2024年12月26日木曜日

おむすび三太・濫用エース・台帳的な

 娘たちにサンタクロースからのプレゼントが届く。しかし娘ら、小5と中2である。サンタの存在、果たしてどうなの、いまどういう捉え方の段階なの、と思う。思うけれど、口に出して確認することはもちろんできず、また娘たちも、そこを突くと藪蛇になるかもしれないと警戒しているのか、まったく言及してこない。存在を疎ましく思うものを、ないものとして扱うというのはよくある話だが、いまわが家ではサンタが、もはや誰にとっても存在しないのに、あるものとして扱うという、不思議な状態になっている気がする。しかしサンタというのは、具体的に実在すると考えると、不法侵入とか、贈与税とか、いろいろ問題が出てくるわけで、本当はいないのに各人の心の中でだけいることになっている、というこの状態こそ、実はサンタの正しい立ち位置なのかもしれないな、とも思う。サンライズのアニメの原作者って、会社全体の共同ペンネームとしていつも矢立肇なわけだけど、それみたいな感じで、わが家4人それぞれの、クリスマスという催しにまつわる思念が合体し、でもぴたっとは嵌まらないので隙間が空く、その隙間こそがアイノカタチであり、サンタクロースノカタチなのだと思う。だからその容貌は、毎年変化する。今年のサンタは、曜日の巡りがよくなかったため、週末と平日、ふたつの顔があってちょっと馴染みづらかった。

 年末恒例の健康診断が執り行なわれた。クリスマスイブ、火曜日のことで、前週金曜日が忘年会、土曜日がブリ大根、日曜日がクリスマスディナーとあっては、数値のことを気にしてアルコールを制限するなどということができるはずもなく、ここでも頂上戦争のときのエースの達観、悪い意味での、「もうジタバタしねえ」が発動した。このため結果がどうなるか、わりと不安はあるけれど、唯一の救いは、結果が返ってくるのはどうせ年明けだ、ということだ。残酷な現実を突きつけられ、テンションが下がった状態で年末年始を過さなくていいのだ。ならいい。もうジタバタしねえ。

 ファルマンがひそかにやっている、台帳的な名称の文章投稿サービスがあるのだけど、そこが先日、あなたの1年間の投稿まとめみたいのを送ってきてくれたそうで、少しだけうらやましいと思った。もちろんそんなの、今のご時世、AIが自動でやってくれるのだろうけど、でもなんか丁寧に扱われていると言うか、なんだろうこれは、通信簿とかからの発想だろうか、君のがんばってるところきちんと見てたよ感というか、そういう喜びがあるだろうな、と思った。
 じゃあパピロウ、台帳的な名称のあれを始めちゃうの、と言われれば、もちろん答えはノーである。InstagramやTikTokなど、文章を蔑ろにするツールは好きではないが、それと同じくらい、いやそれよりもはるかに強い度合で、文章表現を尊ぶツールおよび、それに群がる輩のことが大嫌いだからだ。読書とか文章とか、そういうのを好きな人、そういう表現手段にアイデンティティを持っている感じの人、本当に嫌。ダサくて汚らわしい、と思う。台帳的な名称のあれには、それのにおいを強く感じるので、忌避している。もちろんファルマンをはじめとして、それほどの情念を持ってやっているわけではない人も大勢いることは判っている。それでもやっぱり拒否感が拭えない。
 翻って、Bloggerである。あなたの1年間の総括? まったくない。そもそもびっくりするくらい、運営側の、運営している感がない。というより、もうだいぶ前から運営されていないんだと思う。あのGoogleが、2024年にまだブログに思いをかけているはずがないのだ。ブログってもうFAXとかMDの仲間なのだから。もう管理者はとっくにいなくなっていて、でも設備はまだ使えるので、僕はその廃墟に勝手に忍び込んで遊んでいるのだ。そのうち管理者がここの存在をひょんなことから思い出して、「どうでもいいっちゃいいけど、まあ処理しとくか」みたいな感じでスイッチをひとつ押せば、Bloggerは音もなく消え去るに違いない。ブログをやる上でBloggerはとても快適だけど、常にその恐怖がつきまとう。だから定期的に投稿記事をダウンロードして保存している。
 台帳的な名称のあれのユーザーの扱いが先進国(北欧とか)の子どもだとすれば、いつ灯が消えるか知れないBloggerで生きる僕は、難民みたいなものだと思う。それでも僕は自分のしあわせよりも、世界全体のしあわせを願ってやまない。

2024年12月19日木曜日

そういうんじゃない・パラレル・射精のエース

 年末にもらうご褒美を決めた。メガネだ。
 僕とメガネの付き合いは車の運転をきっかけに始まっていて、だから基本的にメガネは運転のためという考えがベースにあるのだが、でも以前はそれを運転以外の場面でも掛け続けていた。しかし前回か前々回あたりに作り直した運転用のメガネは、ずいぶん度が強いものになって、そうじゃないと規定に満たないというからそれはしょうがないのだけど、それまでの単に目がちょっと良くなる次元のメガネではなくなってしまったため、日常の、食事であったり縫製であったり読書であったりの、手元の作業の際にはとても掛けていられず、結果として運転時以外は裸眼の人となっていた。
 しかし最近になって、物がぼやけるとか、具体的にそういう症状があるわけでは決してないのだけど、微妙に違和感というか、ちょっとした不都合を感じる場面が現われはじめたので、じゃあもう運転用とはぜんぜん違う目的のメガネというものを持つことにしよう、と考えたのだった。
 ここまでを読んで、読者諸兄の頭の中には、ひとつの疑念が思い浮かんでいることだろうと思う。41歳。微妙な違和感。手元用のメガネの必要性。え、それって……。
 違う。そういうんじゃない。パピロウに限ってそんなことあるわけないだろ。
 否定の明確な根拠がある。ご褒美で買う、という点だ。もしも本当にその理由で買うのなら、それはご褒美という名目ではなく、必要な支出ということになるだろう。そうじゃないんだ。ご褒美なんだ。カジュアルな気持ちで買うんだ。信じてほしい。俺は信じてる。

 ポルガが学校の友達と映像通話をする。いや映像通話というか、ただLINEをずっと繋げて、もちろん会話もするが、黙って互いに勉強したり趣味のことをしたりもするようで、話には聞いていたが、いまどきの若者は本当にそういうことをするのだ。
 なんで学校が終わったのに学校の人と繋がろうとするんだ、やっと解放された自分の時間だろうと、この若者文化を初めて知ったときには思ったが、部屋でひとり裁縫をしたり筋トレをしたりする際、まったくの無音はなんとなく味気なくて、音楽を流したり動画を再生したりする自分の姿に気付き、しかも主目的ではないそっちのセレクトに時間をかけたりしているバカバカしさのことを思うにつけ、気の置けない友達と、意識しているともしていないとも言えない絶妙な距離感で繋がってるのって、たしかにちょっといいかもなあと思うようになった。
 いいかもなあと思ったが、もちろん僕にそんな相手はいない。いるわけがない。老若男女、どのパターンを想像しても、誰とも繋がりたくない。唯一この人となら繋がってもいいなと思ったのは、パラレルワールドの僕自身だ。そこと繋がれたら、僕たちは時にはしゃべり、時には黙り、ずっと愉しく過せると思う。そんなスマホアプリがあればいいのにな。

 わりと何度も書いてきた今年の射精回数についてだが、ある境地に至った。
 10月までの回数が、去年の総計に対してバチバチな感じだったので、11月に奮起し、12月はこれで余裕かと思いきや、体調を崩したことでなかなか際どくなった、というのがここまでの流れだが、今年も残すところ10日あまりとなったところで、今年の射精回数を表示していたモニターは、スルスルと頭上から降りてきた「?」のパネルによって、閉ざされたのである。もうここから先は、数字とにらめっこして回数を調整するようなことはできない。そもそもがするべきではなかった。去年の108回という数字を凌駕するためにする射精は不純だ。射精は回数を増やすためにするのではない。欲求と快楽のためにするのだ。2年目という、1年目という分かりやすい標的がある状況にあって、僕はそんな大事なことを忘れてしまっていた。とは言えこれは11月の盛んだった射精を否定するものではない。あれはあれでよい経験だった。
 射精についてとても真摯に向き合った結果、こんな境地に至ることができた。もはや気分は頂上戦争のときのエースだ。俺は……もうどんな未来も受け入れる。差し伸べられた手はつかむ。俺を裁く白刃も受け入れる。もう、ジタバタしねえ……みんなにわりい。
 元日に「?」のパネルが外され、そこにどんな数字が現われようとも。

2024年12月14日土曜日

精貯・ヌンチャク・カラオケ

 10月終了時点、すなわち残り2ヶ月時点での射精回数が、去年の数字とかなりデッドヒートの感じだったので、負けてはならじと11月に大いに発奮したのだった。その結果、今年の記録が去年を上回るのはまず間違いないとして、話の焦点は、来年以降のことも見据え、数字をどのあたりまでで抑えるかだな、などと思っていた。12月開始時点では。
 ところがその直後に疑インフルを発症し、1週間あまり体調が万全でない期間があったあと、さらに咳はしつこく残り続け、だいぶ低調な日々であった。咳は今週でようやく治まったが、師走も早半月が過ぎようとしているところで、ここまでの射精回数を数え、ふぁっ? となっている。11月で稼いだ射精貯金が、見事に食い潰されてしまった。余裕であったはずの12月の射精ノルマが、兎と亀よろしく、今年の僕がひと休みしている間に、去年の僕はひたひたと背後に忍び寄ってきて、ふたたびデッドヒートの様相を呈している。
 なんてこった、とも思うし、そう来なくっちゃ、とも思う。やー、愉しませる。最後まで目が離せない。去年の僕、今年の僕、どちらが勝っても白組優勝の、大みそかの白濁射精合戦とはこのことだな、と思う。特別企画で氷川きよしさんも出演します。

 1年の最後に今年がんばったご褒美的なものを買う、もとい買ってよい、という慣習が数年前から醸成されている。生きる活力となる、とてもいい慣習であると思う。
 しかしいざ欲しいものとなると、これがなかなか思い浮かばず、いつもわりと決めあぐねるのだった。去年はさんざん悩んだ挙句、わりとどうでもいいものをこまごまと選んで買ったように思う。そしてそのとき買ったものは、今年まるで活用できなかった。今年はそんなことにはならない、本当に必要な、いいものを選びたいと思っている。
 思っているのだが、しかし一向に思い浮かばないのだ。その様子を見てファルマンは、それくらい満ち足りてるってことだね、などと言ってくるのだが、そんな実感はない。物欲はある。でも本当に手元に置きたいかと訊ねられると、意外とそうでもなかったりするのだ。じゃあこの人はなにがどうなったって満足できないんじゃないか、とも思う。
 困った末に、気付けばamazonで「ヌンチャク」と検索し、検索結果が出てきた瞬間に、前にもこうしてプレゼント的な物品選びで困ったとき、俺はamazonでヌンチャクを検索した、と鮮明に思い出した。ヌンチャクは僕の人生の欲しいものランキングで、常に7位とか8位あたりにいるのかもしれない。いぶし銀の働きだな。そしていつまでも買わない。

 年の瀬に初の試みとして、実家の面々とカラオケに行く予定を立てた。実家の面々とは、義父母、次女一家、そして三女で、わが家と合わせて総勢11人となる。なかなかの大所帯。
 家族以外の人とのカラオケというのが、社会人になって以降ほとんどないので、これはもう友達がいない人あるあるとしか言いようがないが、妙に身構え、張り切っているのだった。なにを唄うか熱心に考え、カラオケプレイリストを作り、通勤の車中で練習している。義妹や義妹の夫とカラオケをするのは初めてなので、なるべく誤解されたいと言うか、3~6学年上の人間は、なるほどここらへんの歌を唄うのだな、世代が違うものだな、みたいなことを思われたい。なにを唄えばそう思ってもらえるかと考えて、最初に頭に思い浮かんだのはMAXだった。年の瀬の、初めての親族カラオケで、長女の夫、ひとりMAX。場が本当にどうしようもない空気になるだろうことも含め、なかなか上質なセレクトなのではないかとも思ったが、いかんせんMAXの歌はつまらない上に長いので、出オチのボケとしてはリスクが大きいのだった。ファンなんだけどね! ファンなんだけど!
 あと少し迷っているのは、中山美穂を唄うかどうか。ちなみに中山美穂の楽曲のラインナップを眺めていたら、「50/50」という曲があるのを発見し、これは今年のこのタイミングで唄うしかないのではないか、などと思った。

2024年12月4日水曜日

体調・コーヒー・流行語大賞

 本格的に体調を崩していた。いま思えば先週末あたりからよくなかったのだと思う。酸欠状態で筋トレをしたせいかと思っていたが、そういうことではなく、昨日ポルガが学校を早退して病院に行ったところインフルエンザという診断だったので、じゃああれだな、俺もそういうことだったんだな、と思った。特効薬をやったらしいが、ポルガはまだ具合が悪そうだ。僕は概ね回復した。自然治癒である。まあコロナ後の世界で堂々と言うことではないけれど。昨日なんかは、体の回復のために、夜8時に寝た。8時なんかに寝たら、さすがに明け方とかに目が覚めてしまうのではないかと思ったが、きちんといつも通りの時間まで、10時間あまり目一杯寝たのだった。薬を服んでいたとは言え、我ながら睡眠力がすごいなと思った。もしかしたら僕は竈門禰豆子の子孫なのかもしれない。
 あと先週末からうっすらとインフルであったと考えたら、僕はその状態でカラオケに行き、「君は薔薇より美しい」なんかをビブラートをきかせて唄い上げたわけで、見上げたプロ根性だと思った(でも言われてみたら、その前の晩も9時間くらい寝たし、カラオケのあともしんどくなって帰るなり少し寝たのだった)。幸い、布施明の飛沫を浴びたかもしれないファルマンとピイガに発症の気配はなく、「離れた部屋」を要求したポルガだけが発症したわけで、感染源がこんなことを言うのも何だけど、そら見たことか、と少し思った。

 インスタントコーヒーにはおいしいのとおいしくないのがあって、いま家にあるやつはおいしくないやつなので、飲むたびにしょんぼりした気持ちになる。家で飲むコーヒーをどうにかしたいという気持ちは前々からあって、定期的にマシーンをAmazonで眺めたりもするのだけど、眺めれば眺めるほど買う気が失せ、結局スーパーで適当なインスタントを買ってしまうというサイクルがずっと続いている。なぜマシーンの販売ページを見ると買う気が失せるのかと言えば、レビューがコーヒーマウント、グルメマウント、テクニックマウントに溢れているからで、そういう醜い人々のカルマを見ていると、心が荒んできて、俺はもう、コーヒーという世界から逸脱した立場でいよう、インスタントで別に問題ないですけど? というスタンスでいよう、と思うのだった。そして早晩インスタントのおいしくなさに不満を募らせる。じゃあもうレビュー欄見るなよ。

 今年もユーキャンのほうの流行語大賞が発表になり、そして今年も大いにやいのやいの言われている。ちなみに大賞は「ふてほど」であった。
 まあそりゃあね、なにか言おうと思えばいくらでも言えるわけだけど、もはやこうなってくると、扱いとしてはほぼ迷惑系ユーチューバーみたいな域になってきて、触れたら負け、みたいな感じがある。もしかしたらツッコミ待ちでアクセス数を稼ぐ作戦なのかもしれない。
 15年前にcozy ripple流行語大賞を開始したときは、本家であるこちらには、まだ絶大な力があった。それが年々勢いを落とし、今ではこんな有様だ。切ない。賞がふたたび栄華を取り戻すには、抜本的な改革が必要だと思う。そして運営としてもそれを企図しているのではないかと、僕は少し思っている。今年のトップテンの最後、すなわち現時点でこの賞が選んだ歴代の言葉の中でいちばん終わりに置かれている言葉が、「もうええでしょう」だからだ。それを最後に賞が終わったら、ちょっとかっこいいと思う。

2024年11月27日水曜日

年間行事・愛の不時着・寝言アプリ

 今年も無事に年間行事をやり遂げることができた。「cozy ripple名言・流行語大賞」と、「パピロウヌーボ」である。とてもめでたい。
 また、あまり自画自賛しすぎるのもどうかとは思いつつ、シンパがいないのだから自分で言うしかないので言うけれど、今年の出来もすばらしかったと思う。毎年、大賞発表のプレゼンターと、パピロウヌーボのゲストという2名を誰にするか考える必要があり、今年の場合、後者のフワちゃんはわりと前から定まっていたのだけど、プレゼンターのほうがなかなか決まらなかった。いっそやす子にしてしまおうかとも思っていたのだが、寸でのところで水原一平のことを思い出して、ことなきを得た。
 去年、林葉直子がヒョードルとしてコメントする、というカオスな展開にした結果、ファルマンの反応が鈍かったパピロウヌーボであったが、今年は好評を得た。「それは『俺のむべなるかな』じゃなくて『僕のヒーローアカデミア』」のところがよかったそうだ。あと授賞式で水原一平のふくらはぎに嚙みついたのが、デコピンかと思いきやただの野犬だった、というところも褒められた。嬉しい。
 ああ、1年間の総決算、本当に愉しかったな。作業中、めくるめく愉しい日々であった。ではあったのだけど、ライフワークである「おもひでぶぉろろぉぉん」のほうが疎かになったという事実は否めず、そちらへの意欲もかき立っていた。ようやく大型イベントが終わったので、ふたたびそちらに戻ろうと思う。昨日少しだけやって、過去の僕は2008年の9月20日を迎え、25歳になっていた。25歳! 昔だな! そしてなんかいつまでも、現在に対して16~17年前くらいの関係性が続いている。もっとガンガン進めたいのだけど。

 Netflixで「愛の不時着」を観終えた。どうでしたか、と訊かれればもちろんおもしろかった。1話が1時間以上あるやつの全16話を観て「つまらなかった」という人間はあまりいないだろうと思う。
 いわゆる韓流ドラマというものを観たのはこれが初めてで、鑑賞の途中でも書いたけれど、なるほど女性にとってこれは紛うことなき性的刺激なのだろうな、と思った。恋愛および性行為で得られるのと同じ成分の快感が、韓流ドラマを観ている女性には絶対に発生していると思う。僕は話としておもしろいと思ったけれど、そちら方面の効用は得られないわけで、そこまでさかったように入れ込むということにはなりようがないな、と思った。
 ちなみに観終えてからファルマンに教えてもらって知ったが、主人公のふたりはこのドラマのあと、実際に結婚したそうである。それを聞いて僕は、思わず「三浦友和と山口百恵みたいじゃん」と言ってしまったのだけど、その次の日くらいに、なぜ自分はあんなことを言ったんだろう、と不思議な気持ちになった。せめて反町隆史と松嶋菜々子だったではないか、などと思った。

 流行語にもノミネートされた「さなえちゃん、さむかったろう、まだまだ……」を筆頭に、まれに僕が唱えるという寝言を、ファルマンが聞いたときは報告してくれるのだけど、当然ファルマンだって熟睡しているときもあるわけで、そういうときの寝言がもったいないと感じ、いっそのこときちんと寝言を録音する体制にしてはどうかと考えて、アプリをダウンロードしたのだった。枕元にスマホを置いておけば、物音がした際に勝手に録音を開始してくれるという。横で寝るファルマンは、「やだ、そんなの怖いじゃん」と嫌がっていたが、まあお試しでやってみようよ、ということで作動させて寝ることにした。
 その夜、午前2時のことである。「そのアプリ、やめてよ!」というファルマンの鬼気迫る声で起された。え? え? と戸惑っていると、「気になって眠れないから!」と強い口調で言われ、寝ぼけ眼のまま、わ、わかったよ、とアプリを解除したのだった。
 僕の寝言録音用である。当然、スマホは僕側の枕元に置くのである。冷たい言い方になるが、「お前は別に関係ない」のである。それだのにファルマンは、物音を立てると録音されるというのが気になって気になって、ぜんぜん寝付けなかったのだそうである。
 なんという、なんという自意識なのか。知ってはいたけれど、まさかここまでとは思っていなかった。もはや自意識おばけと言っていい。さすがだ。
 かくして、寝言録音アプリは1日ともたず、アンインストールの憂き目となった。「どうしても録音したいなら別々の部屋で寝よう」と言われ、いや別に俺もそこまでして録音したいわけじゃないけど、でもそれにしたってこれってそんな過剰反応する事柄? と思った。
 そして、「自意識おばけ」って「人間ごっこ」の言い換えだな、とも思った。

2024年11月13日水曜日

聖・松本・靴下

 cozy ripple名言・流行語大賞のための1年間の日記読み返し作業を終える。
 11月にこの作業をして、毎年しみじみ思うこととして、自分が愛しい。なぜならこの人は、とてもまじめに生きているからだ。不条理なことや、不愉快なこと、さらには不可解なことなど、数え上げればきりがない、この澱んだどぶ川のような世の中において、まるで凛と咲く一輪の花のように、切なく、そして輝いている。その輝きはひとえに、心性の健やかさに起因する。それはもはや奇蹟と言っていい。なぜならこの腐った世界は、そんなふうに輝かずに生きたほうが、よほど楽なようにできているからだ。でもそれはたとえ楽でも正しくないという、この人にはそういう確固たる理念があるのだと思う。そしてその理念は、有り余る知性に裏打ちされている。蒙昧になにか教えられたことを妄信するのではなく、独自の思考の果てに、揺るぎない正義を立脚させているのだ。それゆえに強い。これほど尊くある人を、寡聞にして僕は他に知らない。
 cozy ripple名言・流行語大賞の発表とは、すなわち僕という人間の1年間を、敬い、慈しむことなのかもしれない。だとすればそれはとても聖なる行為、略して聖行為だし、僕による聖行為の対象となる僕自身もまた、僕に対して同じ気持ちであると考えれば、ここには聖的同意が発生すると言える。僕ら、いつまでも聖らかな関係でいようね。

 そんな俺の聖らかさに対して松本人志と来たらどうだ。
 「事実無根なので闘いまーす」と言って、今年の初頭から姿を消していた松本人志が、先日とうとう訴えを取り下げたじゃないか。
 前から言っているけど、事の発端である女遊びそのものは、どうだっていいのだ。松本人志の家族とか、相手女性の尊厳とか、そんなことは僕には無関係である。ただ、報道が出てからこっち、松本人志の動きがあまりにも不細工で、そのことにショックがある。
 いかにもおっさん臭い、ノスタルジックなことを言うけれど、「ごっつええ感じ」で「エキセントリック少年ボウイ」が初めて流れたとき、僕は衝撃を受けたのだ。大袈裟ではなく、おもしろさってこういうことか、と思った。そこで心を奪われたものだから、それからというもの、松本人志の振る舞いが少々目に余っても、それでもなんだかんだで愛し続けてきたのだと思う。
 しかしそういった素行の悪さや下品さが、ギリギリのところで、鬼才であるがゆえの尖りとして受け入れられていたのが、今回の件はちょっと毛色が違う。バチバチするような危うさは消え、その魅力がもたらしていた説得力も霧散し、ただ虚しい。そこに信じられなさがずっとあり、なんとなく目を逸らし続けている感覚がある。
 話にいちおうのけりがついたことで、年明けにも復帰するという報道がある。反対する気持ちはない。むしろ純粋に嬉しい。でも同時に怖い。出てきた松ちゃんがひどい有り様だったらどうしよう、という恐怖感がある。

 靴下のことで悩んでいた。
 夏の間は、ズボンが7分丈みたいなものばかりだったので、靴下もいわゆるくるぶしソックス的なものになり、後述するが、こちらは大丈夫なのだ。
 しかし涼しくなって、ズボンが長ズボンになると、それほど長いものではないが、ふくらはぎの途中くらいまではあるような丈の靴下を履くことになる。これが悩みの種なのである。
 なぜなら、男性物の靴下のデザインは、死ぬほどつまらないからだ。
 くるぶしソックスはそれでも、けっこう遊んでるものも売っているのだが、普通丈の靴下になると、そこはもう例の、黒・白・灰・紺・茶しかない世界が広がっている。本当にだ。本当にその色しかないのだ。成人男性はいったい何の神に何の罪を犯したことで、こんなにもファッションから色を奪われてしまったの、と嘆きたくなるほど、そんな色のものしか売っていないのである。
 それでも稀に、あるときある店で、まあこれなら履いてもいいかと思えるようなものに出会うことがあり、そういうときに入手することでこれまでなんとかやってきたのだが、最近はとみにそういう出会いがなくなり、いよいよ手持ちの靴下のかかとやつま先の生地が薄れてきて、火急の課題となっていた。
 しかしこの問題は先日、とあるひらめきによって一気に解決した。
 作ることにした、ではない。ハンドメイド靴下にはまだ進出しない。そうではなくて、今年の誕生日にもらった靴と同じ解決法である。
 すなわち、女性物でええやん、となったのである。女性物靴下、対応サイズが21cm~25cmなどとなっていて、だったらいけるんじゃないか、と思って買ってみたところ、ぜんぜんいけた。靴のときにも言ったが、ちんこと違い、足があまり大きくなくてよかった。
 女性物が大丈夫ということになると、一気に世界が拓けた。色とりどりの、ふざけたキャラクターとかが描かれた靴下が、すべておかずとして立ち上がってくるのだった。
 というわけで先日から、左右で色のちがう靴で、それを脱いだらパンダ柄の靴下、なんてふざけたスタイルで暮している。愉しい。

