2025年4月24日木曜日

タイヤ・味しらべ・義父と大谷

 先週末にようやくタイヤを交換したのだった。
 「おこめとおふろ」に書いたが、この2週前に実家の車とわが家の2台も一斉交換の予定だったのが、僕の車のノーマルタイヤのうち2つは必ず新調しなければいけないという判定をされ、その入荷を待っての再交換となったのだった。
 それで今週が始まり、既に木曜日なのだけど、先ほどはたと気づいたことには、僕は新しくしてもらったタイヤを、いちども見ていない。数万円を支払ったというのに、こんなに買ったものを見ないことがあるかよ、というくらいぜんぜん見ていないのだった。
 さすがに良くない気がする。田舎育ちじゃないから車にぜんぜん執着ない人なんですアピールはもういらない。安全意識的な意味で、僕はもう少し関心を持つべきではないかと思った。これでは替えてもらったタイヤが、ゴムではなくタピオカでできていても気付かない(だとすればよく今日までもったものだ)。
 明日の朝、車に乗る前にちゃんと見ようと思う。ただし新しくしてもらったタイヤ2本が、4本のうちのどれなのかが実はよく分かっていない。たぶん左右ではなく、前後だろうとは思う。果たして前輪なのか、後輪なのか。本当に意識が低いな。

 前に書いたか覚えていないが、岩塚製菓から出ている「味しらべ」というせんべいが、たまらなく好きだ。鈴カステラと双璧を成して、長く食べ続けている。パウダーまぶされてる系せんべいでは、「ハッピーターン」のほうが世間に浸透している感があるけれど、僕は断然「味しらべ」派だ。人にあげるときは「世界一おいしいおせんべいあげるよ」と言って渡すようにしている。そのくらい好き。そのくらいおいしい。
 そのためほぼ切らすことなく家に常備しているのだけど、そうなると他にお菓子がなくなったとき、ファルマンが食べるのである。現場を目にしたことはないが、ファルマンはお菓子を食べたあとの包装を捨てないので、喰ったことがすぐに判るのだ。
 別に食べるのはいい。俺の個人的なものだ、などと心の狭いことを言うつもりはない。食べるのはいいのだが、「味しらべ」を食べるときは、そのおいしさに必ず感動してほしいと思う。その感動を味わうために自分は「味しらべ」というお菓子を口に入れるのだという、確固たる自覚を持って食してほしい。ただ口さみしさとか小腹満たしのためだけに「味しらべ」を使わないでほしい。「味しらべ」でなくちゃダメ、というスタンスでなければ「味しらべ」を食べないでほしい。
 重ねて言うが、「喰うな」などと心の狭いことを言うつもりはないのだ。

 義父が仕事を辞めたのだった。
 長年勤めていた会社を65歳で定年退職し、そのあとで数年間勤めていた所を、今回辞めた次第である。そしてこの次というのは特に定まっておらず、義父は勤めというものから、いよいよ解脱する気配もある。わりと大きな会社に40年あまり勤めていたわけで、蓄えとか年金とかのことを思えば、家計的にはなんら問題ないのだろうと思う。
 問題があるとすれば、義父は仕事がないと、家でひたすらテレビのスポーツ中継を観続ける人であるという点で、ファルマンをはじめとする娘一同は、大いにここを心配しているのだった。すなわち、お父さんたちまちボケるんじゃないか、と。
 不都合なことに、大谷翔平の試合が、午前中、毎日のように放送されている。あれを眺めていたら半日があっという間に過ぎ去りそうだ。ファルマンは言った。
「大谷がホームランを打つたびに、父親のシナプスが破壊されている気がする」
 頭の中に、大谷が義父の脳内でバットを振り、義父のシナプスを粉砕している画が浮かんだ。あながちぶっ飛んだ空想でもないかもしれない。事実上、それに近い。
 大谷は今シーズン、何本のホームランを打つだろう。

