2021年12月22日水曜日

マスク・ミシン・筋トレ

 通称アベノマスクの官製マスクが、なんか在庫が8000万枚くらいあって、維持費とかが大変(何億とか!)で、どうすんだどうすんだと野党にツッコまれた結果、「福祉施設とかにある程度配ったあと、残りは棄てる、年内に棄てる」という、年内に棄てるってもう年内は10日くらいしかないんだから、配るったってそんなの、本当におためごかしのわずかな数量のことであって、要するにほぼ棄てるんじゃん、という、このたびそういう結論に至ったという。
 新型コロナ騒動は、クルーズ船騒動、三密騒動、東京オリンピック騒動、ワクチン騒動などなど、いろいろな騒動に分けることができるけれど、マスク騒動もまた、新型コロナ騒動を形成する大きな一要素であったと思う。あのタイミングでの、政府による布マスク配布は、野党の人は「世紀の愚策」といっていたが、振り返ってみて、果してどうだったんだろうな、と思う。物理的なウイルス予防としては、そもそもあれを着けている人がほとんどいなかったし、効果は皆無だったに違いないけれど、しかしこんなことをいうとちょっとおかしな空気が漂う気もするが、気持ち的に、ほっこりできてよかったんじゃないかと僕は思う。まるでB-29に竹槍で立ち向かうみたいな、切なさというか、必死なんだけど間が抜けていて哀愁のある笑いというか、そういうものが、アベノマスクにはあった。つらいこと、哀しいことがあったとき、欧米の人々のように怒り、立ち向かうのではなく、逆に力なく笑ってしまう、そんな国民性の体現だったともいえる。だから、わが家に届いたそれは、一部で推奨されていたように、未開封のまま非常用バッグに突っ込んであるが(果たして非常時にさえ着けるのか?という気もする)、なんかまあ、半世紀後とかに、電線に伝わせて物を運ぼうとした明治時代の人々のように、朗らかに笑うために、各家庭で取っておけばいいんだと思う。

 先日子どもが裁縫をするというので世話をしたのだが、その際に往年の家庭用ミシンを出して、使わせようとしたのだが、これまでもその兆候はあったが、いよいよピーピー、スイッチを入れてもエラーを訴えるばかりで、どうにも動かなくなってしまった。たぶんもうこれを買ったのは15年近く前のことなので(池袋のさくらやで買った気がする。さくらや!)、コンピュータミシンとしてはかなり長く使ったものだと思う。もう引退しても仕方ない。
 それで、僕としては当然、工業用ミシンがあるものだから、これが使えなくなってしまってもそこまで困らない(ボタンホールも直線縫いで何重にも四角を縫えばいいや、と以前に発見した)のだが、子どもがせっかく裁縫に興味を持ちつつあるのにミシンがないというのはもったいない気がするのだった。子どもに1台与えて、自由に使わせ、いろいろ縫えるようになったらいいよなあ、などと夢想する。そう思ったようには運ばないけどな、子育てはどうせ。

 3ヶ月間での肉体改造を決意し、ビフォー写真を先日撮影したが、それで客観的に目にした自分の体型にショックを受け、それからどうなったか、なにくそと奮起したかと思いきや、ショックで、へこんで、しょげて、あれ以来すっかり筋トレから遠ざかっているのだった。バカ! パピロウのバカ! パピロウの根性なし! なんだと! だってしょうがないじゃないか! なんでしょうがないのよ! だって、だって寒いし! バカ! 本当にバカ! 本当に根性なし! うっせえ! わかったよ、やるよ! やってやんよ! 来年から! 来年になったら本気出すよ!

2021年12月18日土曜日

ビフォー・難読・帰省

 これからの3ヶ月あまりは、プールには行かず、家に籠り、新たに導入したトレーニングベンチを使って、ストイックに筋トレに励むこととしたため、せっかくならば現在の初冬の僕と、励んだ暁の初春の僕の、ビフォーアフター画像を撮ることにした。というわけで年末で相変わらず仕事が忙しいファルマンに頼んで、パンツ一丁になったところを、死んだ目で撮影してもらった。人の目ってこんなに死ぬことあるんだな、というくらいに死んでいた。
 それで保存されたビフォー画像を見たところ、「ひっ!」となるくらい痩せていて、衝撃を受けた。ビフォー画像なのだからそれでいいのだともいえるが、それにしたって、そもそもビフォービフォーとはいうものの、完全なビフォーではなく、これまでもそれなりに腕立て伏せとかはしていて、プロテインも日常的に飲み、主に大胸筋を狙って筋トレはしていたのだ。それだのに、横から撮った画像では、大胸筋よりもあばら骨のほうが前に突き出ている。なんやそれ。欠食児童か。これまでも鏡で自分の体を目にした際、わきの下のあたりに3本くらいの筋が浮き出ているのが見えて、肋骨だろうかという思いが頭によぎりつつも、いや筋トレしてプロテインを飲んでいる俺に限ってそんなはずはない、これは腹斜筋、あのセクシーなやつだよ、と自分に言い聞かせていたが、死んだ目カメラマンによる、被写体を良く撮ろうという意思が皆無の写真によって、いよいよ弁明ができなくなった。60巻で「俺は! 弱い!」と気づき叫んだルフィのように、僕も認める。「俺は! 痩せてる!」。
 画像にショックを受けていると、死んだ目キャメラマンが、「だってあなた成人男性にしてはぜんぜん食べないもん」と冷たく言い放つ。そうなのだ、ちまちまとお茶菓子とかおつまみとかは食べるけど、ガツンと量のあるものは食べられないのだ。牛丼チェーン店でも、並盛でお腹いっぱいになる。筋トレよりも、まずはそこかもしれない。あと家族とは別でひとり、わざわざ低脂肪乳や無脂肪乳を買って飲んでいたが、これももうよそうと思った。脂肪分、俺は取るべきだった。俺は! 痩せてる! から!
 まあでも本当にね、プラス思考でいえばね、いいビフォー写真だったと思いますよ。見とけ、と思いますよ。同じ構図、同じ立ち位置で撮影したら、フレームに収まらないと思いますよ、3ヶ月後の僕は。

 職場にナカダさんという人がいて、ぜんぜん珍しい名前ではないような気がするのだけど、どうもスムーズに呼べない。なぜだろうと考えて、僕の人生、実生活はもちろんのこと、メディアや創作も含めて、これまでナカダさんなんて存在しなかったんじゃないかと思った。名前を呼ぼうとすると、どうしてもナカタか、あるいは(漢字が違うが)ナガタになりそうになり、いつも言いよどむ。意外な難易度だと思う。僕だけだろうか。

 年末年始、実家に帰省するつもりだったが、取り止めた。
 前にもいったように、車で行くつもりだったのだけど、年末年始の高速道路って、それだいぶ危険が伴うやつじゃん! ということを、冬の気配が色濃くなってきたところでようやく思い至り、立ち往生であるとか、スリップ事故であるとか、嫌な想像ばかりが膨らんで、そこまでのリスクを負ってまで正月に帰ることはあるまいと、普通にやめた。代替として、夏だとちょっと先過ぎるので、春とか、GWとか、そこらへんで考えている。
 素直に公共交通機関を使えばいいじゃないかという意見もあるだろうが、なにぶん田舎暮しが長くなり、公共交通機関というものからすっかり疎遠になってしまっていて、そのため警戒心が強まってしまっている。新型コロナは、もちろん理由として全国的にまだ通用するだろうが、それに加えて、これはもう我ながら田舎者の感覚だなと思うのだが、小田急だの京王だのの事件を見るにつけ、都会の鉄道おぜえ(おそろしい)、という思いが募り、あとよく考えたら地下鉄ってチョーおぜえじゃん、と横浜出身島根県民としてそんな感情を抱く。我ながら信じられない。あの田園都市線に毎日乗り、渋谷で井の頭線に乗り換えていた、この僕が。「満員電車がつらい」といっている人の話を聞いて、(こいつはなにをいっているんだ、満員電車は自立しなくていいからむしろ楽だろ)と思っていた、この僕が。すっかり人格が変わってしまった。
 鉄道以外にも、飛行機という手もあり、鉄道では特急やくもと新幹線というふたつに乗って7時間弱かかることを思えば、1時間半で着く飛行機一択という考え方もあるが、飛行機は、まあ、うん、本当に火急の場面でしか、絶対に乗りたくないので、そこは勘弁してほしい。


2021年12月15日水曜日

漢字・プールなど・ファルマンブログ

 この言葉はなるべく使いたくないけれど、新語・流行語大賞ってオワコンだよね、ということを数日前に書いたが、これに関してはもはやなんの逡巡もなく言える。
 今年の漢字、オワコン。
 オワコンだよね、と話題にするだけでもありがたいと思ってほしい。本当に終わっている。数年前まではそれでもニュース番組で、「明日はいよいよ今年の漢字の発表です」「皆さんはどう予想しますか?」なんて語らいがあったものだが、今年はそんな光景も一切なかった。誰も注目せず、誰も待たず、誰も期待せず、そして誰も知らずに、終わった。相も変わらず、わざわざ清水寺の住職みたいな人に、うまいんだか下手なんだか、そもそも誰やねん、漢字界、書道界においてお前はどういう地位の誰やねん、みたいな文字を書かせて。あの進歩のなさ、工夫のなさは一体なんなのだろう。どういう神経なのだろう。もはや憤りを感じるレベルだ。
 そして純粋に一般からの投票数で決まる第一位、すなわち今年の漢字は、「金」だそうだ。今年の漢字が「金」になるのは5年ぶりだそうで、それはもちろん、いちいち言うのも馬鹿らしいが、オリンピックイヤーということであり、2012年もやっぱり「金」なのである。じゃあもう夏季オリンピックの年はわざわざ募集も発表もする必要ないじゃん、と思う。ちなみに2008年はというと、これは「変」であったり、また2004年は「災」であったり、かつてはオリンピックの年でもオートメーションで「金」などではなかったのだ。つまりここにも、新語・流行語大賞の授賞式にかつてはイチローが出席していた!というのと一緒で、企画に権威があったり、あるいはこちらの企画は一般投票なのだから、一般人に知性があった。今はもうだめだ。みんなSNSでおんなじことをおんなじように見て感じるようになったから、オリンピックの年には「金」しか思い浮かばなくなってしまったのだ。そもそも1年を1文字で、という企画に無理があるのだし、とっとと終わればいいと思う。

 プールの月間会員の期限が切れて、大いに悩んだ結果、冬の間は更新をしないことにした。まあなんだかんだで寒いし、トレーニングベンチも来たし、この間はコツコツお金を貯めて、春になったら月間会員よりもさらにお得な半年会員になろうかな、などと目論んでいる。
 本格的なプールに行かない代わりに、プールもあるサウナ温泉、みんな大好きおろち湯ったり館に行きたいなあと思うのだが、いかんせん微妙に遠く、なかなか足が向かない。なにかついでがあればいいのだが、雲南市についでの用事などあるはずがない。
 サウナといえば、島根県が誇る新時代サウナ、四季荘について、前に行った際に、利用料が安くなるからということでLINEで友達になったのだが、そこでたびたび送られてくるメッセージを見ると、熱波師とか、大食いとか、なんかいろいろ企画をして盛り上げようとしているようで、そういうのを見るにつけ、サウナの効果とは裏腹に、どんどん心が冷めてきて、たぶん常連客同士でグループを組んでたりするんだろうなあなどと思うと、みるみるうちに行きたい気持ちが萎んでゆくのだった。なぜ人は、いや人の一部は、同じ空間にいる人、同じものを愛好する人と、積極的に繋がりたがるのだろう。人となにかを共有したら、自分の取り分は半減するに決まっているのに。謎だ。

