2022年1月24日月曜日

ポルガ11歳・すべらない話・一般人の壁

 1月22日にて、ポルガが11歳となる。11歳。10歳はまだ幼児のグループに入る感があるが、11歳からは思春期のグループに所属するような、そんな気がする。数字の上では。ポルガは、背はまあまあ大きくなり、幼児では決してないが(顔は生後2ヶ月くらいからあまり変わっていないが)、じゃあ思春期の気配があるかというとそんなこともなく、前からなんとなく不思議な、普通に街で育て、普通に公立学校に通わせているのに、おととい文明社会に連れてこられたみたいな雰囲気だったが、近ごろは「子ども」でもなければ「少女」でもなくなり、ますます得体の知れない存在になってきた。友達の多い、気さくなタイプではないが、自己肯定感は、強いとか弱いとかの次元を超えて、ドーピングでもしているのではないかというくらい振り切れていて、そもそも(誰に似たのか)ひとりで自分の好きなことをするのが好きなタイプなので、今後も迷いなく自分の満足のためだけに突き進んでくれればいいなと思う。
 誕生日祝いのメニューは、毎年恒例のたこ焼き。これは本当に毎年、リクエストによって必ずなので、今年もせっせと焼きながら、「ああ今年も無事にこうして娘の誕生日を祝えたなあ」と感慨を抱くことができ、便利なシステムのような気がしてきた。今回のたこ焼きは、買った粉が当たりで、とてもおいしかったので、味的にも大満足だった。ケーキはチョコレートのスポンジに、クリームもチョコレート(もともとそういう生クリームが店にあればよかったのだが、なかったので板チョコを溶かして作った)にして、チョコレートケーキにした。なにぶんこの1ヶ月間で3度目のホールケーキなので、味変する必要があった(などというわりに、そういえばこの間にカステラを何度か作っている)。
 誕生日プレゼントは、レジン創作のスターターキット。さすが、1月4日よりは精神が落ち着き、それなりに考えられた「欲しいもの」が挙がるものだと思う。レジン創作に関しては、前に穴に向かって叫んだように、複雑な感情を抱えているのだが、興味がないこともないので(あわよくば僕もペッペッペーってやって、ペッペッペーって稼ぎたいと思っている。完全に裁縫よりも下に見ている)、わが家に器材がやってくるのは喜ばしかった。
 これにて今年の娘たちの誕生日月間はおしまい。7歳と10歳だったものが、8歳と11歳になった。まだまだ小さいものだな、と思うが、嘘だろ、まだ3歳と6歳だろ、と驚く気持ちもある。子育てはまだまだ続く。

 先日職場での会話で、関東でも雪が積もったという日だったろうか、向こうの人たちはスタッドレスタイヤなんて持ってないだろうから大変だろうという話になり、その際に上司が、「そういえば前、外国のメーカーが、1年中履き替えなくてもいいスタッドレスタイヤを開発したって聞いたぞ」と発言し、僕はそれに対して、へえ、それは便利ですね、などと、たぶん適当に返事をしたのだったけど、あとになって、別にどんなスタッドレスだって使おうと思えば、燃費は悪いが1年中使えるじゃないか、と思い至り、あれ? もしかしてさっきのって、上司の渾身のジョークだったのかな? いや、そういうことじゃなくて、なんか特別な1年中仕様の研究開発がなされたスタッドレスタイヤってことなのかな? 分からん、なにもかもがあやふやすぎて、なんにも分からん、なんて意味のない会話だ、とやきもきした。

 「有吉の壁」の、前半の「一般人の壁」が、さすがにマンネリのように思える瞬間があり、でも「有吉の壁」を19時台に放送することは、現代テレビ界の良心であると思っているので、そんなことをいったら罰が当たる、下手なテコ入れなんかしたら台無しになる、あれでいいのだ、後半の「流行語大賞の壁」などをもっと長くしてほしいと思ったりもするが、それは大変なのだろうし、うん、やっぱり「一般人の壁」はあれでいいのだ、と自分を納得させ、視聴している。そんな「一般人の壁」に関して、最近はとみに出てくる芸人の数が多く、(放送されるのは)1組1ネタくらいの感じになっていて、そのため有吉の歩く先に、本当にさまざまな芸人が次々と現れ、芸を繰り広げるので、この雑多なキャラクターたちがひとつの世界に集結し、参戦し、得意技を出したり、ときには合体技をしたりする感じって、スーパーロボット大戦に似ている、と気づいた。そうか、だからこんなにワクワクするし、そしてやがてちょっと飽きるのだな、と思った。

