2023年8月27日日曜日

蛙化現象・王家の紋章・夏の終わり

 蛙を200匹くらい殺してしまった。
 労働で遅くなり、この時期にしては珍しく、会社を出たときにはすっかり暗くなっていた。会社のすぐ横には端から端まで数百メートルあるような広大な田んぼが広がっていて、その田んぼと田んぼの間に、慎ましやかに、田んぼの畔の事情なのだろう、やけにアップダウンのある道が拓かれ、そこが僕の通勤路なのだが(岡山の灘崎の風景もなかなかのものだったが、こちらも引けを取らない)、そこを走っていて、最初は、なにかやけに道に散らばってるものがあるな、植物かなにかかな、と思っていたのだが、ハイビームで照らされたそれが、たまにピョンピョンと跳ねたりするのを目にして、無数のそれが、すべて蛙であることを悟った。その道を通らないわけにはいかないので、悟らなければよかった。悟ってしまったばっかりに、ファルマンに帰宅を告げる電話を掛け、通話をしている最中だったのだが、「うひゃあ!」「いやあっ!」と絶叫を聞かせることとなり、ファルマンを動揺させた。これがほんとのカエルコールだね、というジョークは、いまこれを書いていて思いついた。
 ハンドル操作で避けようにも、避けた先にも蛙はいるのだから、どうしようもなかった。結局その晩、僕はたぶん、200匹くらいの蛙を轢き殺したことだろう。つらい出来事だった。もちろん轢き殺された蛙のほうがつらかったに違いないけれど。
 しかし翌朝、出勤で同じ道を走ると、生きた蛙はもちろんのこと、蛙の死骸もまるでない。まさか潰された蛙が、すべてタイヤの溝に詰まったわけではないだろう。これはいったいどうしたことかと思っていたら、道のすぐそばには何羽もの鷺がいて、6月にも書いたけれど、ああそういうことか、と思った。自然界はやけにシステマティックなところがあって、まるで、蛙500匹が鷺1羽とイコールです、と窓口で告げられたような、そんな気持ちになった。そして普段は丸呑みするのだろう蛙を、タイヤで潰した状態で食べることで、鷺の消化の負担が減り、普段なら新しい鷺を1羽発生させるのに必要な蛙が500匹であるところ、200匹で済んだ、などというのなら、昨晩の自分の抹殺走行も、少しは救われるな、などと思った。

 「王家の紋章」を、最新69巻まで読み終えた。34巻まで読んだと書いたのが8月20日なので、1週間で35冊、1日7冊ペースで読んだことになる。怒濤である。まるで母なるナイルの氾濫のようではないか。
 読み始めた頃は、この目まぐるしい展開が続くのだとしたら、いったい69巻ではどんなことが繰り広げられているのか、と途方もなく感じたけれど、いざ読んでみれば順当に、この漫画は35年だか40年をかけて、漫画世界の中ではたった数年ほどのことを、丁寧に丁寧に描いているのだった。絵柄もほとんど変わらないし、作者の理念のブレなさに、驚嘆を超えて、震撼する思いを抱いた。
 この1週間、おかげで筋トレもプールも裁縫もほとんどままならず、日常が瓦解し、特異な期間となった。それはまるで主人公であるキャロル(当初は20世紀から古代に来た少女という設定だったが、途中から21世紀ということになっていた)の追体験のようでもあった。現代と古代、そして昭和から平成、さらには令和と、さまざまな時代が、目まぐるしく移り変わり、少し疲れた。前回の記事で、おもしろい長編漫画は一種の蝗害のようなもの、と書いたが、読み尽くし、作物が食い尽くされたことで、僕はようやく蝗害から解放され、平和な日常を取り戻せそうだ。ものすごくおもしろかったけど、反面その嬉しさもある。ちなみに最新刊の刊行はほんの2ヶ月ほど前なので、続刊は当分先だろう。そしてこの読み方をしてしまったら、70巻が発売されても、1巻だけの追加分なんてどうせなあ……、などと思ってしまいそうで、まあとにかくあまり健全な読み方ではなかったな、と思う。