 ファルマンがブログを再開した。といってもまだ軌道に乗るか不明で、大々的に「こちら!」と紹介するような段階ではない。そもそもブログって、みなさん読みますか? 読みませんよね。この文章を読んでいる人は、ブログを読んでいる人ですけど、果してそんな人はいるのかって話だし、何度もいうように、ブログって書くために書くものなので、人に読まれてどうこうなるもんじゃない。だからファルマンの新しいブログも、本人の手で、本人のために、本人のやりたいようにやればいいと思う。日常って、気づけば茫洋と過ぎていくが、ブログには、つまり日記には、それを少しだけ堰き止める力があると思う。本当に少しだけなのだけど、その少しが、あるとないのとではぜんぜん違う。完全に堰き止めることはできないし、できたとしたら、それは時空がゆがんでいることを意味しているため、その「少しだけ」というのがいいのだ、と思う。だからファルマンがブログを再開したことは、とても嬉しい。ちょっと前からその素振りはあって、ブログタイトルで悩んでいて、あるとき「「せんてんす」というのを考えた」といっていたので、妻のセンスは崩壊したのかと危ぶんだが、実際に出来上がったブログタイトルはぜんぜん違うものだったので安心した。

2021年12月7日火曜日

父親妻・拡張・ウエンツ瑛士

 週末は餃子を作った。とてもおいしかった。
 白菜が安く、半玉の買い置きをしていたら、ファルマンの実家から丸ごと1玉がやってきて、餃子を作るよりほかない状況になったのだった。ほかない、というのは言いすぎたかもしれない。白菜といえば普通、まず鍋だ。要するに僕が餃子を作って食べたかったのだ。それでも白菜の消費という大義名分があったので、白菜に合わせてニラも挽き肉も増やし、大量の餡を作った。そして皮もたくさん買ったつもりだったのだが、それでも足りなかった。
 日曜日の夜のことだったので、皮が足りなくなった分は餡のまま冷蔵庫に入れ、次の日の晩ごはんも餃子ということになった。しかし僕が仕事帰りにスーパーで皮を買って帰ったのでは、包む工程のことを思えばあまりに遅くなってしまうということで、ファルマンに日中に買いにいってもらうことにした。日本酒と卵しか買わないことで有名な女が、近所のスーパーで初めて餃子の皮を買うことになったのだった。
 そしてそれをお願いしたときの、ファルマンの受け答えに衝撃を受けた。
「餃子の皮ってスーパーのどこに売ってるの?」
 お前は父親か、と思った。前時代の父親。スーパーで買い物なんて、普段ほんとうにしないから、ものがどこにあるのかぜんぜん分からないのだ。すごいな、と思った。「挽き肉コーナーの上の段だよ」と素直に教えてしまったが、「小麦粉売り場に決まってんだろ」くらいの意地悪をいえばよかったとあとで悔やんだ。

 10インチ超えのタブレットと過す日々である。
 前にもいったが、あまりにも大きすぎる。近ごろはポイントカードがアプリのお店も増えてきて、そういうときは画面に表示したバーコードを読み取ってもらうのだが、あれって当然だがスマホを基準とした仕様になっているため、タブレット、それも10インチ超のものだと、普通のバーコードリーダーでは読み取れず、わざわざ用意されている「それ用」なのかなんなのか、特殊なものを使って読み取ってもらっている。迷惑な。もとより、そういうポイントカードアプリのある店の場合は仕方なく持っていくが、そうじゃない店の場合、タブレットは邪魔なので車に置きっ放しにしたりする。大きさと重さの弊害である。
 そのため、心の奥の奥のほうで、(なる早で壊れねえかな……)と思う気持ちが、ないといったら噓になる。しかしその一方で、このタブレットがダメになって、今度こそはと7や8インチの、適度な大きさのタブレットに乗り換えたら、僕はもう物足りなさを感じる体になってしまっているのではないか、という気もする。これはまんま、巨根の彼氏と付き合った女の感情で、まんまといったが、巨根の彼氏と付き合った女の感情なんて実物を知らないので本当はよく知らないのだけど、たぶんこんな感じだろうと思う。もうすっかり穴が拡張してしまった。このアイノカタチはもうあなたじゃなきゃ隙間を作ってしまう。

 ウエンツ瑛士か、というツッコミの文句を考える。
 これはタカトシの「欧米か」みたいに使うものだが、ボケるほうは別にウエンツ瑛士そのもののエピソードにこだわる必要は一切なく、日常で起った出来事、人間関係、感じたこと、ありとあらゆることを漫然と述べればいい。それに対し、「ウエンツ瑛士か」とひたすらツッコむのだ。
「日が短くなってきて、日が短くなるとやけに寂しい気持ちになりますよね」
「ウエンツ瑛士か」
「久しぶりにおばあちゃんの家に行ったら、電子レンジが新しくなってたんですよ」
「ウエンツ瑛士か」
「硬水ってやっぱりちょっと苦い感じがしますよね。気のせいかもしれないですけど」
「ウエンツ瑛士か」
 唐突にイギリスに留学したあと、しれっと芸能界に戻ってきて、しれっと前までと同じポジションにいる、そしてこのままヒロミとか坂上忍とかの、ザ・芸能界的な芸能人として、いつまでもテレビに出続けるんだろう、でも俺たちはいったいウエンツ瑛士になにを求め、ウエンツ瑛士になにをもたらされるのか、さっぱり判らない、想像もつかない、もしかしたらなにも「ない」のかもしれない、WaTなんて本当はなかったように、ウエンツ瑛士もまたないのかもしれない、なのに我々はウエンツ瑛士を観続ける、果してウエンツ瑛士とはなんなのか、無であり、同時に遍くものなのかもしれない、などと考えると、この世の事象はすべて「ウエンツ瑛士か」といっていれば、聞いたほうも、「ああそうかもしれないなあ」と、それぞれのウエンツ瑛士の解釈をして、納得するのではないかと思った次第だ。

2021年12月2日木曜日

権威・朝ドラ・意欲

 ユーキャンのほうの新語流行語大賞の、結果が出る。大賞は「リアル二刀流/ショータイム
」だそうで、まあ何が来たって「それってどうなのか」となるに決まっているので、内心「それってどうなのか」という思いは煮えたぎるのだけど、別にいい。看過する。ところでテレビのニュースで紹介されていたので印象に残ったのだが、1994年の大賞は「イチロー(効果)」で(他に「同情するなカネをくれ」も)、メジャーリーグでMVPを獲ったふたりがこちらでも同じ栄冠に輝いた、みたいなことをいっていて、栄冠に輝くというよりも、ベストジーニストとかと一緒で、賞のほうが人気者にあやかってるだけではないか、という気も大いにするのだが、しかしそこで94年の授賞式の様子が映し出され、それを見ると、なんと若かりし日のダボっとしたスーツのイチローが登壇していたので、とても驚いた。あの国民栄誉賞を断った(大谷翔平も同じくだが)イチローが、流行語大賞の授賞式には出席していたのだ。その頃はイチローもまだそこまで我を張ってなかったというのもあるだろうが、それと同時に、この賞はかつてきちんと権威があったのだとも思った。そうだった。かつてはあったのだ。そしてこれは、すなわちメディアの権威、活字の権威だと思った。いまはもうそれは完膚なきまでに壊滅しているため、もちろん大谷翔平はこんな式には出席しない。今年の登壇した面々の地味さはどうだ。あまりに身も蓋もなく、無慈悲な言葉なので、なるべくなら使わずに生きていくべき言葉だと思っているが、しかしユーキャンの新語流行語大賞って、やっぱりあまりにも、オワコンだと思う。

 11月から始まった連続テレビ小説「カムカムエブリバディ」がおもしろい。朝ドラの真髄を見ている気がする。ひとつ前の「おかえりモネ」の時期、僕はまあまあ朝ドラを観ることのできる生活リズムで暮していたのだが、ファルマンが観ているのをたまに横で眺めるくらいで、ぜんぜん魅かれなかったのが、今はわざわざ録画して観ている。それくらいちゃんとおもしろい。ヒロイン3人による3世代の物語ということで、別にひとり2ヶ月と決まっているわけでもないだろうが、どうしたって話の展開は早くなり、テンポがよくていい。あとやっぱり世代もの、大河ものって、第1部に出ていたあの子どもが第3部で謎の老人として再登場、みたいな、胸熱な展開が望めるので、そういう意味でもこれからどんどんおもしろさを増していく期待が持てる。朝ドラがおもしろいと暮しが愉しくなっていい。

 鳥取旅行のあと体調を崩したこともあり、プールに行っていない。月間会員なので、なるべく行かないと損なのだが、あまり気が進まないときに無理して行っても余計に損というか、行こうかなあどうしようかなあ、行くの億劫だなあ、行かないことにしたら楽だなあ、得だなあ、などと思考したりするのだから、もはや丸儲けならぬ丸損である。具合もよくなってきて、行きたい気持ちも徐々に湧きつつあるが、それでも億劫さが頭をもたげるのは、ひとえに鳥取旅行のあとに襲来した山陰の冬の気候が原因だろうと思う。生活リズムそのものは変わっていないので、前はあれほどあったプールへの情熱を変化させる要素といえば、それしかない。山陰の冬の気候は、ありとあらゆる意欲を、減退させる力を持っている。抗わなければならない。必死に抗わなければ、終わる。人が終わる。プール行こ。

2021年11月28日日曜日

迷惑・最低・疑惑

 鳥取旅行のあと、実は家族で体調を崩していた。わが家の体調崩しイベントが、8割5分くらいの確率でポルガから始まるご多分に漏れず、今回もそうで、ポルガは実は2日目の帰りの車内では、すでに密閉された空間で咳を撒き散らしていた。それは蔓延するわ。結局のところポルガは、前回のおろち湯ったり館がそうであったように、寒い時期に家以外で風呂に入ると、もれなく体調を崩すのだろう。ファルマンの話を伝え聞くに、いろいろな種類の湯がある場所に行くと、「すべての湯に入ること」をひたすら目的にして、あったまる間もなく移動を繰り返すらしいので、それで風邪を引くんだろうと思う。非常に迷惑だな。鳥取旅行そのものはいい記憶として刻まれたが、しかしやっぱりもう二度と、寒い時期に家族で温浴施設になんか行くもんかと思った。もっともそのうち頼んだって一緒に来てくれなくなろうな。

 アサヒの販売している「マルエフ」というビールのCMで、新垣結衣が「おつかれ生です」というのが、とても助かる。若い女が、「やっぱり生がいい」だとか、「生が好き」などと飲みの席でいうのを、下卑た男が、「ぐへへへ。だけどちゃんと避妊したほうがいいと思うよ」だとか、「ぐへへへ。ピル派なの?」などと茶化すの、今はもう本当にやったらいけないし、じゃあCMのガッキーに対してもやったらよくないのだけど、まあ相手に直接いうわけではないし、お茶の間でひとりぐへへへする分にはいいじゃないかと思い、存分にやっている。ガッキーがそのフレーズをいうのはCMの後半なので、前半からずっと、「ゴムかな? 生かな? ゴムかな? 生かな?」とやきもきしている。そして結果としてガッキーは必ず「生」なので、「生かー! やっぱ生かー! 新婚だもんなー!」と盛り上がりは最高潮となる。愉しく生きている。

 テレビで放送したので、録画をして、「アナ雪2」を観た。まあまあおもしろかった。前作あれほどヒットしたのに、人気に甘んじることなく、迎合した単純な話にするのではなく、むしろこちらを置いてきぼりにするくらい飛ばした物語だったので、ちょっと感心した。感心したと同時に、これって筋はだいぶ「もののけ姫」だな、とも思った。そのあと検索したら、「アナ雪2 も」と打ったところで、やっぱり「アナ雪2 もののけ姫」と出てきて、みんな考えることは一緒だな、と思った。
「Do you know princess mononoke?」
「No! We don't know ashitaka sekki!」
 めっちゃ知ってんじゃねえか。