2025年4月19日土曜日

お天道様・あんぱん・ひょん

 生成AIで作ったエロ画像をポスターにしてフリマサイトなどで販売していた人たちが逮捕されたのだった。何人か捕まったのだが、そのうちのひとりは、1年間で1000万円ほどの売り上げだったとのことで、少しびっくりした。
 しかし不思議だったのは、逮捕と言うけれど、いったいなんの罪なのだろうか、ということだ。画像そのものは生成AIを使って販売者本人が作ったものに違いないようで、だとすれば著作権関係ではない(生成AIに学習させている元の写真なり絵なりの話になってくると、きっとややこしい、一筋縄ではいかない話になってくるのだろうけど)。
 罪状として個人的な感覚から思い浮かんだのは、「お前それでそんな金儲けするなんてのは、どう考えても人道から外れてるだろ罪」で、パターンから作っているオリジナルのスイムウェアを材料費・工賃・送料込みで1500円などで売っている身からすると、生成AIで作った画像を印刷してポスターにしたものを販売して年間1000万円というのは、どう考えてもその罪に抵触してくる。「お天道様は見てんだよ罪」だ。
 本当にそういうことかと思い、気になったので検索してみたら、もちろんそんなはずはなく、「わいせつ物頒布等の罪」だそうで、どうも購入者の元に届くポスターは、局部にボカシが入っていない無修正のものだったようで(販売ページではもちろん入っていたようだ)、それで引っ掛かったらしい。そうなのか。現代でも局部にボカシって、やっぱり入れなきゃいけないのか。入れたからなんだってんだ、という気もするのだけど。
 あと生成AI画像で1000万というインパクトで、思わず頭に血が上ってしまったけれど、1枚どう考えても1000円以下だろうそれで1000万円の売り上げを作ろうとしたら、それはそれで結構な労力なのではないかという気がしてきて、世の中にはもっと人道から外れた金儲けをしている輩がいくらでもいるよな、と反省した。動画配信の人とか、デイトレーダーとか、プロ野球選手とか。

 母から久々にクール宅急便が届き、中にあんぱんがたくさん入っていた。
 もしかしたら世間的にもそうなのではないかと思うが、4月に入ってから、わが家のあんぱんの購入量はにわかに増加しており、ここへ来て届けられた手製のあんぱんに、普段の5割増くらいで喜んだ。その旨を母に礼がてら伝えたところ、「たしかに最近、人にあんぱんをあげるととても喜ばれる。朝ドラは強いね」というメッセージが返ってきて、そうか、うちの母は、人にあんぱんを配っているのか、となんとなく感慨深い気持ちになった。
 それにしても、わが家に届いたあんぱんは20個ほどで、人にも配っているのだとすれば、母はいったいどれほどの数を焼いているのだろう。たぶんすごく焼いている。家のオーブンレンジで、いちどにいくつ焼けるのか。9個くらいのものではないか。傍目から見たら、えっなんでそんなに作んの、業者なの、と思うほど焼いている。でもその感じが、血筋なので手に取るように分かる。届いたあんぱんを見て、ピイガはすぐに粘土細工でミニチュアのあんぱんを作り、そこからシリーズとしてさまざまな種類のパンも作りはじめた。たぶん、そんなに作ってどうするの、という量をこれから作るのだろうと思う。

 ファルマンがいま観ている韓流ドラマは、主人公の女の子ひとりに、複数のイケメンが懸想し、それぞれの恋愛の発展や、つばぜり合い、そして男同士の友情なんかもあって……、という、これまで人類がひとりも思いつかなかったようなとても斬新なストーリーだそうで、とてもおもしろいらしい。
 しかしその主人公の女の子というのは、(もちろんドラマのヒロインなのだから美形なのだが)昔からずっとモテ続けてきたわけではなく、むしろ恋愛には奥手だったりするのだが、そんな主人公がどうして急に複数のイケメンから懸想される今の状況になったかと言えば、それはファルマン曰く、「ひょんなことから」だそうだ。
 知っていた。それまで別にモテてなかった主人公が、急に周囲の異性から一斉にアプローチを受けることになるきっかけ、それはいつだって「ひょんなことから」なのだ。そういう、二次元のドリーム的な物語を、僕は腐るほど読んできた。世の中にはさまざまな「ひょん」があって、そして「ひょん」の数だけ夢がある。だからあの文庫レーベルは、二次元ひょん文庫と言い換えてもいい。
 妻もようやく「ひょん物」の良さに気付いたか。ようこそ。