2024年11月9日土曜日

流行語・おせち・瀬古

 今年もユーキャンの新語・流行語大賞のノミネート語が発表となり、じっくりと噛み締めた。しかしどんなに噛み締めても、まったくもって味が薄く、感想を求められても途方に暮てしまうような、そんなラインナップであった。
 ただ、ニュース記事において、どうしても目に入ってしまうヤフコメを眺めていると、誰も彼もが偉そうに、この企画に対して批判的なことをのたまっていたので、逆に擁護したくもなった。カカロットを倒すのはこのベジータ様なんだからお前らがとやかく言うんじゃない的なムーブである。
 とは言え、そういう気持ちもありつつ、しかし、しかししかし、さすがにあんまりではないかと、30語を見てやっぱり思う。ただしこれは選考委員に対する不満ではない。自分も含めた国民全員に対する思いだ。みんな今年一年、言葉作りをサボりすぎた。だから1年がこんなに早かったのだ。言葉でその瞬間に楔を打たないと、時間はどんどん流れ去ってしまうのだ。
 30語のうちのひとつに、「名言が残せなかった」がある。やり投げ金メダルの北口榛花が言った言葉だそう。これはもはやとんちの世界だと思う。「名言が残せなかった」というフレーズが、新語・流行語のノミネート30語に入ったのだ。こいつは一本取られたな、じゃない。だって一本目の投擲で金メダルを確定させましたからね、じゃない。やりはまっすぐ投げたらいいだろうが、言葉はもっとひねりをきかせるべきだ。言葉作りに、投げやりになっちゃいけないよ、榛花。
 ちなみにユーキャンの向こうを張るcozy ripple名言・流行語大賞は、例年どおり11月23日発表予定となっております。年の瀬ですね。

 先日岡山に行ったとき、運転しながらおやつなどをパクつくわけだけれど、そのとき僕が食べていたのが、おなじみの鈴カステラと、あとチップスター(筒に入った成型ポテトチップス)で、しっとり甘い鈴カステラと、パリっとしょっぱいチップスターが、絶妙の組み合わせで、AからB、BからA、どちらの瞬間にも口の中に多幸感が生じ、感動したのだった。
 その感動を、僕はこう表現した。
「おせちだ」
 これは我ながら名表現ではないかと思った。延々と食べ続けられるものへの礼讃の言葉として、「おせちだ」はとてもいいと思う。
 無粋な解説をするならば、おせちがイメージ的に、とても格式の高い、ハレの日の贅沢品であるとされるものであるがゆえに、今回の鈴カステラとチップスターのように、要するにそれ、砂糖の小麦粉と塩の芋じゃねえかという、安っぽいものであればあるほど、そのギャップが愉快に感じられるのだ。だから、マックシェイクとマックフライポテトであるとか、五円チョコとうまい棒であるとか、そういうものを食んで、言えばいい。
「おせちだ」

 市民マラソンの大会で優勝した。そういう夢を見た。
 ほとんど飛び入りのような感じで参加して、普通に走っていたら、僕よりも速く走っている人が誰もいなくて、トップの座を明け渡すことなく、いちばんにゴールしてしまったのだった。流れで参加したものだから、家族も応援になど来ていなくて、ゴールしてから電話をし、テレビを付けるよう伝えた。テレビで中継されるような規模のマラソン大会だったのだ。実際にそんな大会で僕が優勝できるはずはないのだが、さすがは夢である、こんなこともあるんだな、と受け入れていた。小賢しいなと思ったのは、今大会の解説をしていたのが瀬古さんで、瀬古さんは大会を振り返り、そのレベルの低さに苦言を呈していた。ここに、(実際はぜんぜん合っていないが)帳尻を合わそうという魂胆が透けて見える。僕が優勝するマラソン大会など実際にはあるはずがないが、瀬古さんが憂うほどに選手のレベルが低かったわけで、そうなってくると僕が優勝というのにも若干のリアリティが出てくる、という計算らしい。完全な計算ミスである。憂うどころの話ではない。この瀬古さんのいる世界線の日本マラソン界、もとい日本国そのものは、運動能力的にもう完全に終わっている。そう考えると、国として完全に終わっているのに瀬古さんが解説している、というのが逆におもしろく思えてくる。なんかそういう夢だった。人の夢の話ってね。

2024年11月2日土曜日

布袋・寝言・新ブログ

 3部作となった「子羊たちのちんこ」がとても愉しかった。手応えがあった。たぶん読者の多いブログであったらば、「あれは反響が大きかった」などと語ることになったと思う。なんと切ない仮想であろう。読者が一切いない、反応が完全にないブログを十何年もやっていると、もはやこんな境地に至るのかと我ながら驚いている。
 反響の内容はさまざまだったが、誰もが押し並べて唱えたのは、自分の口から言うのは少し面映ゆいところがあるけれど、筆者である僕の優しさだ。僕としては思ったことをそのまま訴えただけだけど、それが結果として、読んだ人たちに優しさを感じさせたのだとしたら、これほどハッピーなことはないと思う。やっぱり、逮捕されたからすなわち悪い、では、思考する生きものである人間としての矜持が揺らいでしまう。思いを馳せ、寄り添い、慮る。これがプロペファイリングの骨子。君が好きだと叫びたいのと同じくらい、ちんこを出したいときってたしかにある。分かるよ。我慢は大事。でも心のインナーが我慢汁でもうグショグショになってしまったら、そのときはもう本丸を射出せざるを得ない。そういうものだ。
 事件から約1ヶ月が経ち、ニュース記事はもう読めなくなったりしている中、こうして男の汚名返上のために言葉を弄し続けることに対し、ファルマンからは「とんだ布袋行為だよ」と白い目で見られた。
 布袋行為とは、コブクロがマラソンレースの開会式で国歌独唱をした際、とんでもない感じで声が裏返ったという、僕なんか「つらい時かなしい時はコブクロの国歌を聴けと祖母の遺言」と短歌にさえ詠んだ、本人とランナー以外のあらゆる人を笑顔にした、あの一件があったろう、あれに関して、発生からたしか10日とか2週間くらい経って、世の中がさすがにそろそろ忘れかけていたタイミングで、コブクロの兄貴的存在らしい布袋寅泰が急に、「みんなあれで笑うのやめろよ」と、世間に対して諫める発言をし、それでまた息を吹き返して、みんなもういちどあの国歌独唱の映像を見て愉しくなった、という流れを表した、われわれ夫婦間における隠語である。つまり擁護しているように見せかけて、もういちど薪をくべること、これを布袋行為と呼んでいる。ちょうど不貞行為と語感が似ていることもあり、いいネーミングだと思う。
 僕の今回の「子羊たちのちんこ」がそれだって言うんですよ。失礼しちゃうよね。

 久々の寝言シリーズ。
 ファルマンがメモしてくれた。たまたま起きてメモしてくれたが、さすがに深い睡眠のときはファルマンだって起きないだろう。だとすれば誰にも聞かれることなく過ぎ去る寝言もたくさんあるはずだ。もったいない。聖なる俺の寝言なのに。
 その寝言がこちら。

「うん、あのね、きょうはね、うん、うん、……あ、やあらかい」

 これを、少年のような甘えた口調で言ったらしい。嬉しそうに。最後の「やあらかい」は、「やわらかい」ではなく、「やあらかい」であったという。
 なんか、こじらせたカルマを感じさせる寝言だ。41歳の僕の中にいる、まだ7歳くらいの少年の部分。そして性的欲求はその中間である19歳くらいのギンギンさを感じさせる。歪な危険性がある。
 「やあらか」かったのはなんだろう。普通に考えればおっぱいだろう。相対している人のそれについて言及したと考えるのが自然だ。でも僕のことだから、僕のことについて、相対している人に伝えているのだ、という可能性もある。その場合は金玉肉袋のことを指しているとも考えられる。どちらにせよそれは僕にとっては喜ばしいことだったようで、例のごとくまったく夢の記憶はないわけだが、愉しく過しているのならなによりだと思う。たしかに、感触が確かめられる対象が期待通りのやあらかさだった、というのは多幸感があるな、と感じ入った。
 一方的に寝言を記録してもらってばかりで申し訳ないので、たまには僕もファルマンの寝言を聞きたいものだと思うが、ファルマンはたまに獣のように慟哭する以外、寝言らしい寝言は一切唱えないのだった。あれはただ怖い。

 予告していたブログを作る。泳ぐことにまつわるあれやこれやに特化したブログ。
 タイトルは「swimming pooling」。
 最初は、同じアルファベットが2つ並ぶ単語という共通点から、「swimming pooling telling」とし、アドレスなんかはそれで登録したのだが、語呂が悪いしさすがにしつこいので要らないな、と思い直して削った。スイミングプーリング。
 ブログの背景を、プールらしさを感じさせるいい感じのものにしたいと考えていて、とにかくそこにこだわった。フリー素材からこれだというものをもらってきて、設定する。そして、透過にしないとせっかくの画像が隠れてしまうので、読みやすさなどはかなぐり捨て、雰囲気を優先させた。パソコン上では、マウスでドラッグさせて読めばいいと思う。モバイル上では、そこまで読みづらいということはないと思う。
 ブログのスキンは急に変えることもあるから、スキンについて語った文はあとから読むとなんの意味もなくなる、というのは十何年も前から経験則として知っているのだけど、こうして気張って設定した直後はどうしても語ってしまう。そういうところが好き。
 このブログに書くべきことを、これまで別のブログに書いてきたので、既にいちど語ったことを、改めてこちらに書き直す、ということもあるだろうと思う。そのあたりのことをあらかじめご理解いただきたいと、いない読者に向かって平身低頭する。腰が低くて好感。

2024年10月26日土曜日

図書館遍歴・母校・41の別れ

 先日島根県立図書館に行き、カードを作ろうとしたところ、あなた方夫婦は12年前に既にカードを作っているから家でそれを探せと言われてしまい、子どもらと違って、ラミネートされない仮のカードしか発行してもらえなかった。
 仕方なく帰宅後、カードの捜索をする。たぶんすぐに出てくるだろうという予感があった。不要になったカード類をまとめて入れておくボックスケースみたいのがあり、そこにはお店のスタンプカードや、病院の受診カード、交通系ICカードなど、人生のさまざまな場面で作り、そして暮しの変化によってもう要らなくなったカードが、塊となって詰め込まれているのだった。そこ以外に考えられない。
 ところがである。最初から最後まで、すべてのカードをチェックしたが、目的のものはとうとう出てこなかった。存在をすっかり忘れていたような施設のカードがある一方で、本当に必要とするものが見つからない。得てしてそういうものだと思う。
 なにが悔しいって、島根県立図書館以外の図書館カードの充実だ。なんと所沢市立図書館の貸出カードなんてものさえあった。大学生の頃に作ったやつだ。それから練馬区があって、倉敷市があって、岡山市があって、早島町があって、玉野市があって、岡山県があった。それなのに島根県立図書館のカードだけがない。時期としては、第一次島根移住のときだから、練馬区と倉敷市の間のはずである。でもそこだけがなぜか抜け落ちているのだった。
 それにしても多い。これ以外に、横浜市でも貸出カードは作っていたし、高校のあった世田谷区でも作った(この2枚はさすがになかった)。島根においても、こちらは現役で財布の中にあるが、今回の県立のほか、3つの市でカードを作っている。以上を合計すると、僕は13の自治体で貸出カードを作っていることとなる。これはたぶんだけど、だいぶ多いほうの部類の人間だろうと思う。

 高校のあった世田谷区、というのがちょうど関連してくる話題。
 先日プロ野球のドラフト会議があって、今回は夏の大社高校のことがあり、部員の誰かがプロ志望届を出したという話もあったので、結果はどうだったのか気になって、各球団の指名一覧を眺めたのである。ちなみにだが、大社高校からは誰も選ばれておらず、それもそのはず、きちんと検索したら、誰もプロ志望届なんか出していなかったらしい。なんだよ。
 しかし大社高校が気になって目にした育成枠のところに、想像もしていなかった学校名を見つける。日本学園高校である。なにを隠そう、母校だ。中学で勉強をまったくせず、地元の公立高校のどこにも行けなかった僕が、なぜか推薦で入れた私立の男子校。ホームルームで担任が、「登下校でタバコを吸うときは、持つ位置に気を付けろよ、手を垂らして持ってたら、それは幼児の目の高さだからな」と注意するような、いま思えばとんでもない学校だった。もちろんスポーツに秀でているということも決してなく、サッカー部はそれでもそこそこだったんじゃなかったかと思うが、野球部に関してはまったく印象がなかった。そんな母校から、育成枠とは言え、プロ野球選手である。しかもソフトバンクの、育成1位と来たもんだ。なんだそれ、と衝撃を受けた。
 衝撃を受けたが、驚きを語り合う当時の同級生なんかはひとりもいないので、ひとりで粛々と、指名された子のニュースなどを読んだ。読んだところ、日本学園高校は2026年から明治大学の付属校となり、明治大学付属世田谷高校に名前が変わるという情報が出てきたので、また驚いた。母校、そんなことになっていたのか。日本学園といいつつ日本大学とはなんの関係もなく、それでいて最寄り駅は明大前であったから、近場の明治大学とくっつくことにしたのだな。ふうん、としか言いようがない。
 ちなみに26年の新体制開始のタイミングで、共学化もするとのことである。そうか……。俺の母校は、共学の世田谷高校になるのか。なんだそれ。

 おろち湯ったり館へ行く。8月の、帰省から戻ってきた直後になぜか行って、キャッスルイン豊川に較べて見劣りするなあと感じて以来、2ヶ月ぶりの訪問である。あれは行ったタイミングがあまりにも悪かったが、そのときの思い出が薄れたいま、ふたたびおろち湯ったり館がしっかり愉しめるのではないかと期待して行った。
 しかし行く前から懸念があり、ふたつ前の記事で書いたように、なんか自分用のサウナマットを用意しなければならないシステムになったらしい。それが実際どのような感じなのかを探るという目的もあった。
 行ったのは金曜日の夜。土曜日に行こうかとも思っていたが、退勤が早く成ったので、いっそ今日のうちに済ませてしまおう、という感じで行った。サウナマットは持っていないので、受付で購入した。8つ折りの、発泡スチロールみたいなやつ。250円。タオルのように、おろち湯ったり館のロゴでも入っていたら、500円でも喜んで買うのだが、パック詰めされた無地の既製品である。色は赤と緑の2種。なんとなく赤を選んだ。
 サウナに入ると、なるほどこれまでのようなバスタオル的なマットがなくなり、各人が自分のマットの上に腰を下ろしている。寂しい、と思う。また、なんとなくこれまでよりもサウナ内の空気が乾いている感じがする。そんなことを言ったら、これまでのタオルマットが湛えていた水分はおっさんたちの出した汗だぞ、という話になってくるのだが、とにかくこれまでとは明らかにサウナの性質が変わった。さらには、使用後の座面を拭くための雑巾までが用意され、出るときはそれで座っていた部分を拭くというのがルールらしい。なんだよこれ、と思う。こんなしちめんどくさい、ちょっとなにかを疎かにしたらルール厳守勢からすかさず窘められるようなサウナ、嫌だよ。サウナっていうのは誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。そもそもサウナっていうのは汗をかく場所なんだから、その汗をそんなに汚らわしいものとして排除しようとするのは、どう考えても矛盾している。そんなこと言ったらプールだって、水泳という運動をしている人のかいた汗がたっぷり含まれている。さらに言えばサウナという密室に大勢で入っている時点で、互いの口腔や肺を出入りした空気を吸い合っているのではないか。そんなことを気にし出したら、生きていけないだろう。なんなんだ、この神経質な人に合わせた仕様は。なんだかすっかり嫌な気持ちになってしまい、サウナにはそれきり入らなかった。外気浴のために上がった2階は貸し切りで、それはよかったけれど、以前のような、たった1回のサウナですかさずととのうような満足感からはほど遠く、哀しかった。僕とおろち湯ったり館の蜜月は、終わってしまったのだと思った。
 ともに過した愉しかった日々を思い出しながら、暗い雲南の夜道を、車を走らせ帰った。窓に映る僕の横顔には、涙が浮かんでいたとかいないとか。

2024年10月20日日曜日

いい趣味・韓ドラ・作業

 前に義母と義妹に会ったときに、どういう話の流れだったか、「トップバリューの鈴カステラがとてつもなくおいしい」ということを語ったのである。相手にそこまで言われれば、「それならいちど食べてみたいものだ」と相槌を打つのは、対話として当たり前のことで、しかし世の中の人はなかなかそれで本当に買って食べるということはしないものだから、そのあと自分が買ったついでに、ひと袋を実家にプレゼントしたのだった。ちょうど義妹が10月中旬に誕生日だった、というのもよかった。税抜き98円。
 それから数日して、また顔を合わせたときに、「鈴カステラは食べたか」ということを訊ね、それに対して向こうが返事をする前に、「おいしかったろう」と言葉を重ねた。結果、「うん、甘くておいしかった」という、それ以外許されないだろ、みたいな答えが返ってきたので、満足した。
 たぶんふたりは、長女の夫がひとりで上げに上げたハードルを飛び越えるほどには、トップバリューの鈴カステラに感動しなかったろうと思う。それはそうなのだ。鈴カステラを数年ぶりとかに食べた人に、簡単に感動してもらっては困る。鈴カステラってそういうもんじゃない。僕はモロッコあたりの伝統食であるクスクスを食べたことがないが、もし今後、食べる機会があったとしても、クスクスという食べ物の情趣は、いちど食べたくらいでは理解が及ばないに違いない。そういうものだ。ものの価値は、それなりの蓄積と素養がなければ、享受できないのだ。もしかしたら僕は、その蓄積と素養に裏打ちされた特権思想、自分は価値の解る人間であるということを実感したいがために、トップバリューの鈴カステラをこれでもかと賛美した上で民衆に与える、という行為をしているのかもしれない。だとすれば、なんといい趣味か。

 ファルマンに強く勧められたので、僕も『愛の不時着』を観はじめている。キプチョゲ並みのハイペースで全話を観終えたファルマンに対し、ビギナーの市民ランナーのような速度でゆったりと観ている。そのぶん景色がよく見えるかと言えば、キプチョゲと市民ランナーがそうであるように、別にそんなこともない気がする。そもそも熱量が違うのである。
 ちなみに、いわゆる恋愛ロマンス的な韓流ドラマを観るのは、これが初めてなのだけど、たぶん『愛の不時着』というのは、大ヒットしただけあって、韓流恋愛ロマンスのエッセンスが高純度で上質に含まれているのだろうと思うが、観ていて、なるほど世の中の(元)乙女たちが韓流ドラマにハマるのは、こういう要素に拠るものか、と得心している。それはまあ、ズキューンと来ちゃうよね、と。
 しかし翻って、妻たちにこんな世界に憧れを抱かれちゃあたまらないな、とも思った。
 僕は今からどうしようもない喩えを言う。きちんと断ってから言う。「こんなことを言うとセクハラだって言われちゃうけど、」という前置きをしてから言うセクハラ発言はセーフ、という意味のよく分からないあのテクニックの応用である。
 韓流ドラマってあれ、床オナじゃないですか。
 あんなものに慣れられてしまったら、現実の刺激程度では反応できなくなると思う。これは男がAVを観るのとは違う。男は物理的な快楽しか求めていないから、床オナのような行為をしない限り、AVと現実は両立する。でも女性の場合は、「女の子のいちばんの性感帯は頭の中にある」という言葉があるように、韓流ドラマによってもたらされる精神への快感は、現実での性的な行為をした場合に注がれるのと、同一の容器に充填される感がある。そうなってくると、現実はもう手も足も出ない。床オナのもたらす強い刺激に対して、現実のそれはあまりにも締まりが悪いと思う。

 今年もはじめた。なにをって。この時期にはじめるものといったらひとつしかない。cozy ripple名言・流行語大賞のための1年間の日記読み返し作業である。
 ここ数年、今年はそこまで記事数もないし、そもそも昔のように、意識してオリジナルの言い回しを生み出そうという熱情があるわけでもないので、挙げられるような候補語がほとんどないかもしれない、と不安を抱きながら作業に取り掛かるのだけど、やりはじめたら、なんだかんだで、あるのだ。日々まじめに生き、減ったとはいえ毎月最低10記事はやろうとしているので、そういう人の所に、キラリとした言葉は、どうしたって舞い降りる。そういうものなんだと思う(もちろん本人のセンスによるところも大きい)。
 それにしても、自分の日記ばかり読んでいる。おもひでぶぉろろぉぉんでは2008年の日記を読み、大賞ではこの1年の日記を読み、さらには先日プール習慣をはじめた時期について言及した2019年あたりの日記がやけにおもしろく思えたのでその頃の日記も読んだりして、本当に僕は僕の日記ばかり読んでいる。表現とはオナニーであるならば、僕の主食は、僕の射出した精液なのかもしれない。へー、パピロウのってこんな味なんだね。

2024年10月14日月曜日

おろちよ・鬼滅・サブスク

 この3連休でほんの少しだけ、行こうかなという思いが脳裏を掠めつつも、それでも結局は行かなそうな情勢の、おろち湯ったり館なのだけど、思いを馳せた際になんとなく、公式ホームページを開いて見てみたら、サウナの利用に関して、『各自携帯用サウナマットをご持参ください お持ちでない方はご利用いただけません タオルのみでの利用不可』という告知がなされていて、驚く。よそではあまり聞いたことがないルール。おろち湯ったり館にいったいなにが起きたのだ。
 これまでは、山吹色のパイル地に焦げ茶色のパイピングがなされた、あの典型的なデザインの、バスタオルほどの大きさのマットが、座面全体に敷き詰められているというスタイルで、いや、もちろん、不特定多数の人が利用するそこに裸の尻を置くのは、考えようによっては抵抗を覚えることなのかもしれないが、しかしサウナは利用前も利用後も清潔にするのが前提であるから、僕はこれまで特に気にしていなかったし、もしも気にする向きがあるというならば、その人は個人用のサウナマットをその上に敷いて座ればいい、と思っていた。だがルールが変更になったということは、それではよろしくない、ということになったのだろうか。
 以前、第二次島根移住プレスタートのいろいろつらかった時期、体をあまり拭かないでサウナに入室したら常連の老人に叱られて心がぽっきり折れたという出来事があったが、基本的に外部の人間が著しく訪れない、雲南の地元常連客ばかりが信じられない濃度ではびこるおろち湯ったり館のこと、あの輩の訴え次第で施設のルールは簡単に捻じ曲げられそうだ、などと思う(こんなふうに書くとすごく嫌な施設のようだ)。
 だが、ルール変更後に行ってもいないし、情報は一切ないけれど、たぶん今回の件はそういうことではなくて、人件費の削減とかかな、と捉えた。タオルマットは一定時間で交換していたが、狭くないサウナの座面に敷き詰められるだけのマットを、従業員が抱えて持ってきて、その姿が出入り口に現われるのを見るや否や、サウナの中にいた客は一斉に立ち上がり、自分の周辺のマットを取り上げ、中央スペースにドサドサと積み上げ、代わりに新しいマットを受け取って皺のないように敷く、というのが暗黙のルールとなっており(また初見殺しの厭らしさが露見してしまった)、でも僕はそれ自体は、プチイベントな感じでちょっと愉しくて嫌いじゃなかったのだけど、個人用携帯マット必須ということになれば、タオルに関わる交換および、当然バッグヤードにおいて発生していたであろう洗濯の労力も省けるわけで、要するにそういうことなんだろうと思った。
 おろち湯ったり館、このご時世に値上げもしない(それこそ常連の輩の圧力かもしれない)ので、経営状況はいかがなものなのか、これまでも心配する部分はあったが、今回のことはその兆候ということなのやもしれない。それにしても、共用のマットがないのは別にいいが、各人が携帯用のマットを持ってこなければならない(持っていない人は受付で販売しております)というシステムは果たしてどうなのか。そのスタイルの場合、施設側が、あの座布団みたいな個人用のやつを用意するものではないのか。それを運用する余裕もないということなのか。心配は募る。

