もっとも話の信憑性は分からない。いわゆる個人差案件というやつだろう。しかし新型コロナウイルスに限らず、体調を崩すということは、いちど減ったら決して増えない、「生命力」の分母を少なくすることだと思っていて、病後、人は、自然な老化とは別の、フレッシュさやエネルギーの喪失をするのだと、経験則から捉えているため、ちんこが小さくなることも、抜け毛や倦怠感、呼吸困難や記憶障害と同じように、普通にあり得るだろうな、とも思う。
そうなってくると、新型コロナウイルスに感染したくない気持ちが、これまでとは較べものにならない度合で高まってくる。こんなにもか、というくらい、危機感が増した。このことをもっと早い段階で喧伝していれば、特に夜の街で感染が蔓延することは、決してなかったのではないかと思った。
そして、新型コロナウイルスの場合は直截的ではないけれど、もしも本当に「感染するとちんこが小さくなるウイルス」が生まれ、その感染拡大が確認されはじめたら、そのときのパニックたるや、新型コロナウイルスの比ではないだろうと思う。都市のひとつ、国のひとつくらい、それ以外のすべての国の軍隊が結集して、バスターコールで消し去るのではないかと思った。
この年始は、たっぷり時間があったくせに、新春のブックオフのセールに行かなかった。別にもう、わざわざ買って所有したいほど欲しい本なんてないな、ということを思い、行く意欲が湧かなかったのだった。とうとうこんなことになったか、と思う。ブックオフに異様に通っていた蜜月時代があるからこそ、この心境の変化に我ながら衝撃を受ける。
そしてこう思う。
僕が行かなくなったら、じゃあいったい誰がブックオフに行くのだろう?
あの僕である。あの僕がブックオフに用がなくなったのだ。何年も前からきっと、櫛の歯が欠けるように、ブックオフに用のある人は少なくなっていき、僕なんかは本当に最後のほうまで残っていたほうなのではないかと思う。それがこのたびついに欠けた。それじゃあもう国民の誰も、ブックオフに用なんてないのではないか。
企業に対して、失礼な話をしている。店舗は運営を続け、新春セールのCMを正月はバンバン流していたのだから、利用する人間は利用し、会社はきちんと成立しているのだ。世の中は、僕が利用しないのに成り立っている会社ばかりである。
音楽にしろ、絵にしろ、体験にしろ、人間の力だけでは生み出せない、コンピュータの力を借りてできた作品って、飽きるな、と思った。そういう、一見すさまじい、衝撃的なレベルのものって、くどくて、お腹いっぱいになる前に、もういいや、となる。これって添加物の入った食べものと一緒で、同じ重量で砂糖の800倍の甘さを持ちます、などといわれても、それはもうこちらの知覚を超えて、消費者として享受する側でありながら、味蕾に置けばたしかに甘く、そのオートメーションさは、こちらの感覚までもが加工品の一部であるような気にもなり、その考えなくてもよさに身を委ね、たゆたわせてしまえば楽は楽なのだけど、しかしそれではブロイラーと一緒で、コンピュータで加工されたものに、反射的に「いいね」となって、感動した気持ちに浸るのは、もうほとんど薬漬けみたいなものではないかと思う。自分がコンピュータを使ってそういうことができない負い目から、僕は今後そういうスタンスで、Z世代とかを眺めていこうと思った。