2021年5月23日日曜日

オオキンケイギク・友情・百年前日記

 今年は異様に早く梅雨入りし、そもそも山陽から山陰に冬に出てきて、ようやく本格的な春となり、これからは山陰のとても限られた、明るい天候の日々になると思っていたら、見事に期待を裏切られた。やー、ぐずつく。日本海側は本当にぐずつくな。
 それで、向こうとは気候があまりにも違うし、生活もなにかとバタバタしていたりで、すっかり失念していたのだけど、先日車で走っていた道の端に、オオキンケイギクが咲いていて、「あっ」と思った。そういえば、5月下旬は、オオキンケイギクの咲く時期だった。
 あまりにも悪名高く、好きだなんていったら白眼視されるオオキンケイギクだけど、でもやっぱり形といい、色といい、好みだ。
 そのとき見かけたのは道路と歩道の間のちょっとした土の部分に咲いていたもので、目にして思い出した感慨はあったものの、スケールとしてはあまりにも物足りなかった。それ以来、どこかに群生していないものかな、と期待しているのだけど、行動範囲には残念ながら見当たらない。川や湖など、近所に水辺はけっこうあるのだが、どうやらこの土地はあまりオオキンケイギクに侵食されていないようだ。それはたぶん世の中的にはいいことなのだが、個人的には少し悲しい。
 ちなみに僕のLINEのプロフィール画像はオオキンケイギクだ。

 相変わらず「ズッコケ三人組」を読みまくっている。元のシリーズはもちろん、中年のほうももう半分くらい読んだ。前回これについて述べたとき、よく考えたらズッコケ三人組って友達の物語じゃないかよ、といまさらながらに憤慨したが、読めば読むほどその思いは強まっている。このシリーズは、友情とか親友とかの大切さを押し付ける、説教臭い児童文学ではなく、たとえば「おいしい」という言葉を使わずにおいしさを表現する、みたいなもので、ハチベエ、ハカセ、モーちゃんの3人は、ことさら友情を確かめ合うわけではなく、むしろその結びつきは友達と呼ぶには足りないくらい淡白のような気さえするのだけど、しかしやっぱり強い友情がここにはあるのだ。その友情はあまりにも強固で当たり前のものだから、わざわざ語るまでもないのだ。それだから僕は時間差でそのことに気づいて、なんだよこれめっちゃうらやましいやつじゃん、と身悶えることとなった。
 友達が欲しい、などといっている間はダメなのだ。友達とは気づいたらなってるもの(「君に届け」)だし、なんとなくいつも一緒にいて、周囲から「ズッコケ三人組だ」と評されるものなのだ。すなわち、友情とは無自覚であるべきなのかもしれない。友情は無自覚であるべきだと自覚した僕と、誰か友達になってくれないだろうか。

 ブログが拡散し、ふたたびこの「hophophop」や「おこめとおふろ」を投稿するようになったことで、それまで収束していた「百年前日記」を今後どう扱ったものか悩んだ結果、去年から書いている、去年からの日々を綴った、その名も「百年前日記」を、不定期に更新している。しかしあまりに赤裸々な内容なので、いちいち投稿報告はしていない。しかし投稿報告をしないと、あまりにも誰にも読まれていないような気がして、もっともこれは投稿報告をしたところでそう変わる気もしないのだけど、とにかく広く読まれたいような、あまり読んでもらいたくないような、いかにも、あえてこの時代にブログなんてものをやっている、こじらせ感が横溢している次第だが、しかしこの複雑な心境こそブログの真髄だろうとも思うわけで、その思いの発露として、やっぱり投稿報告はしないのだけど、このたびここに、そんなものを不定期に更新しているんですよ、ということを記した。こじらせている。