 今日で子どもたちの夏休みが終わる。まだまだ暑いので心配だが、暑さを理由に休業していたら、大学生並みの夏休みにしなければならないので、仕方ないだろう。
 夏休みは、大きくどこかへ出掛けるということはなかったが、もうこれはどうしようもない。連日警戒アラートなのだから。レジャーは、秋や春に集中して行なえばい(ポルガの部活もあり、これまでのようにはままならそうだが)。
 夏休み最終日の今日は、ピイガが「夏休みの間にいちどくらいホットケーキをしたかったな」などと、いじましいことを言ったので、滑り込みで行なった。ホイップクリームを立て、バニラアイスやチョコソースなども用意して、気を済まさせてやった。ピイガは1枚、ポルガは2枚、僕とファルマンは1枚を半分ずつという、まんま人間の生命力曲線グラフみたいな分量を食べた。1口目がとてもおいしかった。
 とにかく一刻も早く涼しくなってほしいが、週間予報を見れば暗澹たる数字が並んでいて、まだまだ我慢の時は続きそうだ。地を這うような曲線グラフの人間は、せっせとビールを飲んで耐えるしかない。われわれは文字を持たない、聖書に記述だけが残されている、ビールばかりをよすがに生きていたという謎多き民族。愛い奴。

2023年8月20日日曜日

王家・ハイカカオ・絵本

 夏休みに借りて読み始めた「王家の紋章」が滅法おもしろい。
 話そのものがもちろんおもしろいのだけど、それに加えて、「ガラスの仮面」とまったく同じ、「作者の情熱」としか言いようのない、読者の反応だとかマーケティングだとか、そんなものに囚われていない、混じりっ気のない「私はとにかくこれが描きたいのだ!」という強烈な業が、全編に渡って満ち溢れていて、それがたまらなくおもしろいのだ。作者が自分を愉しませるためだけに描かれている(実際はそんなことないのかもしれないが)ものが、なぜか「読者はこういうのが読みたいだろうな」と計算されて描かれたものよりもはるかにおもしろいという、その奇蹟的な現象を生み出す力こそ才能というのだろうな、などと読んでいて感じる。
 状況に恵まれ、いま実は、家に最新刊までの全巻が揃っている(完結ではない)。だから心置きなく読み進められる。それはもちろん嬉しいのだが、時間を取られるのも事実で、なかなか他の読書や、日記を書いたりということができずにいる。でもこれはもうしょうがないと、あきらめている。おもしろい漫画は、しょうがないのだ。喩えは悪いが、これはもう蝗害みたいなもので、食い尽くすまで収まらない。せいぜい早く読み終えようと思う。ただし夏休みから読み始めているのに、まだ34巻で、やっと半分というところ。先は長い。嬉しいけども。

 先月の体調不良の折に服んだ薬で、陰嚢が思うがままに寛ぐ姿を目の当たりにし、血流というのはなんと大事なものかと再認識し、恒常的に血流が良くなれば、いつでもあのような陰嚢でいられるのかと希望を抱き、インターネットで血流を良くする方法を検索したところ、ハイカカオチョコレートを紹介される。カカオ分が70%とか80%とか90%とかの、あれである。
 これまでもチョコレートは愛好していたが、それはハイカカオなどと謳っているものではなく、そしてそれは、ハイカカオチョコレートをおすすめするページにおいて、「ああいうチョコレートは飴です」という、なかなかセンセーショナルな文言でばっさりと切り捨てられていた。それ以来、まだ食べかけだったそれは、そのまま冷蔵庫で冷やされ続けている。薄々は感じていた。薄々というか、甘いチョコレートはそもそも、罪悪感を伴う妖しいおいしさが身上みたいな食べ物だったはずだ。
 しかしページを読んだ日からすっぱりと宗旨替えし、今はせっせと、カカオ分80%台のチョコレートを摂取している。これまで食べていたものより甘くなく、口どけもよくないが、でもただそれだけのことだな、と思った。幸い僕は、これまで食べていた飴チョコに、飴を求めていたわけではなく、それでもチョコレートらしさを得ようとしていたようで、チョコレートの濃さを希求した製品に、抵抗感はなかった。なにより、これを習慣的に食べることで、陰嚢が寛ぎ、さらにはアンチエイジング効果まで望めるのだと思うと、メリットしかないと思った。ありがとうございます。