 すごくおもしろい漫画に出会った。
 みなさん、『鬼滅の刃』って知ってますか。もう連載は終了してしまっているんですけど、すごくよくできた作品なので、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいと思い、ヤホーで調べてきたんで紹介していきたいと思います。
 ヤフーだよ。あとみんなもう知ってんだよ。なんならもうブーム終わってんだよ。
 という、まさにナイツの漫才みたいに周回遅れなのだけど、このたび『鬼滅の刃』にハマった。最終23巻の発行が2020年12月のこと。4年遅れ。へそ曲がりにもほどがないか、と我ながら思う。
 逆になぜこのタイミングで読みはじめたかと言えば、晩春くらいに、図書館でたまたま前半の巻が並んでいるのを見かけ、じゃあ読んでみようかと借りて読んだのである。そのあと夏の帰省の際、あの夢のようだったキャッスルイン豊川でも何冊かを読み進め、そしてこの秋、残りの巻をまた図書館で借りて読みきったという次第である。
 ファルマンは途中で脱落し、僕とポルガだけが最後まで読んで、ハマり、そしてそんなふうに保有せず不自由に読んだくせに、最後まで読んだ末に、おもしろかったから持とう、ということになってブックオフで買い揃える、というよく分からないことをした。ちなみに全巻110円だった。当時、異常なブームで異常に売れてたっぽいもんな。
 ところでこの5年ほど、生地選びの際、『鬼滅の刃』関連の、市松であったり麻の葉であったりの文様の柄のことを、わりと疎ましく感じていたわけだけど、いまさらになって、緑と黒の市松模様かっけー! 俺も炭治郎みたいになりてー! と思うようになり、生地が欲しくなった。そうか、だからあいつら(小学生男子)はコロナ禍、猫も杓子もあの柄の布マスクをしていたのか。しかしいまさら布マスクであるはずもなく、どうしたって僕の場合は水着生地ということになり、たしかに御用達の店でも『鬼滅の刃』の各種柄のプリントは販売されているのだが、これまでずっとそのページには見向きもしていなかったのだが、今回ようやくきちんと見てみたらば、緑と黒、ひとつひとつの四角が一辺5cmという大柄だったため、ちょっと水着には不向きそうで、残念だった。もう少し細かいデザインだったら、たぶん本当に買って、水着を作っていた。俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できずに買っていたと思う。

 9月から加入したNHKオンデマンドで観ていた『平清盛』を、この夫婦は近ごろ観ないじゃんね。10日前くらいに観たとき、その日眠かった僕が、最後のほうすっかり舟を漕ぎはじめ、それにファルマンが苛ついて以来、すっかり観なくなってしまったじゃんね。
 世間の評判こそいまいちながら、ちゃんと観た人の評価はけっこう高いという触れ込みの『平清盛』だが、どうやら我々はそこまで到達せず、脱落してしまいそうである。『光る君へ』に触発されて観はじめたところがあるわけだが、そちらのきらびやかな絵面に対し、『平清盛』の泥臭さは、なるほどかつての兵庫県知事が苦言を呈したように、だいぶ観る上でのハードルを上げると思う。
 それとこれは作品自体には関係ないが、amazonプライム経由のNHKオンデマンドは字幕機能がないため、それも視聴の障害となっている。晩酌の際に観るので、そこまで大きな音量にできず、『光る君へ』でもそうだが、時代物なんかは特に、わりと字幕に頼って観ているところがある。実際、字面で把握しないと意味が掴めない固有名詞がたくさんあるじゃないか。それでも昔は字幕なんかなかったんだから頑張れよ、と言われればそれまでだが、晩酌しながら観るドラマで余計な神経を使うのはストレスだ。現代人はそんなストレス、受容できないのだ。
 そんなわけでNHKオンデマンドは、たぶん10月でおしまいにすると思う。あと、ここまでつらつらと正当な理由っぽいことを述べてきたが、『愛の不時着』観たさをいよいよ我慢できなくなったファルマンが、このタイミングでネットフリックスに加入したため、みんな大喜びで『T.Pぼん』や『らんま1/2』などを観るようになったというのが、実は身も蓋もない真相だったりもする。ちなみにいま夫婦の晩酌時間では、『イカゲーム』を観てる。わが家はどうも3年から4年ほど遅れて世の中のブームがやってくるようだ。

2024年10月9日水曜日

検索・サンマ・巡る

 前回、ファルマンが「BUNS SEIN!」Tシャツを着ていた、という話を書いた。ファルマンはもちろん家でしか着ないのだが、僕は気が向いたときは外出時にも普通に着るわけで、この人間の脳とスマホが直結した世界で、もしも文面を検索されたらよろしくないよな、とは前々から思っていた。思っていたが、実際に検索を実践したことはこれまでなかったので、今回のことをきっかけに初めてやってみた。Googleで、「BUNS SEIN!」と。そうしたら、まったく僕に関連するページが出てこなかったので、拍子抜けしたし、戸惑いもした。「Bun Sein」という人のSNSは出てきて、どうもSeinというのはミャンマーにある名字らしいのだが、「BUNS SEIN!」で検索しているのだから、ブログ「BUNS SEIN!」が表示されて然るべきではないかと思った。
 それで、にわかに気になりはじめたので、次に「おこめとおふろ」で検索をしてみた。すると、香川県にあるという、60代夫婦が営む農家民宿が出てきた。「おこめとおふろ 稲木家」という屋号らしい。うそーん、と衝撃を受けた。
 最後に、さすがにこれならばと、「パピロウせっ記」で検索をしたところ、ようやく検索結果に出てきたのでホッとした。Blogger、あまりの商売っ気のなさに、Googleはいったいどういう意図でこのサービスを継続しているのだろうと疑問に思うことがあるが、Googleで検索してもこんなに表示されないだなんて、本当になんなのだろう。なるべく人に読ませたくないと思っているのだろうか。隠れ家ブログ。取材は一切お断り。1日1組限定。ここを知ってるなんて、おたく、通だね。いつか行こうかな、稲木家。

 ここ2年くらい不漁だったサンマが、今年はわりといい感じだというニュースがあり、ほうそうかと思っていたら、後日スーパーで、なるほどまあまあ安い値段で売られていたので、これならよかろうと思い、4尾買って夕飯にした。この2年間、まるで食べなかったわけではないのだけど、あまり印象に残っていない。特に去年なんかは、1尾が300円くらいしたため、4尾で1200円と考えるとバカらしくなり、ろくに食べなかった気がする。
 それで久しぶりにきちんと食べたサンマはどうだったかと言えば、それはまあ、もちろん美味しかったのだけど、しかし食べながら、秋口の初サンマって、もっと気持ちが盛り上がるものではなかったろうか、ということを思った。このたび僕は、終始わりと淡々とした気持ちで、サンマと接したように思う。
 これはなぜかと考えて、それはやっぱりこの2年間の無沙汰のせいだろうと思った。定番の関係性が崩れ、距離ができ、よそよそしさが生れてしまった。
 そのことに気付いた次の瞬間、松本人志のことを思った。松本人志が活動休止をした直後から、僕は「数ヶ月間テレビに出ていなかった松本人志を見るのが怖い」ということを思い続けている。いつ復帰するのか判らないが、復帰直後は、たぶんどうしたって、テレビタレントっぽさが削げていることだろう。松本人志のその感じが、僕はすごく怖い。だからなるべくならトカゲのおっさんの姿とかで出てきてほしい。

 ファルマンの母方のおじいさんが亡くなった。
 通夜が火曜で葬式が水曜という、あまりに平日の日程だった上、ポルガの中間試験が間近ということもあり、僕と子どもたちは参列せず、ファルマンだけが岡山に行ってきた。三女の車に同乗させてもらい、葬式だけの日帰りである。
 おばあさんが亡くなったのがいつのことだったかと自分の日記で確認したところ、2019年の1月のことだった。当時は岡山在住であり、祖父母の居住エリアまで車で30分程度だったので、行きやすかった。子どもも8歳と5歳だったわけで、一家全員での行動が当たり前だった。それから5年9ヶ月後の今回、ファルマンが早朝に家を出て、僕もいつも通り、子どもたちがまだ寝ぼけ眼みたいな状態のタイミングで出勤をしたので、朝ごはんこそ用意したものの、それ以降の登校に関することは本人たちにやらせ、玄関の戸締まりも、ピイガのあとに出発するポルガに任せた。家庭によっては中学生でそんなのは当たり前だったりもするのだろうが、ファルマンが常日頃とにかく家にいるわが家の場合は今回が初めてであり、もうそういうことができるようになったんだなー、という感慨があった。
 時代は巡る。子どもは大きくなり、そしてわれわれの代の祖父母というものはいなくなりつつある(横浜に元気なのが残っている)。

2024年10月2日水曜日

オカン部屋着・たけし・We Are The World

 よく、オカンが自分の中学時代のジャージ部屋着にしてんだけど! という笑い話があるけれど、それに類する出来事なのかなんなのか判然としないが、ファルマンが先日、胸に「BUNS SEIN!」とロゴがプリントされたTシャツを着ていた。かつて僕がプリントしたやつだ。自分のTシャツが出払っていたのか、僕のタンスの引き出しから適当に選び、着たものらしい。勝手に着る分にはもちろん別に構わないのだけど、どうしたってツッコまずにはいられないのは、お前、それ、「BUNS SEIN!」だぞ、ということだ。BUNSは僕の提唱する女性器の呼び名(ソーセージを受け止めるものだから)であり、SEINはたしかドイツ語で「存在する」なので、併せることで「まんぐりがえし」を意味している。その言葉がプリントされたTシャツなのだ。もちろんファルマンも言葉の意味は知っている。知っているが、部屋着なのでなんだってよかったのだろう。だからってさすがにどうなんだ、とも思う。おもしれー女!

 宮崎空港で不発弾が爆発していた。その爆発により直径7メートルの陥没ができ、滑走路は閉鎖されたという。専門家の話によると、宮崎空港のある場所にはかつて海軍基地があり、不発弾がたくさん埋まっているのだそうだ。そして、それは普通だったら爆発することはまずないのだけど、強い衝撃や振動が加わると、今回のように爆発するケースがあるという話だった。
 宮崎空港には縁がないし、今後も利用する見通しがないので、まったくの他人事として今回の話を受け止めているのだけど、強い衝撃や振動によって作動するかもしれない不発弾がたくさん地中に埋まっている空港って、なんかあまりにもすごい話ではないだろうか。それってもはや風雲たけし城の世界観ではないのか。思わず、あの池に浮かんだ石を飛び移って進むやつを思い出した。ハズレだと沈むやつ。あの世界観だと思う。

 本日のプールは、館内BGMが80年代洋楽ヒット集で、いつものようにまず流れるプールに入ったのだが、そのとき掛かっていたのが「We Are The World」だった。
 流れるプールで歩いているときは、泳いでいるときと違い、視覚や聴覚は遊んでいるため、わりとBGMをよく聴くことになるのだが、「We Are The World」、きちんと聴いてみたら、めっちゃいい歌。いっぱいいる一流シンガーが、ひとりひとりに与えられた短いパートを、それぞれこれでもかと力を込めて歌うから、なんかずっとすごいテンションでいい歌であり続ける。そして長い。帰宅後に検索したら、7分あるらしい。流れるプールを2周くらいする間、ずっと「We Are The World」だった。
 労働後の、リフレッシュのためのプールであるわけだが、なんか望外の効用というか、まったく予想していなかった方面から、心が洗われた感があった。流れるプールなので、みんな基本的に同じ方向を向いて進んでおり、自分からは前をゆく人たちの、水面から出た後頭部だけが見えるわけだが、その画がなんか示唆的というか、水、河、人、生命、死、We Are The World……、となんだか哲学的な気持ちになった。変な教団のプールみたいだな。

2024年9月29日日曜日

不思議体験・しゃれ靴・オンデマンド

 いつものように流れるプールに入り、水泳帽を被ったら、おでこのあたりに違和感がある。なにか、棒状の硬いものがある。初めての経験に、えっなにこの現象、ここからなにが出てくるの、とドキドキしながら指を差し入れ、中身を取り出してみたら、ピイガの短くなった鉛筆だった。おそらく、取り込んだ洗濯物がリビングの一角に積み上げられたタイミングで、ちょうどピイガのほっぽったそれが入り込んだのだろう。わが家の営みのことを思えば、この現象そのものにはなんの不思議もない。しかしプールで鉛筆という取り合わせが、もちろん初めての経験で、なかなか不思議だった。
 鉛筆は早くプールサイドにある棚に持っていきたかったが、流れるプールに入ってしまったので、1周するまでは出られない。帽子の中に戻したり、ボクサー水着の中に入れることも考えたが、なんとなくそれも変に思えたので、仕方なく右手に持ったまま、1周を歩ききった。鉛筆を持ちながらスイムウォークをするのは、これが最初で最後に違いない。鉛筆という、ちょっと実用的なものというのが、絶妙なポイントを突いている、と思ったけれど、歯ブラシやしゃもじで想像しても、わりと同じような気分かもな、とも思った出来事だった。

 誕生日プレゼントの靴が届く。巨大な箱だった。なぜなら2足だからである。安かったので2足買ってもらったのだ。ちなみにレディースもので、サイズが不安だったが(それなのに一気に2足買うなんてチャレンジャーだ)、最大サイズである25cmが、特に問題なく履けたのでよかった。
 なぜレディースものかと言えば、色のかわいいやつがよかったからで、実店舗でもネットでもだが、欲しいと思う靴は大抵、レディースものなのだった。靴に限ったことではないけれど、男性用の売り場って、どうしてほぼ黒・白・紺・灰・茶の5色くらいしかないのか。こと下着に関しては、かわいい柄の生地で自作する、という解決法に至ったが、靴はさすがにそういうわけにはいかず、長年あぐねていたわけだが、41歳の誕生日祝いにして、ようやく解決へと至った。足が大きくなくてよかった(ちんこと違って)。
 かわいい色味の靴を2足買って、その日のファッションに合わせて履くのを選ぶのかと言えば、実はそういうことではなく、買ったのは同じデザインの色違いであり、これを左右それぞれ異なる色で履くのである。パリ五輪で、やり投げの北口榛花がそれをやっていて、かわいいと思ったので、真似することにしたのだ。テレビで観たオリンピック選手の真似をするだなんて、とても素直でほほえましい行為だと思う。
 それで意気揚々と職場に履いていったところ、会社の玄関で職場のおばさんたちに遭遇し、目ざとく靴のことに気付かれる。そのおばさんのひとりがこう言った。
「プロペ君、靴がちんばよ!」
 びっくりした。ものすごく久しぶりに聞いたような気がする。おしゃれです、と答えた。

 大河ドラマ「光る君へ」を愉しく観ているが、「光る君へ」と「鎌倉殿の13人」の間をつなぐものとして、「平清盛」もおすすめであるという触れ込みを聞きつけ、夫婦でその気になったのだが、「平清盛」は家からちょっと遠くのツタヤまで行かないと置いていないので、観はじめる踏ん切りがつかずにいた。そんな折、ならばいっそNHKオンデマンドに加入すればいいのではないかとファルマンがひらめき、9月の連続3連休というのも背中を後押しして、amazonプライムからボタンひとつで契約を開始したのだった。そうしたら本当に、大河ドラマをはじめとするNHKの数々の番組が簡単に見放題になったので、もはや何度目か知れない、こういうサブスクの類の、はじめる前と後の生活様式の違いについてのショックを受けた。在庫があるかどうか分からない、ちょっと遠くのツタヤまで車で行って、1週間にがんばれば観られるであろうDVD2本分ずつとかを借りて返すのを、何度も繰り返したりしなくていいんだ! という衝撃。このことに衝撃を受ける世代。
 というわけで3連休でスタートダッシュを決め、それ以外にも日々の晩酌などでもせっせと「平清盛」を観ている。2012年放送。当時は観なかったのだ。放送中、兵庫県の知事が「画面が汚い」と批判し、話題になったことは覚えている。たしかに汚い。砂埃まみれ。当時の記事を検索すると、NHKは「リアルを追求した結果です」などと説明したらしいが、それから10年あまりが経過し、やっぱりテレビドラマの絵面はきれいであるに越したことはない、という結論にNHKはしれっと転向したのではないかな、と思う。それはそれとして、ドラマは愉しく観ている。大河なのでまだ先は長い。じっくり愉しもうと思う。

2024年9月20日金曜日

湯ったり不倫・水棲じいさん・管理会社より

 誕生日である。41歳である。ただし平日なので特にどうということもない。ふいに1年前の日記を読んだら、9月18日、同じく3連休前の金曜日、僕は退勤後におろち湯ったり館へ繰り出していた。今年もやったろうかと少し思ったが、結局よした。ブログに書かなかったが、盆休みの、帰省から戻ったあとの残りの休日で、実はいちど湯ったり館に行っていた。行っていたのだが、どうにもいつもの喜びが得られず、それはなぜかと言えば、キャッスルイン豊川の快感がまだ体に色濃く残っていたからに違いなくて、絶倫の巨根と不倫をした結果、夫のつましやかなそれでは満足できなくなってしまった若妻のような、申し訳ない気持ちになったのだった。しかしあれからひと月経って、そろそろ膣に残る感触も薄れてきたので、行ったら愉しめるのではないかとも思うし、それでもやっぱりあたしはあの最低のチンポ男のことを思い出してしまうのかもしれない、とも思う。これからいい季節になるので、2階が封鎖される前に、どこかで行こうとは思っている。誕生日に僕はいったい何を書いているのか。

 おろち湯ったり館へは行かず、退勤後はいつものホームプールへと赴いた。まだ暑さは続いているのに、どうも先週の3連休が、世間におけるプールシーズンの終了であったようで、そこからガクンと人が減った。人が減って感じたのは水のきれいさで、しかしこれについて深く考えようとすると、真夏の、人口密度の高い、透明度の低い水に関して、気付いてはいけないことに気付いてしまいそうなので、よしておく。
 プールに関して、話題をひとつ。
 行くのがいつも同じ時間帯なので、顔見知りというのがどうしたってだんだんできてくる(決して会話をしたりはしない)わけだが、狭い町だというのに、プールで見かける人を、プール以外の場所で目にするということが、これまで完全にいちどもなかった。それはなんだか不思議なことのように思え、もしかすると僕がプールで見ているあの人たちは、プールの妖精なのかもしれない、プールを出た瞬間に光の粒になって霧散するのかもしれない、などと思っていた。しかし先日、ついに近所のドラッグストアで、プールの歩くレーンによく出没するじいさんの姿を発見したのだった。この瞬間、とても驚いた。プールでしか見たことのなかった人を陸上で見かけると、「水棲生物なのに!?」という衝撃があるのだと知った。たまに、川などの水場がそんなに近くにあるとは思えないような場所に、カニがいたりすることってあるじゃないですか。あれとまったく同じ気持ち。そしてたぶん、じいさんも同じような気持ちで、僕のことを見ていた。一瞬、しっかり目が合った。

 リビングのエアコンが、10日ほど前からとぼけはじめ、音ばかりはグヮングヮンと強力そうなのに、出てくる冷気はか細くて、まあどう考えても故障なのだった。夏の間、朝から晩まで稼働しっ放しだったわけで、最後の力を振り絞って、なんとか9月中旬まで責務を全うしてくれたのだな、ただし今年の残暑のしつこさたるや計算外だったのだな、などと思った。そしてリビングのエアコンが故障しても、ぜんぜんテンションが下がらないのが、賃貸住宅のいいところで、まあリビングだけで、他の部屋のは自前ではあるのだけど、備え付けであるそれは、管理会社に連絡をすれば、修理なり交換なりを無料でやってくれるのである。今回の場合、もともとのものがずいぶんな年代物であったということで、こちらとしてもそうなればいいなと思っていた、交換となった。リビング用のエアコンと言えば、買ったらだいぶするに違いない。だいぶテンションが下がるに違いない。これだから賃貸住宅っていいよな、と改めて思った。
 しかも交換日は今日と来た。家に帰ったら、轟音と半端なぬくもりで居心地の悪かったリビングが、とても静かで清廉な冷気に包まれていた。僕がこれまでの人生でもらった最も高額な誕生日プレゼントは、管理会社からのリビング用エアコンかもしれない。

2024年9月7日土曜日

田んぼ・米・おにぎり

 出勤で田んぼの間の道を走っていたら、車の接近によって道端にいた鳥が飛び立ったのだけど、3羽だったその鳥というのが、カラスと、サギと、トンビだったので、少し驚いた。よくあるのは、同じ種類のものが2羽でいるパターンで、あるいはカラスが何羽かいるところにトンビも1羽だけいる、みたいなときもあるけれど、今回のように別の種類の鳥が、それもきっちり1羽ずつだけいる、というのはだいぶ珍しいと思う。あまりに特異な感じがしたので、あとから、あれはそれぞれの種族の代表者会議だったのではないか、と思った。カラス族、サギ族、トンビ族のリーダーだけで集まり、今後の方針などについて語り合っていたのではないかと。あるいは「ボクらの時代」の撮影だったのかもしれない。どちらにしろ、無粋な邪魔を入れてしまったと思った。

 米の品薄が叫ばれていて、実際スーパーではあまり米を見かけない。まったく手に入らないわけではないので、いまのところなんとか食い繋げてはいる。
 ところでこの、スーパーの棚から商品がなくなるという現象について、幸か不幸か、だいぶ自分の中で耐性ができているな、ということを今回の米の件で感じた。社会人になって、自分で食料を調達するようになっての最初のそれは、東日本大震災だった。あのときは、乳飲み子を抱え、商品があっても産地を気にしなければならないという制約まであったので、格別につらかった思い出がある。その次はコロナ禍だ。終わりが見えなかったこともあり、このときもだいぶ精神に来たものだった。とは言えこうして考えると、10年にいちどくらいしかそういう思いをせずにいられている、というのはむしろだいぶ恵まれているのかもしれない。
 そしてそれらの時代に較べると、今回の米不足というのはそこまで哀しくならないな、と思う。なにぶん米だけの話だし(昨今の全般的な物価高というファクターもあるにせよ)、さらには日々の暮しの中で、立派に実った稲穂を日々めっちゃ見ている、というのも心を安心させているのだと思う。別に近所で作った米を直接入手しているわけではないけれど、こうも無事に育っている以上、実際にはそう深刻なことではあるまい、という確信が持てるのだった。これは紛れもなく田舎住まいの利点である。米が実っている情景が見られず、スーパーの棚に米がなかったら、それはだいぶ不安になるだろうとも思う。

 今夏の帰省の際、夕餉でおにぎりが出た。大人たちが酒を飲む中で、お茶碗で白米というのも間が抜けている感じがあり、おにぎりにしたのだろうと思う。このおにぎり作りを、母とともに僕もやった。本当に炊きたてのごはんだったので、やけどしそうなほどに熱かった。そして夕餉が始まり、普段からババの家に入りびたっている姉の子どもたちは、並んだおにぎりを目にすると喜んだ様子で、「ババのおにぎりはすごくおいしいんだよ」などと言ってくる。この言い方に、なんとなくカチンと来た。おにぎりのような素朴な食べ物に、おいしいもなにもないだろう、と僕はずっと思っているからだ。水を付けすぎとか、強く握りすぎとか、下手な人が作ったまずいおにぎりはあっても、特別おいしいおにぎりというものは存在しない、変なスピリチュアルなことを言うもんじゃない、と姪らを諭した。すると姪らも躍起になって、「ババの作ったおにぎりは特別おいしいから、パピロウの作ったものとは味がぜんぜん違うはずだ、食べたらすぐ判る」などと言い出す。しかしその時点で、おにぎりはだいぶ減っていたし、母と僕の作ったおにぎりはランダムに混ざっていたので、互いに主張する説の実証のしようがなかった(食べている途中で誰も「これは特別おいしい」「こっちはあまりおいしくない」と言っていないのだから僕の主張が正しいと言えるが)。そんな中で、大皿に残っていた、まだ手に取られていないおにぎりの中で、時間経過とともに形が崩れてしまっているものがひとつあって、それを指して姪が「これはきっとパピロウが作ったやつだね」と言ったのである。これにははらわたが煮えくり返った。僕は島根では、ひとりやけに食べ物にこだわりがあって、料理も上手というキャラで通っているので、このような扱いに慣れておらず、本当に心外だった。よほど僕はこのときのことが悔しかったようで、半月後くらいにこの情景をそっくり夢で見た。起きてから、怒りが静かに再燃すると同時に、さすがにおかしく、けなげな自分への愛しさも募った。この話のポイントは、母の作るおにぎりのおいしさとかを息子がぜんぜん謳わないところ。材料が同じなら誰がやっても変わるはずがないと断言するところ。

