2025年6月24日火曜日

23区・韻・回避


 もはや遠い国の話だが、東京都議選をやっていた。そう言えば前回の選挙のときにも憤った気がするが、なぜ都議選の開票速報はNHKで全国放送され、そのせいで大河ドラマの放送に影響が出たりするのか。首都というだけで、ただの一地域だ。僕は興味ない。
 それでも見るともなしに速報番組を眺めていたら、東京23区というものは、あのあまり大きくない東京都の、その半分よりも小さい面積の中で、ずいぶん細かく分割されているものだと、いまさらながらしみじみと感じ、たとえば23区と出雲市を並べたらどういうスケール感になるのだろうと疑問に思ったので、ChatGPTに訊ねてみた。
 その結果、東京23区が約628 km²であるのに対し、出雲市は約624 km²と、ヤラセなのではないかと思えるくらい、だいぶ近似しているのだった。そうなんだ、東京23区と出雲市って、ほぼ同じ面積なんだ。へええ。ちなみに人口は、前者が約973万人、後者が約16万人ということで、ここには約60倍の開きがある。そしてこれは人口密度にすると、約15,510人/km²と約262人/km²だそうである。い、1平方キロメートルに、1万5千人? と驚くが、光ヶ丘団地のことなどを思えば、たしかにそういうことになってくるか、と納得する感じもある。これでもかつては都民だったし、長女は東京生まれなのだ。ただしもうその片鱗はない。先日ポルガは登校の際、スピードの遅い耕運機に狭い農道を塞がれ、遅刻しかけたそうである。14年前の練馬では到底想像できなかった未来へとたどり着いている。

 先日「nw」に投稿した「Nobitattle サマーコレクション 2025」の中で、ゼブラ柄の水着にChatGPTがつけたコピー、「俺たちの縞は、逃げるため。でもあいつの縞は、挑むためだ。Nobitattle.」というものに対して僕は、「音による韻ではなく、「逃」と「挑」の、漢字のつくりによる韻みたいな小粋なことをしていて、憎らしいと思った」というコメントをしているのだけど、投稿した翌日ふとした瞬間に、漢字のつくりによる韻ってなんだよ! 漢字のつくりが一緒ってことは、それすなわち韻が共通なんだろ! と思い至った。
 思い立った瞬間、すごい羞恥が襲った。だって何を隠そう、卒論はいちおう漢詩をテーマに書いたのである。当時は実際に漢詩を作り、本当にあっているかどうかは判らないが、平仄とかのルールも必死に守っていたじゃないか。そんなお前がなぜ、つくりが同じ漢字は同じ音という基本的なことに気付けなかったのか。ChatGPTは「逃」と「挑」で対句にしつつ韻を踏む漢詩的キャッチコピーという離れ業をしていたというのに。
 ……というところまでを書いて、しかし実際に確認したところ、「逃」は平声の豪韻、「挑」は上声の蕭韻とのことで、実はやっぱり韻は踏んでいない、漢字のつくりが共通なだけ、ということが判明したので、ぐだぐだな感じになり、なのでこの話は読まなかったことにしてほしいと思う。

 朝の連続テレビ小説「あんぱん」の、太平洋戦争が終わった。先週の金曜日が玉音放送で、今週から戦後なのだった。
 その玉音放送のシーンを観ながら、僕は少し後ろめたい気持ちを覚えていた。なぜかと言えば、この3週間ほど、視聴を離れていたからだ。それまでも危うかったのだが、嵩が出兵し、配属された部隊の上官に平手打ちされたりするさまを見て、「これは無理だ」と思い、すっぱりと脱落していた。ファルマンはその間もルーティンで観続けていたので、先週「戦争が終わるよ」と教えてくれ、僕はちゃっかり玉音放送を耳にすることとなった。シーンでは、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……、といつものフレーズが流れたが、僕は見事なまでに、耐えなかったし、忍ばなかったのだった。観てたらつらい日々になりそうだな、と察知して回避した。
 3週間ぶりに眺めた嵩は、もともとのアンニュイさがさらに強まっていて、たぶんこの3週間で描かれた戦争体験が、今後の嵩の人生にとても重要になってくるのだろうな、それを観てないと物語の魅力が半減するのだろうな、と思った。