2022年1月22日土曜日

チンコロ・ブックオフ・昭和のクソジジイ

 新型コロナウイルスに感染するとちんこが小さくなる、という話題を目にする。その瞬間、これまで存分に迷惑を被りつつも、どこか他人事だったこのウイルスが、ようやくはっきりとした形になった気がした。
 もっとも話の信憑性は分からない。いわゆる個人差案件というやつだろう。しかし新型コロナウイルスに限らず、体調を崩すということは、いちど減ったら決して増えない、「生命力」の分母を少なくすることだと思っていて、病後、人は、自然な老化とは別の、フレッシュさやエネルギーの喪失をするのだと、経験則から捉えているため、ちんこが小さくなることも、抜け毛や倦怠感、呼吸困難や記憶障害と同じように、普通にあり得るだろうな、とも思う。
 そうなってくると、新型コロナウイルスに感染したくない気持ちが、これまでとは較べものにならない度合で高まってくる。こんなにもか、というくらい、危機感が増した。このことをもっと早い段階で喧伝していれば、特に夜の街で感染が蔓延することは、決してなかったのではないかと思った。
 そして、新型コロナウイルスの場合は直截的ではないけれど、もしも本当に「感染するとちんこが小さくなるウイルス」が生まれ、その感染拡大が確認されはじめたら、そのときのパニックたるや、新型コロナウイルスの比ではないだろうと思う。都市のひとつ、国のひとつくらい、それ以外のすべての国の軍隊が結集して、バスターコールで消し去るのではないかと思った。

 この年始は、たっぷり時間があったくせに、新春のブックオフのセールに行かなかった。別にもう、わざわざ買って所有したいほど欲しい本なんてないな、ということを思い、行く意欲が湧かなかったのだった。とうとうこんなことになったか、と思う。ブックオフに異様に通っていた蜜月時代があるからこそ、この心境の変化に我ながら衝撃を受ける。
 そしてこう思う。
 僕が行かなくなったら、じゃあいったい誰がブックオフに行くのだろう?
 あの僕である。あの僕がブックオフに用がなくなったのだ。何年も前からきっと、櫛の歯が欠けるように、ブックオフに用のある人は少なくなっていき、僕なんかは本当に最後のほうまで残っていたほうなのではないかと思う。それがこのたびついに欠けた。それじゃあもう国民の誰も、ブックオフに用なんてないのではないか。
 企業に対して、失礼な話をしている。店舗は運営を続け、新春セールのCMを正月はバンバン流していたのだから、利用する人間は利用し、会社はきちんと成立しているのだ。世の中は、僕が利用しないのに成り立っている会社ばかりである。

 音楽にしろ、絵にしろ、体験にしろ、人間の力だけでは生み出せない、コンピュータの力を借りてできた作品って、飽きるな、と思った。そういう、一見すさまじい、衝撃的なレベルのものって、くどくて、お腹いっぱいになる前に、もういいや、となる。これって添加物の入った食べものと一緒で、同じ重量で砂糖の800倍の甘さを持ちます、などといわれても、それはもうこちらの知覚を超えて、消費者として享受する側でありながら、味蕾に置けばたしかに甘く、そのオートメーションさは、こちらの感覚までもが加工品の一部であるような気にもなり、その考えなくてもよさに身を委ね、たゆたわせてしまえば楽は楽なのだけど、しかしそれではブロイラーと一緒で、コンピュータで加工されたものに、反射的に「いいね」となって、感動した気持ちに浸るのは、もうほとんど薬漬けみたいなものではないかと思う。自分がコンピュータを使ってそういうことができない負い目から、僕は今後そういうスタンスで、Z世代とかを眺めていこうと思った。