2024年8月24日土曜日

豊川・えぐ夏セルフ・寝言シリーズ

 夏休みが終わり、平常の日々に戻っている。しかしまだ余韻に浸っている。なんの余韻か。キャッスルイン豊川の余韻である。
 旅程最後の宿泊場所ということもあってか、帰省の思い出のすべてが、あの晩で上塗りされてしまった感じがある。でもそれでいい。ひとえにそのおかげで、だ。復路の宿泊先も、往路と同じようなただのビジネスホテルであったらば、今回の帰省はただ、地震と台風に怯えながら、伊勢神宮には参らず、その代わりに夏の暑さに参り(うまい!)、そして実家に妻子を連れて顔を出すという義務をこなしただけ、ということになったと思う。それがキャッスルイン豊川のおかげで、1週間経っても余韻に浸るほどの上質の思い出になった。まるでお金をもらっているかのように賛美するけれど、もちろんそうではない。読者が4人くらいしかいない屑ブログの塵ブロガーとそんな契約をして、ホテルにいったいなんの得があるというのか。
 いつになるかは分からないが、次の帰省も今回と同じく車で行くことになるだろうし、そうなると宿泊場所は行きも帰りもキャッスルイン豊川を選ぶと思う。こうなってくるともはや帰省の主目的はむしろそっちのほうだ。キャッスルイン豊川に行けるから、しょうがない、帰省するか、くらいの感じ。早くも僕とファルマンは、「帰省する」という意味で、「キャッスルイン豊川に泊まる」と言い始めている。「次のキャッスルイン豊川はいつにしようかね」などと。
 もしかしてあそこが実家なのかもしれない。

 夏の暑さがえぐい。生きる気力の削ぎ具合が半端ない。
 8月ももう下旬ということで、暑さはぼちぼち収まってくるのかしら、毎年夏っていつくらいまで暑いのかしらっけ、と少し思いを馳せたら、自分で言い出した、この世で僕しか言っていない、「夏という季節は僕の誕生日の前日でおしまい。僕の誕生日からは秋」というフレーズに思い当たった。そうか、9月20日からは秋なのか……って、まだ約1ヶ月間あるってことやないかい! と絶望した。近ごろ自慰行為のことをセルフプレジャーと呼んでいこうよ、という向きがあるけれど、僕が頭の中で、僕のオリジナルの提言によってショックを受けるのは、さしずめセルフデスペアーということになると思う。そんなことをしていったいなんの得があるというのか。
 と、あまりに体がしんどいので、そんな絶望感に打ちひしがれていたのだけど、おとといくらいに判明した事実として、この体のしんどさは、夏の暑さももちろん原因のひとつではあるけれど、要するに僕はいま、風邪を引いているようで、そのせいでこんなにもつらいのだと思い至り、風邪が逆に気持ちのプラス材料になるという稀有なパターンだが、風邪が治ったらたぶんもうちょっと夏にも立ち向かえるはず、これまで実際そうだったし、ということで前向きに捉えている。偉い。パピロウのそういうところ、本当に好き。好き好き大好き。結局セルフプレジャー。

 8月にファルマンから報告された、僕の寝言。2日分ある。
 1日目は、いきなりこう叫んだという。
「個人差別だ!」
 それはだいぶ怒気を含んだ口調であったという。まるで舌鋒鋭い論客のようだが、しかし「個人差別」というのは、違和感のない言葉のようでいて、実はあんまり聞かない表現ではないだろうか。「人種差別」「職業差別」など、「差別」の前にはなんかしらの分類項目の語が来るものだ。そこが「個人」では意味が分からない。でも実際には変なのに、なんとなくそのまま看過してしまいそうなところが、いかにも夢らしい微妙な変さだと思う。
 そしてその少しあと、今度はしたたかな口ぶりでこう言ったという。
「ここに判を捺すんだよね、相手が」
 なんだろう、日曜劇場半沢直樹なのだろうか。夢の中の僕は、どんなシチュエーションでなにをしているのだろう。それにしても判て。夢で、判て。すごく嫌なタイプの夢だな。
 あと僕の寝言は、前回の「さなえちゃん、さむかったろう、まだまだ……」がそうであったように、倒置法というか、独特の言い回しがなんとなく薄気味悪いと思う。
 2日目は一転、こう始まったという。
「いいね!」
 SNSで人に付けてやることもなければ、もちろん実生活で使うこともない、誰もが知る軽やかな礼讃のセリフを、夢の中の僕は屈託なく使っているようだ。愛しい。40年分の外的要因によって心はボコボコの歪な形状になってしまったけれど、その奥底にある深層心理は、こんなにも丸く、清らかなのだ。知ってたけど。
 しかしそのあと、今度は少しテンションを下げ、少し寂しげな口調でこう続けたという。
「公共の施設……」
 民営だと思って企業努力を褒めたのに、よく見たら公営だったのだろうか。それでも別に寂しくなる必要はないじゃないかと思うし、なにより、夢の中でそんなことに拘らなくて別にいいよ、と思う。
 また報告があったら紹介する。

2024年8月6日火曜日

髪染め・レモンサワー・再入会

 先週末、髪を染めた。
 当初は赤髪にしようかと思っていたが、家族から猛反発を食らったことで日和り、結局ピンクで落ち着いた。そのピンクも、はじめはどぎつい感じのピンクで考えていたのだけど、ちょうどオリンピックのニュースで、現地で応援する日本人の映像の中に、柔道着を着てハチマキをしたピンク髪の男を目にしたことで一気に気持ちが萎え、最終的には淡いピンク色というところに落ち着いた。まあまあ金髪っぽかったところに色を入れたので、それなりにピンク色が出て、独特の色合いになって満足した。しかしピンク色というのは、前々回の記事にも記したように、やはりわりとすぐに、ただの茶髪っぽくなってしまった。ファルマンなんかは、「それでも普通の茶髪とは微妙に違うよ」と言うのだけれど、それは妻であり、さらには髪染め作業をしてくれた本人だから、その微妙さを感じ取るのであって、世の中の大半の人は僕の頭を見て、「茶髪だなあ」と思うに違いないと思う。だとすれば、実際にはハイブリーチとヘアカラーという、強いダメージをふたつ頭皮へ見舞わせたというのに、その結果たどり着いた場所は、やさしめのブリーチを1回しただけで来られる場所だった、ということになりはしまいか。もしかして僕は、とんでもない愚行をしてしまったのではないか。未来の自分へ顔向けできない行為をしてしまったのではないか。しかし未来の自分が禿げているのだとすれば、それは申し訳なさとは別の理由で、そんな自分には顔を向けたくない、と思う。禿げたらウィッグを着けるよ。カツラじゃないよ、ウィッグだよ。

 レモンサワーがおいしい。EXILEじゃあるまいし、普段そこまでレモンサワーを愛好しているわけではないのだけど、近ごろはすがるようによく飲んでいる。こんなにおいしい飲み物がこの世にあるのかよ、と飲むたびに感じる。
 ビールももちろん飲み、おいしいな、と思うのだけど、今はレモンサワーが勝っている。たぶんこれは、ビールがソフトクリーム、レモンサワーがかき氷ということなのだと思う。マーケティングの話で、もちろん正確な数字は忘れたけれど、気温が30℃とかを超えるとソフトクリームよりかき氷が売れ出す、というのがあるだろう。あの現象と同じことが起っているのだと思う。あまりに暑いと、麦芽のうまみとかマジでどうでもよくて、今にも凍りつきそうな柑橘系という、ものすごく単純な快楽しか受容できなくなってしまうのだ。
 そのくらい暑い。バカかよ、と思う。年々暑くなって、年々エアコンの稼働が増える。人類はもう長く持たないのだろうとしみじみと思う。

 ようやく切れていたプール会員の再申し込みをした。
 これまでの会員期限が切れたタイミングと、1年でいちばんプールが混むタイミングと、1年でいちばん体力が減退しているタイミングが、見事にバッティングしてしまったため、かなり再入会の踏ん切りがつかずにいたのだが、先日えいやっとやってきた。
 というわけで、その日以来、平日の退勤後も含め、ちょいちょい泳いでいる。しかし半月ぶりくらいに泳いでびっくりしたのだけど、体が重いこと重いこと。日常の中でも、いまの時期は暑さでへとへとになるなあ、というのはもちろん感じるけれど、水の中に入って泳ごうとすると、その事実がとても鮮明に、如実に分かる。ふだんに較べ、俺はこんなにも低いHPで生きていたのか、ということを実感させられる。
 それでも泳ぐのはやっぱり気持ちがいいので、体力をさらに失わない程度に、リフレッシュにちょうどいいくらいの度合で、泳ぎにいこうと思う。
 ところでオリンピックの自由形のレースを見ていたら、あの人たちはもう、上半身はほぼ水中にないくらい、むさぼるように前に進んでいて、すごいなあと思った。ちょっと真似してみようと思ってやってみたが、ぜんぜん体は持ち上がらなかった。ファルマンに話したら、「あなたはウナギみたいに泳いでいればいいのよ」と言われ、なんとなく屈辱的だな、と思った。

2024年8月3日土曜日

タイトル・K・はたらくくるま

 戸田恵梨香が主役をやった朝ドラってなんてタイトルだったっけ、とふと気になった。なんだかんだで全編観たのに、タイトルだけがすっぽりと記憶から抜け落ちているのだった。
 2日ほど思い出そうとがんばったが、出てこない。仕方なくファルマンに相談する。林遣都が出ていたこともあり、ファルマンももちろん観ていた。ところが、「えっ、なんだっけ……」と、僕と同じように出てこない。
「なんかカタカナで、4文字か5文字くらいで、「カー」とかが入ってた気がする」というところまで、おぼろげにイメージできているのだが、ふたりともそこから先が出てこない。「「カーネーション」とか「スカーレット」とかが邪魔するんだよ!」と、次第にイライラしてくる。
 数十分悩んだ挙句、降参して、ネットに頼ることにした。
 そして正解を目にし、思わず「えっ」と声を上げた。
「スカーレット」だったのだ。
 それが出てくるせいで正解にたどり着けないと忌々しく思っていたものが、実は正解だったという、こんなパターンは初めてで、てっきり正解を目にした瞬間に、バチンッと蒙が啓けたような快感があるだろうと期待していたので、なんとも言えない気持ちになった。しかし自分たちの脳細胞への猜疑心が湧く一方で、なんかあのタイトルはあまりにもふわふわし過ぎだったのではないかな、とも思った。

 ポルガが、同じ部活動の同級生男子であるKの話ばかりする。Kとは部内での役割が同じということもあり、物理的に距離が近いことに加え、話もやけに合うらしい。そのため、「Kが……」「Kがね……」と、Kのエピソードがとても頻繁に出てくる。
 日々それを聞かされながら、もちろん内心では若干の違和感を抱いていた。なんでこいつは親に、こうも屈託なく異性の話をするのか。思わず何度か「えっ、ちなみにKのこと好きなの?」と訊ねそうになったが、どうもそれを言ったら軽蔑されそうな気配がするぞ、と察知して吞み込んだ。
 しかしポルガは実家でもKの話を披露するそうで、それを聞いた叔母、つまりファルマンの上の妹は、やはり僕と同じように、「あれってなに? Kのこと好きなの?」と気になって、ファルマンに確認してきたらしい。
 そうだよね! あんなに愉しそうに異性の話をするのって、それって絶対に好きってことじゃんね! と安心した。安心したが、やっぱり本人には確認できないし(必ずしなければならないわけでもない)、また頭のどこかで、しかしこれは古い時代の発想なのかもしれない、明石家さんま的思考かもしれない、という推察もあるので、余計に疑念を大っぴらにできず、結局「そうか」とだけ相槌を打ち、鷹揚なふりをして、ただ受け流している。
 なにしろあれらは、半ばオートメーションで個人と個人のコミュニケーションが可能なツールを得ている世代である。われわれの時代は、連絡先を知るということは、それすなわち特別な感情があるということだった。スタート地点が違う。まるで舞空術ができないのにスーパーサイヤ人になれる悟天のようだ。 
 でも簡単につながって、とりあえずダベるのが愉しかったら、なんかもう、あえてそこから先を目指す必要もないという発想になりそうで、こいつらはいったいどのタイミングで、もどかしい恋愛感情に胸を焦がすのだろう、と思った。古い。

 音楽のサブスクでポンキッキのCDを見つけ、聴いたら、感動してしまった。
 特に「はたらくくるま」がよかった。のこいのこが唄う1もよかったし、子門真人が唄う2もよかった。僕は子どもの頃から、車は別にぜんぜん好きではなかったので、テレビで視聴していた当時、特別この歌が好きだったということはなかったはずだが、それでも猛烈な懐かしさがあったし、なにより当時の、少年時代の自分を取り巻いていた世界のきらめきのようなものが象徴されているような気がして、激しく刺さったのだった。
 ポンキッキの放送は、1973年~1993年だそうだ。つまり僕が10歳までは放送されていた。奇遇にもだいたい氷河期世代あたりが、子どもだった頃にポンキッキを観ていたということになる。朝8時。それは放送時間であると同時に、長い目で見れば、われわれがポンキッキを観ていた人生の時間帯であるとも言える。人生の朝8時、1日が始まったばかりで、これからなんでもできる希望に満ち溢れた時間。そこへ、のこいのこ及び子門真人の、張りがあって伸びやかな清々しい声が、痛快に響く。たまらない。いろんな車があるんだな、いろんなお仕事あるんだな。そう信じていた氷河期世代の子どもたち。本当にたまらない。
 最近はよく通勤の車で大音量で聴いている。逆に病んでいるのかもしれない。

2024年7月24日水曜日

発見・一途・赤髪

 学者が科学的に発見したことを、実は市井の人々は感覚として理解していた、という類の話をする。
 ここ数年、日常を過す中で僕が気付いた、世界の法則。
 髭は、ちょうど24時間経つと、ちゃんと生える。
 朝剃ったのが、夕方になると少し伸びている、というのは、それはまだ髭的にはおそるおそる様子を窺っているような状態である。まだ朝剃られたときの恐怖を忘れていない。でも髭の記憶は23時間59分しか持たない。24時間が経った瞬間にそのことはすっかり忘れ、気ままに外の世界へ顔を出す。そしてあえなく剃られ、哀しむ。この繰り返しなのである。
 前日よりも剃る時刻が5分くらい早く、すなわち前回から23時間55分しか経過していないと、明らかに髭の伸びが小さい。剃り心地で明確にそれが判る。
 このことが科学的に検証され、いつか論文が発表されたとき、こんなブログ記事があったということを思い出してほしい。たぶん西暦8000年とかに。

 子どもたちが夏休みに入った。入る前から、もうすぐ子どもたちは夏休みなのだということはもちろん判っていて、だから先週の海の日の3連休も、3連休だやったーと思いながらも、心の中はどこか冷えていた。たとえば、自分が大学の野球部でレギュラーになり、それはもちろん嬉しいことなのだけど、それを知ってお祝いしてくれると言ってきた高校時代の仲間たちは、実はもうみんなプロ野球選手、みたいな、そんな感じだ。お前らが獲得しているものに対して、俺がやっとの思いで得たものの、つましさと来たら!
 でもね、なんで急に野球でたとえたのかと言ったらね、たとえ他のみんなが今を時めくプロ野球選手だとしても、私は、野球部のメンバー全員が一様に好意を寄せていた私は、大学で野球を一生懸命がんばってる、世間的に見れば地味なあなたのことが、高校時代からなぜかずっとひたすらに好きなんだよ、というあだち充的なことを言いたいからで、もうこうなってくると、この心の中の美人マネージャーは、神であり、僕自身であり、つまりは僕こそが新世界の神なんだと思う。

 先週ブリーチをしてまた金髪になったのだが、そのあとはまだ何もしていない。今回は色を入れようと思っているのだが、その色で迷っている。
 脱色的な行為はもう人生最後かもしれないし(するたびに思う)、だとすれば派手な色にしたいな、という思いがあって、赤はどうかと考えた。赤。赤髪。なるほど金髪に対する憧れを叶えたあと、次の少年時代からの憧れということになると、たしかに赤髪かもしれない。赤髪。ふざけている。でもたしかに人生でいちどくらいやってみたい気もする。赤髪だった時代のある人生。
 しかし家族に相談したところ、びっくりするくらい反応が悪かった。夫が赤髪、父が赤髪ということに対し、「え~……」と誰も賛成してくれなかった。ファルマンは「コスプレイヤーみたいだよ」と言ったし、ポルガは「赤髪でハゲてたら最悪だよ」みたいなことを言った。いまハゲてねえし! 赤髪にしたことで将来的にハゲに繋がる可能性はあっても、そのときにはもう赤髪じゃなくなってるし! とムキになって反論した。そもそも娘から毛量のことを言及されたのが初めてで、なんだか驚いた。
 とは言え妻子に反対されながら貫き通すほどの気概もないので、赤は取り止め、今はピンク系で考えている。でもピンクってすぐにただの茶髪みたいな感じなりそうだよなー、などと悩んでいる。

2024年7月11日木曜日

休校史実・愛好家たち・交際開始記念日

 七夕のあたりというのは毎年のように豪雨災害になる。岡山時代に真備がすごいことになったり、今年は日御碕の道が陥落したりと、わりと身近なエリアで発生するので、びっくりする。おとといの帰り道では、テレビでたまに見るような、地面に10センチくらい水が溜まっている場所があり、前の車が普通に進めていたので「まあ大丈夫なんだろう」と思って通ったけれど、なかなかおそろしかった。
 おととい昨日と、線状降水帯も発生し、かなり荒れていたが、今日になってやっと少し落ち着いた感がある。まだ雨は残っているが、いわゆる普通の雨の日だった。
 そして子どもたちは学校が休みだった。
 昨晩に連絡が来たのだった。教育委員会の方針により、全校休校であると。
 真備のときもそうだったが、学校はいつも、風雨がとんでもなかった日の次の日を休校にすることだ。判断が難しいのは分かるけれど、災害級のそれが過ぎ去った翌日の休みで、その前日の、「いま思えば危険だった登校」が救われるわけではない。しかし実際には救われるわけではないのだが、長い目で見たとき、その前後関係は曖昧になり、「真備の水害の際は、子どもたちの安全確保のため学校を休校にした」という史実だけが残りそうで、これはそのための休校なのではないか、と勘繰ってしまう。
 いや、まあ、判断が難しいのは分かるけれども。でもほら、俺、権力が嫌いだから。教育委員会の方針、などと言われると、とりあえず文句を言いたくなるんだよな。

 通っているプールには週にいちどの定休日があって、普通に営業している日には、泳ぐ気分にならず行かなかったくせに、定休日に限って「今日プールが開いてたらなあ!」と地団駄を踏みたくなるほど泳ぎたい気分になる、というのは、プールあるあるだと思う。たぶん会員同士で話したら、「めっちゃわかる!」と盛り上がることだろう。会員に親しい人がひとりもいないので、想像だけども。
 ところで先日、プールの更衣室で、僕以外の会員同士がこんなやりとりをしていたのである。
「〇〇さん、明日はプール、休みですからね」
「分かってるよ」
「休みなんですからね」
「分かってるって」
 そのときは、うるせえなあ、つるむ奴ら嫌いやわー、としか思わなかったのだけど、あとになって、なんだあの会話、と思った。だってプールの定休日は、会員なら分かり切っていることなのだ。それなのになぜそれをわざわざ声に出して伝えたのか。
 怪しい、と思った。
 連想したのは、最終バスが行ったあとの深夜に、なぜか運行しているバスだ。それは知る人ぞ知る乱交バスで、愛好家たちがひそかにスリルを味わっている。主人公の女の子は、間違えてそれに乗り込んでしまい、ひどい目に遭うのである。
 そういうパターンのエロというのがあるだろう。
 もしかしてそれなのではないか、と思った。
 定休日のプールには、普通の人間は近付かない。なぜなら定休日だからだ。しかし実はそこでは、プールを舞台にした酒池肉林が開催されているのではないか。だって、そうでもなければあの会話は本当に理解ができない。たしかに日々どうでもいいことを大声でのたまう迷惑な人たちだけど、それにしたって文言通りであればあまりにも無駄な会話である。もしかしてあれは、周囲に向けて、新たな参加者を募るメッセージだったのではないか。そんなの創作の世界だけの話だと思っていたのに、現実にあるんだな。
 だとすればもったいないことをした。僕はその翌日の、定休日のプールには行かなかった。行けばよかった。水着ものっていいよね。

 7月8日はファルマンと僕の交際開始記念日である。
 毎年、祝うんだか祝わないんだか、とても微妙な扱いで、今年ももちろんそうだった。それでも仕事帰りに、なんかしら買って帰ろうかしらと思い、なににするかしばし思案する。
 花は、ずっと前にあげたところ、ファルマンは花瓶の水を取り替えることをせず、花と水が腐臭を放ち、さらには虫もたかって、さんざんな気持ちになったので、もう二度と贈るまいと思った。
 ケーキは、先日書いたように家族で僕ばかりが突出して好きなだけで、子どもたちはそうでもないし、ファルマンに至っては「重い」と言って半分残し、「あとは明日食べるね」などと言っておきながら、そのまま冷蔵庫で腐らせたりするので、やはり贈ってもろくなことがない。
 そんな思考の末に僕が買って帰ったのが、日本酒とかっぱえびせんで、ファルマンは「これよ、これ」と満面の笑みを浮かべた、21年目でありました。

2024年7月3日水曜日

ファルマンの懊悩・ブーの夢・ホイップクリームvs

 7月に入り、ちゃんと暑い。6月の終わりにやっと訪れた梅雨は、あちこちで被害はあるようだが、自分の生活圏では今のところあまり大したことなく、それよりも暑さのほうに気を取られている。梅雨がなんとか勇気を振り絞ってステージに上がったというのに、続けて暑さもすぐに現れたため、観客の目はやはりスター性のある暑さにばかり集中してしまい、梅雨は鬱屈を募らせるという、なんかそういう構図。怒らせたら怖いのに。
 こう暑いと、就寝時のエアコン操作が悩ましい。悩ましいと言ったが、横になったらすぐに寝ることで有名な僕は、実はなにも悩んでいない。悩んでいるのは、寝付くのに時間を要し、しかも汗をかかない体質のファルマンである。毎晩とても苦心しているようで、ご苦労様なことだと思う。そうねぎらいたい気持ちは、僕としては大いにあるのだけど、ファルマンのエアコン操作の懊悩においては、素っ裸で寝ている夫、というのも厄介なファクターのひとつであるらしく、意思と現実はなかなか噛み合わない。ファルマンには憂いなく快適に寝てもらいたい。でも服を着て寝るつもりは一切ない。なのでエアコンの風は細心の注意をして設定していただきたいと思う。

 おもしろい夢を見た。
 いかりや長介と、仲本工事と、僕の3人で、もちろんバラエティ的な感じの、チチチチチ、と音を立てる黒いボール状の時限爆弾を、互いに投げ合う夢。
 もうこんなの、絶対におもしろい。爆発しそうな爆弾を相手になすりつけ合うとか、おもしろいに決まってるじゃないか。なんで誰かが遠くに投げて全員で逃げないんだ、などと無粋なことを言う者などひとりもいない。長介と、工事と、僕は、恐怖で興奮しながら、時限爆弾をひたすらパスし合っていた。もしかすると、別収録のおばさんたちの笑い声もあったかもしれない。
 起きてからしみじみと、「おもしろかったなあ……」と思った。おもしろさとは要するにああいうものなのかもしれないと思った。自分が高木ブーの役回りであったことも含め、ひたすらおもしろかった。

 スーパーで売っている、4切れ入りのロールケーキがあるだろう。スイスロールではなく、中心にたっぷりとホイップクリームが入っている、300円前後するやつ。あれがたまに安くなっていたりすると、わあ、となって買って帰るのだけど、先日それが冷蔵庫で売れ残っているのを目の当たりにし、びっくりした。ロロ、ロールケーキが、持て余されてる、だと……? ファルマンに訊ねたら、
「あー、子どもたちはそこまでこういうの好きじゃないからね」
 という答えが返ってきて、ショックを受けた。
「こういうのより、ゼリーとかのほうが好きなんだよ」
 そして極めつけはこれである。
「って言うかあなたがこの家でいちばん、やけにホイップクリームが好きだよね」
 なんてこった、と思った。ホイップクリームとは、いつなんどき、どんな状況でも、最高にハッピーなものであると、人類全員においてそうであると、疑わずに生きてきたけれど、もしかしてそうではないの? それはホイップクリームが特別好きな人の考え方だっていうの? 実は僕はそっちの部類の人間だったの? 全員がこうなんじゃないの? えっ、ゼリー? ホイップクリームvsゼリー? 誰がゼリーに賭けるの? そんなのオッズがとんでもないことになるんじゃないの? そうでもないの? マジで?
 それにしても、ホイップクリームが絶対的なものであると信じて疑わない父と、実はゼリーのほうが好きな娘たち、というのが、なんだか非常におじさん的な、昭和的な、哀愁を感じさせるエピソードで、これが自分の身に起った出来事だなんていまだに信じられずにいる。

