2024年4月17日水曜日

せいちょう・爆裂なもの・あとから気付いてぞっとする話

 桜が散って、朝晩の冷え込みもなくなって、もうすっかり季節は移ろった。とは言え春と秋というのは、夏と冬と違って、純度100%という状態はないと思う。少し前までは冬を引きずった春だったのに、それが終わったと思ったら即座に、夏を彷彿とさせる春になった。濃い色と濃い色に挟まれた、あわいの部分のようだと思う。
 わが家では半月ほど前に衣替えがなされ、トレーナーやカーディガンの段だったものが、Tシャツの段になった。毎年のことながら、衣替えというものは、暑さ寒さへの対応というのはもちろんだけど、半年ほど着続けた服に対するうんざり感からの解放という意味で、ありがたいと思う。半袖のTシャツの清々しさ! と今は感動しているが、ただしこれも半年後には飽き飽きしているのだ。
 ところでそのTシャツに関して、少し驚く出来事が起っている。
 着てみると、小さいのだ。
 何年か前、Tシャツをやけに蒐集した年というのがあって、僕のTシャツラインナップというのは今もだいたいその頃のレガシーでできているのだけど、その当時、傾向としてわりと小さめのものを着ていたこともあり、今年いよいよ「着たらちょっと変」なレベルにまで小さく感じられるようになってしまった。
 太った、という話ではない。体重はほぼ増えていない。そうではなくて、数年間の筋トレおよび水泳によって、いよいよ胸周りが大きくなったのだ。だからそのあたりがパツッとしている。パツパツとまではいかないが、ちょっと強調しすぎだな、という印象を受ける。なによりこれを着て1日過したら、動きづらくて肩が凝りそうだと思う。
 体型がよくなったことは、目指していたことなので嬉しい。しかしTシャツの選択肢はだいぶ減ってしまった。参っぜ! そうか、発育のいい成長期の女子って、こんな気持ちなのか。誇らしいけど、照れ臭い。参っぜ!

 ポルガがよく食べる。たぶん人生でいちばんよく食べる時期なのだろう。
 夕飯時にごはんを大盛で2杯食べたあと、夜食でもう1杯食べたりする。びっくりする。僕なんか、そもそもの1杯が、ポルガの最初の1杯の7割くらいだ。それでもう十分。
 やはりなにが違うって、代謝が違うのだろう。若者は、たくさん食べて、たくさんエネルギーを放出するのだ。それって本当にすばらしいことではないか。そうやって空気中に放出されたエネルギーは、世界そのものを活気づけそうだと思う。
 だとすれば僕は、若者が多い国で暮したい。超高齢化の、人口減少社会はやだ!
 そう考えて、子どもが巣立ったあとの夫婦が小型犬を飼ったりする理屈がようやく解った。身近に、なにかパワフルな、爆裂なものを置きたいのだ。ファルマンの実家の犬は、しつけがぜんぜんできていなくて、あんな厄介なものがいると生活がままならないだろうと思っていたが、あの感じのものが家にいることで救われる心の部分があるのだろうな。

 山陽と山陰を繋ぐ特急電車やくもの、新型車両が走行を開始した。ちなみに開始したのはちょうど、われわれが車で岡山に行った日である。
 新型車両の話になると地元民がすぐ訊ねるのが、「揺れはどうなのか」で、そのくらい中国山地を突き抜けるやくもというのは揺れる乗り物なのであった。やくものことを「はくも」(酔って吐き気を催すから)、さらにはもう少し前に、今回ほど大々的にではなく車両がリニューアルされた際、ゆったりやくも、というコピーが付けられたのだが、それのことを「ぐったりはくも」と呼ぶのが地元民のトレンドであった。
 それでこのたびの新型やくもだが、ちょうど乗ってきた車両がそれだった(6月くらいに全てが新型に切り替わるそうだが、今はまだ混在していて、選択できるわけでもないらしい)という、関西から来た仕事関係の人の話によると、「ぜんぜんちがう」らしい。この人は定期的に来る人であり、そのたびにやくもを利用してきたわけで、話に信憑性がある。
「俺はいつも揺れがいちばん激しいときに小便に行くんだけど、これまでは安定せずに大変だったのが、新型だと難なくできた」
 というエピソードに、へえ、と感心した。どうやら今度こそ、やくもはそこまで揺れなくなったのかもしれない。いちどくらい乗ってみたいものだ、でも地元民がやくもを使うシチュエーションってほとんどないんだよなー、などと思った。
 違和感に気付いたのは帰宅後だ。
 「いつも揺れがいちばん激しいときに小便に行く」ってなんだよ。