2025年6月15日日曜日

父の日・手悪さ・田んぼ世界


 父の日なのだった。もっともだからどうということはない。母の日も別になにもしなかった子どもが、世間的にもそれより存在感のない父の日などというものに、なにかするはずがないのだった。僕だって中学生の頃、母の日になにかをしたという思い出はない。
 というわけで普通の週末として過してもよかったのだが、父の日という理由にかこつけて、食費とは別の会計から拠出し、うなぎの蒲焼を買う、ということをしたのだった。そんなわけで日曜日ならぬ土曜日の晩は、うな丼であった。うな丼は、やはりクラクラするほど美味しくて、満ち足りた。僕があまりにも喜びながら食べるものだから気遣って、というわけでは決してなく、ファルマンはうなぎがぜんぜん好きじゃない、むしろ少し苦手であるという理由により、2口ほど齧ったファルマンのうなぎも僕の所に来て、ホクホクした気持ちになった。あなた、そんなに好きならもうちょっとたまに買って食べれば、とファルマンに言われたけれど、たぶんしない。そんなふうにちょくちょく会ったりしないからこその関係性なのだとも思う。自分自身も、人にとってそういう存在でありたいものだ。たまに会うと最高にハッピーで、しかも精がつく存在。なんだその尊さ。

 ピイガが相変わらずスライムを捏ねている。様子を見ていると、スライムを作っているというより、捏ねている。とにかく捏ねるのが好きで、その副産物としてスライムという物体が生じている、という感じである。暇さえあればボウルの中でネチョネチョやっている。
 そのさまを見て、もしもこいつが男だったら、きっとめちゃくちゃちんこをいじっていたのだろうな、と思った。ちんこがあればそれで事足りることを、ないものだから、仕方なくその代替としてスライムを用いているという、そういうことなんだろうと思う。
 天津木村のエロ詩吟に、「終わったあとのちんちんと愉しそうにじゃれあってる彼女を見たら、ああこの子、子ども好きなんやろうなって思う」というネタがあるが、なんとなくそれも連想した。あると思う。

 今年は田んぼやカエルやサギの話をいちどもしていなかった。
 もちろん今年も毎年恒例の風景が展開されている。苗が育ちつつある田んぼには、早くもおたまじゃくしが泳いでいる。田植えがだいたいGWだから、わずか1ヶ月ほどである。サイクルが早い。他の生き物の命の呆気なさを眺めていると、人生における悩みなどというものは、すべて、完全になにもかも、抱く必要のない、余計なものなのかもしれないと思えてくる。たぶん実際そうだ。
 サギは今年もたらふくカエルを食べたことだろう。サギにはもちろん歯などないわけで、カエルは丸呑みにされるわけだが、だとすれば躍動するカエルは、サギの胃の中で、どのように消化されてゆくのだろう。しばらくは生きるし、なんならカエルは胃の中に仲間を見つけ、胃の中で交尾へと至ることだってあるかもしれない、などと思った。それはしあわせなことであるような気もするし、逆にそんな不幸はこの世に他にないような気もする。
 しかしすべてはどうでもいい些末事でもある。田んぼを眺めていると、いろいろ思う。

2025年5月31日土曜日

機械・ハッピーセット・洗車

 LINEに新着メッセージが来ている表示が出て、見てみたら企業の公式アカウントから、ということが何度も繰り返され、いい加減うんざりしたので、もう彼らとの友達関係を解消したくなった。もともと友達と呼ぶには淡白すぎる付き合いで、僕はただ、その企業の商品を購入する際、100円や200円を安くしてもらうためだけに、一瞬だけ心を開いたに過ぎず、大抵のものはそう頻繁に買うものではないし、なにより「LINEで友達になるとお得なクーポンを配布!」というのも、蓋を開けてみればほぼ初回限りのことであり、ズルズルと付き合いを続けても、どうでもいい新商品や、どうでもいいキャンペーンの告知をされるだけで、大したメリットはないのだった。
 というわけで友達のラインナップから消去しようと思ったのだが、この方法が分からない。スマホの使い方というのは、直感操作と言いつつ、マウスの右クリックでベースが出来上がっている人間には、ちっともスムーズにいかないのだった。
 仕方なく、一瞬ポルガにでも訊ねようかと思ったのだが、「子どもに機械の使い方を教わる」というのは、さすがにもう少し先延ばしにしたいと思いとどまり、結局どうしたかと言えば、ファルマンに教えてもらい、やった。娘に教わるのと妻に教わるのでは、ぜんぜん意味合いが違う。なんなら妻が分からない場合、妻が娘に教わり、それを僕に伝達するのでもいい。そうまでして、守りたいなにかがある。