2022年1月19日水曜日

バランスボール・カステラ・健康診断

 バランスボールを買う。
 水泳の教則本のようなものを読んでいたところ、トレーニングにバランスボールを多用していて、なるほど不安定な状態での踏ん張りとか、そういうのを鍛えるのにとてもいいのかもしれない、と思った矢先、ダイソーに行ったらちゃんとした大きさっぽいのが500円で売っていたので、喜んで買ったのだった。膨らませてみると、適度ないいサイズで、バランスボールといえば「最高の離婚」のイメージがあり、置いたら途端に部屋が雑然とするのではないかという危惧があったが、そうでもなかったので安堵した。
 教則本ではボールの上に膝立ちになり、腕はクロールの動きをしていたが、やってみたらクロールの動きなんて到底無理で、ただの膝立ちでさえ数秒しかもたない有様だった。そのあと子どもやファルマンも代わる代わるに試したところ、各人それなりにうまくバランスを取り、膝立ちを保っていた。どうも通常、それくらいは、できるものらしい。どうやら僕が、いわゆる体幹というのだろうか、それが平均よりも劣っている様子である。
 だとすればすばらしいことだと思う。頭の中で、本田圭佑ならぬ、じゅんいちダビットソンの声が聴こえる。伸びしろですね!

 週末、カステラを作った。1月中旬ながら、実は今年に入ってから早くも2度目である。数ヶ月前からカステラ作りに凝り、けっこうな頻度で作っている。
 これまでの数回は、台湾風というのか、半熟っぽい、しゅわしゅわに仕上がるレシピで作っていて、ファルマンは殊のほか気に入ってくれ、子どもたちにも好評だったのだけど、僕の中ではあまり満足いっていなくて、やっぱりカステラといえば、もったりした、もといもはや、ボソボソといってもいいくらいの、ハードな甘いスポンジを喰らっている感じのものがいいなあという思いが募り、最新の今回はレシピを変更し、そういうものを狙って作った。
 結果として、とてもよい出来になった。僕は大満足した。ファルマンは「甘すぎる」といい、明らかにこれまでのものよりも食いつきがよくない。別にいい。僕のおやつだから。ちなみに子どもは「おやつ」という名目で一定以上の甘さがあればなんでも食べる。奴らに味覚などない。

 昨年末に職場で受けた健康診断の結果が届く。この1年半ほど、転職やら引っ越しやら転職やら、いろいろあったため、だいぶ久しぶりの健康診断となった。途中、ストレスで帯状疱疹が出るなど、過酷な局面も多々あったため、どうなることかと思ったが、おおむね問題なかった。よかった。定番の懸念事項であるγ-GTPも、今回はすんなりと正常範囲に収まった。近ごろは酒を飲まずに終わる日がチラホラあるのに加え、せっせと肝臓エキスのサプリメントを飲んでいる効果が出たものだろう。めでたい。その代わりといってはなんだが、初めてコレステロールの値で引っ掛かった。筋肉をつけるため、意識的に卵を摂るようにしていて、カステラ(卵8個使用)もまさにその一環だったりするので、覿面に数字に出るもんだなー、と感心しつつ、だからこれはまあしょうがないよな、と思う部分もあるが、今後はしかし、少しだけこのことを気にするようにしようと思う。健康診断というものの、非常に正しい捉え方だな。あと身長が、どうも計測する人があまりにも無能だったらしく、165.8と出た。僕は他人のことを無能だなんて普段いう人間ではないが、こればかりはいわざるを得ない。彼は、身長計測の才能が決定的に欠如している。実際は167、調子のいい時は168、巨視的には170ある人間を捕まえて、165.8はない。なのでノーカン。