2024年4月11日木曜日

ファルマン41・僕と電車・ぶりんばんばん

 ファルマンが41歳になったことについて、改めて書いておく。
 日々「おもひでぶぉろろぉぉん」をやっていることもあり、あの23歳だったファルマン(ちなみに当時の呼び方は「恋人」である。恋人という呼び方!)が41歳ということに、衝撃を受ける。しかしどうしたって去年の、自分がまだ30代なのにファルマンだけ先に40代になったときほどの昂揚感はない。よく見れば41という数字には、40にはないジトっとした奥行きみたいなものがある気がするのだけど、それは顕微鏡とまでは言わないが、ルーペを使わないと視認できない程度だと思う。残念だ。あのスカッとした喜びは9年後を待つしかないのか。
 ブログを書かなくなったファルマンが近ごろどうしているのか、関係者として報告しておく。ファルマンは日々、子どものことを中心にいろいろなことを心配し、またさまざまな事柄を面倒臭がり、そしてテレビドラマに癒されながら、とりあえず健康そうに生きている。なによりだと思う。41歳という輝かしい1年を、溌溂とした猛ダッシュで大笑いしながら駆け抜けてほしい。

 先日岡山に行ったことを契機に、電車のことに思いを馳せた。ポルガがかつての最寄駅から岡山駅に行ったり、またこの日は岡山と山陰を結ぶ特急列車「やくも」の新型車両の運転開始日であったりと、なにぶん普段の生活が電車とは本当に縁遠いので、実際のところ自分は利用していないのだけど、最近の暮しの中では最も電車に近づいた日だと言えた。
 しばらく乗っていないせいか(去年の3月の帰省以来乗っていない)、僕の電車処女膜は完全に再生してしまっていて、生娘のようにいたずらに拒否する気持ちが湧いている。拒否というか、怖いのである。なにが怖いって、自分が運転していないのに進む車窓の景色が怖い。それでも完全に知らない土地の風景であれば、ディスプレイを眺める感じで無でいられるだろうが、それが地元の知っている場所であった場合、自分の意志とは関係なく勝手に進んでいることや、普段との視界の高さの違いなどから、自分の世界が、そっくりの異世界のように思えてしまって、それが怖ろしいと思う。
 なんと、なんと田舎者の発想だろうか。書いていて自分で驚いた。もはやここまで来た。毎朝満員の田園都市線で渋谷まで行き、井の頭線に乗り換えていた高校生が、とうとうこの地平までやってきた。いまでは女房子供持ち、この先どこまでゆくのやら。

 春休みということで3月末から先週まで、またファルマンの上の妹とその娘たちが実家に来ていた。1月、2月、3月、4月と、今年はここまで毎月会っている。
 ファルマンと子どもたちは、こちらももちろん春休みで暇なので、日々実家へ出向き、姉妹なり従姉妹なりと、それぞれたっぷりと交歓していた。
 僕も2度ほど顔を合わせたが、ぼちぼち満2歳となる次女は、やはり心を開いてくれることはなかった。しかし拒むは拒むのだが、完全に無碍だった長女と異なり、次女の拒み方は「あらら、人見知り時期だからしょうがないね」とほほえましい気持ちになるような、血の通った感じがあり、拒まれた側としてもあまり悲壮感は湧かないのだった。
 それでもなんとか気を引こうと奮闘し、上の妹にアドバイスを求めたら、「Creepy Nutsの『Bling‐Bang‐Bang‐Born』で踊ったりするよ」という答えが返ってきたので、それを聞いて僕はどうしたかと言えば、なんの迷いもなく「ぶりんばんばん……」と唄いながら、あの腕を左右に揺らす振り付けをしてみせたので、我ながらびっくりした。おっさん、親戚の小さい子に受け入れてもらいたくて、そんなことしちゃうのかよ! と。パピロウ変わったな! 俺の知ってるパピロウは、そんなのプライドが邪魔して絶対にしなかったよ! と。
 でも2歳児、少しだけニコッとして、一緒にちょっと腕を振ってくれたので、よかったです。もう乳幼児のそういうのが享受できれば、それでいいのです。