 夏休みに行なった図書館巡りには、スタンプラリーのほか、実はあともうひとつ個人的な目的があって、子どもたちに絵本を読んでやっていた頃に読んだものだと思うのだけど、断片的な場面だけが思い出され、しかしそれが誰の何の本だったかはっきりしないものがあって、家にある蔵書では見つけ出せず、図書館でその探し当てようと目論んでいたのだった。
 とはいえ、完全になんの取っ掛かりもなく、記憶の中の曖昧なひとつの場面だけを頼りに、絵本棚の端から端までを当たるわけもいかない。なんとなくイメージの中のそれは、五味太郎の絵ではないかという気がしていたので、行った先々の図書館で、五味太郎の本を片っ端に確認した。しかし「これだ!」というものは発見できなかった。もしかするとぜんぜん五味太郎じゃないのかもしれない。
 というわけで、今でもその本の正体は判明していない。
 思い浮かんでいる場面は、サーカスの情景が俯瞰で描かれていて、たぶん本の前半で、パフォーマンスを失敗し団員が怪我をするのだが、ショーの最後でその団員が再びステージに現れ、客は「大事なかったようだ」と安心する、みたいな、なんかそんな情景。
 どなたか、心当たりのある方は、お知らせください。なんてことを、妻以外ほぼほぼ誰も読んでいなさそうなブログで書くという、この行為の清廉と美しいこと。

2023年8月8日火曜日

不純・ナイトキャップ・京極堂

 ポップサーカスの松江公演を観て、大いに感動したのだけど、でもどうしたって大人なので、外国の人も大勢いるサーカス団員の、背景のことなどにも思いを馳せてしまい、それは不純であると思った。故郷の親はどう思っているのかとか、どういう環境で暮し、どの程度の自由が与えられているのかとか、つい考えてしまう。演目のひとつに、中国雑技団系の6人の少女による曲芸があり、これなんかはもう、完全に親の視点で見てしまい、いかにも先輩だろう相手の投げたものを、後輩と思しき少女がキャッチするのを失敗したりすると、舞台裏での叱責の情景が思い浮かんでしまい、それはもう芸そのもののハラハラドキドキとはまったく別のハラハラドキドキで、サーカスの見方としては間違っているに違いなかった。子どもは決してそんなことは思わないので、やはりピュアであることは尊いな、と思った。
 ちなみにサーカスは、動物も登場するのかと思いきや、ほぼ現れず、帰宅後にウェブで確認したところ、どうもいまどきのサーカスというものは、動物愛護の観点から、動物による曲芸というものは排斥されつつあるらしい。ほうそうか、と思う。動物は、文句を言うことも逃げ出すこともできないので、人間の勝手で芸を仕込まれてあっちこっちと引き回されて可哀相だ、というのはもっともな話だが、でもそれは人間自身だって同じようなものではないか、ということも思った。華やかなショーを眺めながら、「やりがい搾取」などというワードが頭に思い浮かぶので、ピュアでなくなった大人は哀しい生き物だと思う。