2025年4月12日土曜日

広末・テレビ・水はけ

 広末涼子が愉快だった。
 僕は残念ながら、「自称広末涼子」というニュース報道のくだりの際は、勤務中だったため居合わせられなかったのだけど、それを抜きにしてもやっぱりおもしろいと思う。思えばこういうスカッと笑える芸能ゴシップ、かなり久しぶりなんじゃないか。こうして今回のニュースを目の当たりにしたことで、中居正広の話って、さすがにぜんぜん笑えなかったんだな、と気づかされた。
 伝えられている奇行のひとつ、「広末でーす」と通りすがりの人に突然声をかけたといわれている場所は、浜松のサービスエリアであるようで、たしか去年の夏にわが家も寄ったし、また横浜に車で行くのだとしたら、今度も立ち寄る可能性は十分にあり、その際はぜひ「広末でーす」の吹き出しを持って記念撮影したいものだな、などと思う。あるいはサービスエリア側が用意してくれないだろうか。
 ところで先日ファルマンの誕生日の祝いをした際、ケーキにロウソクを立てたのだけど、42という数字はチョコプレートにチョコペンで記したので、ロウソクはなんか波状にくねくねした長細いものにしたのである。それを扱う際に僕は、「ジュンさんが1本1本くねくね曲げてくれたんだから大事にしなきゃな……」と、『この世のロウソクはすべてキャンドル・ジュンが手掛けていると信じ込んでいる人』というボケをして、ファルマンに失笑されたのだけど、本当にもう、キャンドル・ジュンのことだけで十分ありがたかったのに、さらに今回のことがあって、広末涼子というのは本当に尊い存在だな、としみじみと感じた。思わず音楽配信サービスで広末涼子のプレイリストをダウンロードし、通勤中に聴いてしまうほどだ。その際ランダムで再生していたら、「ヨリミチ」という曲が掛かったので、浜松サービスエリアに寄り道して運転を交代しなければこんなことにはならなかったろうになあ……、などと思ったり、歌詞をとても噛み締めながら聴いている。こんなことをしているときが人生でいちばん愉しい。生きている意味があるな、と思う。
 このまま順当にいけば、年末のヌーボ的な企画のゲストは、去年のフワちゃんの流れそのままに、ほぼ決まりだな、と思う。なんかサンデージャポンみたいになってきたな。

 子どもがテレビを使ったあと、入力2のままスイッチを切るのが嫌である。テレビの状態に戻してから切りなさいよ、と思う。思うし、言いもする。しかしあまり守られない。
 わが家のテレビは、入力1がビデオ、入力2がインターネットの映像サービスおよびゲームとなっていて、なので子どもたちは圧倒的に入力2ばかりを使うのである。でもテレビなんだから、本分はテレビなんだから、次に点けた人が、なにも出力されていない真っ黒の入力2の画面に対峙するはめになるのは、なんか間違っているだろう、と思う。
 思っていた。だから確信を持って、正義の名の下に、子どもたちに向かって注意をしていた。しかし最近になって、なんかこの図式って、絵に描いたようないわゆる老害なのではないか、という疑念が生じてきて、注意の声も勢いを減じてきている(それにしても子どもたちはこちらの注意に対して一切の服従をしないことである)。
 僕の中に確固としてある、テレビは地上波放送を受信して映す機械であるというイメージ、これがもう子どもの世代にはぜんぜん共通していない。僕自身はもちろん、入力1のビデオを観たあとも、必ずテレビのモードにしてから電源を切るのだけど、そのあと子どもがテレビを点けたら、それはもう一瞬で入力2に切り替えるのである。「いまなんかおもしろいのやってるかな」とか、「今晩どんな番組があるのかな」などと考え、ザッピングすることはもちろん、テレビ欄を確認したりするという発想は一切ないようである。
 老いては子に従えではないけれど、今後ますますこの流れは加速し、われわれはどんどん端に追いやられる。テレビのスイッチを切るときはモードをテレビにして消しなさいなどという注意は、実用性ではなく、もはやおじいちゃんは作法的な観念で言ってんのかな、というふうに取られるようになり、やがてはひいじいさんのおまじないや迷信(あるいは妄言)みたいになるのかもしれない。切ない。「夜明け前」読もうかな。