2024年4月2日火曜日

腰・ブラジャー・進学祝い

 腰を痛める。数日前の風呂上り、タオルの入っているいちばん下の引き出しを開けようと屈んだところで、ヌドゥンッという感じの味わったことのない違和感が腰を襲い、そこで動きが静止した。ぎっくり腰のエピソードとして伝え聞くような、その姿勢のまま一切動けなくなった、というほどのことはなく、最悪の結果は(今のところ)免れているが、それでもまだ腰は不穏な空気を放ち続けている。まるで反社のようだと思う。俺のこと軽い扱いしたらどうなるか分かってんだろうな、あぁ? と凄まれ続けているようなストレスがある。
 体に不調を来したとき、明確な原因など特定できる場合のほうが少ないのに、執拗なまでに「これが悪かったのかもしれない」「あれのせいかもしれない」と可能性を探るという性癖を持つファルマンは、「この春先の、寒さとして認識しづらい微妙な寒さに対する油断のせいだよ」などと言ってきたのだけど、春先のそれには毎年接していて、それなのにこれまでいちどたりともこんなことはなかったのだから、そうなるともう答えはひとつしかないと思う。目を逸らすなよ、と。
 そう思う一方で、春休みの娘を連れて実家に日参するファルマンは、すぐさま僕のこの腰痛のことも実家の面々に伝えたそうで、そのことに対して僕は、「やめろよ! いつまでも若々しいパピロウでありたかったのに!」と抗議をしたのだった。しかし僕のその抗議に対し、「別にあなた、いままでもそんなキャラじゃなかったよ」と冷静に諭され、何重かにショックだった。
 腰の不穏な痛み、つらい。じわじわじわ、と人生のテンションを下げてくる。

 「おもひでぶぉろろぉぉん」で、相変わらずまだ23歳時点の日記を読み返しているのだが、当時の僕はしばしば女子高生のブラジャーの話をしていて、時代性を感じる。
 たぶん17年前に較べて、世の中のブラジャーの売り上げというものは大幅に落ちたことだろうと思う。なぜか。
 それはブラトップができたからだ。
 17年前にはまだブラトップはこの世になかった。いつから出たのかと検索したところ、この1年後の2008年なのだった。エポックメイキング!
 ブラトップの登場によって、ブラジャーは一気に遠い存在になった。
 しかしなったらなったで、僕としてはなんの問題もない。どうも僕は、当時からそこまでブラジャーというアイテムには熱情を持っていなかった様子がある。ブラトップがブラジャーに取って代わったことに、苦言を呈したことはこれまでいちどもない気がする。
 おっぱいに関しては人並みに好きだという自覚があり、それを守るための女の子特有のアイテムと考えれば、ブラジャーに関してもパッションがあるべきだという気がするのに、なぜかそうではない。どっちでもいい、さらに乱暴に言えば、どうでもいいと感じている。
 ショーツと異なり、ブラジャーにしろブラトップにしろ、その中身以上に見目好いものというのが、存在し得ないからかもしれない。引き出しの、ショーツの段には興奮できるけれど、ブラジャーの段は開けてすぐに閉めると思う。もしも女の子の部屋に忍び込んだとしたら、と仮定して。

 姉の長女、姪がこの春から高校に進学する。姪が高校生て、という気もするが、なにぶん娘が中学生なので、実はその「月日の流れ早すぎるよ!」の感慨は、ただの定型句である。本当は淡々と、そうか、とだけ思っている。
 中高一貫の学校に通っていて、さらには制服もない学校なので、高校進学という感じはきわめて乏しいのだけど、それでも一応は進学なので、親戚としてなんかしらのお祝いを贈るべきだろうという話になっている。
 3月からなっているのだが、これがなにも思い浮かばないので困っている。横浜で生きる高校1年生の姪が、いったいどんなものが欲しいのか、見当もつかないのである。本人が欲しいものではなく、そんなものは世代の違う者が分かるはずないので、大人として、人生の先輩として、これから若者が必要となるであろうものを与えてやればいいのだ、とも思うのだが、そちらもまたなにも思い浮かばない。さらには姪の父の顔の広さのことを思うと、その考え方から思いつく大抵のものは、あの大集団の誰かしらからもう既に贈られているのではないか、それも情報強者特有の、知る人ぞ知る気の利いた逸品を、などと考えると、友達がいない田舎在住の叔父は、いよいよ手も足も出なくなる。
 もはや開き直って、相手のパーソナリティのことなど一切考慮せず、こちらの趣味を貫くしかないか。だとすれば、どうしたってこの叔父夫婦は、本くらいしか選択肢がなくなるわけだが、でも本って! とさすがに思う。本ってもう、叔父夫婦もほぼ読まないではないか。あんな現代にそぐわないものもらっても、迷惑なだけだろう。姪の家には本の収納場所(本棚といいます)などないだろうし。
 さあどうしよう。もう4月や。