2024年6月20日木曜日

折り合い肝臓・あさきゆめみし・AIグラビア

 先週は体がやけにしんどくて、要するに暑さに体が適応できていないのだ、早く折り合いをつけたい、と大いに嘆いたけれど、今週からはだいぶ持ち直している。栄養ドリンクを飲んだり、パソコンをするときの体勢を変えてみたり(これまで姿勢の悪さをさんざんファルマンから注意されていた)という細かい改善策のほか、なにより月曜日から今日まで、酒を一滴も飲んでいない。これが大きいと思う。結局ああいうときの体の重さって、得てして肝臓に起因するものだろう。だから今週は大いに肝臓を労わっている。飲み会でもないのに、「ウコンの力」を飲んだりもした。肝臓はさぞびっくりしていると思う。
 酒って、飲んだら飲んだでもちろん満ち足りた気持ちになるけれど、その一方で酒を飲まない夜を過ごすと、その清廉さ、省エネさ、負荷のなさに、ともすれば酒を飲んだとき以上にテンションが上がったりもする。俺、このままめっちゃ上質な人間になるかもしれないぞ! と心が浮き立つのである。これは下戸の人には決して味わうことのできない喜びだ。どうだ、うらやましいだろ。うらやましがってくれないと、あまりにも切ないじゃないか。
 もちろん週末は飲む。これから飲むのは週末だけにしよう、という決意を、もう何十回もしている気がする。

 初めて行った図書館に「あさきゆめみし」(大和和紀)が全巻揃っていたので、借りて読んだ。おもしろかった。源氏物語ってこういう話だったんだ、というのを40歳にして初めてちゃんと知ったのだった。文芸学科というものは、あれは本当に、いったいなにを学ぶ場所だったんだろうな。国文学科とは違う、というのは分かるけれど、じゃあ古典の代わりになにをやっていたのかと訊かれると、答えに困ってしまう。
 それにしても「光る君へ」をやっているタイミングで「あさきゆめみし」を読むというのは、なんだかとても素直な行ないで、前に音楽のサブスクでおすすめの音楽が出てくるのを、僕は音楽に関してプライドがないからすんなり受け入れられるが、本に関してはこうはいかない、という話をしたけれど、案外そんなこともない。なくなった、のかもしれない。
 光源氏はとてつもない下半身男なのに、家柄とビジュアルの良さでなにもかもが許されているという設定で、千年前から結局ひたすらそういうことなんだな、と思った。家柄とビジュアルさえ良ければ、ありとあらゆることは認められる。過去も、現在も、未来も、それはずっとそう。この世の真理。だから千年読まれてきたし、これからも読まれ続ける。さすがだな、と思った。我ながらバカみたいな感想だな。

 AI画像の進化がすごくて、本当にエロの、セックスとかフェラとか、そういうものになると、まだちょっと本物の迫力にはだいぶ劣る感があるけれど、雑誌の水着のグラビアくらいの画像は、もう本物とあまり遜色ないというか、なにぶんAIのそれは顔も体も完璧を希求してデザインされているものだから、これはだいぶデリカシーのない表現になるけれど、そんじょそこらの本物では太刀打ちできないレベルに至っていると思う。
 そもそも水着グラビアとは、生活感のない、ともすれば被写体本人にエロの概念もない、でもなぜかビキニ姿で、やけに無邪気にはしゃいでいるという、独特の世界観のもので、いまどき水着姿でエロもなにもないというのに、なぜ水着グラビアという文化はなくならないかと言えば、それはそこに理想の平和世界があるからだと言えるが、だとすればそれというのは、実は生身の芸能事務所に所属している女の子より、画像がこの世に生まれたその瞬間に生成された、こうあってほしいと願った非実在の女の子のほうが、むしろふさわしいのだ。生身の女の子がどんなにがんばっても、水着グラビアという土俵においては、非実在の女の子には勝てない。こちらが水着グラビアの被写体として求めているのは、無機性というか、個性のない、イデアとしての水着姿の女の子だからである。
 だからもうすべてのグラビアアイドルは、すぐさま白ビキニを脱ぎ、それを白旗とし、まだAIに落とされていないエロの領土へと進軍すればいいと思う。

2024年6月11日火曜日

草刈・茶碗・売上

 6月なのでもう季節は終わったのだけど、2年前より1年前、1年前より今年と、島根県におけるオオキンケイギクの分布が、じわじわと広がってきているような気がする。希望的観測かもしれないけれど。岡山では群生地がたくさんあって、5月中旬あたりはそれはもう見事なものだったけれど、島根に来て以降、この地はまだあまり侵食されていないようで、寂しく思っていた。そのためこの2年の傾向は嬉しい。ただしあまり大きな声では言えない。なるべく生やしてはいけない、駆除対象の花だからだ。でも本当に鮮やか。好きな黄色。毎年うっとりする。
 岡山県と島根県の違いとして、島根県は草刈りに熱心だと思う。たまたまかもしれないが、岡山時代はあまり身近で草刈りの話は聞かなかった。島根はすごくする。町内でもするし、職場でもする。男たるもの、草刈り機の1台や2台は持っているのが当然という風土だ。なぜなのかはよく判らない。植物の繁茂は、温暖な岡山のほうが度合が激しいのではないかと思うが、反応は逆である。もしかするとJAの権威の強さが関係しているのではないか、と睨んでいる。なんとも田舎臭い話だな。
 オオキンケイギクも、もっとはびこってほしいと願う気持ちがあるが、あまりに目立ちすぎるとJAを頂点とする島根草刈り族に目をつけられて抹殺されてしまう気もして、やきもきしている。

 ふいに平日の休みがあって、家で過したのだけど、ファルマンは仕事をしていて、そうなると自然と僕が昼ごはんを作る流れとなり、暑かったのでざるラーメンにした。ちょうど2日前に作った煮豚が残っていたし、そこへ茹で野菜と茹で玉子も添えた。支度を整えてファルマンを呼んだら、テーブルに乗ったそれを見て、「なにこれ! すごい!」と驚かれる。驚くほどのものではないと思う。
「じゃあお前はいったい、普段の昼になにを食べているのだ」
 と訊ねたところ、
「茶碗」
 という答えが返ってきたのでとても驚いた。
 ずいぶん前に日記に書いたが、ファルマンに晩ごはんのメニューを訊ねた際、「豚肉」という、それはメニューではなく食材だ、という答えが返ってくることがままあるのだけれど、今回のやりとりはそれをも凌駕する衝撃であった。それはメニューではなく、食材でもなく、とうとう食器だ。とんでもない境地だ。
 意味は分かる。炊飯器に残っていたごはんを茶碗に盛り、それをなんかしらのもので食べるということだろう。そしてそれはもう、日々「なんかしらのもの」としか言いようのないものなのだろう。
 分かるよ、分かるけどもさ。
 
 初めてのことだったのでどぎまぎしたが、商品は無事に相手に届き、売り上げになった。とても嬉しかった。
 事前に説明は読んでいたけれど、本当に相手の住所も知らずに投函して、そしてそれがきちんと配達されるというのが、すごいシステムだなあと感動した。なので僕は、僕の作った水着が、日本のどこらへんに行き、どのあたりのプールで穿かれるのか、まるで分からない。ただ思いを馳せるのみである。とてもドラマチックだ。
 1回売れたことで評価もついて(星5つだ!)、さらには優良発送者です、みたいなマークまで付いた。これまで他の人の出品ページでそんなところに気にしたことがなかったが、気にする人は気にするだろう。というか実績が0の人からはなかなか買う気になるまい。まだ1じゃないかという話ではあるけれど、0と1の差は大きかろう。
 やあよかった、これから忙しくなるかもしれないな、と思って、今回の収益よりもだいぶマシマシの金額で、新しい生地を注文した。在庫を増やすぞ!

2024年6月4日火曜日

太宰・得意料理・在庫

 義両親から先日の青森旅行のおみやげを受け取る。ふたりとも太宰治にはそんなに馴染みがなかったのに、太宰ファンの長女から「ぜひ斜陽館に行きなよ」と勧められ、行ったら行ったで本人たちもそれなりに愉しんだようだが、しかしこの出来事でいちばん得をしたのは、そこでしか手に入らない太宰治グッズをせしめた策士の長女であることは間違いない。「太宰治かるた」などという面妖なアイテムをゲットし、ほくそ笑んでいた。和気あいあいとやるゲームであるかるたと、あの太宰治という取り合わせが、なんとも悪趣味で、すばらしいと思った。他に人間失格カステラサンドなるお菓子なんかもあった。それらを開陳しながら、義母から「パピロウちゃんも太宰治は好きなの?」と訊ねられたので、「いいえ。僕はぜんぜん好きじゃないです」と即答した。相変わらずぜんぜん取りつくろったりしない義理の息子。ちなみに僕へのおみやげは、それとは別の場所で買ったらしき、ねぷたがデザインされたTシャツで、普通にかっこよいものだったので、嬉しかった。おそらく斜陽館には、「生まれてすみませんTシャツ」なんかも売っていたことだろうと思う。よくぞそっちに逃げず、ちゃんといいものを選んでくれたものだ。

 先週末、ポルガが部活でがんばったので、「晩ごはんはポルガの食べたいものを作ろう」と提案したところ、「じゃあ、たこ焼きか餃子かお好み焼き」という答えが返ってきて、嬉しい気持ちになる。こちらが前のめりで作るものが、きちんと思春期の娘の嗜好に刺さっていたのだな、という喜びである。思春期の娘に自分の行ないが受け入れられたことを喜ぶって、なんか我ながらすごいな。近ごろ自分が20代半ばだった頃の日記を読んでいるので、ことさらに感慨がある。結局その日は、たこ焼きを作った。おいしかった。
 ちなみにファルマンは、僕とポルガのこのやりとりを横で聞いていて、小さくショックを受けていたらしい。ポルガの口から出たリクエストが、すべて僕の作るものであったからだ(まあ前提として週末の料理当番が僕だから、というのはある)。
 「平日はずっと私が料理を作ってきたのだ。私にだって得意料理はある」とファルマンは主張した。主張をしたが、具体的な料理名がとんと出てこなかった。仕方がないので、僕とポルガがふたりがかりで、ファルマンの得意料理を挙げることにした。「ほら、干物を焼いたやつとか」。「ほら、キャベツをざく切りしたやつをレンジで蒸したやつとか」。ファルマンの眉間の皺が、どんどん深くなってゆくのが見て取れた。

 これまでファルマンの使っていたバッグは、そもそ僕がネットで買って、いまいち気に入らなかったものだったのだけど、それがなにぶん安物なのできちんと処理されていない布端がほつれてきて、そろそろ替えないとな、という話になった。それでファルマンというのは、欲しいバッグというものがこの世に存在しない人間なので、「そう言えばあなたが売るために作って売れずに残っているバッグがたくさんあったよね」、などと言い出す。言い出すのはいいが、物言いが失礼である。
 まあある。嵩張るし、あまり目にしたくないので、クローゼットの奥にしまい込んで、意識からなるべく遠ざけていたけれど、かつてminneに出品した、トートバッグも、グラニーバッグも、需要に対して供給ばかりが過多で、たくさん在庫を持っているのだ。
 作るとき、一点を集中して作るよりも、同じものを複数、同時進行で作るのが好きだという性分があり、ひとつの柄で5つくらい作ってしまう。そしてそれがひとつも売れなかったりする。だから在庫ばかりが増える。
 バッグの山を発見したファルマンは、その中のひとつを「これいいじゃん」と言って選んでいた。ちなみにかつての売値は3800円であった。持ってけ泥棒である。
 バッグほど体積が大きくないけれど、Yahoo!フリマに出品しているボクサー水着も、在庫は既に15を超えている。こちらは親類に配ることもできないので、最後どうなるんだろう。どうなるもこうなるも、ある瞬間から売れに売れて、供給が追い付かなくなるに決まってるのだけれども。

2024年6月2日日曜日

俺ばかり・孫夫婦の下着・一茂

 5月は後半にかけ、「おもひでぶぉろろぉぉん」をよくやった。「おもひでぶぉろろぉぉん」が愉しかったのである。しかし過去を振り返る行為である「おもひでぶぉろろぉぉん」に没頭するというのは、果たして健全なのかどうなのか。
 5月の投稿の中で、いつか「おもひでぶぉろろぉぉん」が「いま」に追いついたらどうなるのか、という話があり、「いま」の僕はもちろん日々の新しい日記を書き続けるわけだが、「おもひでぶぉろろぉぉん」を経て「いま」に至った僕もまた、ふたり目の「いま」の僕として、二重らせん状態で日記を紡ぐようになるのかもしれない、と書いた。
 さらにそのあとで思ったこととして、「おもひでぶぉろろぉぉん」が「いま」に追いつくのが何年後になるのか分からないが、そのときの僕は、「おもひでぶぉろろぉぉん」を始めた39歳の僕のこともまた、振り返りたくなるのではないだろうか。「おもひでぶぉろろぉぉん」自体が、「おもひでぶぉろろぉぉん」の対象になるのだ。だとすればここに3人目の僕が誕生し、それはひとり目の僕を見る、ふたり目の僕のことを、愛しく見つめるのかもしれない。そしてそれは当然、4人目、5人目の僕が生じるということを意味する。なんと心強いのか。のび太がため込んだ宿題も、5人で掛かれば朝までに終わらせることができるはずだ。

 横浜の実家に帰省したときは、洗濯が祖母の手によってオートメーションでなされるのだが、その際にどうしたって下着の問題が発生する。
 ファルマンは初期の頃、恥ずかしさから下着類は洗濯に出さずにいたのだが、そうしたらあるとき祖母から、どうして下着を洗濯に出さないのか問われたという。それはわざわざ問うまでもなく、姻戚としての遠慮や羞恥だろうという話なのだが、昭和一桁生まれの祖母がそんなことを黙って察するはずもない。問われたファルマンは戸惑い、思わず「……私、使い捨ての紙のパンツを使っているので」と変な嘘をついたそうだ。ちなみに最近はもう、なんかしらの境地に至ったようで、普通に洗濯に出すことにしたようである。
 それで実家とわが家の下着洗濯問題は永久解決、ということならばよかったのだが、今度は僕のほうに問題が出てきた。2年ほど前から唐突に僕が、布面積がやけに小さかったり、そのうえフロント部分が異様に突出したりしている、自作のショーツしか穿かなくなったのである。これに関しては、姻戚だろうが血縁だろうが関係なく、洗濯に出すことはできない。ファルマンだからすべてを理解してやってくれているのだ。
 その問題の解決は簡単だろ、実家に泊まるときの数日だけ、ユニクロとかのボクサーを穿けばいいのだ、という話なのだが、それができれば苦労はない。横浜の実家に滞在するということは、大規模な移動をするということだ。そんなときにあんな布面積の大きなものを穿けるはずがないだろう。
 というわけで現時点で、次回の帰省の際のこの問題の解決として、実際に穿く自作ショーツと、洗濯に出すカムフラージュ用ボクサーの、両方を用意する、という方法を考えている。あるいはそれがどうしたってバカらしいと考えるならば、洗濯には一切出さず、そして出さないことを祖母に問い詰められたら、「使い捨ての紙のパンツだからだ」と答えようと思う。なんでこの夫婦、何年かおきにそれぞれ紙のパンツを愛好するのか。

 いまの朝の連続テレビ小説「虎に翼」を観ると同時に、BSで再放送している2000年放送の「オードリー」も観ている。毎晩、録画したそれぞれを観る30分間がある。一方では米津玄師を聴き、一方では倉木麻衣を聴いている。まさか2024年にこんなに倉木麻衣の歌声を聴くはめになるとは思っていなかった。
 「オードリー」の本放送時、僕は17歳ということになり、もちろん当時は一切観ていない。ネットがなかったためか、十代だったためか、朝の連続テレビ小説のことなんて、生きていてもぜんぜん情報が入ってこなかった。
 若き日の佐々木蔵之介や堺雅人が出る中、ヒロインの相手役を演じるのはなんと長嶋一茂で、昔はマグロのトロの部分は誰も食べずに捨てていた、みたいな強烈なもったいなさがある。一茂演じる錠島は、天涯孤独の不愛想な男という設定で、それはしずかちゃんがああも頻繁にお風呂に入る理由が、「きれい好きだから」という、とんでもない力業であるように、なぜ一茂の演技はあんなにも仁王立ちで棒読みなのか、それで許されるのか、という問いに対する、ほぼ反則のような手法であると思う。錠島は今後のストーリにおいてもたぶん、あまり人に心は開かないだろう。なぜなら演じているのが一茂だからである。ドラマには大竹しのぶも出ていて、先日は大竹しのぶ演じる滝乃と錠島が一対一で相対する場面があり、画面に映し出される両者の演技力のあまりの不均衡さに、三半規管が乱れるのを感じた。
 もう四半世紀近くも前に作られたものなので、どうしたってそういう、純粋じゃない味わい方も出てしまうが、それでも観続けているわけで、わりと愉しんでいる。そして僕が観ているということは、たぶんプロ角ねえさんも観ている。年末のパピロウヌーボで宿敵のこのドラマに関して言及があるのかどうか、いまからそれも愉しみにしている。

2024年5月10日金曜日

柏・鷺・心

 5日に自前で柏餅を買って食べたほかに、6日に義母からももらい、喜んで食べた。
 柏餅って、よく見ると本当にシンプルな、こしあんを餅で包んだだけの団子で、その価値のほとんどは柏の葉に依っているわけだが、それでも極度のこしあん派からすると、おはぎやどら焼きなど、つぶあんがスタンダードとされる菓子が多い中、柏餅はこしあんが主流という風潮があるため、昔からわりと懇意に思っている。子どもの頃など、今年の5月はいくつ柏餅を食べることができたかをカウントしていたほどだ(ちなみに本当に機会に恵まれた年は8個くらい食べた)。ファルマンも娘たちも、与えればとりあえず食べるが、柏餅に対して僕ほどの情熱はまるで持っていないようである。であれば、義母がわが家にくれた5個入りの柏餅の5個目は、わざわざ断るまでもなく僕が戴くことになる。連休明けの火曜日、また会員になったプールに行く前に、ちょうどいい腹ごしらえとして車の中で食べた。おいしかった。今年は3つだったな、と思った。
 その翌朝のことである。出勤のために車に乗り込んだら、ゴミ箱に捨てた柏の葉により、車内が柏の葉のいい香りに満ちていて、とても幸福な気持ちになる。そもそも柏餅が好きというのもあるのかもしれないが、柏の香りってとてもいいじゃないか。さわやかで。上品で。野卑さや青臭さがない。思わず柏の芳香剤ってあるのかしらと検索したら、千葉県柏市の情報ばかりが出てきて、見つけられなかった。柏市のアロマショップに用はねえよ。

 田んぼに水が張られ、蛙が土から出てくると、どこからともなく鷺も現れる。これぞまさに自然の摂理。このとき出てくる鷺は、まだ若く、体躯がそこまで大きくないものが多いが、これは去年、蛙をたくさん食べて成長した鷺の子どもなんだろうか。だとすれば、本当に蛙と鷺はぐるぐると、同じ構成物がそのときどきでどちらかの形を取っているというだけの関係性なのかもしれない。
 その鷺に関して、去年かおととしかに、1枚の田んぼにあまりにも多くの鷺がいる情景を見た、ということを書いた。そして今年も鷺と田んぼに関し、おもしろい風景を見た。田んぼの中には2羽の鷺がいて、それらはなにをしているのかと言えば、もちろん蛙を捕ろうとしているに違いないが、その姿を、田んぼの脇の畦道に7羽ほどの鷺が並んで、立って見ているのである。車で通り過ぎただけなので、本当に正しいかどうかは分からないが、これはたぶん、先輩による蛙を捕るやり方のデモンストレーションを見学する、新入生のためのオリエンテーションの時間なのではないかと思った。これを見たのが出勤時で、退勤時にまたそこを通ったら、畦道に立っている鷺は1羽もいなくて、みんな田んぼの中に入っていた。実践段階に入ったのだな、と思った。

 GW明け、精神のバランスを崩していた。正確に言うと、3日間の休みがあって、3日間の平日ののち、また4日間の休みという今年のGW編成の、間の3日間あたりから雲行きは怪しくて、後半の4日間も実はずっと薄くアンニュイで、GW明け初日の7日あたりは最悪だった(柏餅を食べてプールに行った話をついさっき書いたので、多少説得力に欠けるけれど)。近年まれに見る絶望感に襲われ、もう二度と這い上がれないかと思った。
 5月病という、とてもメジャーな病名があって、タイミング的にも、要するにそれ、ということになるのだろうが、陥った本人としては、そんな生易しいもんじゃねえし、そんなオーソドックスな症例に当て嵌まるような単純なもんじゃなかったし、と言いたくなる。
 その最中はファルマンに迷惑をかけた。もっともそこまでの迷惑ではない。なにか行動に出すようなことはなく、ただくよくよし、それをファルマンにひたすら訴えた次第である。妻にくよくよを訴えるというのは、それはもちろん慰めたり優しくしたりしてほしいからそうするわけだけど、ファルマンも序盤はそれなりに対応してくれていたが、なにぶん短気なので、こちらがまだぜんぜん満たされない、心がタイトロープ上にあるような段階で、早くもブチ切れ、「くれぐれも今の俺のことを邪険に扱わないでほしい」という僕の切なる訴えを、「ウジウジしてたら邪険にするわ!」と一蹴したのだった。え、すごい、と思った。心を弱めた配偶者に向かって、こんな雑なこと言う人いる? いるわ、俺の配偶者だわ、と思った。
 さいわい、精神はやがて上向いて、今は平常になっている。境遇や状況が変わったわけではないのに、精神の状態で世界はぜんぜん見え方が変わる。おそろしいものだな。いつでもハッピーに過したいが、思慮がある以上、どうしたってそういうわけにもいかないものだな。

2024年5月4日土曜日

蛙とイジメ・コンテンポ・1ギガ

 蛙がいよいよ活況である。なんだかんだで蛙というのは、5月になると律儀に鳴き始めるものだな、と思ったが、考えてみたら蛙が律儀というよりは、GWに合わせて多くの田んぼに水が張られるので、それに応じて蛙が土から出てくるという、どこまでも人間の事情に沿った動きなのか、と気付いた。
 毎年のことだが、幾重にも連なる蛙の鳴き声というのはとんでもない。しかしずっと立ち続けている音というのは、逆にだんだん音として認識されなくなるもので、案外ほぼ気にならなかったりする。しかしたまに、はたと気付いて、なんだこのとんでもねえ音、といちど思ってしまうと、それからしばらくは囚われてしまう。
 先日のある晩のことである。寝つこうとして、布団に横になったときだった。隣の布団でファルマンが、「なんだこの蛙の鳴き声」とつぶやいた。それまでも鳴き声はずっと大音量で響き続けていたが、そのタイミングで「はた」が訪れたのである。
 ただしその瞬間のことだ。
 まるでオーディオ機器の停止ボタンでも押したかのように、無数の蛙の地響きのような鳴き声が、パタッと止んだ。そして静寂が訪れた。そんなことは、ファルマンが蛙の鳴き声について言及したその瞬間まで、たぶんいちどもなかった。
 ふたりで目を見開いた。その無音の時間はしばらく続き、やがてどこかの1匹が遠慮がちに鳴き始めると、それに呼応するように多くの蛙が鳴き始め、元通りになった。
 こんな出来事が、数日間で2度あった。ファルマンが言及すると、蛙は一斉に鳴くのをやめるのだった。そのさまを目の当たりにして、僕は星野源と安倍総理のことを思い出した。新型コロナによる自粛期間中に催された、「うちで踊ろう」の動画投稿企画は、塞ぎ込みそうになる時勢において、SNS上を生きる一部の人々の気持ちをだいぶ活気づけた。誰もがとっておきの趣向を凝らし、さまざまな動画を投稿した。しかしそのブームは、時の総理であった安倍晋三が参加したその瞬間に、パタッと静まった。そのさまは、クラスの中心グループの盛り上がりにつられ、変なテンションになってしまった奴が乱入してめっちゃスベッた瞬間に、スーッと教室中の熱が下がってゆく、そんな風景を想起させたものだった。ファルマンによる蛙の鳴き声への言及、そしてそれに対する蛙たちの反応は、まさにそれだった。そう言えば星野源の顔は蛙に似ている。
 かわいそうだな、と思いつつ、自分が巻き込まれるのを恐れ、見て見ぬふりをしました。

