予想はしていたが、週が明けてやっぱり悪質なタックル問題のほとぼりが冷めている。連盟の処分が決まったとか、そういう問題じゃないだろう。みんなもっと熱意を持ってこの事件について語り合うべきだと思う。僕は別にインターネット特有の、例の正義感から、日大のあの監督はもっと反省するべきだ、とか、あいつが完膚なきまでに痛い目に遭うところを我々の目に焼き付けさせるべきだ、とか、そういうことを主張しているのではない。そんな嗜虐的正義感ほど気持ち悪いものはない。そうではなくて、みんなまだこのコントに飽きないでほしい、という、ただその願いだけなのである。この、衝撃映像から始まって、激おこの監督、激おこの父親、ピンクネクタイで相手の名前を間違える監督、好青年の加害者学生、30歳に見えない(年下!)コーチ、ブチギレ司会者、そしていちばん意味不明だった学長の会見……。日替わりで見せ場があった今回のコントのことを、みんなそんなにあっさりと思い出なんかにしないでほしい。だって僕は買ったのだ。ピンクのネクタイ買ったのだ。本当に買ったのだ。悪質なタックルの謝罪コントをするためだけに買ったのだ。週が明けただけでこんなに風化してしまったら、とても忘年会まで持たないじゃないか。ひどい。
やっぱり友達がいない。たまに意識が朦朧としたときとか、自分にはたくさんの友達がいるような勘違いをすることがあるけれど、落ち着いて見てみたらやっぱり友達がいない。LINEにふたりの人間を新たに登録した日、「友達は質より量」とまでほざいたのに、それから全く量が増える様子はないし、もちろんそのふたりともほぼやりとりしていない。
保健だか公民だか、なんの教科書に載っていたのだったか忘れたが、子どもが成長するにつれて、はじめは親やきょうだいだけだった人間関係が、ひとつ大きな輪っかで親戚、もうひとつ大きな輪っかで近所の人、もうひとつ大きな輪っかで幼稚園や小学校の友達、という風に、人間関係の範囲がどんどん広がっていく図、というのがあった。あの図で言えば、今の僕には赤子とほぼ同一の、いちばん小さな、家族の輪っかしかないと言っていい。あの図について説明を受けたとき、「だんだん広がる」とは言われたが、「やがてしぼむ」なんてことは教わらなかった。子どもの成長に伴う話だったので、身長などの体の発育と連想しやすく、だからしぼむという発想はまるでなかった。でも考えてみたら、身長だってある程度の年齢になれば縮まるわけで、なんかもう老年期の身長のそれと同じ現象が、僕の人間関係には起っているのかもしれない。
昼休みのバトンの練習が愉しい。愉し過ぎて筋肉痛になったりしている。最近イヤフォンで流しているのはルーマニア民謡で、ノリがなんとなくいいというのもあるが、いつか人に向かって披露するとき、誰も知らないルーマニア民謡で俺がバトンを華麗に回したらそれだけで愉しいだろうな、という思いからやっている。僕のバトンの練習には、そのくらい打算的な、友達相手にこれをやったらどうなるか、という思いが実はある。あるから余計に切ない。
それでルーマニア民謡についてネットで情報を検索したら、ルーマニアではバグパイプのことを「cimpoi」(チンポイ)と言うのだそうで、ル、ルーマニア! とちょっと感動した。テンポの速いチンポイに合わせて踊るルーマニアのフォークダンスは動きがアクティブで、じゃあ俺がルーマニア民謡でバトンの演技をしたあとは、みんなでチンポイのフォークダンスを踊ればいいじゃないか、と思った。チンポーイ! 間違えた、バンザーイ!