2021年5月11日火曜日

体・夏・友

 サウナやプールで自分の体を見るたびに、首をかしげる。
 この体は……、締まっているのか? それともただ痩せているのか?
 自分でも、どうにも判断がつかないのだ。167センチで53キロなので、瘦せ型ではある。だから知らない人から見たら、僕は筋肉がついている人ではなくて、贅肉がないものだから必要最低限の筋肉が表面に露出しているほうの人にしか見えないだろうと思う。しかし曲がりなりにも、僕は実は筋トレをしている人間なのだ。筋肉がきわめてつきにくい体質ではあるけれど、そうはいっても体としてもなんかしらの反応は示しているはずだ。これはその筋肉だ、だからこの人物はいわゆる細マッチョなのだ、という気もする。
 筋トレを始めてもう2年あまりになるが、それなのにまだこの段階、というのが切ない。

 先日とある場所で見かけた女性が、非常にどこかで見たことのある気がする顔の人で、誰だっけ誰だっけ、としばらく悩んだ。島根県生活も2度目なので、かつての職場で知り合った人物であるとか、いろいろ選択肢はある。しかしなんとなくの印象で、どうもそんな最近の交流ではないような気がする。あの人を見たのは、もっとずっと前、たとえば僕が十代の頃だったのではないか。しかし十代ということは横浜市時代である。そんな頃に知り合った人と、まさかこんなふうに島根県でばったり出会うものだろうか。まあ自分自身がこうして島根県に来ているのだから、相手だってなんかしらの事情により島根県にたどり着く可能性はいくらでもある。しかしそれにしたって思い出せない。絶対にどこかで見たことあるのに、どの時代のどの集団にいた人なのか、まるで見当がつかない。もっともよくよく思い返してみれば、別にそこまで特徴のあるわけでもない、よくある顔だ。どこで出会ったということもなく、人生の端々にあの手の顔の女性というのは存在していたのではないか。そんなふうにも思った。
 それでもずっと頭の中で、その女性の顔を思い浮かべていた。
 そして夜になって、つまり5時間くらい経って、ようやく思い至った。
 まさか本人ではないと思うが、あの女性は、モーニング娘。の振り付けで知られる、夏まゆみ先生にそっくりだったのだ。なるほどあれはよくある顔だ。同級生の母親とかに、必ずひとりはいる顔。そして自分が十代の頃に交流があった(「ASAYAN」などでよく目にしていた)、というのもぴったり当て嵌まる。特定できてとてもすっきりした。

 「ズッコケ中年三人組」に手を出す。目下「ズッコケ三人組」を僕と競い合うように読んでいるポルガと、これも一緒に読もうと思っていたが、冒頭からハチベエは水商売の女をホテルに誘い、不倫をしようとしていたため、とても読ませられない、と思った。あくまで、かつて「ズッコケ三人組」を読んでいた元子どもの大人、すなわち僕みたいな人間向けに書かれたものであって、リアルタイムで児童書のそれを読んでいる子どもには向けていないらしい。挿絵もないし、ここまできっぱり貫いていると気持ちがいいと思った。
 この本で主人公たちは40歳になり、それぞれの実生活においてそれなりに苦労をしているが、しかし彼らがどれほど苦境に立たされたところで、やはり「三人組」というくらいで、その友達の存在がずるいと思った。「ズッコケ三人組」は、それほど友情物語というわけでもないけれど、しかし三人組だ。そういえばずるい。いまさら気づいて、そのずるさにおののいている。

