悪質なタックル問題が世間を賑わせ続けている。心から愛する我が母校の対応のひどさが本当にあんまりで、なんだかどんどん愉しくなってきた。こうなったらもう堕ちるところまで堕ちればいいと思う。僕はこれから出身校を訊かれたら、「悪質なタックル大学芸術学部です」と答えようかと思っている。「悪質なタックル」ってとにかく言いたい。あと、いつかなんかしらの行為によって謝罪するとき用に、ピンク色のネクタイを買っておかなければならないな、とも考えている。
日芸生は今回のことで大体そんなことしか感じていないと思う。
なんの縁もゆかりもない小学校の校歌の歌詞を眺めていたら(なんでだよ)、その中に「清しい」という表現があり、なんだそれは、となった。意味は解る。「清々しい」だ。しかしこれまでそんな表現は見たことがなかった。実際、広辞苑を確認したら載っていなかった。ウェブの辞書には項目としてあったけれど、ウェブの辞書になんて「そこに載っていたら正式な日本語だ」という権威はまるでないので、なんのあてにもならない。たぶん今回の場合、本来なら「清々しい」としたかったところを、曲の音数に合わせるために「清しい」にしたんだろうと思う。
それは別にいい。怒らない。怒らないどころか、逆に「清々しい」ってなんだよ、とさえ思えてきた。考えてみたらなんで2回、「すがすが」って言わなけりゃならないのか。って言うか「すがすが」ってなんだよ。「すがすが」だけこうして抜き出すと、やけに間抜けな字面で音で、本当になんでこんな言葉を口に出さなけりゃならないのか、と思えてくる。それに対して「清しい」の清しさったらどうだ。清々しいよりもはるかに清しいではないか。これまでさんざん世界の清々しいところを表してきた清々しいという言葉だったが、実は自分自身に、もっと清々しくなれる要素が隠されていた、という皮肉。紺屋の白袴。往々にしてそういうものかもしれない。
こんなときは断捨離。「清々しさ」から、「々」を捨てる。だって実はぜんぜんいらなかった。なんの役にも立っていない、むしろ邪魔でさえあったのに、なんとなく捨てられずにずっととってしまっていた。それを今回とうとう捨てた「清しさ」さん、生まれ変わった現在の心境はいかがですか。「はい。清々しました」。だーかーらー!
日曜日のバトンのステージを見て以降、またバトン熱が高まっている。こう言うとまるで熱が低下気味だったようだが、別にそんなことはなく、日々励んでいたのだけど、またさらに改めて、ということである。そして当日にも書いたように、これまでバトンを頭上に飛ばす練習なんかをしていたのだけど、反省して、今はまたひたすらバトンを回す基礎練習に戻っている。これが愉しい。バトンを飛ばすのって、演技として見たとき、それをしなければ観客が納得しないだろう、という感じがあるが、やっている側としては案外つまらないんじゃないかと思う。それに対してひたすらバトンを回すの、チョー愉しい。マジで愉しい。クルクルクルクルクルクル、と回し続けていると、だんだんトリップ状態みたいになってきて、愉悦の境地に至りそうになる。今日なんか昼休み終了5分前のベルに気付かず、そのあとも回し続けてしまい、危ないところだった。手首が柔らかくなりたい。