 夏の暑さが原因であるに違いないが、髪が傷んでいて、キシキシする。それをファルマンに訴えたところ、「上の妹はナイトキャップを着けて寝ているらしいよ。髪にいいらしいよ。シルクがいいらしいよ」という答えが返ってきて、へえ、となった。
 ナイトキャップ。amazonで見てみると、「赤ずきん」に出てくるおばあさんのような、あれである。あの時代、それどころかもっと前から、ナイトキャップというものはまるで進化していないようだ。それでも美容に造詣の深い次女が言うのだからということで、1枚注文することにした。
 選ぶにあたり、頭に密着させる仕組みがゴムでないというのは絶対条件だった。とにかく就寝時のゴムを毛嫌いしているので、それだけは避けなければならなかった。というわけで、リボンで結ぶタイプのものにした。
 まだ着けて寝るようになって3日目なので、効果のほどは分からない。実は商品が届いたその日に、ファルマンに髪を切ってもらい、それでキシキシ感がだいぶ緩和されたので、ナイトキャップそのものによる効果というものは計測できなくなってしまった。なんやそれ。
 ちなみにだが、ナイトキャップを頭に被りつつ、相変わらず全裸で寝ている。全裸就寝に関してはファルマンからずっと呆れられていて、「せめて下着だけでも」と懇願されたりもするのだが、ずっと拒み続けていた。それだのにここへ来て、ナイトキャップだけが採用された。全裸ナイトキャップ。いよいよファルマンの眉間の皺は深くなる。「寝るときに全裸である」と「寝るときにナイトキャップを着ける」のベン図の重なりは、どのくらいだろう。同志はどれくらいいるのだろうな。

 おもひでぶぉろろぉぉんで過去の日記を読んでいたら、2006年の8月に僕は京極夏彦の京極堂シリーズを読んでいて、ああ京極堂シリーズ懐かしいな、などと思っていたら、なんとものすごくタイムリーに、9月にシリーズ最新作(「鵼の碑」だそう)が発売される、というニュースが飛び込んできたので、だいぶ驚いた。シンクロニシティ。
 ちなみに17年ぶりだそうで、そういう意味でもシンクロがある。当時の再読は、その年に刊行された「邪魅の雫」とは無関係のようだが(自分が「邪魅の雫」を読んだのか読んでいないのか定かでない)、17年ぶりの時を経て、ちょうど読み返している当時の日記の自分とともに京極堂シリーズの最新作を読むというのも一興だな、などと思う。
 でも腰が引ける。果たして17年経った今の自分に、京極堂シリーズが読めるだろうか。読む気力、体力があるだろうか。やってみたらぜんぜん無理だった、ということになったら、ちょっとショックを受けそうで、挑戦そのものをスルーしたい気もしている。そもそもキャラクターをほとんど覚えていない。いきなり最新作を読んでもいいのだろうか。過去作を再読するべきなのだろうか。でもだとしたら本当に壮大な計画になってしまう。悩んでいる。

2023年8月2日水曜日

副産物・よよよよ400・あだち充足

 新型コロナに罹患した疑惑があり、その後遺症として名高い、「ちんこが小さくなる」について、「その様子は見受けられない」という報告をした(だからみんな安心したと思う)。しかしながら、まだサンプル数(回数)が少ないため確かなことは言えないのだけれど、なんとなく、罹患前に較べて、発射が早くなったような気が、しないでもない。前までなら耐えられていた度合で、「あっ、あっ」となる。ちょっとそんな傾向を感じる。
 そこで「新型コロナ 後遺症 早漏」で検索してみたところ、やはり「ちんこが小さくなる」や「勃起不全」ばかりが出てきて、早漏ということを言っているページは見つけられなかった。もしかしたら世界初の症例なのかもしれない。
 もっとも早漏かどうかというのは、長さや固さ以上に感覚的なものなので、それが事実かどうかは確かめようがない。あるいは発想の転換で、性器に問題が生じて早漏になったと考えるのではなく、コロナ罹患を経て、俺の指使いに磨きが掛かったと捉えることも可能だ。だとすれば後遺症ではなく、副産物だ。新型コロナの副産物、自慰のテクニックの上昇。力が抜けたことで、絶妙なタッチが実現したのかもしれない。