2021年11月17日水曜日

ウミガメ・集団・寝つき

 海底火山が噴火して、海に大量の軽石が流出して大変だ、という話があって、海とはわりと近い距離感で暮しているが、なにぶん日本海側なので、その危機感にはあまりピンと来ずにいる。ただ一連の報道の中で、「軽石を誤ってたくさん飲み込んでしまったウミガメが発見された」というトピックがあり、これには思うところがあった。すなわち、ウミガメはなんでも飲み込んでしまいすぎなのではないのか、ということである。ウミガメといえば、人間が捨てたスナック菓子の袋を飲み込んでしまって窒息死、という話が有名で、だから海をきれいにしなければいけません、なんてことが説かれるわけだが、今回の軽石の件で、海に人間の捨てたゴミが出てしまうのはもちろんよくないことなのだけど、しかしウミガメというのはどうやらわりとなんでも誤飲するようだぞ、ということが判明してしまったために、この話の説得力はこれから弱まるのではないかと思った。

 ポルガの小学校のクラスで、5年生ともなるともうなかなかに面倒なようで、詳細はよく分からないのだが、女子の大半が授業をボイコットして図書室に避難する、という出来事があったそうで、このくらいの年頃の女子というのは、とみに集団になりたがる傾向があって、たぶん発端はわずかな人数の話だったのが、首を突っ込んできたり、慰めたり、諫めたり、あるいは単純に流れに乗って、あるいは仲間外れになるまいとして、どんどん人数が増えていって、そのような結果になったのだろうと思う。そのときポルガはどうしていたかといえば、「女子の大半」と書いたのは、全員ではないからで、先生が収束のために動き、授業が行なわれず自習となった教室で、ほとんど男子しか残っていない中、これは好都合とばかりに、その日の宿題をやっていたそうで、お前さすがだな、と思った。ポルガはいい意味でも悪い意味でも、本当に人の気持ちが分からない人間なので、今後も独自のポジションを確立し、周囲に妨害されずにやりたいようにやってくれたらいいなあと、親として思う。

 寝つきが相変わらずいい。布団に横になってから、寝つくまでの、記憶がいつもない。当然である。記憶もなにも、その時間は存在がないのだ。横になった瞬間、僕はもう寝ているのだ。本当にあまりにも寝つきがいい。そうではないファルマンからは、たびたび恨みがましい口ぶりで、その寝つきのよさを揶揄されるのだが、「俺にだって寝つけなかった夜はある」と反論したところ、寝つくまでに時間がかかり、慣れていないものだから必要以上に慌て、騒ぎ立てし、ホットミルクを作って飲んだり、実にジタバタしたその夜は、「それはもう10年以上前の、練馬時代の、それもたったひと晩の出来事だよ」とファルマンに諭され、我ながら驚いた。前に寝つけずに困ったの、10年以上前のことなのか。つまり30代になってから、僕はいちども寝つきで困ったことがないのか。寝つきがいいのって、なんとなく阿呆な子のエピソードっぽさがあり、逆に寝つきが悪いのって、なんとなく知的なイメージがあり、納得がいかない。われわれ夫婦でいえば、それは真逆に顕れているから。

2021年11月9日火曜日

遠慮の塊・ユーキャン・アル中

 多人数で大皿料理を食べているとき、たとえばそれが唐揚げだとして、最後の1個が残って、みんな取りづらい、遠慮の塊などと称される、そういう場面があるだろう。ああいうときってどうすればいいのか、自分の中で結論が出たのでここに記録しておく。
 僕が考えた方法、それは、たとえばテーブルを囲んでいるメンバーが5人であるとしたら、唐揚げが残り5個になったときに、「唐揚げをいまからひとり1個ずつ取ろう」と提案する、というものである。こうすれば後腐れなく、遠慮することなく、きれいに皿を片付けられる。すばらしい手法だと我ながら思う。
 またこの手法を思いついたのが、実地による演習を重ねた結果ではなく、あくまで思考の結果だ、というのも尊いと思う。多人数で大皿料理なんて、コロナ前もコロナ後も、一向にする機会がないにも関わらず、その際に発生する問題とその解決策を考えるだなんて、もはや僕はファンタジー作家の域に入ったのかもしれない。

 今年あえなく開催を見送ったcozy ripple新語・流行語大賞を嘲笑うかのように、ユーキャンのほうの候補語30が発表される。これがまあ、毎年どうしたって敵陣営としてやいのやいの僕はいうわけだが、それにしたって今年は例年以上にひどくないか、おたくも今年は見送ったらよかったんじゃないか、といいたくなるラインナップで、度肝を抜かされた。
 毎年の、「それは流行語ではなく流行」部門には、「イカゲーム」「うっせぇわ」「ウマ娘」「マリトッツォ」などが並ぶ。
 4年にいちど(今回は5年だが)の、「どうしてもオリンピックから流行語を出したいんじゃ」部門には、「エペジーーン」「カエル愛」「ゴン攻め/ビッタビタ」「13歳、真夏の大冒険」「スギムライジング」「チキータ」「チャタンヤラクーサンクー」「ピクトグラム」「ぼったくり男爵」と、要するにオリンピック関連の流行語なんて存在しなかったのだな、と思わせる言葉ばかりが並ぶ。それなのに関連語が8個も挙がるのだから、全体のパワーの弱さが如実に表れている。特に「カエル愛」がひどい。入江選手に関しては、「サンキューベリーサンキュー」という、きちんと流行語めいたフレーズがあったのに、いったいなんなのだ。なんなのだ、「カエル愛」という言葉は。彼女がカエル好きというのは知っている。それで「カエル愛」か。そんなのありか。なんだその不思議なセンスは。
 あとこちらも毎年恒例の、「わしはどうしても野球に関する言葉を入れたいんじゃ」部門からは、「ショータイム」と「リアル二刀流」がノミネートされ、今年も無事、誰かは知らないが、この部門に並々ならぬ情熱を持つ御仁の満足がいったことだろうと思う。そして来年は、新庄剛志が日ハムの監督になったことで、この部門は安泰だろう。
 ちなみに新型コロナ関連語からは、「変異株」「自宅療養」「副反応」「人流」「黙食/マスク会食」が選出。「黙食」で白けるが、それ以外の言葉はたしかに時世の新語だな、と思う。特に「副反応」という言葉は新鮮だった。副作用と微妙な使い分けの副反応。まさかそんな部分の言葉の使い分けへの意識が高まる日が来るだなんて。
 まあだいたいそんな感じ。大賞が「ぼったくり男爵」になってバッハが登壇したらおもしろいな。

 近所のスーパーでは、1000円以上買うと卵が安くなったり景品がもらえたりという企画がたびたび行なわれるため、わりと重用している。自分で行けないときはファルマンに頼むのだけど、重い腰を上げて行ってもらうだけでひと苦労なので、そのうえ1000円あまりの賢い買い物を頼むなんてことは不可能で、それにそのスーパーは、安いものはそれなりに安いが、そこまで値下げしてないものも結構ある感じのお店で、物の底値を知らないファルマンに選ばせるのはなかなかリスキーで、さらには以前「1000円ちょっとになるよう買い物したのに、レジを通したら2000円超えてた」なんてこともあったので、こちらとしてもすっかり信用をなくし、頼む際はもう、ひたすら1000円ちょいのパック酒を買ってもらうことにしている。その一択なら失敗しようがないし、腐らないので、確実に消費するものだから買い置きがあっても支障がない。じつにいい作戦である。
 しかしこの結果、この店においてファルマンは、たまに来店してはひたすらパック酒だけを買って帰る女(しかもたまに子連れ)となっていて、なかなかのキャラクターだな、と思う。見た目もなんとなく、さもありなん、という感じがあるし。

2021年11月4日木曜日

知恵・あなず・沼

 季節が移ろい、空気の乾燥を感じはじめている。指にささくれができたり、洗顔後になにかを塗るのをサボると顔がかゆくなったりする。なにより喉が渇く。それも特に寝ているときだ。明け方に目が覚めると、口の中がカラカラになっている。しかし実はそれは、口の中がカラカラになったから目が覚めているわけではない。尿意で目が覚めているのだ。ここに不条理を感じる。下では水分を排出したいのに、上では水分を求めている。Aさんは渇き、Bさんは湿っている、というのなら分かるが、ひとりの体の中の話である。なんとなく釈然としない思いがする。そうだ、と左手の手のひらに、拳にした右手を振り下ろし、小便を飲めばいいんだ! とひらめく。人類のさまざまな知恵や知識が記録されているインターネット空間に、またひとつ新しい情報が加わった。このページにたどり着いた人は、ぜひ実践してほしい。

 職場のおばさんが、「あながち」のことを「あなずと」という。
 もしかして島根の方言かもしれないと思い検索したが、やはりそんなことはなく、どうしたって、「あながち」と「おのずと」が混ざっているのだと考えざるをえない。たまたまそのときいい間違えただけかと思ったが、もう3回くらいそういっているのを聞いているので、いい間違えではなく、インプット間違えだ。
 指摘するべきか、とも一瞬思ったが、指摘されたら恥ずいだろうな、と思うとできない。こういうとき、誰かが指摘しないとずっと恥ずかしいままなんだから、と断行する人間もいるだろうが、そういう人間がこの世からもれなく駆逐されて、僕みたいに、指摘されたら恥ずいだろうと周りが配慮し、死ぬまで指摘されずに済んだら、最期まで恥ずかしい思いをしないのだから、それでいいのだと思う。そんなやさしい世界がいい。

 おばあさんの住んでいる家などによくある、個包装の、保存料たっぷりで長く持つ、ひと口サイズの和菓子のアソートみたいのがあるじゃないか。最中とか、栗饅頭とか、大福とか、そういうものがいろいろ入っているやつ。
 あれにいまハマっている。
 もともとの性分としてそういう傾向はあったのだが、筋トレ的な意味でも、なるべく間を空けずにちょびちょび糖質とかを取ったほうがいい、ということを知って以来、これまで鈴カステラやチョコレート、飴など、いろいろ試してきたが、最近になってようやくこのジャンルの存在を発見し、これこそ僕の求めていたものだ、と感動したのだった。
 いちど発見してみると、わりとどこのスーパー、ドラッグストアにも、この種の商品は置いてあった。世界って、自分の意識しているもの以外は、視界に入っていても見ていないんだな、ということを再認識した。
 また店によって置いてある商品はそれぞれ異なり、そして大袋の中に小袋が何種類もたくさん入っているタイプの商品なので、ふたつもみっつも大袋を買うと、20も30も異なるお菓子が手に入ることとなり、なんだかとても愉しいのだった。ジャンルにハマることを「沼」と表現するのが、ここ数年ですっかり定着し、しかしこれまで僕はこの表現を使う機会がなかったのだが、ここに来てにわかに出現した。僕は、おばあさんの住んでいる家などによくある、個包装の、保存料たっぷりで長く持つ、ひと口サイズの和菓子のアソート沼にハマっている。