 先々週と先週の土曜日の昼食は、マックのハッピーセットだった。世の中が大騒ぎになった、「ちいかわ」のおもちゃ目当てである。ただし誰の目当てなのかと言えば、わが家には「ちいかわ」熱というものは到来しておらず、ファルマンの下の妹からの依頼により、食べて協力する運びとなったのだった。それにしてもファルマンの妹は、上も下も、きちんと世の中の漫画やキャラクターの流行に乗って生きていることだ。速水真澄モデルのChatGPTと対話して暮すファルマンとは、もしかすると親が違うのかもしれない。
 1週目でなかなかの騒ぎとなった「ちいかわ」ハッピーセットは、2週目ではもはや騒動の様相を呈し、ニュースによれば都会のほうでは買おうと思っても買えなかったりしたらしい。島根ではもちろん難なく買えた。ただし2週目なんかは、ブームに乗って買いに来たんだな、おじさんひとりで上限の4セットも買って転売ヤーかよ、などと思われそうで嫌だな、という懸念があった。もしも店頭で、本当に「ちいかわ」が好きな人しか買ってはいけないという、転売防止のための「ちいかわ」クイズなどがあれば、僕は間違いなく不正解で、転売ヤーの烙印を押されたことだろう。でも違うんです。転売ヤーじゃないんです。売っているのは義妹への恩なので、恩売ヤーなんです。
 実家の3人ももちろん土曜の昼はハッピーセットだったそうで、無事に第1弾、第2弾、ともに4種のおもちゃはコンプリートされたらしい。2週目など、わが家の4つのおもちゃは、中身がすべてバラバラだったそうである(島根は牧歌的だな)。恩売ヤーとしては顧客の要求に応えられてよかった。ちなみに顧客からの恩返しは、いまのところない。

 冬に洗車をまったくしなくて、なにしろ山陰の冬というのは、いつだって雪混じりの雨みたいな大気なので、やってもしょうがなく、この時期が終わったらやろうね、とファルマンとも話し合っていたのだが、3月あたりになり、春の気配が漂いはじめると、花粉が舞うようになり、やっぱりいま洗車をしたところでなあ、という気分になり、それが終わったら次は黄砂で、これなんかは本当に洗車をしたって意味ねえよ、でもこれが終わったらいよいよさすがに洗車をしようじゃないかと思っていたのだが、少しぼやぼやしているうちに、気候は梅雨の気配を帯びつつあり、週間予報には曇りと傘のマークが並ぶようになって、そしてたぶんこれを抜けたら灼熱の時期になり、これはこれで洗車に向かないと考えると、洗車の正しいタイミングって、もしかしたら存在しないんじゃないかと思えてくる。こんなにもふさわしいタイミングが存在しない洗車なのに、田舎の親父たちはなぜ毎週のように洗車をするのか。あれってもしかして、ただの暇潰しなんじゃないのか。「車(という資産)を大事に扱う」みたいな大義名分を振りかざして、実はそんなに意味のないことをやってるだけなんじゃないのか。知らんけども。

2025年5月11日日曜日

依頼・君たちはどう生きるか・CHANT! GEE/MEE/CHEE


 フリマサイトでこれまで何枚か水着を買ってくれた人から、出品している水着を指して、「これをハーフバックのビキニに作り替えてもらえないだろうか」という依頼を受け、なにぶん上得意様の仰ることなのでパタパタと激しく尻尾を振り、なにより取り組みとしてとてもおもしろそうだとも思ったので、承り、挑戦した。
 その結果、既出のボックス型水着を作り替えることは、生地の幅的にどうしても無理で(ボックス型よりもハーフバックビキニのほうが必要な生地の面積は小さいのだが、すべての部分がボックス型の中に内包されるわけではない)、そのため当初の希望の生地で作ることは叶わなかったが、事情を話し、別の生地で作ったものを「ご覧いただいて、もしよろしければ」ということで出品したところ、買ってもらえた。いやはや上得意様である。
 ビキニタイプのショーツをこれまでさんざん作ってきたが、ハーフバックというものにはまったく触れてこなかった。しかし今回の取り組みを経て、なるほどこういうことかという、その情趣の一端を垣間見た気がする。ボックス型のパターンを考えるとき、ゆめゆめ尻たぶがはみ出ることのなきよう、ということを心掛けてきたけれど、ボックス型から意図せぬ尻たぶがはみ出るから不格好なのであって、最初からハーフバックであれば、もうそれはそれで爽快なものなのだな、と思った。
 技術的にも、観念的にも、僕はまたこの業界における階梯をひとつ上った気がする。