2022年1月12日水曜日

ウホホ・アイロン・フリマ

 筋トレをくじけていた12月に読んだ筋トレの本に書いてあったのだが、筋トレって、運動神経が悪い人間のほうが向いているんだという。どういうことかといえば、運動神経がいい人間というのは、ダンベルを持ち上げるであったり、腹筋ローラーをするであったり、そういった筋トレ動作を、どうしたって無意識に、効率よく力を抜いてやってしまう。やれてしまうのだ。そのため負荷が逃げてしまい、得られるはずの効果が十全に得られない。これはどんなに意識しても、無意識のうちにそうなってしまう。それに対して運動神経が悪い人間は、ダンベルを持ち上げるとなったら、とりあえずがむしゃらに持ち上げる。そこには工夫もなにもないので、ダンベルの重さがそのまま体にのしかかる。そのためきちんと負荷がかかり、効果的な筋トレとなる。結果、そっちの人間ばかりが、「筋肉ついたウホホ」となる。この理屈には、これまでの人生を振り返っても、思い当たる節が数多くあり、大いに腑に落ちた。そうか、だから阿呆な人間に限って腕力が強く、そして僕にはいつまでも筋肉がつかないのか。そうかそうか、そういうことなら仕方ないな、と12月はこれを、筋トレをしない理由とした。年末年始からは心を入れ替え、励んでいる。筋トレのコツは、頭を使わないこと。

 アイロンを買う。これまで使っていたものはコードレスで、コードレスなのは、そのひとつ前にコード付きのものを使っていて、それでコードが邪魔だと感じたからコードレスにしたのだけど、やっぱりコードレスはすぐに熱が下がるので不便で、今回はまたコード付きになった。人は永遠にこのループを繰り返すのかもしれない。あとコードレスうんぬん以外にも、これまでのアイロンは、わりと買ってすぐにスチームが出なくなってしまい、手で霧吹きをするのがどうしても面倒だったというのもある。そのため買い替えはけっこう前から考えていて、なにしろかなり裁縫をする人間なのだから、次はちゃんといいやつを買いたいなあと思い、となるとティファールということになり、しかしティファールのいいやつって1万5千円くらいするので、うーん、と思案し、ヤフオクやメルカリなどを覗いてみたり、いろいろ吟味した結果、amazonで1300円くらいの知らないメーカーのコード付きスチームアイロンを買った。悩むのに疲れ、もういいやこれで、となったのだ。届いて使ってみたら、とりあえずなんの問題もない。コード付きなので息継ぎの必要がないし、スチームも軽快に出る。おもしろいのは、「霧吹きボタン」というのがついていて、これを押すとアイロンの頭から本当に霧状の水が出るのである。じゃあスチームにそのうち不具合が出るのは織り込み済みなんじゃん、という気もするが、なにぶん1300円だし、実際スチームがダメになったらこの霧吹きギミックは普通に便利だと思う。わりと長い期間、ティファールの呪縛に囚われていたが、まあティファールが性能的にいいといったって、値段に比例し、このアイロンの10倍以上もいいということはあるまいと思う。1300円で懸案から解放され、とてもすっきりした心持である。

 このたびminneにトートバッグを出品したのだが、はじめはminneではなく、paypayフリマに出そうかな、と考えた。これまでpaypayフリマを利用したことはないが、最近ネットショッピングでyahooショッピングおよびpaypayモールを使うことが多く、paypayフリマの宣伝も目に入ってきて、天引きは5%だというし(minneは10.56%)、配送は匿名だというし、なにより売り上げが早いスパンでpaypayとして入金されるのが魅力的だと思った。なのでminneももちろん並行して出品するにしても、paypayフリマに主軸を移そうかな、なんてことを思った。それでとりあえず出品者として登録をしようと、ホームページをよく読んで探したのだが、出品する流れが一向に分からない。なんでだろうと検索をかけたら、paypayフリマって、スマホでしかやりとりができないらしい。いわく、パソコンよりも、スマホのほうが、個人情報が特定できるため、主催者としては取り扱いやすいからだとか。ぎゃふん! とうとう時代は、そんなふうになったのか。スマホで写真を撮って、出品して、売れたらコンビニで番号だけ伝えて送るという、なるほど本当に簡便な、すばらしい仕組みなのだが、簡便すぎて、どうも丁寧に作ったハンドメイド作品を売るコンセプトとは、若干ずれている気もする。もっともminneの雰囲気が心地よいかといえばそんなこともないので、デジタル一眼レフで撮った画像をわざわざスマホ(タブレット)に送るとか、いろいろ逆に面倒そうな気もするが、そのうちやってみようかとも考えている。売れたい。