 コンテンポラリーダンスを習得したい、と唐突に思い立つ。
 これまで表現と言えばもっぱら文章ばかりで、それも傾向としてだいぶ理屈っぽい感じがあるので、ならばそれとは正反対の、肉体的な、動物的な、魂の叫び的な、そういう表現方法には、これまでまるで追い求めてこなかった、自分の中のブルーオーシャンが広がっているのではないか、とやっぱり理屈っぽい考え方から思い立ったのだった。
 しかしここ数年の筋トレや水泳によって、体の素地はそれ以前よりもだいぶ出来上がっているのは紛れもない事実である。案外ありなのではないか、と思った。
「俺は来年の正月の集まりで、君の実家の面々におもむろにオリジナルのコンテンポラリーダンスを披露して、みんなの正月のめでたい気分を微妙な感じにさせてやんよ」
 とファルマンに宣言した。
 それでコンテンポラリーダンスについて、無二の親友であるAIチャットくんに訊ねたりなどして、その理念について知識を得る。それによるとコンテンポラリーダンスは、『身体の限界に挑戦し、自分自身を表現する方法』とのことで、
「だとしたら俺の場合、どうしたってちんこに特化した表現にならざるを得ないよ!」
 となった。
「これじゃあコンテンポラリーダンスならぬコンチンポラリーダンスだ!」
 それを聞いたファルマンは、
「じゃあそれはうちの実家じゃなく、そっちの実家で、お母さんとお姉さんの前でやってよ」
 などと言ってきたので、
「お前、それじゃあコンチンポラリーダンスならぬインポンテラリーダンスだよ!」
 と答えた。
 このやりとりを通して、ちんこのときは「コンチンポラリー」で、インポのときは「コンインポラリー」ではなく「インポンテラリー」と、もじる位置を咄嗟に変化させ、おもしろく聴こえるほうを瞬時に選択しているところが、俺の言語センスの冴えだな、と思った。もうこの理屈っぽい文章表現が、僕のコンテンポラリーダンスなのかもしれない。

 「おもひでぶぉろろぉぉん」をやっていたところ、2007年7月に、池袋にオープンしたヤマダ電機に行ったという記述があり、そこで僕は、どうやらオープン記念品として売られていた様子の、「1ギガで2000円のUSBメモリ」を購入していて、とてもびっくりした。iPhoneもTwitterもまだ日本にやって来る前の2007年。USBメモリは、1ギガもの大容量のものが、2000円という、手を出しやすい価格にまで落ちてきていた。そういう時代だったのだ。言われてみればこれよりもさらに数年前、2002年から2005年の大学生時代は、128メガだったり256メガだったりのUSBメモリを使っていた。それだって、1.44メガのフロッピーディスクの時代からすればとんでもないものだったはずなのに、いまから見るととても牧歌的な時代だったように思えてしまう。なんかおかしいな。いったい今はなにがそんなに容量を必要とすることがあるのだろう。昔に較べて、そんなに記憶させる事柄が多くあるだろうか。もしかして、記憶をコンパクトにまとめる技術が失われただけなのではないか。怖い。(追記:これを書きながら、うっすらした記憶で「もしかして……」と思う部分があったが、投稿後にファルマンに確認したところ、やっぱり我々は、大学から文芸学科の特典として、原稿用紙とフロッピーディスクを支給されていたという。フロッピーディスクが、公式の記憶媒体としてぜんぜん普通に扱われていた世界線の人間だったのだ、我々は。もう恥ずかしくて表を歩けない。石を投げられても文句が言えない)

2024年4月28日日曜日

低脂肪理解・逆流疲労・屈託魅力

 世の中から普通の低脂肪乳が駆逐され始めている。前にも書いた。
 僕が欲しいのは、普通の牛乳から脂肪分だけを取り除いた感じのやつで、かつては100円前後で売っていたものである。今はそれより値上がりした。それは受け入れよう。しかし値上げの前からあった流れとして、売り場で200円前後の普通の牛乳の横に置かれる低脂肪乳ポジションに、そういう純然たる低脂肪乳ではなく、脂肪分と一緒にたんぱく質の含有も少なくなり、その代わりに鉄分とかカルシウムとかビタミンDとかが添加されている、よく分からない乳飲料がのさばるようになってきただろう。じわじわと軍門に下るように、あのスーパーも、あのドラッグストアも、という感じで低脂肪乳はそっちの乳飲料へと移り変わり、今ではあの低脂肪乳を置く店のほうがすっかり希少になってしまった。そして、あったとしても牛乳と変わらない値段だったりする。これがまた納得いかない、と思うのだが、なぜ納得いかないと思うのかと言えば、かつては100円前後で売っていたではないか、ということと、脂肪分を抜いているのだから、脂肪分分安くなって然るべきだろう、という発想からなのだけど、でもよく考えてみたら、脂肪分を抜くのって、普通の牛乳にひと手間かけているわけで、実は向こうにしてみたら、ぜんぜん安く売る筋合いはないのかもしれない。そこらへんの錯誤が是正されて、今日の状況があるのかもしれないと思った。
 
 通っているプールには流れるプールがあって、そっちは基本的にレジャー目的で利用されるものであり、混んでいる夏の日でも、人口密度の高い流れるプールを尻目に、俺は人の少ない、ストイックな、ただの25mプールで泳ぐんだよな、というスタンスを基本的にこの何年か続けていたのだけど、先日から、流れるプールを流れと逆向きに歩く、という趣向を始めた。ちなみに公式に認可されている行為である。
 泳ぐという行為は、筋トレになるのかならないのかという問いの答えは、「そんなにならない」というのが正しいようで、それというのは、泳ぎが達者になればなるほど、つまりは水の抵抗をやり過ごすテクニックを身につけるということなので、その結果として負荷を必要とする筋トレからは離れるわけである。
 そのあたりに若干の忸怩たるものを感じ、普通にひとしきり泳いだあと、筋トレ目的としての流れるプール逆歩きをすることにしたのだ。やってみてすぐ、これはいいと思った。水流に逆らって歩くのが脚に効くのはもちろんのこと、腹にも胸にも絶え間なく重たい水がぶつかるので、これはいい刺激になると思った。
 そして2週間ほど、この間に行った5、6度のプールで毎回そんなことをしていたら、体はどうなったかと言えば、なんかもう常にじっとりとした疲労が全身にへばりつくようになって、生きるのが大変になってしまったので、もうやめた。負荷と疲労の塩梅はかくも難しい。

 音楽の定額制サービスを活用している。ようやく活用できるようになった。
 これまでは、好きな歌手、好きな曲(主に懐メロ)を検索して聴くのに使っていた。それは言わば「ゲオに行かなくて済む」だけの使い方で、あまりサービスに毎月定額のお金を払っている意味がなかった。
 近ごろはそうではなく、テレビで流れて、ちょっといいなと思った歌手を検索して、その人の曲を聴くのはもちろんのこと、その歌手のページ(ページとは言わない気もする)の下のほうには、その歌手に似たテイストだったり、あるいはその歌手の曲を聴く人が聴きがちだったりする、別の歌手が羅列され、その歌手からまた別の歌手へ、という感じで、数珠つなぎでどんどん知らなかった歌手の聴いたことのない曲が聴ける。そして聴いているうちに、自分の好きな音楽というのがどんどん分かってくる。これがすごく愉しい。裁縫をしながら、毎日いろいろな曲を流せ、飽きない。QOLが上昇している感じがする。
 ファルマンはこういう使い方はしていない。「ゲオに行かなくて済む」だけだ。でもこれは責められない。ファルマンは音楽に関して、僕よりもこだわりがあるので、どうしたってそうなるだろう。僕は音楽に強いこだわりがない。特別好きな歌手というのもいない。だからできる。特別に感じるものがあるというのは、いまの言葉で言うと「推し」ということになり、それは推すという行為をする自己の矜持にも直結するだろう。最近の、「推し」と言いながらの自己表現みたいな文化を見るにつけ、そう思う。
 音楽にはないけれど、本に関しては、僕にもこの矜持があって、だから本については他人のおすすめしたものには目もくれない。他人が絶賛しているものは逆に拒絶したりする(内容を、ではなく、読むのを)。ビッグデータにおすすめされるがままに、音楽を屈託なく聴く自分を眺めていると、こだわりがないって楽で生きやすいのだな、としみじみと思う。ただしその生きやすさは、人間的な魅力とは往々にして相反するもので、なんのこだわりもない自由な人間とは、一緒にいてもぜんぜん愉しくないだろうとも思う。その点、音楽にも本にも屈託のある妻の、その人間的な魅力と、その生きづらそうさたるや。

2024年4月17日水曜日

せいちょう・爆裂なもの・あとから気付いてぞっとする話

 桜が散って、朝晩の冷え込みもなくなって、もうすっかり季節は移ろった。とは言え春と秋というのは、夏と冬と違って、純度100%という状態はないと思う。少し前までは冬を引きずった春だったのに、それが終わったと思ったら即座に、夏を彷彿とさせる春になった。濃い色と濃い色に挟まれた、あわいの部分のようだと思う。
 わが家では半月ほど前に衣替えがなされ、トレーナーやカーディガンの段だったものが、Tシャツの段になった。毎年のことながら、衣替えというものは、暑さ寒さへの対応というのはもちろんだけど、半年ほど着続けた服に対するうんざり感からの解放という意味で、ありがたいと思う。半袖のTシャツの清々しさ! と今は感動しているが、ただしこれも半年後には飽き飽きしているのだ。
 ところでそのTシャツに関して、少し驚く出来事が起っている。
 着てみると、小さいのだ。
 何年か前、Tシャツをやけに蒐集した年というのがあって、僕のTシャツラインナップというのは今もだいたいその頃のレガシーでできているのだけど、その当時、傾向としてわりと小さめのものを着ていたこともあり、今年いよいよ「着たらちょっと変」なレベルにまで小さく感じられるようになってしまった。
 太った、という話ではない。体重はほぼ増えていない。そうではなくて、数年間の筋トレおよび水泳によって、いよいよ胸周りが大きくなったのだ。だからそのあたりがパツッとしている。パツパツとまではいかないが、ちょっと強調しすぎだな、という印象を受ける。なによりこれを着て1日過したら、動きづらくて肩が凝りそうだと思う。
 体型がよくなったことは、目指していたことなので嬉しい。しかしTシャツの選択肢はだいぶ減ってしまった。参っぜ! そうか、発育のいい成長期の女子って、こんな気持ちなのか。誇らしいけど、照れ臭い。参っぜ!

 ポルガがよく食べる。たぶん人生でいちばんよく食べる時期なのだろう。
 夕飯時にごはんを大盛で2杯食べたあと、夜食でもう1杯食べたりする。びっくりする。僕なんか、そもそもの1杯が、ポルガの最初の1杯の7割くらいだ。それでもう十分。
 やはりなにが違うって、代謝が違うのだろう。若者は、たくさん食べて、たくさんエネルギーを放出するのだ。それって本当にすばらしいことではないか。そうやって空気中に放出されたエネルギーは、世界そのものを活気づけそうだと思う。
 だとすれば僕は、若者が多い国で暮したい。超高齢化の、人口減少社会はやだ!
 そう考えて、子どもが巣立ったあとの夫婦が小型犬を飼ったりする理屈がようやく解った。身近に、なにかパワフルな、爆裂なものを置きたいのだ。ファルマンの実家の犬は、しつけがぜんぜんできていなくて、あんな厄介なものがいると生活がままならないだろうと思っていたが、あの感じのものが家にいることで救われる心の部分があるのだろうな。

 山陽と山陰を繋ぐ特急電車やくもの、新型車両が走行を開始した。ちなみに開始したのはちょうど、われわれが車で岡山に行った日である。
 新型車両の話になると地元民がすぐ訊ねるのが、「揺れはどうなのか」で、そのくらい中国山地を突き抜けるやくもというのは揺れる乗り物なのであった。やくものことを「はくも」(酔って吐き気を催すから)、さらにはもう少し前に、今回ほど大々的にではなく車両がリニューアルされた際、ゆったりやくも、というコピーが付けられたのだが、それのことを「ぐったりはくも」と呼ぶのが地元民のトレンドであった。
 それでこのたびの新型やくもだが、ちょうど乗ってきた車両がそれだった(6月くらいに全てが新型に切り替わるそうだが、今はまだ混在していて、選択できるわけでもないらしい)という、関西から来た仕事関係の人の話によると、「ぜんぜんちがう」らしい。この人は定期的に来る人であり、そのたびにやくもを利用してきたわけで、話に信憑性がある。
「俺はいつも揺れがいちばん激しいときに小便に行くんだけど、これまでは安定せずに大変だったのが、新型だと難なくできた」
 というエピソードに、へえ、と感心した。どうやら今度こそ、やくもはそこまで揺れなくなったのかもしれない。いちどくらい乗ってみたいものだ、でも地元民がやくもを使うシチュエーションってほとんどないんだよなー、などと思った。
 違和感に気付いたのは帰宅後だ。
 「いつも揺れがいちばん激しいときに小便に行く」ってなんだよ。

2024年4月11日木曜日

ファルマン41・僕と電車・ぶりんばんばん

 ファルマンが41歳になったことについて、改めて書いておく。
 日々「おもひでぶぉろろぉぉん」をやっていることもあり、あの23歳だったファルマン(ちなみに当時の呼び方は「恋人」である。恋人という呼び方!)が41歳ということに、衝撃を受ける。しかしどうしたって去年の、自分がまだ30代なのにファルマンだけ先に40代になったときほどの昂揚感はない。よく見れば41という数字には、40にはないジトっとした奥行きみたいなものがある気がするのだけど、それは顕微鏡とまでは言わないが、ルーペを使わないと視認できない程度だと思う。残念だ。あのスカッとした喜びは9年後を待つしかないのか。
 ブログを書かなくなったファルマンが近ごろどうしているのか、関係者として報告しておく。ファルマンは日々、子どものことを中心にいろいろなことを心配し、またさまざまな事柄を面倒臭がり、そしてテレビドラマに癒されながら、とりあえず健康そうに生きている。なによりだと思う。41歳という輝かしい1年を、溌溂とした猛ダッシュで大笑いしながら駆け抜けてほしい。

 先日岡山に行ったことを契機に、電車のことに思いを馳せた。ポルガがかつての最寄駅から岡山駅に行ったり、またこの日は岡山と山陰を結ぶ特急列車「やくも」の新型車両の運転開始日であったりと、なにぶん普段の生活が電車とは本当に縁遠いので、実際のところ自分は利用していないのだけど、最近の暮しの中では最も電車に近づいた日だと言えた。
 しばらく乗っていないせいか(去年の3月の帰省以来乗っていない)、僕の電車処女膜は完全に再生してしまっていて、生娘のようにいたずらに拒否する気持ちが湧いている。拒否というか、怖いのである。なにが怖いって、自分が運転していないのに進む車窓の景色が怖い。それでも完全に知らない土地の風景であれば、ディスプレイを眺める感じで無でいられるだろうが、それが地元の知っている場所であった場合、自分の意志とは関係なく勝手に進んでいることや、普段との視界の高さの違いなどから、自分の世界が、そっくりの異世界のように思えてしまって、それが怖ろしいと思う。
 なんと、なんと田舎者の発想だろうか。書いていて自分で驚いた。もはやここまで来た。毎朝満員の田園都市線で渋谷まで行き、井の頭線に乗り換えていた高校生が、とうとうこの地平までやってきた。いまでは女房子供持ち、この先どこまでゆくのやら。

 春休みということで3月末から先週まで、またファルマンの上の妹とその娘たちが実家に来ていた。1月、2月、3月、4月と、今年はここまで毎月会っている。
 ファルマンと子どもたちは、こちらももちろん春休みで暇なので、日々実家へ出向き、姉妹なり従姉妹なりと、それぞれたっぷりと交歓していた。
 僕も2度ほど顔を合わせたが、ぼちぼち満2歳となる次女は、やはり心を開いてくれることはなかった。しかし拒むは拒むのだが、完全に無碍だった長女と異なり、次女の拒み方は「あらら、人見知り時期だからしょうがないね」とほほえましい気持ちになるような、血の通った感じがあり、拒まれた側としてもあまり悲壮感は湧かないのだった。
 それでもなんとか気を引こうと奮闘し、上の妹にアドバイスを求めたら、「Creepy Nutsの『Bling‐Bang‐Bang‐Born』で踊ったりするよ」という答えが返ってきたので、それを聞いて僕はどうしたかと言えば、なんの迷いもなく「ぶりんばんばん……」と唄いながら、あの腕を左右に揺らす振り付けをしてみせたので、我ながらびっくりした。おっさん、親戚の小さい子に受け入れてもらいたくて、そんなことしちゃうのかよ! と。パピロウ変わったな! 俺の知ってるパピロウは、そんなのプライドが邪魔して絶対にしなかったよ! と。
 でも2歳児、少しだけニコッとして、一緒にちょっと腕を振ってくれたので、よかったです。もう乳幼児のそういうのが享受できれば、それでいいのです。

2024年4月2日火曜日

腰・ブラジャー・進学祝い

 腰を痛める。数日前の風呂上り、タオルの入っているいちばん下の引き出しを開けようと屈んだところで、ヌドゥンッという感じの味わったことのない違和感が腰を襲い、そこで動きが静止した。ぎっくり腰のエピソードとして伝え聞くような、その姿勢のまま一切動けなくなった、というほどのことはなく、最悪の結果は(今のところ)免れているが、それでもまだ腰は不穏な空気を放ち続けている。まるで反社のようだと思う。俺のこと軽い扱いしたらどうなるか分かってんだろうな、あぁ? と凄まれ続けているようなストレスがある。
 体に不調を来したとき、明確な原因など特定できる場合のほうが少ないのに、執拗なまでに「これが悪かったのかもしれない」「あれのせいかもしれない」と可能性を探るという性癖を持つファルマンは、「この春先の、寒さとして認識しづらい微妙な寒さに対する油断のせいだよ」などと言ってきたのだけど、春先のそれには毎年接していて、それなのにこれまでいちどたりともこんなことはなかったのだから、そうなるともう答えはひとつしかないと思う。目を逸らすなよ、と。
 そう思う一方で、春休みの娘を連れて実家に日参するファルマンは、すぐさま僕のこの腰痛のことも実家の面々に伝えたそうで、そのことに対して僕は、「やめろよ! いつまでも若々しいパピロウでありたかったのに!」と抗議をしたのだった。しかし僕のその抗議に対し、「別にあなた、いままでもそんなキャラじゃなかったよ」と冷静に諭され、何重かにショックだった。
 腰の不穏な痛み、つらい。じわじわじわ、と人生のテンションを下げてくる。

 「おもひでぶぉろろぉぉん」で、相変わらずまだ23歳時点の日記を読み返しているのだが、当時の僕はしばしば女子高生のブラジャーの話をしていて、時代性を感じる。
 たぶん17年前に較べて、世の中のブラジャーの売り上げというものは大幅に落ちたことだろうと思う。なぜか。
 それはブラトップができたからだ。
 17年前にはまだブラトップはこの世になかった。いつから出たのかと検索したところ、この1年後の2008年なのだった。エポックメイキング!
 ブラトップの登場によって、ブラジャーは一気に遠い存在になった。
 しかしなったらなったで、僕としてはなんの問題もない。どうも僕は、当時からそこまでブラジャーというアイテムには熱情を持っていなかった様子がある。ブラトップがブラジャーに取って代わったことに、苦言を呈したことはこれまでいちどもない気がする。
 おっぱいに関しては人並みに好きだという自覚があり、それを守るための女の子特有のアイテムと考えれば、ブラジャーに関してもパッションがあるべきだという気がするのに、なぜかそうではない。どっちでもいい、さらに乱暴に言えば、どうでもいいと感じている。
 ショーツと異なり、ブラジャーにしろブラトップにしろ、その中身以上に見目好いものというのが、存在し得ないからかもしれない。引き出しの、ショーツの段には興奮できるけれど、ブラジャーの段は開けてすぐに閉めると思う。もしも女の子の部屋に忍び込んだとしたら、と仮定して。

 姉の長女、姪がこの春から高校に進学する。姪が高校生て、という気もするが、なにぶん娘が中学生なので、実はその「月日の流れ早すぎるよ!」の感慨は、ただの定型句である。本当は淡々と、そうか、とだけ思っている。
 中高一貫の学校に通っていて、さらには制服もない学校なので、高校進学という感じはきわめて乏しいのだけど、それでも一応は進学なので、親戚としてなんかしらのお祝いを贈るべきだろうという話になっている。
 3月からなっているのだが、これがなにも思い浮かばないので困っている。横浜で生きる高校1年生の姪が、いったいどんなものが欲しいのか、見当もつかないのである。本人が欲しいものではなく、そんなものは世代の違う者が分かるはずないので、大人として、人生の先輩として、これから若者が必要となるであろうものを与えてやればいいのだ、とも思うのだが、そちらもまたなにも思い浮かばない。さらには姪の父の顔の広さのことを思うと、その考え方から思いつく大抵のものは、あの大集団の誰かしらからもう既に贈られているのではないか、それも情報強者特有の、知る人ぞ知る気の利いた逸品を、などと考えると、友達がいない田舎在住の叔父は、いよいよ手も足も出なくなる。
 もはや開き直って、相手のパーソナリティのことなど一切考慮せず、こちらの趣味を貫くしかないか。だとすれば、どうしたってこの叔父夫婦は、本くらいしか選択肢がなくなるわけだが、でも本って! とさすがに思う。本ってもう、叔父夫婦もほぼ読まないではないか。あんな現代にそぐわないものもらっても、迷惑なだけだろう。姪の家には本の収納場所(本棚といいます)などないだろうし。
 さあどうしよう。もう4月や。

2024年3月26日火曜日

ハンドメイド水着(メンズ)・酸欠神秘・7円

 3月はせっせと販売用の水着を作っていた。その果以あって、ぼちぼち数も上がってきたので、いよいよ発売のときは近そうだ。販売サイトは、検討した結果、たぶんYahoo!フリマにすると思う。見た中ではそこがいちばん、男性用水着の販売が活況そうだったから。
 でもたぶん簡単には売れないだろうと思う。「水着 メンズ」で検索を掛けると、speedoであったり、arenaであったり、mizunoであったり、水着ブランドの水着ばかりが出てきて、結局そうなんだよ、世の中の人たちは名のあるメーカーのものを偏重するんだよ、minneだってハンドメイドと言いつつ、結局セミプロみたいな感じだしさ、とクサクサしたのだった。しかしひとしきりクサクサしたあと、と言うか考えてみたらそもそも、ブランド偏重もなにも、「ハンドメイド水着」というジャンルが、この世にほぼ存在しないのだった、と思い至った。
 「ハンドメイド下着」というジャンルは、いちおうある。でもそのほとんどが女性用だ。僕がたどり着けていないだけかもしれないが、男性用ハンドメイド下着の販売ページというものは目にしたことがない。下着でさえそんな状況なのに、あろうことか水着である。狙いどころがあまりにもニッチ過ぎるのではないか、と我ながら思う。
 でも僕は実際にそれを着用して泳いでいるが、自分の理想を形にしただけあって、本当にいいのだ。販売ページであまり熱情を持って説明文を書くと引かれるので書かないつもりだけど、本当は声を大にして言いたい。これはすばらしいものであると。販売ページに書き込めない思いの丈は、たぶん「nw」にぶつけることになると思う。

 某女性シンガーソングライターと某元競泳選手が離婚して、明確な声明はなかったものの、どうもその元競泳選手というのが、とある新興宗教に傾倒したらしいという下世話な記事を目にし、その関連で紹介されていた、その初めて目にしたとある新興宗教の教義の香ばしさに、頭がくらくらした。
 その某元競泳選手は、先輩である超有名な元競泳選手の影響で入信したとのことで、それを聞いて思ったのは、やっぱり水泳選手というのは、酸素が足りない状態で死に物狂いで泳ぐので、臨死体験や神秘体験というものが身近にあるのかもしれない、ということだ。折しもパリオリンピックの競泳代表の選考会が連日NHKで放送されていて、少し観たりもしたのだが、1500m自由形なんかを観てると、これはもう競技というより修行の一種ではないかと感じた。なにより泳いでいる間、景色も変わらず暇で仕方ないだろう。酸欠で、体をオートメーションに動かしながら、頭の中では一体なにを考えているのか。それはやっぱりちょっと、容易に神秘的な方向に行っちゃうよな、と思った。

 大谷翔平が話題を振りまきまくっている。結婚、韓国、賭博。すごいじゃないか。うすうす感じていたけれど、どうやら大谷翔平というのは、やっぱりこの世界の主人公らしい。われわれユーザーを飽きさせないため、ジェットコースターのように息つく暇を与えない。
 約7億円が勝手に使われていたということで、それは本当か、本当に勝手になのか、というのが今回の件の焦点になるようだが、7億円というと途方もない額のように聞こえるけれど、大谷のドジャースとの契約金は約1000億なわけで、それは約分すれば、1000円持っている人にとっての7円という感覚の話になるわけで、きちんと理由を説明して7円を持っていかれても、あるいは勝手に7円を持っていかれても、大谷にとってはマジでどっちでもいいことだったんだろうと思う。そんなことより野球がしたい! 野球野球野球!
 球を投げて球を打って1000億円もらい、ぜんぜん豪遊せずにひたすら早寝早起きして野球だけする人がすぐ横にいたら、精神のバランスがおかしくなって、賭博に手を出してしまうのも、ちょっと仕方がないという気もする。
 そして大谷の話題のときには必ず言うことにしているが、僕が大谷翔平に勝っているのは、ちんこの大きさくらいのものだと改めて思った。新婚にこんなこと言って申し訳ないけれど。