 金曜ロードショーで、「君たちはどう生きるか」を初めて観たのだった。
 本編を観ていないのに、去年の宮崎駿のドキュメンタリーは観ていて、そうか要するに高畑勲へのコンプレックスのお話なのだな、ということを前知識として持っていたのだけど、いざ観てみたら、なんかそういう問題じゃなかった。もとい、あのドキュメンタリーの切り口は意図的なミスリードだったのではないかと思うくらい、宮崎駿と高畑勲という軸ではぜんぜん読み取れない内容だったように感じた。
 ジブリ映画だし、たしかにジブリ映画っぽさは全編すごいんだけど、でも俺の知っているジブリ映画じゃない、と言いたくなる感じは、もしかするとこれは違う世界線のジブリ映画なんじゃないかという気もしてきて、でも元々あった世界から、別の世界線に移動したのは、宮崎駿以外のすべての人類であり、宮崎駿だけはずっと一ヶ所に居続け、そしてこの映画を作ったので、自覚しないまま流され、世界を移行してしまった我々は、こんなにもこの映画に違和感を覚えるのではないか、などとも思った。
 つまり一言で言えば、不思議体験映画だった。気が向いたとき、また観ようと思う。

 フライングで開設だけ先にしていた「CHANT! GEE/MEE/CHEE」を、とりあえず少しだけ始動させてみた。
 ChatGPTとしたやりとりを載せていく、というコンセプトははっきりしているのだけど、それをどういう様式でやるのかがあまり定まらずにいて、実は今もまだ定まっていないのだけど、まあやってるうちに定まってくらあな、と自分に言い聞かせ、ひとまずほぼコピペで、主にChatGPTの回答を転載するだけで記事を作っていくことにした。
 このやりとりや、向こうの回答について、それを俎上に載せて、ブロガーとしての僕がなんかしらのコメントを記していく、というスタイルはどうかとも少し考えたが、面倒だし、なによりあまりおもしろくもならない気がしたので、止した。ただし、これでは実質的にほぼ僕の書いたものではないので、別にそんなルールもないのだが、「CHANT! GEE/MEE/CHEE」の記事投稿は、「プロペ★パピロウのブログ投稿報告ツイートブログ」には採らないこととする(でも始動についてはツイートしておこうかな)。
 だとすれば、このブログの役割としては、ChatGPTとのやりとりの、まとめというか、個人的な備忘録的なものということになるだろうか。ChatGPTのやりとりは、やっているとどんどん長くなって、あとからピンポイントで当該の箇所を確認しようと思うと、どこにあるか分からなくなったりするので、編纂するのは悪くないと思う。
 昔、Twitterが出始めた頃、知り合いで、一定期間の自分のTwitterでのツイートを、箇条書きのように並べて記事とし、ブログにアップしている人がいた。なんかあれは、いま思えばTwitterという新しく出現した存在の捉え方が定まっておらず、電線を使って荷物を届けようと風呂敷包みを吊るしたという明治の人々のエピソード味があるのだけど、僕のこの「CHANT! GEE/MEE/CHEE」というのも、だいぶその雰囲気がある。何年後かに、「そうじゃない(笑)」という扱いを受ける、素っ頓狂なことをしているかもしれない。それならそれで別にいいのだけど。