2021年10月30日土曜日

野戦・貧困・お知らせ

 季節の変わり目で、寒暖差も大きく、体調管理に四苦八苦している。さらには今週は子どもが順繰りに風邪を引いたこともあり(おろち湯ったり館のプールがいけなかった。やはり子どもは夏場以外のプールはダメなのだと悟った)、タイトロープの上を渡るような、とても緊迫した日々だった。結果的には必死の摂生により、大崩れは免れた。しかし喉に「おや?」というような気配はあったし、これもまた体調崩しかけの兆候のひとつに違いない、目がやけに痒くて充血して涙が出まくる、という症状も出た。目は軽い炎症のようで、目薬を差して、普通に過ごしている分には問題ないのだが、どうも寝ている間には自制心が掻き消え、違和感に対して思うがままに擦ってしまうようで、そのため朝起きたときがいちばん痛かった。こうなったら寝る際、喉を守るためにマスクを、目を守るために眼帯をして寝ようかな、と思ったが、それってどんな野戦病棟だよ、と思ってやめた。喉も目も、今はもう落ち着いた。乗り切った。

 生理の貧困ということがいわれ、切実だなあと思う。ナプキン代、たかが数百円ともいうが、数百円が少し重たく思える財布の状況って、たしかにある。男にはないその出費は、女性に課せられたハンデのひとつであるに違いない。そしてこういう話のときに、どうしても思い出されるのは、岡村隆史のことだ。ポロっと出てしまったいちどの不適切な発言を、何度もほじくり返すんじゃない、それはイジメだ、とも思う。いつまでも失敗を許してあげない社会には問題がある、とも思う。そう思うし、彼がいま普通に芸能活動していることも別に構わないが、とはいえやっぱり、普通に考えて、NHKの子ども向け番組は、降板すべきだったろうと思う。それはイジメでもなんでもない、当たり前の制裁だ。あの発言をした人が、あの番組に変わらず出続けているのは、やっぱりどうも釈然としない。間違っていると思う。

 10月もぼちぼちおしまいで、紅白歌合戦の司会も発表となり、そろそろ1年の締めくくりが意識される時期だが、僕のブログに関しても、ここで大事な発表をしておく。
 毎年この時期は、11月23日、破皮狼感謝の日に発表となるcozy ripple新語・流行語大賞に向けて、この1年間で書かれたブログ記事を読み返し、フレーズをピックアップする作業に励むのだけど、今年はそれを一切していない。なぜか。今年はcozy ripple新語・流行語大賞の開催が見送られる運びとなったからだ。ここ半月ほど、30分ブログの発明によって気を吐いているが、年間という単位で見ると、今年は記事の投稿数があまりにも少なく、ここからノミネートにふさわしいフレーズを抜き出すのは不可能であると、運営本部は判断をした。よって第13回cozy ripple新語・流行語大賞は、2022年に2年分の記事を対象に行なう。期待してくれていたファンには申し訳ないが、来年は必ずや充実したボリュームでの開催を実現することを約束する所存なので、悪しからずご承知のほどをお願い申し上げる次第である。

2021年10月25日月曜日

すっかり気分がよくなった話3連発(ただの自慢話)

 オーバーオールが欲しいが、街でオーバーオールを着ている男を見ると大抵は嫌な気持ちになるので自重している、ということを数か月前にツイッターで呟いたが、そのあとオーバーオールどころかサロペット、それも女性用のものを買って、夏用の薄手の素材だったので、今年の夏はそればかり着ていた。とはいえ傍から見て異様なのか異様じゃないのかよく分からず(ファルマンにファッションのことを聞いてもしょうがないし)、まあいいやと思って過していたのだが、あるとき近所のスーパーで買い物をしていたら、レジの女性から、「とてもおしゃれな格好をしていますね。そういうの、どこで買うんですか?」と訊ねられたので、すっかり気分がよくなった。あなたたちはスーパーで食料品の買い物をしていて、レジの店員さんに服を褒められたことがありますか。その一件以来、確信を持って着ることができるようになった。ところが夏の終わり、ファルマンの実家に顔を出した際、僕のその格好を見た義母が、「スーパーマリオかと思った」といったので、ぼちぼち寒くて着られなくなるタイミングだったこともあり、ぽっきりと心が折れ、その日で今年のサロペットは終わった。でも客観的に見て、サロペットにキャスケット、たしかにマリオだった。期せずしてマリオのコスプレみたいになるなんてことがあるんだな。

 職場で同僚から年齢を訊ねられ、岡山では常に嘘をついて、10歳くらい若く答えていたのだが、こちらではまだそこまで心がほぐれていないこともあり、そのままの年齢を答えてしまった。しかし「38」の十の位、「さんじゅう……」といった時点で相手が「えー!」と声を上げ、それから「はちです」というと、「そんなに? ぜんぜん見えない!」と驚いてくれたので、すっかり気分がよくなった。特に、「さんじゅうはちです」に対してではなく、十の位の時点でびっくりしてくれた点、すなわちそれは20代と捉えていたことを意味するので、とても嬉しかった。僕も今度やろうと思う。十の位の時点で驚くやつ。

 先日ローソンで買い物をしていたら、僕が提げていたオリジナル生地のヒットくんバッグを見て、20代前半くらいの女性の店員が、「すごくかわいいバッグですね。どこで売ってるんですか?」と話しかけてきてくれたので、すっかり気分がよくなった。世の中にはいろいろな褒めパターンがあるけれど、ローソンのアルバイトの20代前半の女性の感性からの褒めというのは、なかなかの上位に入ってくるのではないかと思う。なぜなら、もうそれは世間の若者そのものだからだ。ローソンの店員に訴求するということは世間に訴求するということである。さっぱり売れないものだから少々不安になっていたが、なんだよ、やっぱり世間にはとても好意的に受け入れられるんじゃないか、と安心した。ちなみにその問いかけに対してどう答えたかというと、僕が義兄のような積極的な人間であれば、これは自分のパパポッケというレーベルのオリジナル商品で、minneで販売しているんですよ、ということを普通に伝えるのだろうけど、もちろんそんなことはできず、「ありがとうございます、ネットです……」と答えるのが精一杯だった。こういうところなんだろうな、としみじみと思った。でも本当に嬉しかった。

2021年10月21日木曜日

WATAONI、ボディメンテ、二の腕

 ほんの1、2ヶ月前のことだが、ファルマンが母親に「THIS IS US」を薦めたところ、義母はドハマりし、今現在アマゾンプライムで公開されている全てのシリーズを、あっという間に観終わったらしい。有閑マダムの海外ドラマ視聴の勢い、半端ないな。
 そして最新話まで観終えた余韻に浸りながら、感想としてファルマンにこういったという。
「うちの家でもあんなお話を作ってほしいわ」
 それを聞いてファルマンは、
(うちで「THIS IS US」を作ろうとしたら、それは「渡鬼」……)
 と思ったが、口には出さなかったそうだ。英断だと思う。
 まあ「THIS IS US」は、ただ人間関係・家族関係を描いた話ではなく、時代が行ったり来たりするところに骨子があるので、「渡鬼」や「北の国から」とは、同じようでぜんぜん違う。逆にいうと、「渡鬼」を再編集して、「THIS IS US」方式にしたら、むちゃくちゃおもしろくなるのではないかともちょっと思った。なにぶんこっちは子役も本人だ。説得力の重みが違う。僕はもともと「渡鬼」も好きだし、それが「THIS IS US」の手法で描かれたら、掛け算でとてつもないパワーになるかもしれない。誰か暇な人が作ってくれないだろうか。

 先日子どもたちと公園を歩いていたら、山がそのまま公園になっているタイプの公園なので、遊歩道の途中にお地蔵さんがあって、やはり散歩をするお年寄りが多いからか、管理が行き届いている様子で、お供え物も充実していた。
 そのお供え物の中に、まんじゅうやペットボトルのお茶に混ざって、大塚製薬の「ボディメンテ」が並んでいたのが、すごく印象に残っている。
 まだけっこう暑い時期だったので、百歩譲ってポカリやアクエリアスならば、「お地蔵さんのことをマジで親身に思う、心の優しいお年寄りがいるもんだな」くらいの感想だったろうが、これが「ボディメンテ」となると、ボケが高等というか、お年寄りの話題でボケというキーワードを出すと話がややこしくなるが、いろんな意味で「意識が高いな!」と思った。

 相も変わらずそれなりに筋トレをして、それなりにプロテインを飲んでいるが、それなりの半分くらいの度合の効果しか得られていないような、いや、それらの行為をしていなければ、30代も後半になり、滅法ひどいことになっていたところを、現状維持できているのだから御の字と考えるべきだという気もするような、結局ずっとそんな感じである。
 ところで先日、やはりプロテインを飲もうとして、シェイカーに低脂肪乳やらプロテインやらミロやらを入れて、溶かし混ぜるために思い切り振ったところ、半袖から伸びた二の腕が、この表現はあまりよくない気もするが、しかしあまりにもそれだったのであえて使うが、夏にノースリーブで手を振る中年女性のそれそのもので、すなわち筋肉とはあまりにも無縁の、脂肪しかないような具合で、しかしそんな二の腕で、なにをしているのかといえば、プロテインを溶かすためにシェイカーを振っているわけで、さすがに「おかしいな?」と思った。おかしいな、飲んだプロテインと筋トレの効果、どこへ行ってんのかな。配線が間違ってて、それら入力したものの出力先が、僕以外の誰かのところへ行ってしまっているんじゃないか。誰か、心当たりないのに二の腕がやけにムキムキな人、いませんか。それたぶん、僕のです。

2021年9月30日木曜日

スマホ嫌気・ファルマン芸・Myかご

 スマホに対してほとほと嫌気がさしている。今年の2月にスマホの人になって、7ヶ月あまりが経ったわけだが、もう嫌で嫌でしょうがない。
 スマホっていざ持ってみたら、「片手で持ててポケットに入る」という、タブレットに対して本当にそれだけしかメリットがないもので、それはスマホの小さいがゆえの扱いづらさをカバーできるほどの材料ではぜんぜんなく、日々ひたすらにストレスを溜めている。
 検索などの語句の音声入力って、している人間をとても気色悪いものとして見ていたが、スマホになって気持ちが理解できるようになった。画面の小ささから来る押し間違いがあまりにも多くて、あんなものキーボードとして成立していない。かといって僕はフリック操作というのもできず、できるようになるつもりもない。だから音声入力、ということに多くの人はなるのだろうが、機械に向かってしゃべるという行為の壁を、僕はいまだ越えられていない(機械の画面を指で触る、というのがやっと越えられたところだ)ため、それもできない。そうなるといよいよスマホは不自由だ。
 スマホにしたのは、長い時間にわたり電話を持ち歩かなければならない状況になったという理由があったからだが、諸般の事情によりその制約がなくなったため、頃合いを見てタブレットに回帰しようと思う。頃合いとはなにかといえば、ただただ金銭的な問題である。回帰という意味では、前に使っていたタブレットにSIMを移すだけで戻ることはでき、別に機能的にもそれで一切の問題はないのだが、そのタブレットはもうポルガたちのものになってしまっているため、さすがに「やっぱり返して」とは言いづらく、新しいものを買うしかないのである。
 子どもやファルマンのタブレットを目にするたびに、画面の大きさに憧憬の念を抱く。最低限この程度の大きさのものを覗き込むのでなければ、人の矜持というのは守られないのではないか、ということを思う。ガラケーからそのままタブレットはただの変わり者(ファルマン)だが、ガラケーからタブレット、スマホを挟んでの再びのタブレットには、説得力があると思う。

 ファルマンが、「マスクの外し方モノマネはどうだろう」といってくる。妻は何をいってきたのだ、と思う。
 妻曰く、政治家などが、会見の際にマスクを外すが、その外し方には個性があるので、その特徴を掴んでモノマネするとウケるんじゃないかと思う、とのことである。
 なんだその着眼点、とショックを受ける。HEY!たくちゃんのアゴものまね、ロバート秋山の体ものまねと、一部分に特化したモノマネというジャンルはたしかにあるけれど、マスクの外し方モノマネは、さすがにマニアックすぎると思う。ファルマンはあるときから、その視点でテレビを観るようになったから、この人はこう、というデータがあるのだろうが、一般の人にはその素養がまるでないものだから、それがどれほど特徴を捉えていようと、似ててウケる、という状態には絶対にならない。感想は常に「……ピンと来ない」だと思う。
 ちょっと妻はあまりにも、モノマネ界の高みに上り過ぎたのかもしれない。頂点に立つ人はいつも孤独だ。