 先日、夏祭りが3年ぶりだか4年ぶりだかに執り行なわれたので、家族で参加した。コロナ以降、初めてだし、コロナ以前も、なぜか倉敷では不思議なほどに夏祭りというものに縁がなかったので、ポルガも含めて、子どもたちはほぼ人生初の夏祭りなのだった(ポルガは第一次島根移住の際に連れて行ったこともあったが、記憶にないという)。
 数年ぶりの開催だったからか、島根のくせにすごい人出で、身動きが取れなくなるほどの瞬間もあり、そもそもそういう状況に慣れていないし、さらには暑さもあって、ひどく疲弊した。来年からは子どもだけで行ってくれよとも思うが、夏祭りの日のティーンのハイテンションを思うと(目の当たりにした)、なかなか娘を野放しにする気にもなれないのだった。
 屋台もたくさん出ていて、僕はもちろんこういう所のものは決して口に入れたくないのだけど、子どもたちはピュアなので「あれも食べたい」「これも食べたい」と言ってきて、でもだいたいのお店が行列だったので買うこともままならず、それでもひとつくらいはということで、チョコバナナの店の列に並び、購った。値段がどこにも書いておらず、いくらなんだろう、どうせお祭り価格だから高いんだろうなと思いながら、ポルガとピイガの分、2本を注文したら、「800円です」と言われたので、聞き間違いかと思った。あるいは、4人で並んでいたので、ひとり1本、4本の注文だと思われたかと思った。いいいい1本、よよよよ400円? ここここの、いかにも安そうな貧弱なバナナを、衛生面に大いに不安のあるチョコレートのプールにくぐらせ、そこにカラフルな粒粒のやつを振りかけただけの、これで、400円? 400円取るの? マジで? えっ、マジで言ってんの? たこ焼き600円とか、りんご飴500円とかは、まあ「お祭り価格だから」の許容範囲だ。でもこのチョコバナナ1本400円は、さすがに限度を超えている。易々と超えてるだろ……、と思いながら、子どもを引き連れて並んだ手前、「じゃあいいです」とも言えず、忸怩たる思いで1000円札を出し、200円だけ返ってきた。カツアゲかと思った。子どもたちは「おいしい」と言って嬉しそうに食べていて、まあ子どもが喜んでいるならいっか……、というふうに思えればいいのだが、あんな不衛生で法外な値段のものを喜んで喰うなよ、むしろ唾棄しろよ、と思ってしまうので、いつまでも溜飲が下がらなかった。今もだ。この半年くらいで、いちばん無駄に使ったお金だったんじゃないかと思う。
 そのあとに見た花火も、この衝撃には敵わず、久々の夏祭りの思い出は、チョコバナナ1本400円という驚き一色に染まってしまった。だって、ほんとに、あれが400円は、さすがに間違ってるだろう。あまりに儲けが出過ぎだろう。将来もうチョコバナナ屋さんになろうかな。おっさんのチョコバナナも咥えてくれーや。

 「タッチ」を読み終えた。途中でも書いたが、結局は浅倉南なんだな、ということを思った。あだち充が描きたかったのは、上杉兄弟でもなく、もちろん野球でもなく、ただ浅倉南なのだ。あだち充が描く物語は、主人公とヒロインが、表面上は紆余曲折ありながらも、結局は深い部分で一切揺らがず強く結びついていて、それは少年が物語を読むときの願望である、「とにかく無条件に主人公(俺)がモテ続ける」に他ならないが、あだち充はたぶんそれをビジネスライクにやっているのではなく、さらにその上位の存在として、「それを描いているのは俺である」という、自身の歪んだ欲求の充足のためにやっているのだと思う。それだからこんなにも、人の情欲をくすぐるのだと思った。大いに参考にすべき創作法だろう。