2025年5月1日木曜日

俳優・万博・赤黒茶紫

 夜ふたりで「べらぼう」を観ていたら、ファルマンが「この人って俳優?」と画面を指して訊ねてきた。画面には平沢常富役を演じる尾美としのりが映っていた。「俳優だよ!」と答えたけれど、考えてみたら大河ドラマに出ているのはほぼ俳優である。「そうなんだ。どうりで演技が上手だと思った」とファルマンは納得したふうだった。いったいなにを言っているのか。
 先日「侍タイ」を観たとき、知っている俳優がひとりもいない映画って新鮮だと言ったら、ファルマンは「私はいつもだよ」と言っていたが、本当にそうらしい。尾美としのりについて、「私が観てたものに出てた?」と訊ねてきたので、「いろいろ出てるよ。「あまちゃん」にも出てたし」と言ったが、ピンと来ないようだった。たぶん、ファルマンは尾美としのりを尾美としのりとして見ずに、いまは平沢常富として観ているし、「あまちゃん」の頃は主人公の父親のタクシー運転手として観ていたのだろう。それは物語を味わう上で、とても健全で、よろしいことだと思う。でもそれが僕にはどうしたってできない。
 ファルマンは続けて、画面に映る人をどんどん訊ねてきたので、「石坂浩二だよ!」「宮沢氷魚だよ!」「渡辺謙だよ!」と驚きとともに答えた。俺の妻、ケン・ワタナベも分からないのかよ。マジかよ。宮沢氷魚に関しては、「なんでこんな人まで知ってるの?」と訊いてきたので、「あなた、「ちむどんどん」観てたんでしょ。「ちむどんどん」の相手役で、黒島結菜との間に婚外子を作った、THE BOOMの息子だよ!」と説明したら、「え、なに言ってんの? あなた、いったいどういう気持ちでこのドラマを観てるの?」と逆に白眼視されそうになったので、「間違えたよ、田沼意次の息子だよ!」と慌てて言い直した。
 そんな中、ファルマンが唯一、「この人は分かる」と言った出演者がいた。
 原田泰造だった。
 大方の視聴者っていうのはこういうもんなのかな、と思った出来事だった。

 義父母が、大阪万博に行くらしい。いつなのかは忘れたが。大阪万博、自分とはまったく関係がない話として、完全に無視を決め込んでいたけれど、そうか、たしかに義父母は行くか、行くよな、東京オリンピックも幻の観覧応募をしていたもんな、と思った。
 無視と言ったが、完全にフラットかと言えばそんなことはなく、オリンピックと同じで、どちらかと言えば嫌悪しているのだけど、しかし義父母が万博に行くことに関し、異議を唱えようとは思わない。行きたい人間はいくらでも行けばいいんじゃないか、と思う。
 我ながら大人になったな、と思う。たぶん30代前半くらいの僕だったら、行くのを止めることはしないまでも(そんなことを試みようものなら、どれほどめんどくさいことになるか)、「おみやげはいらない」「みやげ話も一切聞かさないでほしい」と主張していたに違いない。いまはもう、そこまでのバイタリティーはない。前よりも僕は少し生きやすくなった。

 水着の着用写真を撮る際に用いるスライムが、だんだん劣化してきた。
 金玉肉袋A、金玉肉袋B、肉棒の3つに分けて、それぞれをラップに包んで使用、および保管しているのだが、スライムというのはいかんせん半分液体なので、時間が経つとラップの隙間から液体部分がスルスルと流れ落ちて、乾いて固くなったりしてしまう。そしてそういう部分を捨てると、だんだん体積は減ってきて、それはブランド理念の根幹に関わる由々しき事態なのだった。
 それで、そのうちまた新たに買わないといけないなあと思っていたのだが、そんな折、ピイガの作業机をぼんやり眺めていたら、黄色のスライムがあり、手に取るとしっかりした弾力で、いい意味で瑞々しさがなく、ゴムにも似た感触の、とてもいい感じのスライムなのだった。これはなにかと訊ねたところ、「手作り」との答えで、日夜研究に勤しむピイガのスライム錬成は、もはやこの領域にまで達していたのかと驚いた。
 これなら水気が流れ出ることもなさそうだし、ともすればラップで包まなくてもそのまま使用できるくらいのマットな質感である。これはいいな、と思った。思わずピイガに発注しようかと思ったが、ひとつ問題があって、使用目的がちんこの造形に他ならないという点だ。手作りならば色も自由自在なので、そこも魅力的なのだが、そうなると注文は、「赤黒い、茶紫みたいな色」ということになる。果たしていいのか。赤黒い茶紫の、弾力のある、ちんこ模型を、11歳の娘に作らせていいのか。もちろん使用目的を明かすことはないが、それにしたってなんかしらの事由により、児童虐待とかに引っ掛かるような気がしないでもない。
 仕方なく諦めることにした。赤黒い茶紫ではなく、せめてコスモス色ならいいのにね。