 遅ればせながら我が家にも、というかスーパーでの買い物担当は主に僕なので、僕にも、というべきだが、My買い物かごがやってきて、そのあまりの便利さに腰が砕けそうになっている。前々から、使っている人を見かけるたびに、きっと便利なんだろうな、ということを感じていて、その気持ちの高まりが、ついにはかごを買うという行動に至ったわけだが、そちら側の人になってみれば、まだこちら側に来ていない人が信じられず、その無知蒙昧さが、不憫で居た堪れなくさえある。そこまでいうか。そこまでいうのだ。
 レジで読み取りと一緒にかごに詰めてもらえば、会計後にサッカー台で袋詰めをする必要がなく、そのまま店を出ることができる。そのときのサッカー台を素通りする瞬間、とてつもない快感がある。袋詰めしている人々を尻目に、というのがいい。まだ袋詰めしてんだ? と心の中ですごくバカにした笑みを浮かべている(実際に顔に出ているかもしれない)。
 世の中の人がみんなMyかごになれば、日々サッカー台で費やされている労力は減り、それは国の総計、人類の総計ではいかほどだろうと思う。さらにはサッカー台というスペースそのものが店からなくせるのだから、店としてはその分、売り場を広くしたり必要な設備を増やしたりできるわけで、とにかくいいことづくめだと思う。
 もっともこれは、スーパーに行く手段が必ず車である地方民であればこそで、仕事の帰りに最寄り駅近くのスーパーで買って帰るような都会の人間はどうしたってそんなことできないだろう。都会にも住み、田舎にも住んで、視野が広いので、そういうことも分かってあげる。一律に「レジ袋無料配布禁止、Myバッグを持ちましょう!」みたいな乱暴なことはいわないのです。

2021年9月12日日曜日

小銭入れ・尿道・ワクチン

 小銭入れを持たない人生だった。
 僕の人生はまだまだ続くが(まだ始まってもいないともいえるレベル)、まず間違いなく小銭入れを持つようになることはないだろう。電子マネーとかが発展して、そもそも小銭の出番が減っていて、まあ僕は電子マネー、目下のところてんで活用できていないのだけど、それであっても小銭入れを持つような状況というのはイメージしづらい。たぶん自動販売機で、缶コーヒーだの、煙草だの、そういうものを買う人にとっては便利なんだろうと思う。
 あとやっぱり基本的に、荷物をあまり持ち歩きたくない美学の男が、小銭入れというアイテムに帰着するのだと思う。その観念が僕にはまるでない。むしろその真逆の観念で生きている。
 しかし荷物をあまり持ち歩きたくないという美学の真逆であればこそ、こんな思いが湧く。
 小銭入れというアイテムそのものへの憧れ。
 小銭入れって結局、極小のポーチのようなものであるから、こじんまりとしていてとても愛しいのだ。そのため物欲としてそそられる。しかし小銭入れを小銭入れとして活用できる気質は、上記の通り僕にはまるでない。
 結果として柄が気に入るなどして衝動的に購った小銭入れは、ちまちました手芸用品を入れておくための入れ物なんかになる。しかし実際は、ちまちました手芸用品は、引き出しのクリアケースに入れておいたほうが絶対に使いやすい。
 今生の僕と小銭入れの縁は薄い。

 これは「BUNS SEIN!」に書く話のような気もするのだけど、そう長くなる気もしないので、こちらにさらっと記しておく。
 使っているボディーソープが、ノズルの開口部分でとてもよく固まる。「カタマラナイヨウニナルヤーツ」的な添加物を入れろよ、と思うが、それだけ実直な作りなのかもしれないな、とも思う。
 開口部分で液剤が固まっていると、ヘッドを押して中身を出す際、穴が変なふうに塞がっているために、思いもよらない方向に勢いよく液剤が噴射するので困る。これが本当に、意思があるのではないかと思うほどに、こちらがボディスポンジで受け止めようとしていない方向にばかり、液剤が飛んでいく。長年その状態が続いているので、こちらも学習して、ゼロ距離くらいの位置までスポンジを近付けてヘッドを押すのだけど、それでも液剤はスポンジをかいくぐる。前方に突き出たノズルの開口部から、そんな斜め後ろみたいな方向に液剤が飛ぶことあるかよ、というような現象が起る。奇想天外である。
 という、この話を前置きにして、ある日ふと思ったのだけど、要するに穴が小さいと、液剤の噴き出る勢いは増すわけで、これってまあ、ソープという、白濁粘液からの連想もあるに違いないが、ちんこだって当然この理論は同じわけで、射精も小便も、年を取ると若かった頃のような勢いがなくなるというけれど、それってつまり、尿道とかが使い込んだことでこなれて、体内的には昔と同じ量の同じ勢いの液体が、余裕を持って発射できるようになったという、つまりそういうことなんじゃないだろうか。勢いがなくなったことを減退と捉えるから哀しくなってしまうわけで、尿道のこなれ感と捉えると、途端に円熟味が出てくる。精液や小便の出方のおだやかさこそが、大人の余裕。

 やけにブログを書かない日々が訪れていたが、この日々の中で、新型コロナワクチンを夫婦ともども接種していた。ファルマンは1、2回目ともまあまあの副反応が出て、接種の翌日は寝て過ごし、それに対して僕は1、2回目とも、打った腕の筋肉痛めいた疼痛以外は、ほとんど副反応らしいものはなかった。つまりなんとなく事前から予想していた通りの結果だった。
 僕はファルマンからしばしば、正常性バイアスの高まりを糾弾されるのだけど、それぞれの人の世界の見え方、捉え方なんて、その人のそれまでの人生経験のことを思えば、矯正することなんて不可能だろうと、今回の副反応の結果で、改めて思った。ファルマンは副反応が起るだろうと思って、果して起った。僕は副反応はあまり起らないだろうと思って、果してあまり起らなかった。どうしたって、その確率から、経験則が生まれ、人格は形成される。
 病は気から、なんて慣用句は、時代に合わなくなったのか、昨今あまり使われなくなったような気がするが、正常性バイアス勢から見れば、不安がり勢に対して、思わずいいたくなることもある(でも今どきの時代性を踏まえ、いわない)。
 そして正常性バイアス勢には、致命的なウィークポイントがあって、不安がり勢には絶対に勝てないようになっている。それは、人はいつか必ず死ぬ、ということである。人はいつか必ず死ぬので、正常性バイアス勢の正常性バイアスは、事故なり病気なり、いつか必ず裏切られる。それに対して、不安がり勢が、不安がっていたものから裏切られることはない。その不安はいつか必ずやってくるからだ。
 結局なにがいいたいのか、自分でもよく分からない。どうせ感染しないよ、といってフェスに行くわけではない。もっとも心のどこかでは、感染しない気でいるし、感染しても症状は軽く済むだろうと楽観視している部分がある。その一方で、ワクチン接種の機会が与えられれば迷いなく受ける。そしてその副反応は軽いだろうと思う。小市民だな、と思う。

2021年7月9日金曜日

交際記念日・コブクロの小さいほう・バズって売れまくる

 7月8日は交際開始記念日。それは19のことだったので、18年前ということになる。
 今年はなぜか、18年、ということを思う前に、19歳だった、というほうに思いが募った。そうか、かつて僕は、19歳だったのか。僕に19歳の頃があったのか。なんだかもはや信じられない。幼少期は幼少期で、それはまあ当然あるだろうと思う。しかし19歳は、もう子どもではない「こっち側」のようでいて、しかし今の僕とはあまりにも違う、淡い幻のような瞬間であると感じる。その頃(何度でも言うけれどファルマンは当時すでに20歳だ)に、僕らは付き合いはじめて、18年後の今がある。年月の経過は、信じられないくらい早いが、早いから軽いかと言えばそんなことはなくて、早いのに重い。そんな性質を持っている。
 最近、自分たちが中学生くらいだった頃の出来事が、四半世紀前の出来事ということになるのだと思い至り、なんだかくらくらした。四半世紀前ということは、四半とはいえ単位が世紀レベルになったわけで、なんかもう、こうなってくるとメソポタミア文明とかもわりと身近なもんだな、なんてことを思う。物差しが壊れはじめているのかもしれない。

 先日なんとなく気持ちが上向きにならなくて、こんなときはあれだ、あれしかない、とコブクロの小さいほうによる国歌斉唱をYouTubeで再生したのだけど、期待していたほど心が躍らず、さらに落ち込む結果になった。コブクロの小さいほうの国歌斉唱で愉しい気持ちになれない日が来るだなんて、ぜんぜん想像していなかった。
 それでファルマンに、「俺はもうコブクロの小さいほうの国歌斉唱でも喜べない人間になってしまったんだ……」と相談したら、「観過ぎ」と一蹴された。
 井森美幸のスカウトキャラバンでのダンスは、あまりにもおもしろくて有名だが、ホリプロはそれがテレビ番組で濫用されネタとして世間から飽きられるのを防ぐため(所属タレントがバカにされているから怒ったとかではぜんぜんないのがいい)、一定期間は映像を提供しないことにしたそうだが、コブクロの小さいほうの国歌斉唱も、なんらかの力によってその対策が取られるべきだったのだ。僕は濫用し過ぎた。もうすっかりオーバードーズで、市販薬ではぜんぜん効かない体になってしまった。

 papapokkeのほうのツイッターで、なんか作者は「みんなの好きな!」みたいなテンションでminneでオリジナルグッズを売ってるけど、ヒットくんやクチバシなんてこの世のほぼ全員(70億分の55人くらいしか知らない)が知らなくて、それじゃあ売れるはずもないと気づき、キャラクター紹介のため、それぞれのイラストともに心の叫びおよびつぶやきみたいなものを、2週間ほど前からアップしているのだけど、「#イラスト」の効力によりポツポツと反応はあるものの、minneの購買層に訴求している気配はまるでなく、なによりヒットくんもクチバシも、結局のところ卑屈で性格が悪いわけで、その内容を見かねたファルマンから、「あれってやればやるほど作者が面倒臭い人だってことが明らかになるだけで、逆にどんどん買いづらくなるんじゃない」と指摘を受けた。
 「じゃあどうすればいいんだよ!」とガチギレして訊ねたところ、「性格悪いことをただ言っておしまいだと救いようがないから、人志くんとの掛け合いにしたら?」と提案され、「めちゃくちゃそれだよ!」と大採用した。
 というわけで今日のツイートからは、漫画といえば漫画の、人志くんとの会話形式になっております。みんな「いいね」したり、minneでバッグ買ったり、してほしい。

2021年6月15日火曜日

マスク・ボタンホール・車

 先日、結局は大事に至らなかったのだけど、喉が掠れる感じがあり、それは子どもたちが例のごとくどこかから持ち帰った風邪を、例のごとく順繰りにこなした直後のことだったので、ああやっぱり避けきれなかったか、と暗い気持ちになりながら、マスクをして眠ることにした。しかしマスクを着けて寝ようとしても、寝て肉体が本能に支配されると、どうせすぐにマスクは取ってしまうのだよな、と思った。思いながら寝た。そして数時間後に起きたところ、口元にマスクがそのままの形で残っていたので驚いた。ああ、もう体が、本能が、マスクのことを異物として捉えなくなったのだ、と思った。人類の、何十何百何千年の蓄積ともいうけれど、案外その一方で、1年くらいでがらりと変わることもいっぱいあると思った。