2024年3月26日火曜日

ハンドメイド水着(メンズ)・酸欠神秘・7円

 3月はせっせと販売用の水着を作っていた。その果以あって、ぼちぼち数も上がってきたので、いよいよ発売のときは近そうだ。販売サイトは、検討した結果、たぶんYahoo!フリマにすると思う。見た中ではそこがいちばん、男性用水着の販売が活況そうだったから。
 でもたぶん簡単には売れないだろうと思う。「水着 メンズ」で検索を掛けると、speedoであったり、arenaであったり、mizunoであったり、水着ブランドの水着ばかりが出てきて、結局そうなんだよ、世の中の人たちは名のあるメーカーのものを偏重するんだよ、minneだってハンドメイドと言いつつ、結局セミプロみたいな感じだしさ、とクサクサしたのだった。しかしひとしきりクサクサしたあと、と言うか考えてみたらそもそも、ブランド偏重もなにも、「ハンドメイド水着」というジャンルが、この世にほぼ存在しないのだった、と思い至った。
 「ハンドメイド下着」というジャンルは、いちおうある。でもそのほとんどが女性用だ。僕がたどり着けていないだけかもしれないが、男性用ハンドメイド下着の販売ページというものは目にしたことがない。下着でさえそんな状況なのに、あろうことか水着である。狙いどころがあまりにもニッチ過ぎるのではないか、と我ながら思う。
 でも僕は実際にそれを着用して泳いでいるが、自分の理想を形にしただけあって、本当にいいのだ。販売ページであまり熱情を持って説明文を書くと引かれるので書かないつもりだけど、本当は声を大にして言いたい。これはすばらしいものであると。販売ページに書き込めない思いの丈は、たぶん「nw」にぶつけることになると思う。

 某女性シンガーソングライターと某元競泳選手が離婚して、明確な声明はなかったものの、どうもその元競泳選手というのが、とある新興宗教に傾倒したらしいという下世話な記事を目にし、その関連で紹介されていた、その初めて目にしたとある新興宗教の教義の香ばしさに、頭がくらくらした。
 その某元競泳選手は、先輩である超有名な元競泳選手の影響で入信したとのことで、それを聞いて思ったのは、やっぱり水泳選手というのは、酸素が足りない状態で死に物狂いで泳ぐので、臨死体験や神秘体験というものが身近にあるのかもしれない、ということだ。折しもパリオリンピックの競泳代表の選考会が連日NHKで放送されていて、少し観たりもしたのだが、1500m自由形なんかを観てると、これはもう競技というより修行の一種ではないかと感じた。なにより泳いでいる間、景色も変わらず暇で仕方ないだろう。酸欠で、体をオートメーションに動かしながら、頭の中では一体なにを考えているのか。それはやっぱりちょっと、容易に神秘的な方向に行っちゃうよな、と思った。

 大谷翔平が話題を振りまきまくっている。結婚、韓国、賭博。すごいじゃないか。うすうす感じていたけれど、どうやら大谷翔平というのは、やっぱりこの世界の主人公らしい。われわれユーザーを飽きさせないため、ジェットコースターのように息つく暇を与えない。
 約7億円が勝手に使われていたということで、それは本当か、本当に勝手になのか、というのが今回の件の焦点になるようだが、7億円というと途方もない額のように聞こえるけれど、大谷のドジャースとの契約金は約1000億なわけで、それは約分すれば、1000円持っている人にとっての7円という感覚の話になるわけで、きちんと理由を説明して7円を持っていかれても、あるいは勝手に7円を持っていかれても、大谷にとってはマジでどっちでもいいことだったんだろうと思う。そんなことより野球がしたい! 野球野球野球!
 球を投げて球を打って1000億円もらい、ぜんぜん豪遊せずにひたすら早寝早起きして野球だけする人がすぐ横にいたら、精神のバランスがおかしくなって、賭博に手を出してしまうのも、ちょっと仕方がないという気もする。
 そして大谷の話題のときには必ず言うことにしているが、僕が大谷翔平に勝っているのは、ちんこの大きさくらいのものだと改めて思った。新婚にこんなこと言って申し訳ないけれど。