2025年4月24日木曜日

タイヤ・味しらべ・義父と大谷

 先週末にようやくタイヤを交換したのだった。
 「おこめとおふろ」に書いたが、この2週前に実家の車とわが家の2台も一斉交換の予定だったのが、僕の車のノーマルタイヤのうち2つは必ず新調しなければいけないという判定をされ、その入荷を待っての再交換となったのだった。
 それで今週が始まり、既に木曜日なのだけど、先ほどはたと気づいたことには、僕は新しくしてもらったタイヤを、いちども見ていない。数万円を支払ったというのに、こんなに買ったものを見ないことがあるかよ、というくらいぜんぜん見ていないのだった。
 さすがに良くない気がする。田舎育ちじゃないから車にぜんぜん執着ない人なんですアピールはもういらない。安全意識的な意味で、僕はもう少し関心を持つべきではないかと思った。これでは替えてもらったタイヤが、ゴムではなくタピオカでできていても気付かない(だとすればよく今日までもったものだ)。
 明日の朝、車に乗る前にちゃんと見ようと思う。ただし新しくしてもらったタイヤ2本が、4本のうちのどれなのかが実はよく分かっていない。たぶん左右ではなく、前後だろうとは思う。果たして前輪なのか、後輪なのか。本当に意識が低いな。

 前に書いたか覚えていないが、岩塚製菓から出ている「味しらべ」というせんべいが、たまらなく好きだ。鈴カステラと双璧を成して、長く食べ続けている。パウダーまぶされてる系せんべいでは、「ハッピーターン」のほうが世間に浸透している感があるけれど、僕は断然「味しらべ」派だ。人にあげるときは「世界一おいしいおせんべいあげるよ」と言って渡すようにしている。そのくらい好き。そのくらいおいしい。
 そのためほぼ切らすことなく家に常備しているのだけど、そうなると他にお菓子がなくなったとき、ファルマンが食べるのである。現場を目にしたことはないが、ファルマンはお菓子を食べたあとの包装を捨てないので、喰ったことがすぐに判るのだ。
 別に食べるのはいい。俺の個人的なものだ、などと心の狭いことを言うつもりはない。食べるのはいいのだが、「味しらべ」を食べるときは、そのおいしさに必ず感動してほしいと思う。その感動を味わうために自分は「味しらべ」というお菓子を口に入れるのだという、確固たる自覚を持って食してほしい。ただ口さみしさとか小腹満たしのためだけに「味しらべ」を使わないでほしい。「味しらべ」でなくちゃダメ、というスタンスでなければ「味しらべ」を食べないでほしい。
 重ねて言うが、「喰うな」などと心の狭いことを言うつもりはないのだ。

 義父が仕事を辞めたのだった。
 長年勤めていた会社を65歳で定年退職し、そのあとで数年間勤めていた所を、今回辞めた次第である。そしてこの次というのは特に定まっておらず、義父は勤めというものから、いよいよ解脱する気配もある。わりと大きな会社に40年あまり勤めていたわけで、蓄えとか年金とかのことを思えば、家計的にはなんら問題ないのだろうと思う。
 問題があるとすれば、義父は仕事がないと、家でひたすらテレビのスポーツ中継を観続ける人であるという点で、ファルマンをはじめとする娘一同は、大いにここを心配しているのだった。すなわち、お父さんたちまちボケるんじゃないか、と。
 不都合なことに、大谷翔平の試合が、午前中、毎日のように放送されている。あれを眺めていたら半日があっという間に過ぎ去りそうだ。ファルマンは言った。
「大谷がホームランを打つたびに、父親のシナプスが破壊されている気がする」
 頭の中に、大谷が義父の脳内でバットを振り、義父のシナプスを粉砕している画が浮かんだ。あながちぶっ飛んだ空想でもないかもしれない。事実上、それに近い。
 大谷は今シーズン、何本のホームランを打つだろう。