 ファルマンにブラウスを3着作り、基本的には軽快に作業を行なったのだが、最後に気の重い工程があって、それはボタンホール作りである。ボタンホール縫いは家庭用ミシンを使わねばならず、しかもそのミシンが、機能的にもともと頼りないのに加え、近ごろは寿命的な息切れも感じさせはじめてると来ては、スムーズに済むはずがなく、案の定おおいに難航した。特に困難なのは、襟とカフスの、生地が厚い部分の縫いだ。途中で糸が切れたり、送り歯が止まったり、何度も失敗を繰り返す。そして何度も失敗すると、生地がだんだん力なくなってくるので、ますますくしゃくしゃになりやすくなるし、なにより仕上がりに影響してくる。とにかく嫌で嫌でしょうがないのだった。それで苦労しながら、ああ、もっとボタンホールを縫うのが得意なミシンが欲しい、と心の底から思う。そこで検索してみたところ、そういうことを謳っているミシンは、普通のものよりちょっと高くて、7万円くらいしていた。7万……、ボタンホールのために7万……、と逡巡する。それにしたって失敗が続く。縫える気配がない。もう嫌だ。ほどくのに時間ばっかり掛かる。かといって7万のミシンをポンとは買えない。どうしよう、どうしよう、と悩んだ結果、もういっそのことこれでいいじゃねえか、とひらめく。すなわち、最後に開ける予定の穴の印の周りを、工業用ミシンで5周くらい縫うのである。毎周、少しずつずらして、太いステッチになるような感じで、穴を開ける部分を囲う。そんでもって穴を開ける。なんでえ、これでよかったんじゃんか、と思った。工業用ミシンでならば、正確に印を囲んで縫うことができるのだ。これで十分に、ボタンホールとしての要件は満たす。どうも「ボタンホール縫い」という言葉に縛られ過ぎていたようだ。縫製が終わったあと、家庭用ミシンを引っ張り出してきて、にっちもさっちもいかないボタンホール縫いをするという作業がなくなったことで、服作りに挑む気持ちがとても軽くなった。とても嬉しい。

 ファルマンがとうとう免許を取るということで、5月の終わりごろに、車の購入の手続きをした。車がなければどこにもいけないこの地域で、ファルマンが行動をするために免許を取ったわけで、車がもう1台なければどうしようもない。なので買うほかない。これまでのMRワゴンを主にファルマン用とし、主に僕用として新しい車を買うことにした。そしてどうせ買うならば、やっぱり軽というわけにはいかず、普通車、それも実家の近くに住んでいるということを思えば、いざというときにもう少し多く人が乗れる車のほうがいいのではないか、などと考え、かといってワゴン車ほど大仰なものはさすがに嫌なので、まあ現代においてこのあたりの希望を持つ輩というのは、ほぼ二択、ホンダのフリードか、トヨタのシエンタのどちらかを選ぶことになるわけで、どちらにも試乗した結果、わが家は前者を選んだ。「ちょうどいい」のやつ。かつてCMに東出昌大が出ていたやつ。納車はまだなのだが、試乗した感想として、軽自動車の世界の、愛嬌などの尺度とはまるで異なる、どこまでも実用的な車で、完全に語彙が喪失してしまっているが、これは「車」だなー、ということを思った。この「車」さを前にしたら、軽自動車ってあれ、もしかしたら本当は車じゃないんじゃないかと思えてくるほど、実に「車」だった。僕はこれから、やっと「車」に乗るのかもしれない。車って、そうか、車なんだな、と新しい車観が啓けた。納車が愉しみ。

2021年6月14日月曜日

みょうが・インスタ・直角二等辺三角形

 先日、今日のメニューは天ざるうどんだな、と心に決めてスーパーに行った際、ふと目に入ったみょうがを、なんとなくカゴに入れた。これまでいちども口に入れたことがなく、味の予想もつかなかったのだけど、絶賛する人は絶賛しているし、なんとなくだけど俺もそろそろみょうがの年齢になったのではないか、と思ったのだ。
 それで薄切りにして、青ねぎやしょうがとともにつゆに浸し、麵を啜ってみたところ、ファルマンと目を見合わせ、互いに目を丸くするほどに、それは衝撃的に絶妙な味で、ねぎと、青じそと、しょうがの、いい部分だけをひとつの肉体の中に内包させたかのような、マッドサイエンティストが生み出した悪魔のごとき食物だと思った。こんな、人類にとって都合のいい食べ物が、この世にあるのかよ、と震撼した。もうみょうがなしでは冷麺を食べられない体になってしまった気がする。
 それくらいおいしかったのだけど、とはいえ、これまで俺はどうしてみょうがを食べずに生きてきたのか、という後悔はまるでない。これまではみょうがを必要としない人生で、これからはみょうがを必要とする人生という、ただそれだけのことだからだ。この考え方は、みょうがが教えてくれたが、みょうが以外の事柄にも応用できると思う。みょうが人生訓。人生に大事なことはすべてみょうがが教えてくれた。

 ヒットくんオリジナル生地で作ったトートバッグが、本当にたくさん売れてほしいので、販促活動の一環として、インスタグラムを始めようと思い、アカウントを取得した。しかし取得したものの、記事はまだひとつもアップしていない。なにをどうアップしていいのか、さっぱり分からないのだ。思えばTwitterに関しては、始める前から一応の予備知識はあった。別に誰かのTwitterを熱心に読んでいたわけではないが、それでもインターネットをしていたらTwitterの画面というのは自然と目に入ってくる。そのため、ああいうものだな、ああいう文脈のものだな、というのが判っていた。しかしインスタグラムにはそれがまるでない。これまで、目に入ってきたことがない。「インスタグラムで話題」というウェブ記事は頻繁に目にするものの、インスタグラムのページそのものは見たことがなかった。本当にセンサーに引っ掛からなかったのだと思う。
 アカウントを取得すると、まず「おすすめ」として、芸能人とかのアカウントが列挙され、それらをボタンひとつでフォローできる。もちろんするはずもない。芸能人に限らず、僕は別に人の情報なんか欲しくないのだ。僕はただ、自分の作ったトートバッグの販促活動がしたいのだ。しかしSNSにおいて、情報というのは決して一方通行には進行しない。動脈と静脈のように、循環することによってようやく巡るようになっている。フォローしない、つながらない人間の放つ情報は、本当に誰の目にも届かない。本当にだ。なぜならそこには光がないからだ。光がなければ物は見えない。光とはすなわちつながりの関係性だ。世の中はいま、そういうことになっている。ブログ→Twitter→インスタグラムと、どうもこの順番に、その度合は濃くなるように思う。インスタグラムを始めて、誰のこともフォローしていない僕はいわば、「どろろ」の最初の状態のようなもので、ここから仮にいろいろな人をフォローして、つながりを持っていけば、手や足が手に入り、人間らしくなっていくことができるという、どうもそんなような世界観のようだ。厳しいな。
 スマホで「インスタグラムの愉しみ方」などで検索をかけ、出てきたページを必死で読んだりするが(やっていることがあまりにもおっさんらしい悲哀に満ちている)、読めば読むほど、いったいなにがおもしろいのかさっぱり解らず、途方に暮れる。画像と、短文と、ハッシュタグで、だからなんなんだ。他人のそれが、なんなんだ。もうおととしになるか、タピオカドリンクの写真を撮って、インスタにアップして、飲まずに捨てる輩が多くて社会問題になったりしていたが、実際にインスタグラムのアカウントを取得したことで、ますますこの話が奇異に思えてきた。タ、タピオカドリンクの写真……? いったいそれになんの価値が……?
 こんなに情趣が解らないのに、とにかく物を売りたくてとりあえずアカウントを取得してみるだなんて、まるで中小企業の役員のようだと思う。「なんか、あれだろ、若者は、ほら、エスエス……? エスエヌ……? なんかそういうので、すごく話題になるんだろ? あれやってみろよ。まずそういう行動をしてみることなんだよ」みたいな。完全にそれ。

 トートバッグのマチは5センチなのだけど、マチを縫う前のアイロンというのが、微妙に面倒臭い。片側にズレると不格好な三角になり、出来上がりのバッグの形も歪んでしまうので、けっこう気を遣う。最初に作った3枚(すぐに完売してしまった)は、それでもいちいちものさしを置いて、微調整してアイロンを当てたのだけど、今後さらに量産していくにあたり、どうすれば効率化できるか考え、ゲージを作ることにした。アイロンに耐える素材で、欲しい大きさの三角形を作り、それを布にピッタリ当てることで、一発で求める形の三角形を作り出すという寸法だ。
 それで、どういうゲージになるかということを頭の中で考え、下の辺の長さが5センチの、二等辺直角三角形ということだよな、と思う。そこまでは考えられた。でもそこから先がさっぱり解らない。一辺が5センチだとして、同じ長さとなる残りの二辺の長さはなにか。そして三角形の高さはなにか。まさかこの年になって、生活の中でこんな三平方の定理的な、サインコサインタンジェント的なことで頭を悩ますとは思ってなかった。
 考えても分からないので、試験問題ではない特権で、方眼紙に5センチの直線を引き、目的の直角二等辺三角形を切り出す。その形さえ手に入ればそれ以外の情報は別にいらないのだが、いちおう測ったところ、残りの二辺の長さは3.5センチとなり、そして高さは2.5センチだった。こうして測ってから気づいたが、5センチの下辺を合わせてこの三角形をふたつくっつけたら、対角線が5センチとなる正四角形になるわけで、そう考えたら高さが2.5センチなのは自明の理だった。さらにいえば、その正四角形の1辺の長さは3.5センチなので、面積は12.25平方センチとなり、これって対角線の5センチを2倍にした数字の半分だけど、そういう法則でもあるのかしら、と思って検索したら、「四角形の面積は対角線の二乗÷2」なのだそうで、大正解だった。僕は十代の頃、戦争がひどくて学校に通えなかったから、こういうことをまるで学ぶことができなかったのだけど、こうして自分で必要に迫られて考えると、とてもおもしろいもんなんだな、と思った。

2021年5月23日日曜日

オオキンケイギク・友情・百年前日記

 今年は異様に早く梅雨入りし、そもそも山陽から山陰に冬に出てきて、ようやく本格的な春となり、これからは山陰のとても限られた、明るい天候の日々になると思っていたら、見事に期待を裏切られた。やー、ぐずつく。日本海側は本当にぐずつくな。
 それで、向こうとは気候があまりにも違うし、生活もなにかとバタバタしていたりで、すっかり失念していたのだけど、先日車で走っていた道の端に、オオキンケイギクが咲いていて、「あっ」と思った。そういえば、5月下旬は、オオキンケイギクの咲く時期だった。
 あまりにも悪名高く、好きだなんていったら白眼視されるオオキンケイギクだけど、でもやっぱり形といい、色といい、好みだ。
 そのとき見かけたのは道路と歩道の間のちょっとした土の部分に咲いていたもので、目にして思い出した感慨はあったものの、スケールとしてはあまりにも物足りなかった。それ以来、どこかに群生していないものかな、と期待しているのだけど、行動範囲には残念ながら見当たらない。川や湖など、近所に水辺はけっこうあるのだが、どうやらこの土地はあまりオオキンケイギクに侵食されていないようだ。それはたぶん世の中的にはいいことなのだが、個人的には少し悲しい。
 ちなみに僕のLINEのプロフィール画像はオオキンケイギクだ。