2021年4月26日月曜日

ビール・ファル教・ズッコケ

 この3日ほど、ビールを飲んでいない。なんか唐突に飽きたのだ。たまにこういうときがくる。ビールに限らない。僕の性分だ。急に冷めるのだ。この飲み物を、どうして僕はそんなにせっせと飲むのかと、とても不思議な気持ちになった。義理立てするかのように必ず、なぜ飲んでいたのか。どうしても飲まなければならないほどおいしいものでもないだろう。というより、飲んで得られる旨味も爽快感も、もう分かりきっているだろう。じゃあもう実際に飲む必要なんてないんじゃないか。
 飲むと運転ができなくなる、というのも飲む気を萎えさせる理由のひとつだ。夜に運転ができるとして、まさかこの僕が友達と遊ぶわけでもあるまいし、いったいどこへ行くというのか、という話ではあるのだけど、なんというか、気持ちの問題なのだ。車を運転できるということは、夜が、すなわち一日が、まだまだ展開し得るという希望になる。心底おいしいわけでもないものを飲んで、その希望をどぶに捨てるのが惜しくなった。
 これまで呪いのごとく欠かさず飲んでいたので、飲まないでいると、解放感がある。一日の疲れを解放するためのビールだったはずなのに、日課になったことで、逆に枷になっていたのかもしれない。手離してみたらとてもすっきりした。今回はビールだったが、こういうことは人生の中でたびたびある。好きなことも、高じたり重ねたりすると、いつしか囚われるようになる。そこを突破してさらに突き詰めれば、極めるということになるのかもしれないが、なかなかそこまで入れ込めるものは少ない。少なくともビールは僕にとってそれではなかったようだ。これからは飲みたいときにだけ飲もうと思う。

 ファルマンの教習所での適性検査の結果が返ってきて、おもしろかった。「注意力:C」、「判断力:C」「柔軟性:C」「緻密性:C」などと、概ね評価は低く、それはそうだろうと思ったが、その評価欄の中で燦然と輝く「A」評価もあって、なんだろうと思ったら、「自己中心性」と「虚飾性」だった。ファルマンはこれを、「Aがいちばん低くて良いということだ」と主張するのだが、そんなことは用紙のどこにも書かれていないし、悪い要素のときだけ評価(Aが「すごい度合」、Bが「普通」、Cが「皆無」であると認識した)が逆になるなんて、ややこしいだろう。それに、もう17年以上もファルマンと一緒にいる僕が、「自己中心性」と「虚飾性」がめちゃくちゃ高いという診断結果に、とても納得がいったので、やっぱり逆じゃないんだと思う。まあそんなこといったら、日芸なんかに行く人たちは、もちろん僕も含めて、だいたいこの結果になる気もするけれど。
 それにしても厳しい。言葉に容赦がない。「自己中心性」は、「ジコチュー」として言葉に馴染みがあり、まだ受け止めようがあるけれど、「虚飾性」と来たらどうだ。虚飾。なんと残酷で哀しい言葉だろうか。38歳になって教習所に通ったりしなければ、指摘されることもなかった虚飾性。言ってやんなよ、とさすがに思った。

 ポルガが「ズッコケ三人組」を図書館で借りていたので、なんとなく僕も手に取って読んだ。そうしたら殊の外おもしろかったので、むしろ親のほうが嵌まるパターンのやつで、次々に借りて読んでいる。2ヶ月ほど前には、同じくポルガの借りた「ルドルフとイッパイアッテナ」がきっかけで、斎藤洋を何冊も読んだ。仰々しいわりに大した中身のない一般小説よりも、児童向け小説のほうが文章も簡潔でよほど読むに堪えるものがあるのだなと思った。
 もっとも「ズッコケ三人組」シリーズは、さすがに今回が初邂逅ではなくて、まさに児童の頃に何冊か読んでいる。しかし中学生になってミステリに傾倒するまでは、そこまで熱心に本を読むタイプでもなかったので、本当に「何冊か」だ。
 それで今回改めて読んだ結果、まず驚いたのは、この物語の舞台が東京ではなかったという点だ。読めば普通に、「瀬戸内海に面した街……」みたいなことが書いてあるのだが、なぜか勝手に東京だと思い込んでいた。登場人物たちの言葉に方言がないことと、ハチベエの家が八百屋であることから、「ドラえもん」や「キテレツ大百科」などのイメージと重ねてしまっていたんだろうと思う。
 シリーズは2004年に完結し、そのあとスタートした、三人組が40代になったシリーズも、もはや完結しているらしい。ズッコケ三人組が40代か。まあ僕が小学生の頃に読んでいたのだもんな。それどころかシリーズ初刊の刊行は1978年だそうで、そう考えれば1960年代生まれということになる彼らが中年や熟年になるのは当然のことではある。きっとそのうち僕はそちらのシリーズにも手を伸ばすだろうが、なんとなくそれが実際に描かれたことには、グロテスクな、デストピア感もある。