2024年3月15日金曜日

ロケット・で・徴兵

 和歌山県から打ち上げられた民間ロケットが、発射後すぐに爆発していた。
 ロケットを作ったベンチャー企業の社長が、そのあとに開かれた記者会見において、頑なに失敗という言葉を使用しなかったのが、なんだかおもしろかった。たぶん今後のスポンサー誘致のことなどを勘案し、悪いイメージをつけまいとしての作戦だったのだろうが、その会見内容を伝えるニュースの前に映し出される、ロケットが爆発する映像というのが、本当に見事なまでにきれいな、清々しいほどの爆発具合なので、そのあまりのギャップが笑いを誘うのだった。見た目からして絶対にとんでもなく阿呆な子を、「やればできる子なんです」と言っているような、なんかそういうギャグめいた風景に見えたのだった。
 同じくロケット事業を行なうイーロン・マスクもコメントを発表したとのことで、どんなことを言ったかと思ったら、「Rockets are hard」だそうで、ここまで含めてやけにコントっぽい出来事だな、と感じた。マスクのコメントはどこかバカボンのパパっぽさがあり、赤塚不二夫の世界観に近い気がする。

 ちょっと前、まあよくある話なのだけど、なんかしらの事由で疲れている奥さん(投稿者)が、これから晩ごはんを作ろうというとき、献立をどうしたものかと夫に問いかけたら、「うどんでいいよ」という答えが返ってきて、あり得なかったので説諭した、というエピソードが投稿されて、やけに話題になっていたのだった。
 これは本当によくある。夏場に、そうめんでいいよ、と言ってしまったパターンなどのバリエーションもある。そして定期的に盛り上がる。女はこのパターンが本当に好きである。男の、家の仕事の大変さへの理解のなさ。大好物である。
 女のそういう部分の怒りを刺激していいことなど本当にひとつもないが、それでもこちらも性分なので、黙っていることができない。誰も読んでいないブログだし、述べる。
 晩ごはんをうどんで済ますのは、普通の晩ごはんを作るより、絶対に楽だろ。
 いまどき、完全に料理をしない男は少数派だ。だからこっちだって実体験をもとに判るのだ。うどんは楽だ。ごはんと、汁と、おかずが、ひとつで済むのだから。
 女は、「で」が悪い、と言う。「うどんがいい」「そうめんがいい」ならいいが、「うどんでいい」「そうめんでいい」は、手抜きだけど許してやるよ的な考えが漏れ出ていると考えるらしい。読解力が低い。あるいは被害者意識が強すぎる。話にならない。
 普通の献立を作り上げる労力が10だとしたら、うどんは5くらいで済む。こちらはその簡便さを実現するための方策として、「うどんってことでいいんじゃない(ナイスアイディアだろ)?」と言っているわけで、別に手抜きを糾弾する意図はないのだ。それなのに女はすぐに言葉尻を取って男を責める。責められた男は、本当は反省などしていない。なぜなら反省する部分などないからだ。悪はいない。いるとすればそれは女の心の中の仮想敵だ。責めることでお前の溜飲が下がるならば結構、と思いながら男は粛々とそれを受け止める。
 ま、そんなところが女のかわいさなんだけどさ。

 ミャンマーで徴兵制が開始されるというニュースを目にし、内容を読んだところ、男性は18歳~35歳が対象とのことで、衝撃を受けた。
 戦争教育の賜物か、僕は徴兵制というものにものすごい拒否感を持っていて、自分の人生で絶対にそんなことにはなりませんように、ということをずっと強く願い続けてきた。小中学校での体力テストも、あまりいい記録を出すと、いざというときの徴兵リストの上位のほうに名前が来てしまうと考え、力をセーブしていたほどである(俺が本気を出したらそのときはもう、ねえ)。
 そのため、このほど運用が開始された徴兵制の対象年齢が35歳までだったというのは、国が違うとは言え、かなり感慨深いものがあった。
 これはどうも、今生、僕は徴兵を免れたのではないだろうか。
 これから有事になったとて、もはや40歳の僕は、国家から戦力としてカウントされないということではないのか。ましてや中学校の体力テストの記録を見るに、とても機敏に動けそうもない。さらには内申点から察するに、規律に対する従順さも壊滅的だ。しかもamazonの定期購入リストにはサプリメントがずらずらと並んでいる。サプリメントを日々せっせと飲んで、やっと立てているようなものではないか。駄目だ駄目だ、こんな奴は。たとえ志願してきても絶対に入れてやらん。こっちから願い下げだ。
 そう考えるととても嬉しい。この世からありとあらゆる争いごとがなくなりますように。