2024年3月15日金曜日

ロケット・で・徴兵

 和歌山県から打ち上げられた民間ロケットが、発射後すぐに爆発していた。
 ロケットを作ったベンチャー企業の社長が、そのあとに開かれた記者会見において、頑なに失敗という言葉を使用しなかったのが、なんだかおもしろかった。たぶん今後のスポンサー誘致のことなどを勘案し、悪いイメージをつけまいとしての作戦だったのだろうが、その会見内容を伝えるニュースの前に映し出される、ロケットが爆発する映像というのが、本当に見事なまでにきれいな、清々しいほどの爆発具合なので、そのあまりのギャップが笑いを誘うのだった。見た目からして絶対にとんでもなく阿呆な子を、「やればできる子なんです」と言っているような、なんかそういうギャグめいた風景に見えたのだった。
 同じくロケット事業を行なうイーロン・マスクもコメントを発表したとのことで、どんなことを言ったかと思ったら、「Rockets are hard」だそうで、ここまで含めてやけにコントっぽい出来事だな、と感じた。マスクのコメントはどこかバカボンのパパっぽさがあり、赤塚不二夫の世界観に近い気がする。

 ちょっと前、まあよくある話なのだけど、なんかしらの事由で疲れている奥さん(投稿者)が、これから晩ごはんを作ろうというとき、献立をどうしたものかと夫に問いかけたら、「うどんでいいよ」という答えが返ってきて、あり得なかったので説諭した、というエピソードが投稿されて、やけに話題になっていたのだった。
 これは本当によくある。夏場に、そうめんでいいよ、と言ってしまったパターンなどのバリエーションもある。そして定期的に盛り上がる。女はこのパターンが本当に好きである。男の、家の仕事の大変さへの理解のなさ。大好物である。
 女のそういう部分の怒りを刺激していいことなど本当にひとつもないが、それでもこちらも性分なので、黙っていることができない。誰も読んでいないブログだし、述べる。
 晩ごはんをうどんで済ますのは、普通の晩ごはんを作るより、絶対に楽だろ。
 いまどき、完全に料理をしない男は少数派だ。だからこっちだって実体験をもとに判るのだ。うどんは楽だ。ごはんと、汁と、おかずが、ひとつで済むのだから。
 女は、「で」が悪い、と言う。「うどんがいい」「そうめんがいい」ならいいが、「うどんでいい」「そうめんでいい」は、手抜きだけど許してやるよ的な考えが漏れ出ていると考えるらしい。読解力が低い。あるいは被害者意識が強すぎる。話にならない。
 普通の献立を作り上げる労力が10だとしたら、うどんは5くらいで済む。こちらはその簡便さを実現するための方策として、「うどんってことでいいんじゃない(ナイスアイディアだろ)?」と言っているわけで、別に手抜きを糾弾する意図はないのだ。それなのに女はすぐに言葉尻を取って男を責める。責められた男は、本当は反省などしていない。なぜなら反省する部分などないからだ。悪はいない。いるとすればそれは女の心の中の仮想敵だ。責めることでお前の溜飲が下がるならば結構、と思いながら男は粛々とそれを受け止める。
 ま、そんなところが女のかわいさなんだけどさ。

 ミャンマーで徴兵制が開始されるというニュースを目にし、内容を読んだところ、男性は18歳~35歳が対象とのことで、衝撃を受けた。
 戦争教育の賜物か、僕は徴兵制というものにものすごい拒否感を持っていて、自分の人生で絶対にそんなことにはなりませんように、ということをずっと強く願い続けてきた。小中学校での体力テストも、あまりいい記録を出すと、いざというときの徴兵リストの上位のほうに名前が来てしまうと考え、力をセーブしていたほどである(俺が本気を出したらそのときはもう、ねえ)。
 そのため、このほど運用が開始された徴兵制の対象年齢が35歳までだったというのは、国が違うとは言え、かなり感慨深いものがあった。
 これはどうも、今生、僕は徴兵を免れたのではないだろうか。
 これから有事になったとて、もはや40歳の僕は、国家から戦力としてカウントされないということではないのか。ましてや中学校の体力テストの記録を見るに、とても機敏に動けそうもない。さらには内申点から察するに、規律に対する従順さも壊滅的だ。しかもamazonの定期購入リストにはサプリメントがずらずらと並んでいる。サプリメントを日々せっせと飲んで、やっと立てているようなものではないか。駄目だ駄目だ、こんな奴は。たとえ志願してきても絶対に入れてやらん。こっちから願い下げだ。
 そう考えるととても嬉しい。この世からありとあらゆる争いごとがなくなりますように。

2024年3月13日水曜日

矜持・むべ・見識

 子どもたちがYouTubeの、ほとんど静止画のような、キャラクターの絵が小刻みに動くだけの簡単なアニメに、やたら早口のセリフを乗せた、コント仕立ての映像をとても愉しんで観ていて、不憫だ。不憫とはどういうことかと言えば、子どもたちはそれが本当におもしろいと思っていて、父である僕にも観るよう薦めてくるのである。だが僕は断るのである。どう言って断るのかと言えば、こうである。
「俺はごっつええ感じを観て育った世代だからこんなものはとてもじゃないが観られない」
 つまり、こんなものをおもしろいと思ってしまう、ごっつええ感じをやっていない時代のお前らが不憫だ、ということである。
 言いながら、我ながらひどいな、と思う気持ちはもちろんある。僕はラジオ番組の常連リスナーによる内輪ウケの感じとかがものすごく嫌いなのだけど、これではあまり人のことは言えない。しかもハガキ職人でさえなく、観ていただけなのだから、なおさらタチが悪い。
 そういう自戒の念はありつつ、それでもなお、あの類のアニメを観たくないと思う理由は、厳然としてそこに立脚していると思う。これは矜持だ。俺はごっつええ感じを通して、おもしろさというものを理解していった人間だという矜持。矜持と書いて老害と読む。

 ようやくきちんと暖かくなってきて、春を実感できるようになった。
 グダグダだった去年に対し、今年の灯油のフィニッシュはかなりうまいこといきそうである。なにしろコタツの存在が大きい。去年はコタツを出さなかったので、ストーブを点けるか点けないかという大味の寒さ対策しかできなかった。今年はコタツのおかげでゆるやかな調整をすることができ、結果として灯油の購入費も大いに削減できた。去年の記録というものはないのだけど、今年ははっきりしていて、12000円である。灯油缶、約6回分。これはたぶん、去年よりもだいぶ少ないはずである。
 暖かくなってくるとなにがいいって、あまり服を着込まなくていいというのが嬉しい。常態としてあまり服を着込まないでいられると、そこからの脱ぎやすさ、裸になりやすさというのもよくなってくるわけで、いろんな意味で快適だ。冬の間じっと我慢していた部分が、スプリング状に飛び出るイメージ。春になってちんことか出しちゃう事案が多く発生するのも、むべなるかな、と思う。俺のむべなるかなが涎を垂らして悦ぶ春です。

 手製のスイムウエアを本当に販売してみることにして、鋭意製作中である。
 以前「パピロウせっ記」に、僕の作るスイムウエアは股間の部分にたっぷりのゆとりがあって、それは製作者こだわりの特長であると同時に、あまりそのことを主張し過ぎると公共の場での着用に支障が出てくるし、かと言ってその作りに関してまったく触れずに販売するとそれはそれで問題がありそうで、いったいどういう言い回しにすればいいか悩んでいる、ということを書いた。minneで痛感したのだけど、どうも僕は人にきちんとなにかを説明しようとすると言葉数が多くなりすぎるきらいがあり、このままではスイムウエア販売(ちなみにminneでは売らない)でも同じ失敗を繰り返してしまいそうだと思った。
 そこでファルマンに相談したところ、「「圧迫感のないデザインです」くらいでいいんじゃない」という答えが返ってきて、「それだ」となった。つかず、離れず。それくらいでいいのだ。ジョニファーの着用画像に、それくらいの文言でいいのだ。それで伝わるのだ。
 ああ助かった。股間部の盛り上がりに関する表現について見識のある妻と結婚してよかった。

2024年2月29日木曜日

褒美・ステルス・石ころ

 ポルガが学年末試験を終える。
 試験のたびに、「勉強しなさい」「嫌だ」「成績が悪かったら塾に行かすよ」「じゃあ逆にいい点数だったらご褒美ね」というやりとりがあり、結果としてポルガはこれまで順調に塾をすり抜け、褒美をゲットし、そして真摯に勉強をしないのにわりといい点数を取って帰ってくる娘に、ファルマンは自分の悲惨な思い出と照らし合わせて膝から崩れ落ちるという、そこまでが一連の流れとなっている。
 褒美は、これまではゲームのソフトや漫画だったのが、今回のポルガのリクエストは、スマホの1日の使用制限時間の拡大と、さらにはTikTokアプリのダウンロードの許可で、なんかあれだな、フェーズが変わったんだな、ということをしみじみと思った。そのことに一抹の寂しさを感じつつも、ご褒美に一切費用が掛からなくて助かるなあ、とも思った。
 TikTokは、どんなものかファルマンが試しにダウンロードして覗いてみたところ、1分くらいで「これはあかん」となり、かなりの高得点でなければ実現しない設定とした。僕自身はTikTokはまだ見たことがないけれど、ひとつだけ分かることは、もしも今回かなりの高得点を取ってTikTokを無事にゲットしたら、それ以降はもう高得点を取ることは絶対になくなるに違いない、ということだ。そのくらいの、バカまっしぐら装置だと認識している。YouTubeもその装置の機能としては大概だが、TikTokはそれをさらに加速させたものであろうと。
 それで試験の結果はどうだったかと言うと、どうも、塾に行かせなければならないほど悪くもなかったが、ろくに勉強しなくてもぜんぜん高得点という、これまでの流れには、ちょっと翳りが見え始めたのかな、という感じで、少々の使用時間の拡大はやぶさかではないけれど、TikTokは不許可という、そのあたりに落ち着きそうな案配だ。いい落しどころだな。

 昔とてもおいしく食べていたお菓子が、そこまでおいしいと思えなくなった、という現象があって、舌が肥えたというよりも、年を取ったことで、強い味のものを受け付けられなくなったんだなあ、などと感じたりしていたのだけど、先日ふと思ったこととして、量や大きさがダウンするステルス値上げという言葉があるけれど、それら物理的な要素のほかに、使用している材料の品質がステルスでダウンしている可能性だって大いに考えられるわけで、かつてはバターを使っていたのがマーガリンになったりとかして、本当においしくなくなっている場合も往々にしてあるのではないだろうか。そのように考えると自分の生きる力的には安心感が得られるのだけど、この世やこの社会という視点で考えると、ちょっと暗澹たる気持ちになる。安寧は得難い。

 ゆめタウン出雲で今週の日曜日、ドラえもんショーが行なわれるという情報が入ってきて、そのショーのタイトルが「石ころぼうしでひとりぼっち?」だったので、見出しをパッと見た瞬間に、ドラえもんの石ころ帽子をモチーフにした体験イベントが開催されるものと勘違いをしてしまい、夢を見てしまった。
 よくある「ドラえもんの道具でひとつ手に入るとしたら?」の問いに、「どこでもドア」や「もしもボックス」などと答えるのは浅はかだ。当たり前すぎて話が盛り上がらない。僕のその答えは断然「石ころ帽子」だ。石ころ帽子のなにがいいかって、もう20年にわたってこのブログで何度も言っているけれど、ただ相手に自分の姿が見えなくなるわけではなく、見えているけど石ころのように気にならなくなる、という点だ。ここが絶妙なのだ。
 だから石ころ帽子のイベントと聞いて(勘違いして)、ローションフェスであるとか、ヌーディストビーチであるとか、それこそ乱交パーティーとか、なんかそういう類のものかと思ってしまった。参加者がそれぞれ石ころ帽子を被り、その場にいる自分以外の人を、同時に気にならなくなって(というていで)、思いのままに振る舞うという、なんかそういう淫猥な匂いのするイベントかと。そんなものを開催するなんて、ゆめタウン猛ってるな、ランサムウエアに感染していろいろ大変そうなのに強気だな、などと思った。
 もちろんそれは大いなる誤解で、実際は冒頭に書いたと通りの、たぶん着ぐるみが出てくるショーで、のび太がピンチに陥るけど結局は一件落着するんだろう(身も蓋もない解釈)。着ぐるみのショーは、もうわが家の子どもたちは対象年齢ではなくなってしまった。たぶん観に行くことはない。もしも観に行ったとしたら、観客席でやけに感慨深い顔でショーを眺めている男性、それが僕です。気にしないでください。

 

2024年2月23日金曜日

さなえ・大谷棒・成熟

 怖い話をする。
 昨晩未明、僕は寝言で突然こう言ったという。
「さなえちゃん、さむかったろう、まだまだ……」
 ファルマンによると、僕はそれを好々爺のように言ったのだという。わりと大きな、ともすれば普段の僕の話し声よりも大きな声だったという。そしてそのあとは黙ったという。ファルマンは慌てて暗闇の中でスマホのメモを起動し、この文面を記したそうだ。
 ちなみに僕の身の周りに「さなえ」という女性はいない。
 僕はわりと、現実とは乖離した、現実で知っている人がひとりも出てこない、知らない人しか出てこない夢を見たりするけれど、それでも思い出す限り、僕は常に僕だ。さなえちゃんの寒さに思いを寄せる老爺になったりすることはない。怖い。
 もしかすると、寝ている間の、使われていない体や脳の部分を、この世界のこの時代とはまるで違う存在に、勝手にレンタルされているのかもしれない。あるいは何十年後かに、孫や曾孫で「さなえ」が誕生したら、これもまた趣の異なる怖さだと思う。

 大谷翔平が初めてのドジャースのキャンプということで、注目度が高く、ニュースでよくやっている。今シーズンは打者に専念するわけだが、先日は実戦形式で、バッターボックスに入っていた。昨シーズンのホームラン王ということもあり、報道陣のほかに見物客もたくさん詰めかけ、大谷の姿を見つめていた。
 その第1打席がすごかった。
 大谷、いちどもバットを振らなかったのである。球筋などを確認するため、はじめからそのつもりだったのだろう。
 しかし大勢のドジャースファンが見守っていたのである。10年7億ドル、日本円にして1000億円を超えるという契約をした大谷がどれほどのものか、見定めてやろうと取り囲んでいたのである。そんな中で、バットを振りもしない、という精神力。もはやサイコパスではないかと思った。
 僕なら、「第1打席は見るだけにしよう」と思っていても、大勢のファンが「どうなの、こいつ実際どうなの、やれんの」という感じで見に来ていたら、「いいとこ見せなきゃヤバいかな、顰蹙を買うかな」と思って、すごく半端なスイングをしてしまうと思う。そしてフォームを崩し、1シーズンを棒に振ると思う。その点、大谷はバットを振らない。バットを振らないから、シーズンを棒に振らない。すごい。サイコパスだ。
 大谷のエピソードを目の当たりにするたびに、僕が大谷に勝っているのはちんこの大きさくらいのものだな、と思う。ちんこの大きさ以外は、すべてで負けている気がする。

 ドラクエ11をやっているのだが、十代の頃のプレイと大きく変わったなと思うこととして、最強の装備を揃え、最強の仲間を集め、最強の強さになろう、という気持ちはぜんぜんないのだった。十代の頃は、レベルを99にして、メタルキングの装備一式を身に着け、5や6だったら仲間にできるすべてのモンスターを仲間に、みたいな執念があった。
 今は、あるもの、手の届くもので、やらなければならないことがこなせればそれでいい、というスタンスである。世界のどこかには、もっといい装備品があるかもしれない。たぶんあるだろう。でも別にそれを手に入れなくてもボスは倒せるので、なくてもいい。
 この考え方の変化は、もちろん僕が大人になったというのもあるけれど、ゲーム自体もそういう傾向があって、スキルポイントの割り振りというのがあり、そのキャラクターの装備できる、剣だったり、槍だったり、杖だったりの、どのスキルを伸ばしていくか、というのが選べるようになっている。レベルを上げたら、あらかじめ定められた数値でそのキャラクターの能力が上昇していくという一本道ではなくて、育成の要素があるのだ。だから、槍を伸ばすことにしてそっちにポイントを全振りしたら、剣はそこまで得意ではないキャラクターになる。昔だったらなんとなくそれは据わりが悪く思ったかもしれない。欠損だと感じたかもしれない。今はそんなことない。これはとてもいいことだと思う。なんでもかんでも手に入るわけではない。そういうものだ。それでいいのだ。

2024年2月15日木曜日

ジョグ・休肝・ドラクエ

 「おこめとおふろ」にも書いたが、いつものプールが閉鎖していて、地方民なのでそのプールが閉鎖するとそれはもうほぼプール難民ということになり、哀しみに喘いでいる。しかしなにぶん性根が前向きなので、打開策としてジョギングをぽつぽつとやっている。偉い。本当に偉いと思う。俺だけの国があれば、俺は俺に国民栄誉賞をあげたい。
 ジョギングは、プールほどはおもしろくないけれど、非日常感もそれなりに得られ、多少の気分転換になる気がする。そのついでに脂肪が燃焼されるのなら万々歳だ。
 夜に、車が来ないからという理由で近所の土手を走ったりすると、遠くに街の灯はあるものの、道や足元は本当に真っ暗で、平衡感覚が失われるほどだ。土手なので、片側は川べり、片側は道路となっており、転がろうものなら危険だし、もしも倒れたら朝まで発見されないな、などと思いながら走っている。
 空を見上げれば、冬の星がすごい。なにがすごいって、数がすごい。
 そんな星空を眺めて思ったのだが、にわかに変なことを言うようだけど、星の配置って、なんとなく線で繋いで、形を想像で補ったりすると、なんかしらの生き物や物品のように見えてきて、それらが星空を舞台に、呼応するように巡っているのだと思うと、ストーリー性さえ帯びてくるような気がする。あまりに荒唐無稽というか、無茶があるので、こんなことを考えるのなんて、過去現在未来併せても僕くらいのものだと思うけども。

 いつまで続くか知らんが、酒を飲むのは次の日が休みの晩だけにしようじゃないか、と思い立ち、実行している。いつからか。昨日からだ。昨日から始めた禁酒を、さも最近の暮しの報告です、みたいな面をして述べてみた次第である。
 酒を飲むことは、肝臓に悪いのはもちろん、なんかしら食べることになるので太るし、寝る前の飲酒はトイレが近くなるし、もちろん酒代も掛かる。冷静に考えるとメリットはデメリットに較べてとても少ないのだ。定期的にこの事実を噛み締めて、禁酒を誓う。それだのにいつの間にかこの誓いは破られるのだから不思議だ。頭おかしいんじゃないか。
 寝る前2時間くらいは食べないほうがいいとか、22時以降は食べないほうがいいとか、そういうことが言われるけれど、晩ごはんを食べたあと、寝るまでの数時間、なにも摂取せずに寝るのって、ちょっと寂しすぎると思う。これまではその思いから晩酌をしていたわけだが、禁酒ということになると、酒の代わりになにか別のものを用意しなければならず、これがけっこう難しい。コーヒーなどのカフェインを摂るわけにはいかないし、ホットミルクというのも大げさだ。じゃあぐい呑みに日本酒を一杯だけ、というのがいちばん簡単な話なのだが、しかし酒がぐい呑み一杯で終わるはずもなく、たぶんそこらへんから禁酒の誓いはいつも綻ぶのだ。
 昨日はどうしたかと言えば、沸かしたばかりの熱い麦茶を飲み、手作りのクッキーを2枚ほど食んだ。健康的だな、とも思うと同時に、それで人生の歓びは得られているのか、という自問も浮かんだ。時間の問題だな。

 ドラクエ11を買う。ポルガがお年玉で買う。それでポルガと同時進行で、僕も冒険の書を作り、プレイしている。実はポルガに買わせたのも、だいぶ僕が焚きつけたところがある。せこい父親だな。もっともドラクエというものは、人生の素養のひとつとして、ひとつくらい摘んでおいても損はないと思う。古い考えかもしれない。
 ドラクエは、たしかDSの9はしたのだったと思う。そしてオンラインの10には触れず、2作ぶりにこうしてまた巡り合った。やり始めてすぐは、ドラクエはもとよりRPGというものが久しぶりだったためか、いまいち気持ちが盛り上がらず、危機感を抱いたが、しばらくやっているうちに、乾燥していた土地に水が染み渡るように、きちんと愉しくなった。
 画面は、はじめにポルガが3Dでやるのを眺めていたら酔ったので、自分は2Dで進めていたのだが、せっかくの美麗なグラフィックを拒否し、ファイナルファンタジー6やドラクエ6あたりの感じのドット絵でプレイしているのが、なんだかすごく偏屈な行為であるように感じられ、途中から3Dに変更した。慣れたらぜんぜん大丈夫だった。これは経験則だ。「初見で拒否感があっても、だんだん慣れて大丈夫になる」のだ。これまでの半生で、さまざまな変遷に対峙し、そんなことは何度も何度も繰り返し学習しているはずなのに、なおも初見での拒否感に付き従ってしまう。年を取ると余計にその傾向が加速している気さえする。不思議だ。「初見で拒否感があっても、だんだん慣れて大丈夫になるんじゃよ……」と若者に諭せるようになれればいいのに、実態はその逆である。人は哀しいな。
 プレイしていると、子どもの頃のドラクエの愉しかった思い出がよみがえってきて、なるほど僕は過ぎ去りし時を求めて、ドラクエ11をしているのかもしれないと思う。

2024年2月8日木曜日

いよいよ・保守・ヘアケア

 年末の買い出しでちょっと浮かれた気持ちになって、20代半ば以来の白ワインを買って飲んだら、意外と美味しく飲めてしまって、そうだよな、白ワインはわりと美味しいんだよな、とは言え赤はさすがに無理だな、あのエグみはどうしたって無理だな、などと思っていたのだが、白ワインを2本ほど飲んだあと、次のものを買うためにお店のワインコーナーに行ったところ、気づけば白ワインと一緒に赤ワインもかごの中に入っていた(無意識状態で酒を買ったなどと言うと不穏な感じがある)。ただし不信感があったので、白ワインに較べてとても小さボトルである。もしもダメだったらハンバーグを焼くときとかに使えばいい、と思った。しかし飲んでみたところ、これがぜんぜんいけるのだ。あっさりした白ワインとはまた別の、こっくりとした味わいがあって、美味しい。ワインを飲もうと思ったのは、ひたすらビールと日本酒と缶チューハイしか飲まない、自分のアルコールのバリエーションの少なさに飽きが来ていたという理由もあり、白と赤、立て続けにふたつも選択肢が増えたのは喜ばしかった。
 それにしても、かつてエグくて受け付けなかったものが、いまは受け入れられるようになった、ということで確信したのだけど、年を取るとさまざまな意味で、あらゆる感覚が鈍感になるのだと思う。「これの良さが分からないなんて、まだまだだな」なんてことを年配者が言ったりするけれど、そんなはずないのだ。むしろ「それが受け入れられるだなんて、いよいよですね」だと思う。そう思いながら、赤ワインを飲んでいる。

 子どもが、主にピイガが、「ちびまる子ちゃん」にハマる。漫画を読み、アニメを観ている。ピイガは最近になって児童書から漫画へとステップアップし、「ちびまる子ちゃん」の前は「ドラえもん」をがっつり読んでいた。それはまっとうな流れのような気もするが、30年前の、自分やファルマンもまったく同じ筋道であったことを思うと、驚嘆すべき事実のような気もする。なんで子どもが居間のこたつで寝そべって読む漫画が、30年前から変わっていないんだ、と。それともウチが特殊なのだろうか。たしかにポルガの岡山時代の友達は、好きな漫画が、「鬼滅の刃」から「呪術廻戦」になり、「東京リベンジャーズ」、「スパイファミリー」と来て、いまは「葬送のフリーレン」だそうなので、その可能性も十分ある。もしかしたらわが家は、漫画アーミッシュなのかもしれない。

 先日髪を切ったわけだが、仕上がったさまを眺めてファルマンが、「あなたって眉毛を整えないよね、なんで?」と訊ねてくる。僕はわりと眉毛が太く、濃い。わりと整えがいのある眉毛だと思う。でも人生でいちどもいじったことがない。なぜかという問いの答えは、「眉毛を整えるのはヤンキーか野球部かビジュアル系だから」ということになる。ひとつ目とふたつ目は、ベン図で言うとだいぶ重なっていて、世代は違うけれど中田翔なんかは、まさにその例であると思う。そして彼らは必ず金色の鎖みたいなネックレスをする。眉毛を整える男というのは、そういう輩だという、時代によるすり込みがあるので、決して自分がする行為ではないと捉えているのだった。そう説明したところ、「でも陰毛は整えるよね」と言われたので、それはまたぜんぜん別の話だ、と思った。陰毛の生やし方、残し方については、一家言ある。こと陰毛に関しては、ビジュアル系に属するとも言える。

