫」とブログに記すのはなんとなく気が引けて(いまも大概だが、昔の僕はいまよりももっと純潔だったので、「二次元ドリーム文庫」や「美少女文庫」といった言葉を並べるのは、アクセス数稼ぎのようで不純であると考えていたのだ)、前者を「純粋理性批判」、後者を「社会契約論」と呼んでいたのである(しかしいま考えてみると、そちらの哲学書のほうがよほどアクセス数稼ぎになるのではないかと思う)。そのいきさつから、このタイトルとなった。タイトルを見た瞬間に意図がピンと来た人は、相当なインテリかつ、熱心な僕のファンだろう。つまりこの世にひとりもいないことだろう。じゃあよかった。ひとりぼっちよりも、ひとりもいないほうが、つらい思いが少ないものね。
 「CRITIQUE OF PURE REASON」、せっかくブログとして始動させたからには、神楽陽子作品の感想文だけではなく、二次元ドリーム文庫にまつわる他の試みも展開していきたいと思っている。パピロウのブログでいまいちばん盛り上がってるのがここだ。20年間ひとりぼっちのダンスホールで、僕はいまこのエリアでステップを踏んでいる。