毎日が暑い。仕事中はエアコンの入った場所にいるのだが、エアコンの性能が今年の暑さに追い付かず、常に微妙に暑い。よく効いた冷房が「答え」だとしたら、職場のあれは「ヒント」だと思う。たしかにそれによって乗り越えられるようになるのだが、完全に楽をさせてはくれない。教育的だと思う。数年前のように、凍えるように寒くなって自律神経が崩れるとかはなさそうでいいが、体力は日々じわじわと削られている感じがある。
それで、どうしても体がしんどくなり、先週あたりから、睡眠時間を1時間増やした。これまで6時間目安だったところを、7時間目安にした。そうしたら劇的と言ってもいいほどに効果があった。6時間だった睡眠を7時間にすると、活動時間はたしかに1時間減るのだけど、起きているときの活力において、トータルで1時間以上の効果が出てくる気がする。35歳になんなんとする年齢で、ようやくそのことに気付いた。この論でいけば、23時間くらい寝て、1時間だけ活動すれば、僕はとてつもない力を発揮できるかもしれない。1時間でなにができるだろう。食事と射精くらいか。23時間寝ての射精はよく飛ぶかもしれない。
したかいがあった、というときの「かい」って、これまでまったく疑問を持たずに「甲斐」と表記していたのだけど、甲斐って武田信玄のそれであって、言葉の意味とぜんぜん違うではないかと気がついた。おそらく当て字が一般化したんだろうと思う。
それで広辞苑を開いて「かい」を見てみたら、漢字表記に【詮・甲斐】とあった。「詮」は「詮ない話だ」などというときの「詮」で、こちらはこちらで、意味だけ似ていて字が当てられたようだが、漢字の音としてはぜんぜん違って、これも違和感がある。そもそも現代において「したかいがなかった」を「した詮がなかった」と書いて「かい」と読む発想はない。
じゃあもうひらがなが穏当か、となるわけだが、「かい」ってひらがなだと、「したのかい?」みたいな意味での「かい」と混同する(本当に意味を履き違えるわけではないが、ここで少し足踏みしてしまう)ので、それもやっぱりよくない。
というわけで国語に関してなんの権力も持っていない僕が、新しい表記を考えることにした。思えばかつても、「さいちゅう」と「さなか」を区別するために、後者に「乍中」という表記を僕は与えた。僕はもちろんこれを普通に使っているけれど、僕の文章を僕以外の人間が目にする機会は少ないために、何年経ってもまったく浸透していかない。でも別にいい。だって世間に向けて提案しようとしているのではない。自分の文章のために考えるのだから。
というわけで今回「かい」には、「果以」の字を与えようと思う。書き下せば、果て以て、ということである。こちらの行為による結果、みたいな意味になり、意味的にも音的にもいい線いっていると思う。いい言葉ができた。考えた果以があった。
ファルマンが米津玄師を覚えられない。最初など「べいづげんすい」と言っていた。おかんっぽい! と思った。数年ごとに新しくなり、併せて横文字のネーミングも新しくなるテレビゲーム機を、もう開き直ってすべて「ピコピコ」と呼ぶことにしたおかんのようだ。最近やっと元帥ではなく玄師だ、ということは覚えることができたようだが、米を「べい」と読んでしまう呪縛はどうしても解けないらしく、「あの歌手の名前は?」と訊ねると、「べいっ! べい……つ? づ? べいづげんすい?」などと言う。あ、やっぱり元帥も未だに言うわ。もううちのおかん、米津玄師のインプットは無理らしい。それならもういっそピコピコって呼んだらいいんじゃないか。