2021年4月16日金曜日

ファルマン自動車教習・ぽんぽこ・信用筋

 ファルマンがとうとう教習所に通いはじめ、期待していた通りにおもしろい。
 まず適性検査がおもしろいんだろうな、と思っていたが、案の定で、これは質問に答えていくことで自己分析を促すのが目的なのか、回答結果で点数が算出され、「適性がないので退所してください」みたいなものではないわけだけど、どうしたって取り繕いたくなるのが人情で、ファルマンは「自分はすぐカッとなるほうだ」という問いに、「どちらともいえない」の項にチェックを入れたり、「ひとつのことに集中すると周りが見えなくなる」という問いに、「どちらともいえない」と答えたりしたそうで、あまりにも大嘘なのだった。どちらに関しても、もしもコンテストがあれば世界レベルの活躍ができるほどに、「その通りです!」と自信満々に答えるべきだった。ファルマンほどすぐにカッとなり、そしてひとつのことに集中すると周りが見えなくなる人間を、僕は知らない。
 実習も始まり、すなわち教習所内ながら、ファルマンは初めて車の運転をしたのだった。まだ信号も坂道もなく、ただの周回コースをぐるぐると走っただけなのだが、この時点で適性検査での取り繕いはいとも簡単に剥がれ落ち、助手席の教官からは終始半笑いの対応をされたらしい。はじめのうちは教官も、「右」や「左」と指示を出していたらしいのだが、やがてファルマンが右と左がすぐには分からない人だと察したらしく、「植木のほう」とか「ポールのほう」というふうにいってくれるようになったという。
 今も家でイメージトレーニングをしているが、今日は内側の車線を走り、つまり周回コースを左回りにずっと巡っていたはずなのに、復習といいながらエアのハンドルを右に回したりしている。一連のそのさまは、エンターテインメントとしてはとてもおもしろいのだけど、教習の追加料金のことを思うと、他人事ではないので不安な気持ちでいっぱいになる。道のりはきわめて険しい。

 タブレットからスマホになって、ポケットで持ち運べたり、機械を顔に当てて電話できるのは快適なのだけど、画面はやはり小さく、写真や動画を見てもいまいち心が動かないし、画面上のキーボードも、打ち間違いばかりする。かといってフリック入力もいまさらできる気がしないし、なるほどこうして人は音声入力に頼るようになり、どんどんバカになっていくのだな、などと思う。あとこれはスマホだからなのか、メーカーの方針なのか、あるいは時代による変化なのか知らないが、microSDに保存している画像が、すんなり管理閲覧できなくて、いちいちクラウド的な、なにか大きなところからの干渉を許可しなければ取り扱えないみたいな仕様になっていて、これが大きなストレスになっている。本体なりSDなり、個人的な記憶媒体内の画像を、なぜサクサク自由に扱えないのか。アプリだなんだと、これまでできなかったことが魔法のようにできるなどと謳いながら、肝心なところで気色悪い制約があり、居心地の悪さを感じる。
 これまで使っていたタブレットは、子どもたちの音楽再生用に転用されているのだが、先日なんとなく久しぶりに手に取ってみたら、画面の大きさや、そもそも製品の理念としてのパソコン的な包容力に、やるせない気持ちになった。仕事上、ポケットに入れて持ち歩ける必要があってスマホにしたという経緯もあり、「平成狸合戦ぽんぽこ」のラストのような、のどかなあの時代に戻りたい、みたいな物哀しさを覚えた。