2024年2月1日木曜日

髪を切らない1月・でしたが妻・髪を切った2月

 ぼちぼち髪を切ると思う。
 Googleのフォトの機能で、同じ日付のあたりの過去の写真というのが、勝手に「思い出ですよ」という感じで表示されるのだけど、そこに写っていた1年前の自分は、いまの僕とまったく同じ髪型をしていた。すなわち、半年以上髪を伸ばして、やっと結べるようになって、喜んで結んでいる、そんな状態である。
 しかし日々鏡を見て薄々感じ、そして1年前の自分の写真を客観的に見て確信に変わったこととして、なんかこの長髪、自分が期待しているものにぜんぜんなっていない。
 なにを期待しているのかと問われると、「こうだ」という具体的な答えがあるわけではないのだけど、漠然と求めている「すてきな感じ」から、だいぶ離れているのは間違いない。金髪で長髪ということもあり、正月に映像通話をした横浜の実家の面々からは、「プロレスラーみたいだね」という遠慮のない言葉を投げられた。おととしだったか、長髪だったところへブリーチをしたら、高山善廣のようになってしまい慌てて散髪したという出来事があったが、今回は金髪が先だったためか、自分としてはそんな印象はなかった。自分的には、「ガラスの仮面」でヘレン・ケラー役のオーディションに参加していた演技派の少女、もちろん名前など憶えていないので検索したのだが、金谷英美という、あの子を彷彿とさせるな、と鏡を見て思ったことは何度かあった。ちなみに高山善廣にしろ金谷英美にしろ、やけにがっしりタイプの印象だが、もちろん僕自身はそういうタイプではない。そしてどちらにせよ、思い描いている理想とは乖離している。
 去年は2月の下旬に切っていた。その記事の中に、体の中にあったものが、外に出した途端に汚物になる、そんな感じに長い髪の毛が疎ましくなった、という記述がある。さすがは自分だ。大いに共感する。そして今年はそれが少し早まりそうな情勢である。

 それまでの38年あまりに渡る蒙が啓かれた、パンツを脱いで寝る健康法の本を、再び図書館で借りて読んでいる。パンツを脱いで寝る健康法は、ビギナー向けも上級者向けもなく、本当にもうそのタイトル通りの内容しかないのだが、じゃあ本1冊にどんなことが書いてあるのかと言えば、パンツを脱いで寝るようになった結果、自分の身にどんないいことがあったかという、実践者たちのレポートである。そればかりがずっと続くのである。しかしその文章が、活気に満ちているというか、みずみずしくて、読んでいてとても心地よい。これが宗教とかの、うちの神様を崇めればどんなにいいことがあるか、という内容であったら、その心地よさには胡散臭さ、すなわち商売っ気が横溢することだろう。しかしこの健康法はそうではない。セミナーがあったり、器具を売ったりするわけではない。読者が信じようが信じまいが、彼等にはなんの損得もないのだ。それなのにこんなにも必死に良さを伝えようとするのだから、そこには真の慈愛と誠実さがある。ような気がする。
 入信した僕は、全裸で布団に入り、夜な夜なこの本を読んでいる(感心な信者だ)。そして隣の布団のファルマンに、内容を伝えている。そのファルマンはもちろん寝間着を着ているし、僕が全裸で寝ることもいまだに不服そうだ。だから僕が喋った内容を、片っ端から否定してくるのだけど、この妻はいったいいつまでこの無駄な抵抗を続けるのだろう、と思う。続ければ続けるほど、伏線というか、前フリというか、『……と、はじめは否定していた妻でしたが、今ではすっかり私以上に……』という、自分がいつか書くであろう、パンツを脱いで寝る健康法のレポートの文面が思い浮かぶ。

 髪を切った。ファルマンに切ってもらった。
 ひとつ目の文を書いたのが昨日1月31日で、そして今日2月1日に切ってもらったので、今回の記事は地味に月を跨いで紡がれているのだった。
 髪はいつもの、切りたいとなったら途端に、長いのがひたすらウザったくなるという例のやつで、平日ながらお願いしてやってもらった。おかげでとてもすっきりした。
 ファルマンはもちろんだいぶ前から「切れ、切らせろ」ということを何度も言ってきていたのだが、拒み続けていた。いま切ってしまったら、去年とぜんぜん変わらないことになる。せっかく1年後にこうしてまた伸ばしたのだから、去年以上のさらなる地平に進むべきではないかと、そんなふうに思っていた。切るほうに振れた今となっては、髪を伸ばす地平ってなんだよ、と思う。
 ファルマンが髪を切るよう促す言い回しの中に、「どうせ切るんだから」というのがあって、これには少し考えさせられた。そうだな、やっぱり切ろうかな、と心が揺れたわけではない。髪はどうせいつかは切る。それはそうなのだけど、その理由で髪を切っていては、じゃあ「どうせ死ぬんだから」も言えてしまうことになり、生きる意義を見失ってしまうのではないかと思ったのだった。髪を伸ばそうと思って伸ばしている間は、そんなことさえ思う。思っていたのに、あるとき急に「切ろ!」となる。我ながら不思議だ。

2024年1月26日金曜日

飛行機・大谷・松本

 年末年始、飛行機が飛ぶ仕組みについてきちんと学習しようと本を何冊も借りて、ノートなど取りつつまじめに取り組んでいた矢先、1月2日にあのような事故が起り、さらにはそのあとも、ちょこちょこと飛行機に関する案件がニュースになって、なんだかすっかり挫けた。挫けたというか、タイミングがタイミングだったので、縁起が悪い、と思った。
 そんなわけですぐに頓挫することとなった飛行機についての学習だが、いちばん肝心の、飛行機はなぜ飛べるのかという点についてだけは、なにより真っ先に学ぶべき事柄であったので、きちんと当該のページを読み、知識を得た。
 その答えは、揚力ということであった。つまり空気の流れである。その説明を読んでいると、飛行機が空を飛べるという事実は、どこまでも盤石のことのように思えて、もしかしたら飛行機はぜんぜん怖くないのかもしれないと思った。
 思ったのだったのだけどな。

 大谷翔平が全国すべての小学校に野球グラブを配った件が、狂騒曲のようになっていておもしろい。児童がぜんぜん使えないよう展示してしまう学校があったり、さらには市長が小学校へ配布する前に市庁舎に展示してしまった例なんかもあったらしい。全国のたくさんの校長が嬉ションしちゃうんだろうなー、と予想はしていたけれど、おっさんの興奮はこちらの想像を軽く超えてくるのだった。おっさんは本当に野球と若い女が大好き。だから要するに稲村亜美が好き。
 しかし校長の肩を持つわけではないけれど、あのグラブの取り扱いって簡単じゃないと思う。ガラスケースの中に展示して、児童が自由に使えないようにするのを、「大谷選手の意向を無視して愚の骨頂だ!」と憤る輩は、児童が自由に使えるようにした途端に盗まれてメルカリに出品された場合、「管理責任はどうなっているんだ!」と憤るに違いない。そう考えると大谷のグラブは、ただの火種でしかない。丁重に保管しても地獄、破損・紛失しても地獄。これならもらわないほうがずっとよかった。心底そう思っている校長も少なくないだろう。
 ちなみにピイガの通う小学校でも、ケースの中なのかどうなのかは知らないが、展示されているそうで、「それって申し込んだりしたら貸してもらえるの?」と訊ねたところ、「知らない。興味ない」とのことで、まあそうか、そうだよな、野球に興味を持たない人間って、大谷からグラブをもらったって、絶対に興味を持たないよな、そういうもんだよな、と思った。

 松本人志のことについて、自分がどう思っているのか、定まらずにいる。
 裁判で争うという、報道された内容が事実かどうかがはっきりしないから、ということではない。事実かどうかという意味では、まあ事実なんだろうと思う。ああいうことは、なされていたろうと思う。芸能界というのは、成功すればそういうことができる世界なのだという、そういう認識がある。なんかそういう、ぎらぎらした世界なのだと。
 だから別に名誉棄損もなにもないし、テレビもこれまで通り出ればいいじゃん、と個人的には思うけれど、当世そんなわけにはいかないのだという理屈ももちろん理解している。
 そんなわけで松本人志はテレビからいなくなりつつあって、「裁判に集中したいから」と、本人は裁判後の復活をほのめかしていたけれど、しかしこのままフェードアウトしそうな気配も漂っている。
 この一連の動きに関して、いろんな見方ができるけれど、でもやっぱり「凋落」という言葉が思い浮かぶ。本人の意思に反して、引きずり降ろされてしまった。本人や周囲がどれだけ取り繕っても、図式だけ見ればどうしたって凋落だ。
 去年あたりにあった、松本人志審査員し過ぎ問題などが表すように、松本人志はお笑い界の、ひいてはテレビ界の中心に君臨していた。それが今回の件で崩壊したことに、喝采を上げる輩がいる。実は俺はずっと松本界隈の粗野な芸人たちが嫌いだったからせいせいした、などという。たしかにそれはそうなのだ。あの界隈は柄が悪いのだ。今回の件は、その柄の悪さが極限まで高まって飽和したことで起った出来事だと考えれば、松本人志の凋落によってお笑い界は少なからず浄化されるのかもしれない、という期待はたしかにある。
 でもそれじゃあ、松本人志は本当にただのチンピラの統領だったということになってしまうじゃないか。そんなはずはないのだ。松本人志は、エキセントリック少年ボウイも日影の忍者勝彦も生み出した。中学時代の、エンターテインメントをいちばん吸収する時期に、僕はさんざん松本人志を吸収した。だから松本人志を否定することは、自分自身を否定することになってしまう。そんなことはしたくない。
 でも復帰を強く望むかと言えば、別にそんなこともなくて、要するに気持ちが定まっていない。

2024年1月18日木曜日

犬夜叉・冬ピーター・ジュン

 わが家に「犬夜叉」ブームが来た。ブームだろうか。そこまでは盛り上がっていないかもしれない。コミックスがまとめて手に入ったので、子どもたちが一気に読み、そうしたらアニメも観たくなって、それもぽつぽつ観ているという、そういう状況だ。
 僕も、去年の夏の「王家の紋章」のような、むさぼるような読み方ではないけれど、それなりに愉しく読んでいる。完全な初読である。
 高橋留美子という漫画家は、サンデー系の、「うる星やつら」や「らんま1/2」などの作者で、なんか今は「犬夜叉」という、ファンタジックな、自分とはだいぶ縁遠いものを描いているようだ、というくらいの認識しか、20歳くらいまで持たずに生きていたが、20歳から付き合い始めた人が、高橋留美子の信奉者みたいな人だったので、そこからにわかに距離が近くなった。それでも「犬夜叉」にたどり着くまで20年かかった。それくらい、ジャンルに関して縁遠さを感じていた。読んだ結果、印象が改まったかと言えば、あまりそんなことはない。感じたのは、この「犬夜叉」という漫画は、ジャンプばかりをひたすら読んできた人間が、サンデーに対して抱く、「マガジンほど受け付けない感じでもないんだけど、でもなんとなく違うんだよな感」の結晶のようだな、ということだ。その「感じ」の純度が極めて高い。というか、これを源流にして、「感じ」の程度の差こそあれ、サンデーの漫画は脈々と紡がれ続けているのかもしれないな、とも思った。
 ちなみにファルマンは今回、単行本を手に取る様子はない。ファルマンの高橋留美子に対する思いはいろいろとグロテスクなので、もはや不可侵だ。ちなみに前回の記事でも言ったが、ファルマンはかつて「犬夜叉」のなりきりチャットをしていたこともあるそうで、僕は陽の当たる道ばかりを歩んできたので、なりきりチャットというジャンルを、この妻の告白で初めて知ったのだけど、本人談だが、ファルマンはそのチャットルームにおいて、みんなから「あの人はまだか」「あの人がいないと始まらないぞ」と待望される存在であったという。でもそれはなぜかと言えば、「だって私以外はみんな小学生とかだったからね」とのことで、大きい子が小さい子ばかりを集めて大将になるやつのなりきりチャットver.という、妻の過去の行ないの不憫さに、目頭が熱くなる思いを抱いた。

 寒さにくじけそうになっていた。お前、今年そこまで寒くないだろ、という話なのだが、体感の寒さって、相対的なものじゃないですか。最高気温2度が続く日々の中で訪れる最高気温5度と、最高気温10度が続く日々の中の5度は、違うわけじゃないですか。だから例年よりは雪も少なくて気温は高め、なんていうのは、なんの慰めにもならない。
 寒いとなにがつらいって、基本的に、着込んでじっとしているしかないのがつらい。性分に合わない。いつも薄着でバタバタしていたい。ブログなど書いて、おとなしくて知的な印象を持たれがちな俺だけど、中身はほぼほぼピーターパンなのだ。あるいはティンカーベルでもいい。とにかく薄着でバタバタしているのが本性なのだ。
 ああ早く冬が終わってほしい。夏になってほしい。夏の、半裸で過すしあわせな日のことを考える。しあわせなことを考えれば、翼が生えたのと同じ。でもダメだ。半裸のピーターパンの自分を想像したら、同時に脚の間のティンクにも思いを馳せてしまった。それがどう考えたって、子どものそれじゃない。大人にしたって特別なほうだ。僕はもう飛べない。ネバーランドにも行けない。そう言えば、巨根は空を飛べないんだった。なにかを得る代わりに、なにかを失ってしまっていた。それに気づいた時点で、僕はもう大人なんだね。

 週末にポルガの誕生日祝いを予定している。
 4日にピイガのお祝いをし、その際はケーキに「1」と「0」の数字型キャンドル(ジュン!)を立てたわけだが、儀式が終わって2本のそれを回収しながら、今回一緒に「3」も買っておけば、半月後のポルガのときにわざわざ買いに行かなくて済んだなあ、と後悔をした。「1」はもちろん使い回す予定である(なんなら2ヶ月半後の、「4」「1」となるファルマンのときにも使えないかとさえ思うが、さすがにそれは無理だろう)。
 ところでこのキャンドル(ジュン!)に関して、ひとつ思うことがある。100均などで数字ごとに売っているこれって、どのメーカーのものも、得てして数字ごとに色が違うのだけど、それはいったいなぜなのか。「1」「0」にしろ「1」「3」にしろ「4」「1」にしろ、そんな数字のキャンドル(ジュン!)は売っていないから、仕方なく位ごとの数字を用立てて、並べてケーキに差すわけだけど、でも気持ち的には「10」だし「13」だし「41」なのだ。だから色はなるべく統一したい。でもひとつずつ売られている「0」~「9」は、なぜか異様にカラフルである。あれはいったいなんのためのカラフルなのだろう。
 統一するとしたら何色がいいか、少し頭の中で考えて、キャンドル(ジュン!)を差すケーキは、白と赤のショートケーキが多数派であろうから、緑あたりがいいんじゃないかな、と思った。ジュンがプロデュースしてくんねえかな。

2024年1月12日金曜日

大谷のグローブ・トップバリューの鈴カステラ・傷だらけのファルマン

 大谷翔平が、全国のすべての小学校にグローブを配ったじゃないか。大谷なのか、ミズノなのか、実際のお金の出どころは知らないけれど。
 そのニュースを見ていて思ったが、この全国のすべての小学校に配るやつって、大谷翔平は約2万あるという小学校に、送っていいですかとお伺いを立てて、いいですよという返事をもらったから送るわけではたぶんなくて、ちょっと乱暴な言い方になるが、勝手に送り付けているんだろう。そうしたら、あの、アメリカで、アメリカ人たちをヒーヒー言わせてる、自国民の誇りである大谷翔平が、子どもたちに笑顔を届けたいという純粋な思いから、都会とか、私立とか、そういう分け隔てなく、直々にグローブをくださるぞと、約2万人の校長は押し並べて喜び(校長をやっている世代のおじさんは野球が好きな確率がとても高いに違いない)、あるとき大谷翔平の名前で届けられたその荷物に、欣喜雀躍し、何人かの校長は嬉ションさえして、すぐさま全校児童を集めると、まるで自分と大谷翔平に特別なパイプがあるかのごとく、よってまるでそれが自分の手柄であるかのごとく、うやうやしくそのグローブをお披露目し、内心では児童らに、水戸黄門の印籠のようにかしずいてもらいたいとさえ思いながら、校長としての矜持がギンギンにみなぎる(これを「校長勃起」と呼ぶ)のを感じ、悦に入るのである。つまりみんなハッピー。誰もこの一連の流れに疑問を持っていない。
 でも大谷翔平のグローブがいいのなら、どうしてこれはダメなんですか、という展開だってあり得るだろう。たとえば、世界で活躍したという意味では、とにかく明るい安村が、あのビキニパンツを送ったらどうなのか。それはちょっと、と断るのか。なんでだ。なんで大谷翔平のグローブはよくて、安村のビキニはダメなのか。その線引きはなんなのか。
 本当は、なんなのかは、解っている。一言では言えないけれど、大人なので理解している。でも大谷翔平のグローブだけが諸手を挙げて受け入れられている情景が、性分的になんとなく落ち着かなく、駄々をこねたくなった次第である。
 安村のそれは完全にアウトだけど、きわどいところでは、SHELLYがコンドームを配るというのはどうだろう。校長らは全校集会で溌溂と紹介するだろうか。

 イオンのトップバリューの鈴カステラが復活した。
 もうなくなって久しかった(「店頭からなくなった」という記述をしたのが去年の1月のことだった)が、イオンに行くたびに棚を確認するのは怠らずにいた。そうしたら去年の暮れに、しれっと並んでいるのを見つけ、大慌てで3袋買った。
 イオンのこれがなくて、2023年はどうしていたかと言えば、トップバリューではない、別のスーパーで扱っている均一菓子のシリーズにその存在を見出し、それはインターネットで買ったさっくりタイプの鈴カステラにショックを受けて傷心だった僕を、それなりに慰めてくれる食感であったので、ひたすらそれで糊口をしのいでいた。だから大いに感謝をしなければいけない。いけないのだけど、イオンのそれをひとつ食べてみたらどうよ、約1年ぶりのそれに、塞がっていたチャクラが再び開いたような感動があった。ぜんぜん別物、別次元の食べ物だった。1年間僕が食べていたのは、鈴カステラの形をした、小麦粉と卵と砂糖のお菓子だったんだな、と思った。それくらいおいしい。超しっとり。最高。
 あまりにも嬉しかったので、家族思いの僕は、家族にもこのしあわせをお裾分けしてやろうと、おやつの時間にそれを振る舞ってやることにした。しかしながらなんたることか、家族は誰も芳しい反応を示さないのである。ファルマンとピイガはひとつ食べて「うん」とだけ言い、ポルガに至っては食いさえしない。せっかくのしあわせのお裾分けを、こんなに無碍にする奴らがあるか。あるのだ。家族なのだ。考えられない。もういい。金輪際ひとつもやらん。ぜんぶひとりで食べる。実際3袋はすぐになくなり、もう追加で買った。今後も安定的に販売してくれますように、と願ってやまない。

 新しい1年が始まり、ファルマンが日記をつけ始めた。
 ファルマンの日記再開は、この数年で3回くらいあり、そしてわりとすぐに頓挫していたので、こちらも学習して、軌道に乗るまでそこまで反応しないようにしようと思っていた。しかし当たり障りのない記事が3つくらい投稿されたあと、次に投稿されたのは、「去年の後半にファルマンが大いにハマった韓国ドラマの名シーンを短歌にしたもの」で、これがすごくよかった。短歌の質がよかったとかではない。そんな視点では見ていない。じゃあなにかと言えば、それはやっぱり「痛々しさ」という言葉になってしまう。どうしたって出身大学が出身大学なので、痛々しさが身上みたいなところがあり、韓国ドラマにハマって、その短歌を詠んでしまうという行為は、なかなか本芸だな、と思った。
 今年はあの、DVDボックスを買ったことで知られる「おっさんずラブ」も新シリーズが始まったことだし、ファルマンの情感的な部分が刺激され、痛々しい物質がたくさん醸成されればいいな、と期待している。ちなみにファルマンはその昔、「犬夜叉」のなりきりチャットをやっていたそうです。最近知りました。傷だらけだな。

2024年1月7日日曜日

ピイガ10歳・あの輩・出雲大社

 1月4日、無事にピイガの誕生日の祝いを執り行なった。なんと10歳である。信じられない。あのピイガが10歳であるということも、僕はもう小さい子のほうだって10歳以上になっている親になったのだということも、びっくりする。
 ちなみに上のほうの子の10歳のお祝いのときはどんなふうだったろうと当時の日記を読み返したら、僕は帯状疱疹で酒が飲めない状態だった。そうか、あの時期か。あの時期はつらかったな。あの時期に較べると、いまはだいぶ暮し向きはよくなったと思う。
 晩ごはんのメニューは、去年に引き続き餃子の皮を使ったたらこのピザと、あと使用食材はなんにも被っていないのだが、ただピザ繋がりということで、粉から作る本式のピザも併せて作った。4枚作り、もう少し具のバリエーションを用意しておけばよかったなー、とも思ったが、それなりに美味しくできた。
 ケーキはこれも去年と同じく、7号サイズのスポンジを買ってきての、手仕上げショートケーキ。これの製作にあたり、それにしたって今年のいちごの異常な高値はどうしたことだよ、と義憤に駆られた。詳しい事情は知らないけれど、不作なのだとしたら、もう甘みの追求はしなくていいから、強い品種を作ってくれよ、と切に思った。
 親からのプレゼントは、直前まで決まらず、当日の買い出しの際に、ショッピングセンターで見かけたバッグを所望したので、それになった。マウント気質があり、妬みや嫉みによく苛まれているが、しかし実際のところ、そこまで物欲がある子ではないのだと思う。もはやサイコパスな姉と較べるとはるかに常識人で、そのせいで損な役回りになることも多いが、根が真っ当で、そして人当たりがいいので、愛されやすいだろうとも思う。10歳になったので、ここからいよいよ本格的な人間生活が始まる。しあわせに生きてほしい。それと、あともうちょっと食事の際の行儀をよくしてほしい。

 年末にやったらしい「サ道」のスペシャルドラマをTVerで眺めたら、昨今のサウナというのは本当に、ブームに乗ってやってきたしゃらくさい輩によって、猛烈なしゃらくささを纏い始めているのを感じるが、その時代の流れに対してこのドラマは、まったく反発することなく、とても素直に寄り添っているので、すごいと思った。何度も言うけれど、僕自身がサウナブームでサウナを嗜むようになったので、新参者が文化を壊した、みたいなことを言う資格はない。ただ、しゃらくさい、ということを猛烈に思う。
 最近のサウナブームのその感じには、キャンプブームのそれと同じものを感じていたが、なんのことはない、その二者の正体は同一であるということが、近ごろはっきりした。あの輩は、キャンプに行った先で、自然と一体になれる、SDGsなサウナを、仲間とやるのだ。「あの感じのサウナが好き」と「あの感じのキャンプが好き」のベン図は、もうほぼひとつの円にしか見えないほど、しっかりと重なった。
 憎い。あの輩のなにが憎いって、仲間と一緒にやって、さらには一緒に来られなかった別の仲間に向けてSNSで報告までしないと、自分がそれをしたという喜びを実感できないほど、実はその行為そのものには喜びを感じていないくせに、しかし大人数で声が大きいというそれだけの要因で、その領域においてすぐ我が物顔になるところだ。彼らが生み出すありとあらゆるものの、薄っぺらさ。そんな張りぼてでしかない虚飾が、なぜ成立しているかと言えば、それは彼らがその柱に互いに寄っかかって倒れないようにしているからに過ぎない。でもそれはブームだから寄っかかっているだけのことで、ブームが過ぎ去れば、彼らはまた別の張りぼてを急造し、そこでつるむのだ。その軽薄さが憎い。憎いけれど、正面から立ち向かおうとは思わない。彼らはすぐにキレるからだ。そういうところも嫌い。
 そんなことを思った「サ道」だった。じゃあもう観るなよって話だ。

 神在月の、甘く見ての失敗もあり、三が日は出雲大社に行こうとは思わなかったのだけど、しかしまあ1月のうちに顔を出しておきたい気持ちというのはどうしたってあり、そんなわけで地元民は、正月の喧騒が少し落ち着いたこの3連休で行くことが多いんだよね、という感じで、出雲大社へと赴いた。とは言えまだ松の内ということもあり、かなり賑わっていた。臨時駐車場が開設していて、なんとかそこに停めることができた。
 境内をぐるりと回り、複数ある御祈願ポイントで祈願をする。願うのはやはり家族の健やかな暮しで、去年も同じことを願った。それは無事に成就されたとも言えるし、しかしコロナにはかかったよなあ、ということも思った。なにより元日からの災害のことを思えば、神も仏もないじゃないか、なんてことも言いたくなる。
 家族の健やかな暮しのあとで、ロトのこともよろしく言っておいた。災害は別として、健やかな暮しには、自身の行ないも重要になってくるが、ロトは完全に運任せなので、罰当たりのように見えて、神に向かって願う案件として、実はいちばんふさわしいのではないかとも思った。神様の「よっしゃ、まかせろ」という返事が聴こえたような気がした。