2024年3月13日水曜日

矜持・むべ・見識

 子どもたちがYouTubeの、ほとんど静止画のような、キャラクターの絵が小刻みに動くだけの簡単なアニメに、やたら早口のセリフを乗せた、コント仕立ての映像をとても愉しんで観ていて、不憫だ。不憫とはどういうことかと言えば、子どもたちはそれが本当におもしろいと思っていて、父である僕にも観るよう薦めてくるのである。だが僕は断るのである。どう言って断るのかと言えば、こうである。
「俺はごっつええ感じを観て育った世代だからこんなものはとてもじゃないが観られない」
 つまり、こんなものをおもしろいと思ってしまう、ごっつええ感じをやっていない時代のお前らが不憫だ、ということである。
 言いながら、我ながらひどいな、と思う気持ちはもちろんある。僕はラジオ番組の常連リスナーによる内輪ウケの感じとかがものすごく嫌いなのだけど、これではあまり人のことは言えない。しかもハガキ職人でさえなく、観ていただけなのだから、なおさらタチが悪い。
 そういう自戒の念はありつつ、それでもなお、あの類のアニメを観たくないと思う理由は、厳然としてそこに立脚していると思う。これは矜持だ。俺はごっつええ感じを通して、おもしろさというものを理解していった人間だという矜持。矜持と書いて老害と読む。

 ようやくきちんと暖かくなってきて、春を実感できるようになった。
 グダグダだった去年に対し、今年の灯油のフィニッシュはかなりうまいこといきそうである。なにしろコタツの存在が大きい。去年はコタツを出さなかったので、ストーブを点けるか点けないかという大味の寒さ対策しかできなかった。今年はコタツのおかげでゆるやかな調整をすることができ、結果として灯油の購入費も大いに削減できた。去年の記録というものはないのだけど、今年ははっきりしていて、12000円である。灯油缶、約6回分。これはたぶん、去年よりもだいぶ少ないはずである。
 暖かくなってくるとなにがいいって、あまり服を着込まなくていいというのが嬉しい。常態としてあまり服を着込まないでいられると、そこからの脱ぎやすさ、裸になりやすさというのもよくなってくるわけで、いろんな意味で快適だ。冬の間じっと我慢していた部分が、スプリング状に飛び出るイメージ。春になってちんことか出しちゃう事案が多く発生するのも、むべなるかな、と思う。俺のむべなるかなが涎を垂らして悦ぶ春です。

 手製のスイムウエアを本当に販売してみることにして、鋭意製作中である。
 以前「パピロウせっ記」に、僕の作るスイムウエアは股間の部分にたっぷりのゆとりがあって、それは製作者こだわりの特長であると同時に、あまりそのことを主張し過ぎると公共の場での着用に支障が出てくるし、かと言ってその作りに関してまったく触れずに販売するとそれはそれで問題がありそうで、いったいどういう言い回しにすればいいか悩んでいる、ということを書いた。minneで痛感したのだけど、どうも僕は人にきちんとなにかを説明しようとすると言葉数が多くなりすぎるきらいがあり、このままではスイムウエア販売(ちなみにminneでは売らない)でも同じ失敗を繰り返してしまいそうだと思った。
 そこでファルマンに相談したところ、「「圧迫感のないデザインです」くらいでいいんじゃない」という答えが返ってきて、「それだ」となった。つかず、離れず。それくらいでいいのだ。ジョニファーの着用画像に、それくらいの文言でいいのだ。それで伝わるのだ。
 ああ助かった。股間部の盛り上がりに関する表現について見識のある妻と結婚してよかった。