 これから男陣営からはブーイングを受けるであろう、機密事項をリークします。
 女性と違い、男は小便のあと、拭かないじゃないですか。それは性器の構造的に水はけ? 水切り? がよいので、拭かなくても問題ないとされているからだけど、たしかに女性のそれほどの必須性はないかもしれないが、でもぜんぜん大丈夫かと言えば、実はそんなことない。ないよ。俺だけじゃないよ。絶対みんなそうだよ。液体の注ぎ口が、液体を注いだあと、拭かずにいて湿り気を帯びないなんてこと、理屈としてあるわけないだろ。放出後、しばらく振って、中のものをしっかり出し切るというのとは、これは別の話で、そうしたあとでも、とにかく先端から液体が出ているわけだから、その部分は濡れているに決まっている。
 それで僕はなにが言いたいのかと言えば、今後は男も小便のあとペーパーで拭きましょうよ、ということを提案したいわけではなく、じゃあなんなのかと言えば、実は特に理由はない。とにかく性器の話をしたかっただけかもしれない。ピュアだな。

2025年4月3日木曜日

侍タイ・エイプリルフール・おばぁ

 映画「侍タイムスリッパ―」がPrime Videoに出たので、ファルマンと観た。噂どおり、とてもおもしろかった。盤石ではない態勢の中、監督ががんばって作って、公開後に評判を呼び、どんどん上映館が増えていった、というストーリーがあるようで、観ていて、なるほどそういう境遇でこの映画は作られたのだな、という情熱を感じ取った。映画に限らず、もといクリエイティブ関係に限らず、ありとあらゆる、作られるものの価値というのは、どれだけ情熱をもって作られたかなのだな、ということを最近しみじみと思うのだけど、この映画を観て改めてそれを実感した。
 知っている俳優がひとりもいないというのも新鮮な経験で、あのドラマに出てた人だな、とか、あの番組でダウンタウンと絡んでたな、などという雑念が一切生じず、物語に没頭できてよかった。ぜんぜん知らない人たちだけだと、その役をやっているその人しか知らないので、ワンチャン本当にそういう人なのかもしれない、という気持ちになるのだった。ファルマンにそう言ったら、「私は人の顔を覚えないから、いつだってそういう気持ちでドラマを観てる」と言われ、それは人生が愉しいかもしれないな、と本心から思った。

 エイプリルフールで、今年も企業がジョーク企画をやって、失敗したりしていた。中でもいちばん失敗したのは、持ち帰り弁当のほっかほっか亭で、価格高騰によって米が確保できなくなり、今後はおかずだけの販売になります、みたいなジョークを発表したところ、さすがに時勢的に笑えない、不謹慎だ、などと叩かれ、謝罪していた。
 毎年こうやってジョークのあんばいを失敗して怒られる企業があるけれど、別に絶対にやらなければいけないわけでもない企画に自主的に参加して、自主的に参加するということは自信があるからなのに、それでいて外して、謝罪までしなければならなくなるという、このかっこ悪さたるや、すさまじいものがある。ウケると思っていたのにマジ叱られ、という部分に、共感性羞恥が刺激され、自身の嫌な思い出までよみがえってきたりする。
 そもそもエイプリルフール企画って、もうぜんぜんおもしろくないと思う。怒られないやつも、おもしろいかと言えば別におもしろくなくて、それはもはや、この体制叩き体質の世の中において、「不謹慎ではないという看過」をいただいているだけであり、つまり手を出したところで、ゼロかマイナスしか得られないのだ。百害あって一利なし。ならば参加しないのがいちばん賢い。
 こんなことを言うと、現代はエイプリルフールを愉しむ心の余裕さえ失ってしまったのだな、などと嘆く輩がいるかもしれない。そういうことではない。流行語大賞もそうであるように、大衆が、遍く共有する趣向というものが、存在しなくなったのだと思う。

 「マツコの知らない世界」で40代50代の婚活事情を特集していて、おそるおそる観た。なかなかすさまじい内容だった。結婚とか、出産とか、子育てとか、話がセンシティブすぎて、迂闊に発言ができないけれど、そういったややこしいことを考えていると、僕の頭の中に、沖縄のおばぁがポンッと現れ、そのおばぁはなんでも分かってるような顔で、こんなことを言うのだった。
「腰を振ればいいさぁ」
 僕が「まあとにかく腰を振ればいいんだよ」と言ったら、それはフジテレビ的な、野卑な男性主義になってしまってよろしくないけれど、同じ内容でも沖縄のおばぁなら許されるんじゃないかな、と思う。そういう考えから誕生した、イマジナリーおばぁなのだと思う。
 イマジナリーおばぁに怖いものなどない。
「とりあえずキープしとけばいいさぁ」
「はじめ痛くても、すぐによくなってくるさぁ」
「外に出せばなんくるないさぁ」
 次々に繰り出される最低発言。でも大丈夫。沖縄のおばぁだから。そういうvtuberとしてデビューしようかな。もういるかな。