2022年1月8日土曜日

救済・分断・開催

 大晦日は紅白を観た。18時半くらいからテレビを観はじめたとき、じゃあ俺はこれから6時間くらいテレビを観つづけるのかな、大晦日ってすごいな、と思ったが、結局ほんとうにそのくらい観たのだった。風呂は湯ったり館で済ませていたので、中断することもなく、ただただ観た。無為だな、とも思ったが、年末年始ってそういうもんだ、そういうもんだから、年末年始のそれは無為だけど無為じゃないんだ、とも思った。そんなことを思うことが無為である。
 知っている歌手、知らない歌手、いろいろいたが、結局いちばん心が動いたのは、どうしたってマツケンサンバだった。身を削るようにして創作をしている歌手には不憫な話だが、マツケンサンバの前では、すべてがしゃらくさく、なにもかもがどうでもよくなる。圧倒的で絶対的である。その問答無用のパワーに、本当に涙が出そうになったし、たぶんひとりだったら泣いていた。それくらいすばらしかった。
 どうしてこんなにマツケンサンバに救われるのかと考え、東京オリンピックの式典でも待望論があったし、なによりいまこうして久しぶりに紅白にも招聘された機運を鑑みるに、要するにマツケンサンバとは、現代の「ええじゃないか」なのだな、と思った。ただでさえ閉塞感の横溢していた現代に、コロナ禍も相俟っていよいよストレスが高まっているところへ、マツケンサンバの「理屈じゃなさ」は、胸のすく救済となった。
 この勢いで、来年(今年)の紅白はぜひ、葉っぱ隊の「YATTA!」をお願いしたい。

 「カムカムエブリバディ」を相変わらず愉しく観ている。年末年始、僕とファルマンの間で、相手に向かって髪をかき上げておでこを見せ、「アイ、ヘイト、ユー!」というのが流行った。それくらい嵌まっている。そして年が明けた今では、もうそのあたりの、安子編の最後のほうの怒濤の展開が、遠い昔のようだ。どこかのコメントで、「るい編になって完全に違う物語みたいで、単なるオムニバスを観ているようだ」といっている人がいたが、的外れな意見だと思う。るい編はまだ始まったばかりで、るい編と安子編のつながりというのは、これからもちろん出てくるのだろうが、でもそうやってつながるのは、これが物語だからで、実際の「親の物語」と「子の物語」は、両者が家族であったひと時はあるにせよ、基本的に分断しているものだと思う。親がいるから子がいて、命、遺伝子は、もちろん切り離しようがなく連結しているが、しかし別々の人間であり、それぞれの人生は異なる。だから親子(最終的には3世代になるが)の物語は、単なるオムニバスのようで、あって然るべきなんだと思う。そのつながってなさ、世界の違いは、親が先に死に、子が取り残される、あらゆる生きものの摂理を想起させて、そのシステマチックさに、切なくなる。今回の朝ドラは本当におもしろい。

 北京オリンピックまであと1ヶ月を切った、この状況で思うこととして、新型コロナウイルスが世界中で流行り、ワクチンだ、新しい変異株だ、なんだ、かんだと騒がれる中、オリンピックの運営をどうしたもんかと、主催者(国)がバタバタするさまって、自国でないと、こんなにどうでもいいのか、ということだ。もっとも去年あの状況で東京オリンピックをしたこの世なのだから、ましてやあの中国が、開催の可否で揺らぐことは絶対にないわけだが、それにしたって対策はいろいろ大変であるに違いなく、まったく東京ともども、貧乏くじを引かされた、ひたすらパリが恨めしい同輩であるともいえるが、しかしなにはともあれ「済ませた側」からすると、「ああ、開幕1ヶ月前くらいに爆発的に感染が増えちゃうやつね、それね、ウチらのときもあったあった」的な先輩風を吹かしたくもなるし、あるいはもう完全に卒業したら現役にはノータッチの先輩のような心情もある。どちらにせよ、かなりどうでもいい。そういえばオリンピックって、単なるスポーツの大会なので、自分の国で開催するとかじゃない限り、こんなにもどうでもいいんだったと、数年ぶりにオリンピック開催国じゃない身分になってのよその国のオリンピックを前にして、痛感している。ただし噂によると2030年は札幌だとか、そんなヤフーのトピックスをちらっと見た気もするのだが、まさかそんなはずないない、と笑い飛ばすよりほかない。数十年経って、喉元過ぎれば、だったらまだわかるけど、まだみんな生々しい火傷を負ってるから、さすがにあり得ないと思う。思うんだけどなあ。