2024年2月29日木曜日

褒美・ステルス・石ころ

 ポルガが学年末試験を終える。
 試験のたびに、「勉強しなさい」「嫌だ」「成績が悪かったら塾に行かすよ」「じゃあ逆にいい点数だったらご褒美ね」というやりとりがあり、結果としてポルガはこれまで順調に塾をすり抜け、褒美をゲットし、そして真摯に勉強をしないのにわりといい点数を取って帰ってくる娘に、ファルマンは自分の悲惨な思い出と照らし合わせて膝から崩れ落ちるという、そこまでが一連の流れとなっている。
 褒美は、これまではゲームのソフトや漫画だったのが、今回のポルガのリクエストは、スマホの1日の使用制限時間の拡大と、さらにはTikTokアプリのダウンロードの許可で、なんかあれだな、フェーズが変わったんだな、ということをしみじみと思った。そのことに一抹の寂しさを感じつつも、ご褒美に一切費用が掛からなくて助かるなあ、とも思った。
 TikTokは、どんなものかファルマンが試しにダウンロードして覗いてみたところ、1分くらいで「これはあかん」となり、かなりの高得点でなければ実現しない設定とした。僕自身はTikTokはまだ見たことがないけれど、ひとつだけ分かることは、もしも今回かなりの高得点を取ってTikTokを無事にゲットしたら、それ以降はもう高得点を取ることは絶対になくなるに違いない、ということだ。そのくらいの、バカまっしぐら装置だと認識している。YouTubeもその装置の機能としては大概だが、TikTokはそれをさらに加速させたものであろうと。
 それで試験の結果はどうだったかと言うと、どうも、塾に行かせなければならないほど悪くもなかったが、ろくに勉強しなくてもぜんぜん高得点という、これまでの流れには、ちょっと翳りが見え始めたのかな、という感じで、少々の使用時間の拡大はやぶさかではないけれど、TikTokは不許可という、そのあたりに落ち着きそうな案配だ。いい落しどころだな。

 昔とてもおいしく食べていたお菓子が、そこまでおいしいと思えなくなった、という現象があって、舌が肥えたというよりも、年を取ったことで、強い味のものを受け付けられなくなったんだなあ、などと感じたりしていたのだけど、先日ふと思ったこととして、量や大きさがダウンするステルス値上げという言葉があるけれど、それら物理的な要素のほかに、使用している材料の品質がステルスでダウンしている可能性だって大いに考えられるわけで、かつてはバターを使っていたのがマーガリンになったりとかして、本当においしくなくなっている場合も往々にしてあるのではないだろうか。そのように考えると自分の生きる力的には安心感が得られるのだけど、この世やこの社会という視点で考えると、ちょっと暗澹たる気持ちになる。安寧は得難い。

 ゆめタウン出雲で今週の日曜日、ドラえもんショーが行なわれるという情報が入ってきて、そのショーのタイトルが「石ころぼうしでひとりぼっち?」だったので、見出しをパッと見た瞬間に、ドラえもんの石ころ帽子をモチーフにした体験イベントが開催されるものと勘違いをしてしまい、夢を見てしまった。
 よくある「ドラえもんの道具でひとつ手に入るとしたら?」の問いに、「どこでもドア」や「もしもボックス」などと答えるのは浅はかだ。当たり前すぎて話が盛り上がらない。僕のその答えは断然「石ころ帽子」だ。石ころ帽子のなにがいいかって、もう20年にわたってこのブログで何度も言っているけれど、ただ相手に自分の姿が見えなくなるわけではなく、見えているけど石ころのように気にならなくなる、という点だ。ここが絶妙なのだ。
 だから石ころ帽子のイベントと聞いて(勘違いして)、ローションフェスであるとか、ヌーディストビーチであるとか、それこそ乱交パーティーとか、なんかそういう類のものかと思ってしまった。参加者がそれぞれ石ころ帽子を被り、その場にいる自分以外の人を、同時に気にならなくなって(というていで)、思いのままに振る舞うという、なんかそういう淫猥な匂いのするイベントかと。そんなものを開催するなんて、ゆめタウン猛ってるな、ランサムウエアに感染していろいろ大変そうなのに強気だな、などと思った。
 もちろんそれは大いなる誤解で、実際は冒頭に書いたと通りの、たぶん着ぐるみが出てくるショーで、のび太がピンチに陥るけど結局は一件落着するんだろう(身も蓋もない解釈)。着ぐるみのショーは、もうわが家の子どもたちは対象年齢ではなくなってしまった。たぶん観に行くことはない。もしも観に行ったとしたら、観客席でやけに感慨深い顔でショーを眺めている男性、それが僕です。気にしないでください。