2023年7月23日日曜日

40代・繋がり・おろち

 季節が梅雨から本格的な夏へと移行するタイミング。ここで毎年、体もそれまでの状態から夏仕様へと移り変わる必要があって、サーフィンのように、スムーズに波に乗れれば大成功なのだが、今年はそこに風邪菌という隕石が堕ちて、海は荒れに荒れ、甚大な被害が発生した。僕の顛末は「おこめとおふろ」に書いた通りだが、ここへ来てファルマンのダメージが大きい。ファルマンは僕がだんだん回復してきた週の半ばあたりから、入れ替わるように徐々に体調を悪化させていった。今週は難易度の高い仕事が来ていたことに加え、先の記事にも書いたように、ファルマンは咳という行為に多大なエネルギーを消費するため、「咳が続く状態」は、どんどんファルマンの体を疲弊させてゆくのだった。体の具合を訊ねた僕に向かってファルマンは、「30代までの風邪は日に日に良くなる。40代からの風邪は日に日に悪くなる」と答えた。なんて、なんて嫌な格言か。4月生まれの妻だけが40代というこの半年余りを、思う存分にいじり、堪能してやろうと思っていたが、そこまで悲愴感を漂わされたら、さすがに茶化せなくなった。また、「40代の風邪は寝ても良くならない」というフレーズ、これは僕自身も感じ、記事の中で述べたけれど、ファルマンは朝起きてしばらく布団から上半身だけを持ち上げた状態で、なにもせず、どこも見ないまま、廃人のように項垂れ、そしてそれを絞り出すように言うので、説得力がまるで違った。さすがモノホンの40代なのだった。
 そんなファルマンは、日曜日になった今日現在、やはりまだ気怠そうだ。でももう季節は容赦なく真夏に移行したし、夏休みに入った子どもたちは毎日家にいる。もうこれから2ヶ月、ファルマンが本当の意味で清々しく快調になることは、決してないのかもしれない。そして考えてみれば、ファルマンって毎夏こんなもんじゃなかったっけ、とも思う。

 音楽のサブスクのやつ、家族各人それなりに活用し(なんと言っても中学生が一番だが)、どうやら契約はこのまま継続され、わが家に定着されそうな様相である。
 ところで先日これに関してヒヤリとする出来事があったのだが、あるときポルガから急に、「パパ、落語とかダウンロードしてたね」と言われたのである。えっ、なんで知ってるの、と訊ねたら、「フォローしてるから」とのことで、どうもデフォルトの、非公開にしていないアカウント設定では、フォロワーに対してプレイリストなども丸裸であるようで、もちろんアカウント名が本名というわけではないのだが、それにしたって嫌なので、慌てていろんな項目を非公開設定にした。
 どうも感覚が現代のそれに追いついていないのだが、なんで、なんで音楽をダウンロードし、そして聴くサービスに、「データベース」と「自分」以外の、横の繋がりが必要なのか。こちらは、そんな繋がりの可能性を、はじめからまるで想定していないのだから、非公開設にするという考えが浮かぶはずもない。そして現代っ子には丸見えとなっていた。
 これは恐怖である。
 結果的にダウンロードしなかったのだが、あるとき、音声データみたいな感じで、延々と喘ぎ声が流れ続けるのってないかなー、と検索を掛けたことがある。そうしたらそれっぽいものがそれなりに出てきたのだが、でももしも操作をミスって家族でのドライブのときに再生されちゃったらまずいしなー、と思って取り込まなかった。九死に一生である。家族でのドライブのときにミスって流すどころの話ではない。もう少しで娘に喘ぎ声のダウンロードを目撃されるところだった。
 今回のヒヤリハットを肝に銘じ、これからの人生で取り入れるさまざまなサービスは、基本仕様として横の繋がりが推奨され、さらけ出すことが初期設定になっている、だから取りも直さずあらゆる項目を非公開に設定しなければならない、と思った。ライフハックだ。

 体調不良を経て、体に老廃物的なものがまつわりついているような感覚があり、サウナ欲が高まっていた。サウナって、行ったら行ったで、こんなもんか、という感じなのだけど、行きたいなあと切望するときの期待値と来たら、いつもとんでもないものがある。
 というわけで暑気払いも兼ね、久々におろち湯ったり館へと足を運んだ。土曜日の晩。さすがに夏なのだからプールが混んでいるかな、と危惧していたが、大丈夫だった。貸し切りだった。木次は裏切らんな。木次は1年のうち、桜が満開の1週間しか人が密集しない。本当にそう。そういう習性の希少生物のようだ。
 サウナも気持ちがよかった。相変わらず客は僕以外みんな顔見知りで、どこまでも田舎臭い話をしていた。あまりにもリアルで、あまりにも別世界なので、逆に僕はいま都会のタワーマンションにいて、VRゴーグルを着けてこの情景を疑似体験しているのではないかという気持ちになった。マニアックなソフトだな。
 サウナで老廃物が排出されるということは特にないらしいが、そうは言っても、なんかしらのものは払われた感じがたしかにある。だから行ってよかった。行くたびに、もう少し近くにあって、もう少し頻繁に行ければなあ、と思うが、このくらいの距離感が、あのサウナの別世界感を得るにはちょうどいいのかもしれないとも思うのだった。あのクソみたいな田舎臭さも、おろち湯ったり館の魅力であるに違いない。