 冬や生活のゴタゴタを理由に筋トレをサボっていたら、さすがはアーバンマッスルと呼ばれる俺の筋肉、おい俺の筋肉、どうしたんだい、というくらいに、1年半くらいかけて付けた筋肉という筋肉が、体から消え去った。築くのには長い時間がかかるが、崩れるときは一瞬。筋肉とは、信用なのかもしれない。そのくらい容易に失われた。今になって再興を試みているが、失った信用を取り戻すのは難しい。筋肉を増やすためには、負荷をかけてトレーニングをするわけだが、筋肉そのものはなくなったくせに、トレーニングのこなし方みたいな小手先の技術ばかり体に残っていて、やっていてもどうも体にきちんと負荷がかかっている気がしない。なんか、スンとしている。本当に僕の筋肉はアーバンで、ビジネスライク。もう少し、儲けにならなくても名前を守り続けるみたいな、人情発想はないものかよ。

2021年4月5日月曜日

グラニフ・ハエ叩き・あってほしい

 グラニフが「ハッスルパンチ」とコラボしたTシャツを発売していて、戦慄する。
 そんなことってあるか、と思った。
 だって「ハッスルパンチ」なんて、別にぜんぜん盛り上がってない。ほとんど誰も知らないだろう。僕だって実際なにも知らないのだ。知らないけど、「アニメロゴ一覧」みたいなページで、このロゴいいなと思ったからTシャツにしただけなのだ。職場に着ていっても、誰からもなにも触れられなかった。そのくらい訴求力がないのだ。「ハッスルパンチ」には。それがまさか1年後、グラニフで正式なコラボアイテムとして販売されるとは。
 本当に意味が解らない。売れるはずがない。ロゴがかわいいからワンチャンあるとでも思ったのだろうか。だとしたら僕と気が合いすぎではないか。そもそもグラニフオリジナルキャラのビューティフルシャドーとヒットくんの近似性はどうなのか。
 謎が謎を呼ぶ。しかしさすがに「ハッスルパンチ」にはちょっと寒気がした。グラニフはそのうち「ウサントタッバ!」Tシャツも作りうるな。

 職場のおばさんが、職場に発生した蠅に、古式ゆかしいハエ叩きで立ち向かい、おばさんの振り上げたハエ叩きは見事に蠅を捉え、強打を受けた蠅はあえなく落下した。その一部始終を、僕はぼんやりと眺めていたのだけど、そのあとおばさんがとてもなめらかな仕種で、ハエ叩きの柄の端から、ピンセットのようになっている部分を取り出し、それで蠅の死体をつまんでゴミ箱に捨てる場面を目撃し、驚嘆した。
 そもそもこれまでの人生で、ハエ叩きというアイテムが、あまり身の周りにはなかったのだけど、もちろん存在は知っていて、それは60センチくらいの柄にラケットのような面がついていて、それで完結しているものだった。それ以上でもそれ以下でもなく、イメージがそれで定まっていた。
 そこへ、柄の端にピンセットが内蔵されているというギミックが突如として現れたので、大袈裟だけど、世界の見え方が変わったような気がした。世界って、僕が思うよりも奥が深いのかもしれない。気づいていないだけで、ハエ叩きの柄のような機能を持っているものはいっぱいあるし、あるいは現状持っていないが、ハエ叩きの柄のような機能を持たせうるものもいっぱいあるのではないかと思った。それくらいびっくりした。