2025年4月19日土曜日

お天道様・あんぱん・ひょん

 生成AIで作ったエロ画像をポスターにしてフリマサイトなどで販売していた人たちが逮捕されたのだった。何人か捕まったのだが、そのうちのひとりは、1年間で1000万円ほどの売り上げだったとのことで、少しびっくりした。
 しかし不思議だったのは、逮捕と言うけれど、いったいなんの罪なのだろうか、ということだ。画像そのものは生成AIを使って販売者本人が作ったものに違いないようで、だとすれば著作権関係ではない(生成AIに学習させている元の写真なり絵なりの話になってくると、きっとややこしい、一筋縄ではいかない話になってくるのだろうけど)。
 罪状として個人的な感覚から思い浮かんだのは、「お前それでそんな金儲けするなんてのは、どう考えても人道から外れてるだろ罪」で、パターンから作っているオリジナルのスイムウェアを材料費・工賃・送料込みで1500円などで売っている身からすると、生成AIで作った画像を印刷してポスターにしたものを販売して年間1000万円というのは、どう考えてもその罪に抵触してくる。「お天道様は見てんだよ罪」だ。
 本当にそういうことかと思い、気になったので検索してみたら、もちろんそんなはずはなく、「わいせつ物頒布等の罪」だそうで、どうも購入者の元に届くポスターは、局部にボカシが入っていない無修正のものだったようで(販売ページではもちろん入っていたようだ)、それで引っ掛かったらしい。そうなのか。現代でも局部にボカシって、やっぱり入れなきゃいけないのか。入れたからなんだってんだ、という気もするのだけど。
 あと生成AI画像で1000万というインパクトで、思わず頭に血が上ってしまったけれど、1枚どう考えても1000円以下だろうそれで1000万円の売り上げを作ろうとしたら、それはそれで結構な労力なのではないかという気がしてきて、世の中にはもっと人道から外れた金儲けをしている輩がいくらでもいるよな、と反省した。動画配信の人とか、デイトレーダーとか、プロ野球選手とか。

 母から久々にクール宅急便が届き、中にあんぱんがたくさん入っていた。
 もしかしたら世間的にもそうなのではないかと思うが、4月に入ってから、わが家のあんぱんの購入量はにわかに増加しており、ここへ来て届けられた手製のあんぱんに、普段の5割増くらいで喜んだ。その旨を母に礼がてら伝えたところ、「たしかに最近、人にあんぱんをあげるととても喜ばれる。朝ドラは強いね」というメッセージが返ってきて、そうか、うちの母は、人にあんぱんを配っているのか、となんとなく感慨深い気持ちになった。
 それにしても、わが家に届いたあんぱんは20個ほどで、人にも配っているのだとすれば、母はいったいどれほどの数を焼いているのだろう。たぶんすごく焼いている。家のオーブンレンジで、いちどにいくつ焼けるのか。9個くらいのものではないか。傍目から見たら、えっなんでそんなに作んの、業者なの、と思うほど焼いている。でもその感じが、血筋なので手に取るように分かる。届いたあんぱんを見て、ピイガはすぐに粘土細工でミニチュアのあんぱんを作り、そこからシリーズとしてさまざまな種類のパンも作りはじめた。たぶん、そんなに作ってどうするの、という量をこれから作るのだろうと思う。

 ファルマンがいま観ている韓流ドラマは、主人公の女の子ひとりに、複数のイケメンが懸想し、それぞれの恋愛の発展や、つばぜり合い、そして男同士の友情なんかもあって……、という、これまで人類がひとりも思いつかなかったようなとても斬新なストーリーだそうで、とてもおもしろいらしい。
 しかしその主人公の女の子というのは、(もちろんドラマのヒロインなのだから美形なのだが)昔からずっとモテ続けてきたわけではなく、むしろ恋愛には奥手だったりするのだが、そんな主人公がどうして急に複数のイケメンから懸想される今の状況になったかと言えば、それはファルマン曰く、「ひょんなことから」だそうだ。
 知っていた。それまで別にモテてなかった主人公が、急に周囲の異性から一斉にアプローチを受けることになるきっかけ、それはいつだって「ひょんなことから」なのだ。そういう、二次元のドリーム的な物語を、僕は腐るほど読んできた。世の中にはさまざまな「ひょん」があって、そして「ひょん」の数だけ夢がある。だからあの文庫レーベルは、二次元ひょん文庫と言い換えてもいい。
 妻もようやく「ひょん物」の良さに気付いたか。ようこそ。