2022年1月8日土曜日

救済・分断・開催

 大晦日は紅白を観た。18時半くらいからテレビを観はじめたとき、じゃあ俺はこれから6時間くらいテレビを観つづけるのかな、大晦日ってすごいな、と思ったが、結局ほんとうにそのくらい観たのだった。風呂は湯ったり館で済ませていたので、中断することもなく、ただただ観た。無為だな、とも思ったが、年末年始ってそういうもんだ、そういうもんだから、年末年始のそれは無為だけど無為じゃないんだ、とも思った。そんなことを思うことが無為である。
 知っている歌手、知らない歌手、いろいろいたが、結局いちばん心が動いたのは、どうしたってマツケンサンバだった。身を削るようにして創作をしている歌手には不憫な話だが、マツケンサンバの前では、すべてがしゃらくさく、なにもかもがどうでもよくなる。圧倒的で絶対的である。その問答無用のパワーに、本当に涙が出そうになったし、たぶんひとりだったら泣いていた。それくらいすばらしかった。
 どうしてこんなにマツケンサンバに救われるのかと考え、東京オリンピックの式典でも待望論があったし、なによりいまこうして久しぶりに紅白にも招聘された機運を鑑みるに、要するにマツケンサンバとは、現代の「ええじゃないか」なのだな、と思った。ただでさえ閉塞感の横溢していた現代に、コロナ禍も相俟っていよいよストレスが高まっているところへ、マツケンサンバの「理屈じゃなさ」は、胸のすく救済となった。
 この勢いで、来年(今年)の紅白はぜひ、葉っぱ隊の「YATTA!」をお願いしたい。

 「カムカムエブリバディ」を相変わらず愉しく観ている。年末年始、僕とファルマンの間で、相手に向かって髪をかき上げておでこを見せ、「アイ、ヘイト、ユー!」というのが流行った。それくらい嵌まっている。そして年が明けた今では、もうそのあたりの、安子編の最後のほうの怒濤の展開が、遠い昔のようだ。どこかのコメントで、「るい編になって完全に違う物語みたいで、単なるオムニバスを観ているようだ」といっている人がいたが、的外れな意見だと思う。るい編はまだ始まったばかりで、るい編と安子編のつながりというのは、これからもちろん出てくるのだろうが、でもそうやってつながるのは、これが物語だからで、実際の「親の物語」と「子の物語」は、両者が家族であったひと時はあるにせよ、基本的に分断しているものだと思う。親がいるから子がいて、命、遺伝子は、もちろん切り離しようがなく連結しているが、しかし別々の人間であり、それぞれの人生は異なる。だから親子(最終的には3世代になるが)の物語は、単なるオムニバスのようで、あって然るべきなんだと思う。そのつながってなさ、世界の違いは、親が先に死に、子が取り残される、あらゆる生きものの摂理を想起させて、そのシステマチックさに、切なくなる。今回の朝ドラは本当におもしろい。

 北京オリンピックまであと1ヶ月を切った、この状況で思うこととして、新型コロナウイルスが世界中で流行り、ワクチンだ、新しい変異株だ、なんだ、かんだと騒がれる中、オリンピックの運営をどうしたもんかと、主催者(国)がバタバタするさまって、自国でないと、こんなにどうでもいいのか、ということだ。もっとも去年あの状況で東京オリンピックをしたこの世なのだから、ましてやあの中国が、開催の可否で揺らぐことは絶対にないわけだが、それにしたって対策はいろいろ大変であるに違いなく、まったく東京ともども、貧乏くじを引かされた、ひたすらパリが恨めしい同輩であるともいえるが、しかしなにはともあれ「済ませた側」からすると、「ああ、開幕1ヶ月前くらいに爆発的に感染が増えちゃうやつね、それね、ウチらのときもあったあった」的な先輩風を吹かしたくもなるし、あるいはもう完全に卒業したら現役にはノータッチの先輩のような心情もある。どちらにせよ、かなりどうでもいい。そういえばオリンピックって、単なるスポーツの大会なので、自分の国で開催するとかじゃない限り、こんなにもどうでもいいんだったと、数年ぶりにオリンピック開催国じゃない身分になってのよその国のオリンピックを前にして、痛感している。ただし噂によると2030年は札幌だとか、そんなヤフーのトピックスをちらっと見た気もするのだが、まさかそんなはずないない、と笑い飛ばすよりほかない。数十年経って、喉元過ぎれば、だったらまだわかるけど、まだみんな生々しい火傷を負ってるから、さすがにあり得ないと思う。思うんだけどなあ。