 ファルマンがとうとう自動車教習所に通うという。
 いまさら、という気もするが、岡山以上に車がなければどうしようもない島根で、子どももこれから大きくなって行動範囲が広がり、さらには生々しい話だけど、親だっていつまでも運転できるわけではないので、たしかに免許は断然あったほうがいい。それはそうなのだ。それはそうなのだが、それなのに周囲の誰もそこまで積極的に「免許を取りなさいな」といい出さなかったのは、それはもうひとえにファルマンの気性、というよりも適性によるもので、通うことが決まった今でも、「俺が教習所へ行くのを強く止めなかったばっかりに……」となる未来を想像してしまい、恐怖を覚える。たぶん教習所でファルマンは、「だろう運転」ではなく「かもしれない」運転を心がけましょう、という講習を受けるのだろうが、わざわざいわれなくても、ファルマンの運転は筋金入りの「(事故る)かもしれない」運転だ。あるいは単なる疑いではなく、若干の確信さえも伴うという意味では、逆に「(事故る)だろう」運転である気もする。そしてどうか、アクリル板越しに面会とかするはめに陥らない程度の事故で「あってほしい」運転でもある。最後はとうとう祈りになった。
 もちろんオートマ限定なので、エンストとかはないのだが、それでもファルマンがこれからS字クランクやバック駐車などに奮闘するのかと思うと、とりあえずそのさまはエンターテインメントとしてとてもおもしろそうだな、と思う。労働が休みの日と実地の授業日が重なる日があれば、送迎を兼ねて見学したりしようかな。

2021年3月31日水曜日

ホイール・桶・半年

 先日スタッドレスから普通のものへタイヤ交換をしたのだが、それから数日後に、その日に換えたタイヤはわが家のものではなく三女の車のものだったということが判明し、なかなか面倒だった。世話してもらっておいていうのもなんだが、こちらとしては「だってうちのタイヤ交換の日、実家に行ったらお義父さんが倉庫からもうそのタイヤを出してくれてたんだもん」ということになる。そうなったらそこからは心を殺し、唯々諾々とタイヤを運び、指導を受けつつ適当にヨイショし、一刻も早く作業が終わるよう推し進めるばかりだった。ホイールがぜんぜん自分のものとは違うやつだ、などという間違い探しの超難問が判るはずがない。そもそも自分のホイールがどんなものだったか、このことはこのたびのスタッドレスタイヤへの交換の際にもさんざん、「ホイールの話にまるで興味がないよー」という嘆きとして記述していて、今回の取り違え事件によって期せずして、それが本心からの叫びであったことが証明されたわけだが、僕は本当に認識してなかったのだ。それに対して三女というのは、わざわざ軽ではなく普通車に乗っているような人間なので、ホイールにもそれなりにこだわりがあるらしい。次の冬までお互いのタイヤを使えばいいんじゃない、とさえ僕は思ったのだが、そういうわけにはいかないらしかった。なのでこのことが判明したあと、仕方なくまた実家へ行き、数日前にスタッドレスから交換したばかりの普通タイヤを、正しい普通タイヤに交換するという作業をファルマンとふたりでした。それでその際に見較べてみたら、三女のタイヤのホイールと、僕のSUZUKIのSのマークが入ったホイールは、ぜんぜん違った。僕のそれがゲッターロボだとしたら、三女のそれは真・ゲッターロボのようだった。伝わるだろうか。僕のはセル画時代の、古き良きロボットアニメのような平和さであるのに対して、三女のはゲッター核分裂が起り、劇画っぽくなり、ぬめぬめ動くような、なんかそんな感じということだ。まあいちど真・ゲッターロボに乗り込んでしまった人間は、もうただのゲッターロボには戻れないよな、とふたつのホイールを眺めて思った。もちろん僕は相変わらずどうでもいいけど。作業をしながら、「自由に使えるお金がいくらあったらタイヤのホイールを買い替えるか」ということを考え、たぶん400億円くらいあっても僕はこれにはお金を使わない、と思った。