2023年7月11日火曜日

南という女・ゴム・やけに

 ちんこを浅倉南に喩える、ということをしたのを契機に、「タッチ」の何度目か知れない読み直しを始めた。愛蔵版の第2巻で、高校に入学して少し経ったくらいの頃。和也はもちろんまだ存命(あっ、ネタバレしちゃった!)。
 それにしても、こうして数年おきに読み返すたびに、「南という女は……!」という思いが強まるのを感じる。当然南自身の行動は変わらないので、読んでいるこちらの感覚が、数年でわりと変化しているのだ。そのことに気付かされる。つまり、ジェンダーとか、ルッキズムとか、そのあたりのことだ。自分自身は確固たる信念を持ち、他者の影響は受けず、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、という確かな指針がある人間です、などと言いながら、実は知らず知らずのうちに、どうしたって生きている時空のパラダイムに染められているようで、何年か前には気にならなかった南の振る舞いに、それはさすがに嫌な女だろ、などと感じたりする。それは極端な言葉で言えば、「粗暴さ」ということになる。南の行動には、絶対的な自信(自らのポテンシャルもさることながら、上杉兄弟(現状では主に和也)の幼なじみだという出自も合わさっての)に裏打ちされた、無意識の粗暴さがある。この学校で私に敵う女はいないと南は思っているし、それを隠そうともしていない。その隠そうとしなさが現代の感覚からはかけ離れているな、ということを感じる、2023年の「タッチ」読み返し作業である。
 もっともそれはそれとして、純粋に「タッチ」めっちゃおもしろい。双子と南の関係は、これからどうなっていくのだろうか。南はどっちを選ぶのか、あるいはふたりとも一緒にの串刺しファックパターンなのか、目が離せません。

 熱帯夜の季節になり、参っている。寝たあと、2時とか3時とかに、蒸すか、そうじゃないかって、単純に気温だけで決まる話ではないようで、そこが悩ましい。毎日が賭けだと言っても大袈裟じゃない。今日はエアコンなしで大丈夫だろう、と思って付けずに寝たら、3時ごろに汗だくになって起きたりする。もちろんその逆もある。
 さらに事態をややこしくするのが、僕が寝るとき全裸であるという要素である。普通なら逡巡なくエアコンを付ける場面でも、ファルマンはその点において躊躇うことがあるそうで、「お願いだから服を着て寝てくれ」ということを訴えられるのだが、それに対して僕が首を縦に振ることは決してないのだった。なぜなら、2年半前に読んだ『パンツを脱いで寝る即効療法』に、ゴムの締め付けは体に毒なので、寝ているときくらいは脱がないと不健康だ、ということが書いてあったからだ。それがもう完全に刷り込まれてしまい、ゴム製のものを身に着けて寝ると、もはや精神面から体調を崩すような気がするのだ。
 ということをファルマンに説明したら、ファルマンがこう言った。
「その本がゴムだよ!」
 いいフレーズだなあ、と思った。全体の中の悪い部分のことを、これまでは「癌」と表現していたが、これってちょっと不穏なので、今後はゴムでいいんじゃないかと思った。まあ僕、ゴムめっちゃ好きだけど。150枚のショーツを作るために、ダイソーで何回ゴムを買ったか知れない。でも寝るときは全力で忌避する。愛憎入り交じっているのです。