2025年3月27日木曜日

散髪・クルーズ船・手書き

 先日、ファルマンに髪を切ってもらった。「今年の夏はポニーテール!」と宣言していたが(2月12日付)、1ヶ月半であえなくギブアップとなったのだった。
 なんか我ながら、なんど同じことを繰り返すのか、と思う。過去のhophophopの記事を読み返していると、髪の話題がやけに多く、そしてそれは結局、「伸ばそうと思うぜ!」「やっぱり切った」「伸ばそうと思うぜ!」「やっぱり切った」の繰り返しで、まったく成長がない。読者として飽き飽きだ。そろそろ僕は達観するべきなのだ。顔的に長髪は無理なんだということを。
 髪をある程度伸ばして、そして急に嫌気が差して切ってもらったときのいつもの反動のパターンで、いまはとても短くなっている。そして短くしたら、金髪と黒髪がいよいよ比率的におかしなことになったので、併せて脱色もしてもらい、これも含めて一連のいつものパターンなのだった。
 これがまたやがて伸び、伸ばそうとして、プリンになって、やがて伸ばすのをあきらめ、切り、そして脱色する。どうやら僕はこのサイクルをずっと続けるようだ。経験を重ねたことで、それが巨視的に察せられるようになった。散髪について、「2ヶ月にいちど行きつけの床屋に行って伸びた分をリセットってつまらなすぎるだろ」ということを少し前に書いたが、僕も結局、それよりもうちょっとスパンが長く、さらにはその最中に(無駄な)懊悩があるというだけで、なんら変わらないのだと気づいた。まるで火の鳥が生命の誕生と滅亡を見つめるように、僕は淡々とそれを受け入れはじめた。

 相変わらずグラビアを眺めているのだが、いまの僕の愉しみ方としては、ある特定の女の子に入れ込んで、彼女と海デートに来た気分をしみじみと味わったりするのではなく、さまざまな画像を次々に表示させ、いろんな女の子が、いろんな場所で、いろんな面積の小さい布を身に着け、代わる代わる、とにかくこっちに向かって微笑みかけてくるさまに陶酔するという、いかにもネット時代の、誠意のかけらもないものなのだけど、でもこの姿勢に関して、ストーリー性がまるでないかといえばそんなことはなく、僕と、いろんな面積の小さい布を身に着けた無数の女の子たちというのは、超巨大なクルーズ船で航海をしている最中で、僕がクルーズ船のいろんな場所を歩き回れば、行く場所行く場所に、いろんな面積の小さい布を身に着けた女の子が待ち受けていて、彼女たちは押し並べて僕に気に入られようと、さまざまな趣向を凝らし、ポーズを決め、表情を作り、セックスアピールをしてくるのだ。そういう確固たるストーリーを編みながら、日夜グラビアを眺めている。いいなあ、そんな夢のようなクルーズ船が本当にあったらいいなあと、16歳男子のようなことを本気で思ったりするけれど、しかしまああれですよね、要するにこの、宇宙船地球号がそれってことですよね。不純物が多量に混ざってしまっていますけどね。