2022年1月5日水曜日

ピイガ8歳・アッシュ・文学国語

 1月4日にて、ピイガが8歳となる。わが家の最年少であるピイガは、甘えん坊で、しかししっかり者でもあり、姉よりもだいぶ常識人である一方、野生動物のような苛烈さも持ち合わせ、自己肯定感はわが家でも随一だが、承認欲求も強く、まあどんな人間だってそうであるように、いろいろな面があるが、とにかく日々、激しく、そして愉しそうだ。少し落ち着け、声のボリュームを落とせ、と諭したくなる場面も多々あるものの、元気でなによりだと思う。
 誕生日は、リクエストにより昼ごはんはワカメの乗ったうどん、晩ごはんは餃子の皮を使ってのタラマヨピザだった。1月4日。正月と平日、ハレとケのあわいの日が、1年でいちばん大事な誕生日というのは、どんな気持ちなのだろう。気の早い話だが、12年後には成人式があるので、その年は平年に輪をかけてせわしないんだろうな、と思う。
 ケーキは、クリスマスが5号と4号の2段だったのに対し、今回は7号の1段。7号のスポンジって、売っているのを初めて見て、買ったのだが、切り分けたときの見栄えがとてもよく、1段ならばその大きさもちょうどいい感じがして、とてもよかった。おいしく食べれた。
 相変わらず体は小さく、こちらも末っ子として「小さくてかわいい」という扱いをするため、サイズも言動も、4、5歳くらいの印象があり、8歳だなんて嘘だろ、という気がする。たぶん末っ子というのは特に、実年齢と、こちらの抱く印象の年齢が、いつまでも合致せず、違和感を持ち続けるんだろうと思う。

 年末に脱色した髪が、下品な明るい茶髪だと、ファルマンにとても不評で、早急に色を入れろと命じられ、年明けに決行した。本当はブリーチからもうちょっと間を空けるべきらしいが、まあ仕方がない。どんな色にするか、ぜんぜん見当もつけずにドラッグストアに行き、店頭の限られた選択肢の中から、「これかなあ」と選んだのは、ちょっとグレー系のアッシュだった。まあどうせパッケージ通りの色にはなるまいと思っていたが、果してグレー感などほとんどなく、しかしただの脱色ではないまろやかな金髪めいた茶髪、みたいな感じになったので、まあまあ成功だと思う。考えてみたら岡山で髪の色をいじっていた時期も、ブリーチは最初だけで、あとは黒い部分が増えるたびに、カラーを重ねていたのだった。これってやればやるほど複雑な色味になっていくからいいんだよな。

 国語が「論理国語」と「文学国語」に分けられる、という話題がある。これが選択制になって、そして学問として試験などで重きを置かれるのは当然前者のほうなので、これからの国民はますます文学から遠ざかっていく、という。
 この問題について、僕は一家言あるだろうか、特にないだろうか、と少し考えて、当然あるよ、なんてったってあの日芸の、あの文芸学科卒だぞ、とまず思ったのだが、「じゃあどんなご意見・ご感想ですか」と問われると、「……ふうん、と思いました」としか答えらえないな、とも思った。別に文学を学んだからどう、学んでないからどう、なんてことは、人格形成、社会形成に、なんの関係もないと思う。この話題って、なんとなく「由々しき事態だよ!」といいたくなる雰囲気があるが、それは本当に「なんとなく」であって、実際にはなんの根拠もない。文学を一般教養として学ぶなら、なぜ映画は学ばないのか、という話になってくるし、そう考えると、あれ、もしかして、文学が学習要領だったのって、実は単なる既得利権だったんじゃないの、なんてことも思う。そういえば既得利権感の横溢する教授や講師を、学生時代にたくさん見たような気がする。
 映画や音楽、漫画、スポーツ、写真、料理、裁縫、学びたい奴は勝手に学ぶ。文学もそれと一緒でいいだろう。それらに較べて文学だけが、なんかしらの絶対的な価値や役割を持つなんてことは、まるでないと思う。結局、意見してしまった。