 相変わらず「ズッコケ三人組」を読みまくっている。元のシリーズはもちろん、中年のほうももう半分くらい読んだ。前回これについて述べたとき、よく考えたらズッコケ三人組って友達の物語じゃないかよ、といまさらながらに憤慨したが、読めば読むほどその思いは強まっている。このシリーズは、友情とか親友とかの大切さを押し付ける、説教臭い児童文学ではなく、たとえば「おいしい」という言葉を使わずにおいしさを表現する、みたいなもので、ハチベエ、ハカセ、モーちゃんの3人は、ことさら友情を確かめ合うわけではなく、むしろその結びつきは友達と呼ぶには足りないくらい淡白のような気さえするのだけど、しかしやっぱり強い友情がここにはあるのだ。その友情はあまりにも強固で当たり前のものだから、わざわざ語るまでもないのだ。それだから僕は時間差でそのことに気づいて、なんだよこれめっちゃうらやましいやつじゃん、と身悶えることとなった。
 友達が欲しい、などといっている間はダメなのだ。友達とは気づいたらなってるもの(「君に届け」)だし、なんとなくいつも一緒にいて、周囲から「ズッコケ三人組だ」と評されるものなのだ。すなわち、友情とは無自覚であるべきなのかもしれない。友情は無自覚であるべきだと自覚した僕と、誰か友達になってくれないだろうか。

 ブログが拡散し、ふたたびこの「hophophop」や「おこめとおふろ」を投稿するようになったことで、それまで収束していた「百年前日記」を今後どう扱ったものか悩んだ結果、去年から書いている、去年からの日々を綴った、その名も「百年前日記」を、不定期に更新している。しかしあまりに赤裸々な内容なので、いちいち投稿報告はしていない。しかし投稿報告をしないと、あまりにも誰にも読まれていないような気がして、もっともこれは投稿報告をしたところでそう変わる気もしないのだけど、とにかく広く読まれたいような、あまり読んでもらいたくないような、いかにも、あえてこの時代にブログなんてものをやっている、こじらせ感が横溢している次第だが、しかしこの複雑な心境こそブログの真髄だろうとも思うわけで、その思いの発露として、やっぱり投稿報告はしないのだけど、このたびここに、そんなものを不定期に更新しているんですよ、ということを記した。こじらせている。

2021年5月11日火曜日

体・夏・友

 サウナやプールで自分の体を見るたびに、首をかしげる。
 この体は……、締まっているのか? それともただ痩せているのか?
 自分でも、どうにも判断がつかないのだ。167センチで53キロなので、瘦せ型ではある。だから知らない人から見たら、僕は筋肉がついている人ではなくて、贅肉がないものだから必要最低限の筋肉が表面に露出しているほうの人にしか見えないだろうと思う。しかし曲がりなりにも、僕は実は筋トレをしている人間なのだ。筋肉がきわめてつきにくい体質ではあるけれど、そうはいっても体としてもなんかしらの反応は示しているはずだ。これはその筋肉だ、だからこの人物はいわゆる細マッチョなのだ、という気もする。
 筋トレを始めてもう2年あまりになるが、それなのにまだこの段階、というのが切ない。

 先日とある場所で見かけた女性が、非常にどこかで見たことのある気がする顔の人で、誰だっけ誰だっけ、としばらく悩んだ。島根県生活も2度目なので、かつての職場で知り合った人物であるとか、いろいろ選択肢はある。しかしなんとなくの印象で、どうもそんな最近の交流ではないような気がする。あの人を見たのは、もっとずっと前、たとえば僕が十代の頃だったのではないか。しかし十代ということは横浜市時代である。そんな頃に知り合った人と、まさかこんなふうに島根県でばったり出会うものだろうか。まあ自分自身がこうして島根県に来ているのだから、相手だってなんかしらの事情により島根県にたどり着く可能性はいくらでもある。しかしそれにしたって思い出せない。絶対にどこかで見たことあるのに、どの時代のどの集団にいた人なのか、まるで見当がつかない。もっともよくよく思い返してみれば、別にそこまで特徴のあるわけでもない、よくある顔だ。どこで出会ったということもなく、人生の端々にあの手の顔の女性というのは存在していたのではないか。そんなふうにも思った。
 それでもずっと頭の中で、その女性の顔を思い浮かべていた。
 そして夜になって、つまり5時間くらい経って、ようやく思い至った。
 まさか本人ではないと思うが、あの女性は、モーニング娘。の振り付けで知られる、夏まゆみ先生にそっくりだったのだ。なるほどあれはよくある顔だ。同級生の母親とかに、必ずひとりはいる顔。そして自分が十代の頃に交流があった(「ASAYAN」などでよく目にしていた)、というのもぴったり当て嵌まる。特定できてとてもすっきりした。

 「ズッコケ中年三人組」に手を出す。目下「ズッコケ三人組」を僕と競い合うように読んでいるポルガと、これも一緒に読もうと思っていたが、冒頭からハチベエは水商売の女をホテルに誘い、不倫をしようとしていたため、とても読ませられない、と思った。あくまで、かつて「ズッコケ三人組」を読んでいた元子どもの大人、すなわち僕みたいな人間向けに書かれたものであって、リアルタイムで児童書のそれを読んでいる子どもには向けていないらしい。挿絵もないし、ここまできっぱり貫いていると気持ちがいいと思った。
 この本で主人公たちは40歳になり、それぞれの実生活においてそれなりに苦労をしているが、しかし彼らがどれほど苦境に立たされたところで、やはり「三人組」というくらいで、その友達の存在がずるいと思った。「ズッコケ三人組」は、それほど友情物語というわけでもないけれど、しかし三人組だ。そういえばずるい。いまさら気づいて、そのずるさにおののいている。

2021年4月26日月曜日

ビール・ファル教・ズッコケ

 この3日ほど、ビールを飲んでいない。なんか唐突に飽きたのだ。たまにこういうときがくる。ビールに限らない。僕の性分だ。急に冷めるのだ。この飲み物を、どうして僕はそんなにせっせと飲むのかと、とても不思議な気持ちになった。義理立てするかのように必ず、なぜ飲んでいたのか。どうしても飲まなければならないほどおいしいものでもないだろう。というより、飲んで得られる旨味も爽快感も、もう分かりきっているだろう。じゃあもう実際に飲む必要なんてないんじゃないか。
 飲むと運転ができなくなる、というのも飲む気を萎えさせる理由のひとつだ。夜に運転ができるとして、まさかこの僕が友達と遊ぶわけでもあるまいし、いったいどこへ行くというのか、という話ではあるのだけど、なんというか、気持ちの問題なのだ。車を運転できるということは、夜が、すなわち一日が、まだまだ展開し得るという希望になる。心底おいしいわけでもないものを飲んで、その希望をどぶに捨てるのが惜しくなった。
 これまで呪いのごとく欠かさず飲んでいたので、飲まないでいると、解放感がある。一日の疲れを解放するためのビールだったはずなのに、日課になったことで、逆に枷になっていたのかもしれない。手離してみたらとてもすっきりした。今回はビールだったが、こういうことは人生の中でたびたびある。好きなことも、高じたり重ねたりすると、いつしか囚われるようになる。そこを突破してさらに突き詰めれば、極めるということになるのかもしれないが、なかなかそこまで入れ込めるものは少ない。少なくともビールは僕にとってそれではなかったようだ。これからは飲みたいときにだけ飲もうと思う。

 ファルマンの教習所での適性検査の結果が返ってきて、おもしろかった。「注意力:C」、「判断力:C」「柔軟性:C」「緻密性:C」などと、概ね評価は低く、それはそうだろうと思ったが、その評価欄の中で燦然と輝く「A」評価もあって、なんだろうと思ったら、「自己中心性」と「虚飾性」だった。ファルマンはこれを、「Aがいちばん低くて良いということだ」と主張するのだが、そんなことは用紙のどこにも書かれていないし、悪い要素のときだけ評価(Aが「すごい度合」、Bが「普通」、Cが「皆無」であると認識した)が逆になるなんて、ややこしいだろう。それに、もう17年以上もファルマンと一緒にいる僕が、「自己中心性」と「虚飾性」がめちゃくちゃ高いという診断結果に、とても納得がいったので、やっぱり逆じゃないんだと思う。まあそんなこといったら、日芸なんかに行く人たちは、もちろん僕も含めて、だいたいこの結果になる気もするけれど。
 それにしても厳しい。言葉に容赦がない。「自己中心性」は、「ジコチュー」として言葉に馴染みがあり、まだ受け止めようがあるけれど、「虚飾性」と来たらどうだ。虚飾。なんと残酷で哀しい言葉だろうか。38歳になって教習所に通ったりしなければ、指摘されることもなかった虚飾性。言ってやんなよ、とさすがに思った。

 ポルガが「ズッコケ三人組」を図書館で借りていたので、なんとなく僕も手に取って読んだ。そうしたら殊の外おもしろかったので、むしろ親のほうが嵌まるパターンのやつで、次々に借りて読んでいる。2ヶ月ほど前には、同じくポルガの借りた「ルドルフとイッパイアッテナ」がきっかけで、斎藤洋を何冊も読んだ。仰々しいわりに大した中身のない一般小説よりも、児童向け小説のほうが文章も簡潔でよほど読むに堪えるものがあるのだなと思った。
 もっとも「ズッコケ三人組」シリーズは、さすがに今回が初邂逅ではなくて、まさに児童の頃に何冊か読んでいる。しかし中学生になってミステリに傾倒するまでは、そこまで熱心に本を読むタイプでもなかったので、本当に「何冊か」だ。
 それで今回改めて読んだ結果、まず驚いたのは、この物語の舞台が東京ではなかったという点だ。読めば普通に、「瀬戸内海に面した街……」みたいなことが書いてあるのだが、なぜか勝手に東京だと思い込んでいた。登場人物たちの言葉に方言がないことと、ハチベエの家が八百屋であることから、「ドラえもん」や「キテレツ大百科」などのイメージと重ねてしまっていたんだろうと思う。
 シリーズは2004年に完結し、そのあとスタートした、三人組が40代になったシリーズも、もはや完結しているらしい。ズッコケ三人組が40代か。まあ僕が小学生の頃に読んでいたのだもんな。それどころかシリーズ初刊の刊行は1978年だそうで、そう考えれば1960年代生まれということになる彼らが中年や熟年になるのは当然のことではある。きっとそのうち僕はそちらのシリーズにも手を伸ばすだろうが、なんとなくそれが実際に描かれたことには、グロテスクな、デストピア感もある。

2021年4月16日金曜日

ファルマン自動車教習・ぽんぽこ・信用筋

 ファルマンがとうとう教習所に通いはじめ、期待していた通りにおもしろい。
 まず適性検査がおもしろいんだろうな、と思っていたが、案の定で、これは質問に答えていくことで自己分析を促すのが目的なのか、回答結果で点数が算出され、「適性がないので退所してください」みたいなものではないわけだけど、どうしたって取り繕いたくなるのが人情で、ファルマンは「自分はすぐカッとなるほうだ」という問いに、「どちらともいえない」の項にチェックを入れたり、「ひとつのことに集中すると周りが見えなくなる」という問いに、「どちらともいえない」と答えたりしたそうで、あまりにも大嘘なのだった。どちらに関しても、もしもコンテストがあれば世界レベルの活躍ができるほどに、「その通りです!」と自信満々に答えるべきだった。ファルマンほどすぐにカッとなり、そしてひとつのことに集中すると周りが見えなくなる人間を、僕は知らない。
 実習も始まり、すなわち教習所内ながら、ファルマンは初めて車の運転をしたのだった。まだ信号も坂道もなく、ただの周回コースをぐるぐると走っただけなのだが、この時点で適性検査での取り繕いはいとも簡単に剥がれ落ち、助手席の教官からは終始半笑いの対応をされたらしい。はじめのうちは教官も、「右」や「左」と指示を出していたらしいのだが、やがてファルマンが右と左がすぐには分からない人だと察したらしく、「植木のほう」とか「ポールのほう」というふうにいってくれるようになったという。
 今も家でイメージトレーニングをしているが、今日は内側の車線を走り、つまり周回コースを左回りにずっと巡っていたはずなのに、復習といいながらエアのハンドルを右に回したりしている。一連のそのさまは、エンターテインメントとしてはとてもおもしろいのだけど、教習の追加料金のことを思うと、他人事ではないので不安な気持ちでいっぱいになる。道のりはきわめて険しい。