 手書きブログ『BYAPEN』がずっと停滞していて、定期的に忸怩たる気持ちになるのだった。カードに手書きする日記は、僕の日記活動の始祖であり、それが蔑ろにされている状況は、なんとなく不義理を犯しているような罪悪感がある。なにより純粋にいつだって、文字を手書きしたい気持ちはあるのだ。日常では本当に手で文字を書かなくなってしまっているのだが、その行為の効用はよく知っているので、なるべくならやりたいと思っている。思っているのだが、なかなか踏ん切りがつかない。めんどくさいのである。
 そんなことに思いを馳せていて、あることを閃く。Twitterってあるじゃないですか。もといあったじゃないですか。いまなんになったんでしたっけ。Hとかでしたっけ。あれって要するにブログがめんどくさい人にウケて隆盛したわけですよね。じゃあ手書き日記もそんな感じのスタイルで、本当に頭にパッと思い浮かんだことを、ちゃちゃっと書きつけたものを、写真で撮ってすぐにアップ、みたいな感じでやればいいんじゃないか、と。
 そのように考えたので、たぶん近日中に、『BYAPEN』は生まれ変わって、新しい様式のブログになると思う。……え? あ、はい。ブログです。もちろんBloggerです。Bloggerで、Twitterみたいな理念の手書きメモ公開日記みたいな、そんなのをやろうと思う。
 今日いちにち、そのブログのタイトルについて思案して、結論として『Twitter』はどうか、と思った。Twitterというタイトルのブログである。タイトルで検索しても絶対に辿り着けないブログ。でもそれはさすがにいろいろ問題がありそうというか、そもそも規約的にNGのような気もするので、ならばということで、こういうものを考えた。

 『Twi(cut/naughty/ya)tter』

 読み方は、「ツイカットナッテヤッター」。ほら、氷河期世代って、Twitter世代であると同時に、ついカッとなってやっちゃう世代じゃないですか。う、うまい! ちなみにnaughtyは「わんぱく」という意味です。ぴったり。

2025年3月19日水曜日

老褒められ・財前くん・樹脂粘土と折り紙

 先日スーパーのパン売り場で、どれを買うか悩んで棚を眺めていたところ、「ねえ」と後ろから声を掛けられる。振り返ると80歳前後あたりの、品のいい老婦人である。もちろん知らない人だ。老婦人は僕のほうをじっと見つめ、感嘆するようにこう言ったのだった。
「とっても素敵ね。コーディネートが。すごいわ」
 去年の秋口にプールの更衣室でじいさんに腹筋を褒められて以来の、年寄りに褒められるシリーズ。裸も褒められるが、服を着ていても褒められるのだ。なんだ僕は。そしてなんで年寄りばっかりなんだ。島根県だからだろうか。
「えー、ありがとうございます」
 と、とりあえずお礼を言った。
 老婦人は、特に僕の提げているトートバッグに目をやっている様子があり、それはオリジナルのヒットくん生地トートバッグだったので、いちばん褒められがいのあるものであり、とても気分がよかった。minneでは結局いちども売れなかったけど、僕だけは何年もずっと使い続けていて、そして見るたびにたしかに「素敵」なのだった。刺さる人には刺さるのだ。
 ちなみにだが、この出来事があった翌日もまた、スーパーで買い物をしていたのだけど(毎日せっせとスーパーに行くことだ)、今度は売り場の60歳くらいの女性店員から、おもむろに「おしゃれですね」と声を掛けられ、2日連続の記録を作ったのだった。
 ファルマンにこのことを話したところ、少し反感を覚えたらしく、「普通の男の人はあなたみたいに異様に派手な色の服は着ないからね」と呆れたように言われた。知っている。大抵の大人の男は、黒、白、灰、紺、茶しか着ない。靴を左右で別の色にしない。

 Netflixに「白い巨塔」が出たので、喜んで観ている。実は放送時、観ていなかったのだ。ちなみにフジテレビの唐沢寿明ver.であり、確認したところ放送は2003年10月から2004年3月までだそう。僕は大学2年生で、ファルマンとは既に付き合っていた。そういう時期か。ファルマンは当時きちんと観ていたようで、そう言えばこれまでの人生において、伊武雅刀演じる鵜飼教授のモノマネを、ファルマンは何度か僕に向かってやっていた。しかし僕はドラマを観ていないものだから、鵜飼教授のモノマネではなく、伊武雅刀のモノマネとしてそれを受け止めていた。今回20年越しにドラマを観ることによって、初めてあのモノマネの情趣を理解することができるようになる。めでたい。
 「白い巨塔」は観なかったし、そのあとの「不毛地帯」も、途中から慌てて観はじめるという不まじめな視聴しかしていないので(ちなみにファルマンは「不毛地帯」からは遠藤憲一のモノマネを得意としている)、そのうちそちらも配信されたらいいなと思っている。
 あと、このタイミングで「白い巨塔」が配信開始したのは、フジテレビの不祥事がきっかけなのだろうか、まさかそんなことはあるまい、と頭では思いつつも、暮しに困窮して身体を売る的なイメージを思い浮かべてしまい、そうなるとどうしたって、コロナ禍のときの岡村隆史の発言なんかも思い出し、そうか、もしかしたら普段では考えられないクオリティーのものが下りてきているのかもしれないな、などと思ったりした。あの発言は本当にひどかった。たまにこうして蒸し返してやるのが道義というものだと思う。
 それはそれとして「白い巨塔」はなるほどおもしろい。2クールなので、たっぷりある。嬉しい。