 22歳の春の手書き日記を読み終え、通常運転に戻ったので、久しぶりに「百年前日記」でも書こうかな、とも思ったのだけど、22歳の無職の時期の自分を振り返り、最後ちょっと精神が引っ張られそうになったので慌てて終了させたわけで、このあとすぐに「百年前日記」をやるのは無理だな、と思った。「百年前日記」も、なんのことはない、要するに無職日記に他ならない。しかもこちらは子持ちver.であり、悲壮感や切迫感という意味では22歳の比ではない。だから当分は無理だ。
 それにしても、僕はどうも、人生の中に、無職期間がやけにありはしないか。やけに。いたずらに。放埓に。気儘に。積極的に。乗り気に。前のめりに。おかしいな。

2023年7月5日水曜日

インスタ・南・推し

 実に梅雨めいていて、気怠い日々である。思考する気が起きず、読書をする気が起きず、裁縫をする気が起きず、筋トレをする気が起きず、日記を書く気が起きず、じゃあなにをしているのかと言えば、インスタグラムをやっている。ジョニファー・ロビンの下着紹介のやつ。ずいぶん間が空いて、フォロワーたちをだいぶやきもきさせてしまったと思う。久しぶりにやったら淡々とおもしろい。今のこの散漫な気分に合っているので、次々に投稿していこうと思う。
 ところでこれをスマホから投稿することはないのだけど、過去にどういう投稿をしたか、スマホで確認したい場面はある。しかし職場でも、お店のレジ待ち中でも、なかなか自分のインスタグラムの画面を開く勇気はない。なにしろあまりにもビキニショーツのどアップ写真だ。田舎の車通勤なので感覚が少々失われているが、都心部の人々は、通勤通学の電車内でよくスマホを眺めるのだろう。であるならば、ビキニショーツのどアップ画像ばかりが並ぶインスタグラムというのは、なかなか開かれづらいだろうなあ、と思う。カリスマインスタグラマーへの道のりは遠い。

 自分は強めの右利きなので、そのためにちんこが左に向いてしまっている、ということを前回の記事に書いた。だからこれからは左手の稼働を意識していきたい、と。
 書いたあと、これって「タッチ」みたいな話だな、と思った。いつも右手(和也)ばかりが目立ち、左手(達也)は陰でいじけていた。しかし哀しいかな、和也が張り切れば張り切るほど、ちんこ(南)は達也のほうを向いてしまう……。
 という話をファルマンにしたところ、「南を!? 南をそれに!?」と驚嘆された。たしかに浅倉南をちんこの喩えに使ったのは、これが人類史上初めてのことかもしれないと思った。
 俺の南が、今後もうちょっと和也のほうを向いてくれますように。
 でもこれだけは言っておきたいこととして、俺のちんこはゲームの賞品じゃない。

 推しという言葉、文化が花盛りである。
 なんか推しがある人って人生が愉しそうだな、羨ましいな、ということを思い、某ネット発の歌い手を推しているファルマンに話をしたら、「あなたにはMAXがいるじゃない」と半笑いで言われ、「なにを!」となった。
 なんかしらのファンであることは愉しそうだという、今回とまったく同じ考えから、MAXのファンになることを表明したのは、振り返ったらもう4年も前のことだった(4年前はまだあまり「推し」という表現は一般的ではなかったようだ)。ということは僕は、もうMAXのファン歴が4年になるのか……。なるのか、ではない。なってない。白状してしまえば、実は僕はMAXのファンではないのだ。人生の中で一秒だってMAXのファンになり下がったことなどない。もぐりなのだ。丘MAXなのだ。MAXという頂は少し高すぎて、僕には登ることができなかった。
 それでもいちどはファンになろうとした間柄なので、半笑いでオチのようにMAXのことを使われると、少し気に障る部分がある。MAXをバカにしていいのは俺様だけだ! と、ベジータのような気持ちになる。とても複雑な関係性なのである。
「まあ結局、あなたは自分のことしか好きじゃないもんね」
 と、これもまた4年前と同じようなことを言われた。たしかにそうだ。だから僕は誰かを推したりしない。そして大々的に発信するわけでもないから、誰かに推されることもない。推しも推されもしないとは、つまりこういう状態のことを指すのか、と思った。