 新生活でいろいろなものを捨て、いろいろなものを買ったが、その中でベスト3に入るいいものとして、風呂で使う桶がある。ダイソーで、100円で買った。
 僕もファルマンも、手桶や洗面器を駆使するのが下手で、お湯を張った風呂のときも、すぐにシャワーを使ってしまう。水道代の無駄だろう、ということをたまに省みては、もはや風呂場から追放してしまっていた手桶や洗面器を再び持ち込むのだが、やはりうまく使えず、日々使わないそれというのは、流れる水は腐らないの理屈通り、あっという間にカビて、結局また風呂場から追放されるのだった。それが繰り返された岡山での暮しだった。
 新しい住まいになるにあたり、その流れを断ち切ろうということで、これまでの手桶と洗面器は向こうで処分し、こちらで新しいものを買うことにした。どんなものを選べばいいか、なんとなくイメージはできていた。手桶と、洗面器、どちらの用途でも使えるような、具体的にいうとケロリンのサイズの、小ぶりな洗面器だ。あれが1個あればそれでいいのだ。というわけでそういうものを探す。すると、そんなこちらの意図を見事に汲み、さらにはその1歩先を行く、小ぶりな洗面器の外側の底面が段差になっていてグリップしやすい、というデザインのものが売られていて、感激して買った。
 感激して買ったが実際に使ってみたらぜんぜんダメだった、ということは一切なく、日々その感激を続けながら使っている。この話に起伏は一切ない。使いながら、常々「これは本当にいいものを買ったなあ」と思い、これについて日々の記録であるブログでまったく触れないのはおかしいだろうと思ったので、こうして書いた。

 去年の9月以来の「hophophop」、もとい「百年前日記」以外のブログ記事であった。去年のその時期のことを思い出し、なるほどそのタイミングか、などと思う。10月から「百年前日記」への収束が開始し、今日で本当にちょうど半年だ。なんかまあ、なるほどこの半年間は、「百年前日記」というブログがひとつあればそれでよかったし、それで精いっぱいだったよな、と思う。そして半年後の今日、なんとなくこうして「hophophop」を書いてみた。暮しの中に、「hophophop」で拾うような出来事もやっぱりあるだろうというような気がして、それで書いた。これから、妖怪たちに奪われた自分の体を取り戻すように、あのブログも、このブログも、ちょっとずつ復活させていければいいと思う。

2020年9月29日火曜日

赤毛のアン・渡る世間は鬼ばかり・魔女の宅急便

  「赤毛のアン」(完訳版)を読んだ。全10巻の、はじめの1巻である。僕はこれまでこの作品には、児童小説版にもアニメ版にも、まったく触れたことがなかった。今後も縁がないはずだったが、先ごろからNHKでドラマ版の放送が始まり、自分のためではなく、ポルガが観たりしないだろうかと思って録画をした。その結果、ポルガではなく自分が嵌まった。こんなにも心が救われる、喜ばしい物語があるだろうか、と感激して、原作小説を読むことにしたのだった。ちなみに講談社の、掛川恭子翻訳版である。
 読んだ感想として、やっぱり心が救われ、喜ばしい気持ちになった。小説って、人間のものすごく嫌な、心の内側のただれた部分をえぐるような、重たい気持ちになるものもあって、そういうものこそ人間の本質であるなどといって、評価が高かったりもするけど、本来の小説ってこうあるべきなんじゃないか、というふうに思った。世界は美しい。人間は優しい。愛しい。努力は報われる。小説ってそれでいいんじゃないか。
 アンはこの物語がはじまるまで家族に恵まれず、よその家や孤児院で育ったが(今回のドラマ版では、現代的な解釈ということなのか、アンはやけにトラウマを抱えている)、それがひとたび物語がはじまると、そこからの幸福度はずっと右肩上がりなので、安心して心地よく読める。この、それまで冴えなかった境遇の主人公が、物語がはじまって以降はずっとハッピーなので安心して心地よく読める感じって、なにかに似ているな、と考えて、思い至ったのは二次元ドリーム文庫だった。お前はすぐになんでもエロ小説に置き換える、思考停止だ、と思われるかもしれない。しかしはじめからアンにデレデレのマシューはチョロインだし、最初は拒絶するけどやがてマシュー以上のデレデレになるマリラはツンデレで、それ以外にもダイアナやレイチェル・リンド、ギルバートにジョゼフィーヌ・バリーなど、アンはとにかく周囲の人物からモテにモテまくる。自己を投影する主人公がみんなから慕われるこの快感は、二次元ドリーム文庫を読んでいるときとまったく一緒である。だからいいのだ。これだよこれ、小説ってこれでいいんだよ、と思う。性をテーマにした小説の、その高尚なもの、ということになると、すぐに谷崎潤一郎とかのSMじみた世界ということになるのが、僕はずっと納得いかずにいる。性でも、人生でも、小説ってもっと、読んでいて純粋にしあわせな気持ちになれるか、ということを希求していけばいいんじゃないか。たぶん希求しすぎると、それは新興宗教みたいな感じになってしまうので注意が必要だけど、そこさえ気を付ければ、主人公がひたすらしあわせになっていく物語は成立する。無理にえぐらなくていいのだ。右肩上がりならば平板じゃないのだから、窮地なんかなくとも読者は意外と飽きず、ただ爽快感だけを味わって物語を読み終えることができる。しあわせだけの上り坂が続く物語。
 「赤毛のアン」とは、そういう意味で理想の物語なんじゃないかと思った。気づくのが遅い。