 ピイガは前々からハンドメイド、もとい手仕事をよくやっているが、手芸、工作、スライムと来て、いまは樹脂粘土によるネイル製作に熱中している。こういうものである。


 こういう食品サンプルみたいなものを作って、


 なぜかこうする。もちろんこれで日常生活を送るわけではない。着けていたらなにもできない。じゃあなんなんだ、と言われるとよく分からない。たぶんYouTubeとかで観たんだろうと思う。やりすぎおもしろネイル、みたいな趣向か。
 ネイルうんぬんは別として、樹脂粘土での造形には目を瞠るものがある。すごく細かい。鮨にはネタにサシまで入っている。こんなん、めっちゃ愉しんでやってんだろうな、と思う。逆に言えば、作るのが愉しいと感じる人間でなければ絶対に作らないものなので、確実にプラスの感情で作られたものということが保証されており、そういう意味で、望まれて生まれた子的なハッピー感があるな、とも思う。
 そしてピイガのこれを眺めていて思ったのは、ピイガのこの嗜好というのは絶対に僕から来ていて、つまり僕とピイガには同じような衝動、湧き上がるものがあるわけだが、じゃあ僕はピイガの年齢の頃なにをしていたかと言えば、ひたすら、小さくカットした紙で鶴を折っていたわけで、そこになんとなく、忸怩たるもの、と言えなくもない、若干のやるせなさみたいなものがある。僕も子どもの頃、YouTubeとダイソーがあれば、同じようなことをしていたはずなのに、なかったものだから、折り紙だった。この、折り紙というのが、なんかもう、2000年代生まれの人間に対して1000年代生まれの人間というのは、源頼朝とか織田信長とかと同じ括り、みたいな、なんかそんな隔世の感がある。折り紙て。折り紙で、鶴て。そんなものがエンターテインメントだった時代が人類にはあったのです。私の幼少期はそんな時代でした。そんな頃に両親が離婚しました。

2025年3月14日金曜日

娘の成長・水着グラビア・鳥取

 ポルガが塾に通いはじめた。ポルガは相変わらずやけに勉強ができ、進学に関してもあまり心配ないそうなのだが、友達が通っているのと同じ所へ、自習室もあることだし、やや苦手な教科を中心に、この1年くらい念のため通っとくか、という感じで通うことになったのだった。
 それで先日、初めての受講があり、送迎をした。部活で遅い日のことなども勘案し、最終の枠で申し込んだので、だいぶ遅い時間である。ファルマンは、「送るのは私がやるから、迎えはお願い」と言うが、送りだって、よほどのことがない限り僕も帰宅している時間なので、基本的に両方とも僕がやろうと思っている。これは家族への点数稼ぎというわけではない。夜のお出掛け、ちょっとテンションが上がるからだ。それにスーパーも値下げをしているかもしれず、なんなら送迎の間、いったん帰宅することはせず、スーパー巡りをしてもいいかもしれないなどと考えている。
 初回は普通にいちど帰宅したあと迎えに行って、駐車場で10分ほど待った。待つ間、車内でスマホを眺めていて、僕はこういうとき、ゲームもしないし、特に見るサイトもないので、自分の過去の日記を読むのだけど、そのとき期せずして2018年7月の「RACCASE」なんかを目にしてしまい(「おばけ屋敷」と「あごのせ」)、そこに描かれた娘(小2と年中)のあどけなさ、いたいけさ、かわいさに衝撃を受け、またそれがちょうど、夜の深い時間に娘の学習塾の迎えで待っている、というシチュエーションで読んだものだから、いっそう感慨深く、なんだかふたたび例の、子育てが終わってしまう切なさとかに胸が焼かれる、あの感情に襲われてしまった。アンニュイ父。