 タブレットからスマホになって、ポケットで持ち運べたり、機械を顔に当てて電話できるのは快適なのだけど、画面はやはり小さく、写真や動画を見てもいまいち心が動かないし、画面上のキーボードも、打ち間違いばかりする。かといってフリック入力もいまさらできる気がしないし、なるほどこうして人は音声入力に頼るようになり、どんどんバカになっていくのだな、などと思う。あとこれはスマホだからなのか、メーカーの方針なのか、あるいは時代による変化なのか知らないが、microSDに保存している画像が、すんなり管理閲覧できなくて、いちいちクラウド的な、なにか大きなところからの干渉を許可しなければ取り扱えないみたいな仕様になっていて、これが大きなストレスになっている。本体なりSDなり、個人的な記憶媒体内の画像を、なぜサクサク自由に扱えないのか。アプリだなんだと、これまでできなかったことが魔法のようにできるなどと謳いながら、肝心なところで気色悪い制約があり、居心地の悪さを感じる。
 これまで使っていたタブレットは、子どもたちの音楽再生用に転用されているのだが、先日なんとなく久しぶりに手に取ってみたら、画面の大きさや、そもそも製品の理念としてのパソコン的な包容力に、やるせない気持ちになった。仕事上、ポケットに入れて持ち歩ける必要があってスマホにしたという経緯もあり、「平成狸合戦ぽんぽこ」のラストのような、のどかなあの時代に戻りたい、みたいな物哀しさを覚えた。

 冬や生活のゴタゴタを理由に筋トレをサボっていたら、さすがはアーバンマッスルと呼ばれる俺の筋肉、おい俺の筋肉、どうしたんだい、というくらいに、1年半くらいかけて付けた筋肉という筋肉が、体から消え去った。築くのには長い時間がかかるが、崩れるときは一瞬。筋肉とは、信用なのかもしれない。そのくらい容易に失われた。今になって再興を試みているが、失った信用を取り戻すのは難しい。筋肉を増やすためには、負荷をかけてトレーニングをするわけだが、筋肉そのものはなくなったくせに、トレーニングのこなし方みたいな小手先の技術ばかり体に残っていて、やっていてもどうも体にきちんと負荷がかかっている気がしない。なんか、スンとしている。本当に僕の筋肉はアーバンで、ビジネスライク。もう少し、儲けにならなくても名前を守り続けるみたいな、人情発想はないものかよ。

2021年4月5日月曜日

グラニフ・ハエ叩き・あってほしい

 グラニフが「ハッスルパンチ」とコラボしたTシャツを発売していて、戦慄する。
 そんなことってあるか、と思った。
 だって「ハッスルパンチ」なんて、別にぜんぜん盛り上がってない。ほとんど誰も知らないだろう。僕だって実際なにも知らないのだ。知らないけど、「アニメロゴ一覧」みたいなページで、このロゴいいなと思ったからTシャツにしただけなのだ。職場に着ていっても、誰からもなにも触れられなかった。そのくらい訴求力がないのだ。「ハッスルパンチ」には。それがまさか1年後、グラニフで正式なコラボアイテムとして販売されるとは。
 本当に意味が解らない。売れるはずがない。ロゴがかわいいからワンチャンあるとでも思ったのだろうか。だとしたら僕と気が合いすぎではないか。そもそもグラニフオリジナルキャラのビューティフルシャドーとヒットくんの近似性はどうなのか。
 謎が謎を呼ぶ。しかしさすがに「ハッスルパンチ」にはちょっと寒気がした。グラニフはそのうち「ウサントタッバ!」Tシャツも作りうるな。

 職場のおばさんが、職場に発生した蠅に、古式ゆかしいハエ叩きで立ち向かい、おばさんの振り上げたハエ叩きは見事に蠅を捉え、強打を受けた蠅はあえなく落下した。その一部始終を、僕はぼんやりと眺めていたのだけど、そのあとおばさんがとてもなめらかな仕種で、ハエ叩きの柄の端から、ピンセットのようになっている部分を取り出し、それで蠅の死体をつまんでゴミ箱に捨てる場面を目撃し、驚嘆した。
 そもそもこれまでの人生で、ハエ叩きというアイテムが、あまり身の周りにはなかったのだけど、もちろん存在は知っていて、それは60センチくらいの柄にラケットのような面がついていて、それで完結しているものだった。それ以上でもそれ以下でもなく、イメージがそれで定まっていた。
 そこへ、柄の端にピンセットが内蔵されているというギミックが突如として現れたので、大袈裟だけど、世界の見え方が変わったような気がした。世界って、僕が思うよりも奥が深いのかもしれない。気づいていないだけで、ハエ叩きの柄のような機能を持っているものはいっぱいあるし、あるいは現状持っていないが、ハエ叩きの柄のような機能を持たせうるものもいっぱいあるのではないかと思った。それくらいびっくりした。

 ファルマンがとうとう自動車教習所に通うという。
 いまさら、という気もするが、岡山以上に車がなければどうしようもない島根で、子どももこれから大きくなって行動範囲が広がり、さらには生々しい話だけど、親だっていつまでも運転できるわけではないので、たしかに免許は断然あったほうがいい。それはそうなのだ。それはそうなのだが、それなのに周囲の誰もそこまで積極的に「免許を取りなさいな」といい出さなかったのは、それはもうひとえにファルマンの気性、というよりも適性によるもので、通うことが決まった今でも、「俺が教習所へ行くのを強く止めなかったばっかりに……」となる未来を想像してしまい、恐怖を覚える。たぶん教習所でファルマンは、「だろう運転」ではなく「かもしれない」運転を心がけましょう、という講習を受けるのだろうが、わざわざいわれなくても、ファルマンの運転は筋金入りの「(事故る)かもしれない」運転だ。あるいは単なる疑いではなく、若干の確信さえも伴うという意味では、逆に「(事故る)だろう」運転である気もする。そしてどうか、アクリル板越しに面会とかするはめに陥らない程度の事故で「あってほしい」運転でもある。最後はとうとう祈りになった。
 もちろんオートマ限定なので、エンストとかはないのだが、それでもファルマンがこれからS字クランクやバック駐車などに奮闘するのかと思うと、とりあえずそのさまはエンターテインメントとしてとてもおもしろそうだな、と思う。労働が休みの日と実地の授業日が重なる日があれば、送迎を兼ねて見学したりしようかな。

2021年3月31日水曜日

ホイール・桶・半年

 先日スタッドレスから普通のものへタイヤ交換をしたのだが、それから数日後に、その日に換えたタイヤはわが家のものではなく三女の車のものだったということが判明し、なかなか面倒だった。世話してもらっておいていうのもなんだが、こちらとしては「だってうちのタイヤ交換の日、実家に行ったらお義父さんが倉庫からもうそのタイヤを出してくれてたんだもん」ということになる。そうなったらそこからは心を殺し、唯々諾々とタイヤを運び、指導を受けつつ適当にヨイショし、一刻も早く作業が終わるよう推し進めるばかりだった。ホイールがぜんぜん自分のものとは違うやつだ、などという間違い探しの超難問が判るはずがない。そもそも自分のホイールがどんなものだったか、このことはこのたびのスタッドレスタイヤへの交換の際にもさんざん、「ホイールの話にまるで興味がないよー」という嘆きとして記述していて、今回の取り違え事件によって期せずして、それが本心からの叫びであったことが証明されたわけだが、僕は本当に認識してなかったのだ。それに対して三女というのは、わざわざ軽ではなく普通車に乗っているような人間なので、ホイールにもそれなりにこだわりがあるらしい。次の冬までお互いのタイヤを使えばいいんじゃない、とさえ僕は思ったのだが、そういうわけにはいかないらしかった。なのでこのことが判明したあと、仕方なくまた実家へ行き、数日前にスタッドレスから交換したばかりの普通タイヤを、正しい普通タイヤに交換するという作業をファルマンとふたりでした。それでその際に見較べてみたら、三女のタイヤのホイールと、僕のSUZUKIのSのマークが入ったホイールは、ぜんぜん違った。僕のそれがゲッターロボだとしたら、三女のそれは真・ゲッターロボのようだった。伝わるだろうか。僕のはセル画時代の、古き良きロボットアニメのような平和さであるのに対して、三女のはゲッター核分裂が起り、劇画っぽくなり、ぬめぬめ動くような、なんかそんな感じということだ。まあいちど真・ゲッターロボに乗り込んでしまった人間は、もうただのゲッターロボには戻れないよな、とふたつのホイールを眺めて思った。もちろん僕は相変わらずどうでもいいけど。作業をしながら、「自由に使えるお金がいくらあったらタイヤのホイールを買い替えるか」ということを考え、たぶん400億円くらいあっても僕はこれにはお金を使わない、と思った。

 新生活でいろいろなものを捨て、いろいろなものを買ったが、その中でベスト3に入るいいものとして、風呂で使う桶がある。ダイソーで、100円で買った。
 僕もファルマンも、手桶や洗面器を駆使するのが下手で、お湯を張った風呂のときも、すぐにシャワーを使ってしまう。水道代の無駄だろう、ということをたまに省みては、もはや風呂場から追放してしまっていた手桶や洗面器を再び持ち込むのだが、やはりうまく使えず、日々使わないそれというのは、流れる水は腐らないの理屈通り、あっという間にカビて、結局また風呂場から追放されるのだった。それが繰り返された岡山での暮しだった。
 新しい住まいになるにあたり、その流れを断ち切ろうということで、これまでの手桶と洗面器は向こうで処分し、こちらで新しいものを買うことにした。どんなものを選べばいいか、なんとなくイメージはできていた。手桶と、洗面器、どちらの用途でも使えるような、具体的にいうとケロリンのサイズの、小ぶりな洗面器だ。あれが1個あればそれでいいのだ。というわけでそういうものを探す。すると、そんなこちらの意図を見事に汲み、さらにはその1歩先を行く、小ぶりな洗面器の外側の底面が段差になっていてグリップしやすい、というデザインのものが売られていて、感激して買った。
 感激して買ったが実際に使ってみたらぜんぜんダメだった、ということは一切なく、日々その感激を続けながら使っている。この話に起伏は一切ない。使いながら、常々「これは本当にいいものを買ったなあ」と思い、これについて日々の記録であるブログでまったく触れないのはおかしいだろうと思ったので、こうして書いた。

 去年の9月以来の「hophophop」、もとい「百年前日記」以外のブログ記事であった。去年のその時期のことを思い出し、なるほどそのタイミングか、などと思う。10月から「百年前日記」への収束が開始し、今日で本当にちょうど半年だ。なんかまあ、なるほどこの半年間は、「百年前日記」というブログがひとつあればそれでよかったし、それで精いっぱいだったよな、と思う。そして半年後の今日、なんとなくこうして「hophophop」を書いてみた。暮しの中に、「hophophop」で拾うような出来事もやっぱりあるだろうというような気がして、それで書いた。これから、妖怪たちに奪われた自分の体を取り戻すように、あのブログも、このブログも、ちょっとずつ復活させていければいいと思う。