 papapokkeのアカウントのツイッターでもつぶやいたが、今年は敬老の日に「渡る世間は鬼ばかり」のスペシャルがなくて残念だった。しかし連続ドラマでさえ撮影ができずに放送が延びた今年の情勢を思えば仕方のないことだし、なにより脚本家(94歳)やプロデューサー(95歳)をはじめとして、このドラマは出演者も制作陣も一般のそれよりもだいぶ平均年齢が高そうなので、そういう意味でも制作は難しかったろうと思う。そんな状況に対して、それこそ「そんなこといったってしょうがないじゃないか」だなあ、というところまでを、140文字以内に収めて投稿した。
 「そんなこといったってしょうがないじゃないか」は言わずと知れた、えなりかずきのモノマネをする場合の常套フレーズだが、こういうのによくある現象として、実はえなりかずき(役名は眞)が劇中でそのセリフを発したことはないのだという。
 しかしながら今年のこの状況に起因して(本当にそれが理由なのかは一般人として知る由もないが)、敬老の日の渡鬼スペシャルがなかったということのみならず、コロナにまつわるありとあらゆること、不満や悲観、軋轢や憎悪などすべてひっくるめて、このえなりかずきの(上記の通り本当はえなりかずきの、ではないのだが)「そんなこといったってしょうがないじゃないか」が、ことのほか胸に響くと思った。感染病は、お互い様であると同時に、ひとりひとりの心掛けが肝要なものだから、とかく他人の動向が気にかかり、どうしたって殺伐となる。そんなときに大事になってくるのが、「そんなこといったってしょうがないじゃないか」の精神。遊びたい。騒ぎたい。マスクしたくない。「そんなこといったってしょうがないじゃないか」。Go Toトラベルなんてしないでほしい。制限を緩和してほしくない。外国人に来ないでほしい。「そんなこといったってしょうがないじゃないか」。こだまでしょうか。いいえ、だれでも。AC。

 「魔女の宅急便」を観た。何年ぶりの何度目だろう。相変わらずよかった。昔はただの少女が主人公の冒険活劇くらいにしか感じていなかったものが、年々胸に突き刺さるようになってくる。それと今回は、この映画の脚本のすばらしさに気がついた。この映画には無駄なシーンが本当にひとつもなくて、実はパズルのようにカチッカチッと嵌まっている。すべてが連結して作用するので、トンボを助けるためにキキがデッキブラシで空を飛ぶシーンで、激しい感動が起る。この瞬間に瞳に分泌される涙の量が、自分が年を重ねて、観返すたびに増えているような気がする。今回はいよいよ本当に危なかったので、たぶん何年かあとの次回の観賞では、娘もいよいよキキの年齢に近付くし、決壊するんじゃないないかなと思う。