 泳げていない反作用なのか、最近やけに水着のグラビア画像を眺めている。水着のグラビアって、ヌードやそれ以上の画像がいくらでも溢れているこの時代に、いったいなんの意義があるのかと、そう感じる時期もあるし、水着のグラビアでしか得られない栄養素が明確にあるな、と思う時期もある。いまは後者である。
 もっともプールに行けていない反作用と、冒頭でなんとなく言ったものの、もちろん通っているホームプールに、水着のグラビアに写っているような対象は存在しない。存在しないが、巡り巡って、なんかしらの作用で、プールで泳ぐことと、水着のグラビアは、補完し合う成分があるようである。
 ところでグラビアを眺めていて思ったのだけど、グラビアアイドルたちの着ている水着って、あれっていったいどういう販売体系、ビジネスモデルなのだろう。これまでの人生で、ああいう水着を着ている、グラビアアイドルではない実在の女性というものを、思えば本当に見たことがない。実在の女性は、もっと穏当な水着を着ている。そもそもが面積の大きな水着なのに、その上ラッシュガードを羽織っていたりする。プールだけの話ではない。真夏の海にだっていない。少なくとも山陰の日本海にはいない。
 でもこれは僕が世間知らずだからだろうか。太平洋側の、イメージだが茅ヶ崎とかには、実在するんだろうか。あるいは長島スパーランドのようなレジャープールであるとか、はたまたあの伝説の地と言われるラフテル、もといナイトプールなんかでは、みんなああいう三角ビキニみたいな水着を着ているのだろうか。
 実際そうでなければ、なんか本当に、グラビアアイドルが着ている三角ビキニって、グラビアアイドルの事務所以外、誰も買わないんじゃないかという気がして、だとすればそれってもう、ひとつの柄で、生地が取れる3枚だったり4枚だったりの枚数しか作らない(ましてや1枚は自分用)、僕のオリジナルスイムウェアと大差ないということになってしまう。まさかそんなはずないだろうとも思うが、いや、しかし、あんな水着の実在の女性なんて、とも思い、水着のグラビアを眺めては煩悶している41歳である。

 先日、会社の用事で鳥取まで行ってきた。車である。ひとりなので気楽ではあったが、いかんせん米子とかではなく鳥取県は鳥取市だったので、さすがに遠かった。16時前に向こうでの用件は終わり、あとは帰るだけというスケジュールだったので、出発前は少し色めき立ち、会社が高速代とガソリン代を出してくれるこの機会を利用して、ずっと行きたいと思っていた、米子にあるサウナ温泉施設ラピスパに行ってしまおうか、などと考えていた。しかしなにぶん平日のことであり、翌日の出勤のことを思えば、せっかくのラピスパもあまりゆっくり堪能できないし、なによりサウナのあとってわりと眠くなるからなあ、そのあと米子から家まで帰るのめちゃくちゃダルいなあ、などと考えて逡巡していた。そのあと、他にいい寄り道スポットはないかと模索し、倉吉市にある温水プールに目をつけた。なにしろもう1ヶ月半プールにありつけていないし、ホームプールの復旧時期に関して一切のアナウンスもないしで、とにかく水泳に飢えている身の上である。行ったことのない市営プールというのがまた、秋山竜二ではないけれどワクワクする感じもあり、米子のラピスパは長い人生、いつか行く機会がある気がするけれど、倉吉市の市民プールというものには、たぶん今回を逃せば二度と行くことはないだろうと考えると、これはもう行くのが天命だな、と思った。
 それで前日から、車に久しぶりにプールグッズ一式を載せて、会社の用件のことなどそっちのけで、「明日はプールだ!」と思いながら寝て、当日を迎えたのだけど、なにぶん鳥取市なので、朝がそれなりに早かったこともあり、目的地に着いた時点で、これで夕方まで用件のことをやって、それからまた同じ距離を帰らなければならない状況で、プールに寄り道、だと……? という心持ちになり、それでも夕方までには運転の疲れが癒え、せっかくだからやっぱりプール行っとこう、という気持ちになるかもしれないと期待したのだけど、残念ながら願いは届かず、とにかくとっとと帰りたいという思いから、倉吉市へは立ち寄らず、9号線をひたすら走って家路へと向かったのだった。しょうがないと思う。無理しないで正解。往復で5時間以上の運転をした人間は、普通に考えてプールで泳がない。ましてや翌日が普通に出勤であればなおさらだ。知らない街のプールなあ、行きたかったけどもなあ。