2023年12月3日日曜日

流行語大賞・牛乳と子ども・年末年始の帰省について

 cozy rippleじゃないほうの流行語大賞が発表された。大賞は予想通りの「アレ」。もうひとつの、とにかく明るい安村も登壇するだろうから授賞式も久しぶりに盛り上がるだろうという予想は、受賞(選考委員特別賞という、「大賞」や「トップテン」に対してどういう序列になるのか意味不明なやつだが)というのは正解したが、安村は授賞式には出席せず、映像でのスピーチとなったようなので、まあ外れたと言うべきだろう。そしてこれは、予想が外れたことが残念というよりも、いよいよユーキャン流行語大賞がベストジーニスト化してきたというか、昔ならばお笑い芸人がこの賞を獲るとなれば、万難を排して出席したに違いないのに、もうそんな存在でなくなったということを象徴しているようで、一抹の寂しさを感じた。
 3年連続で野球関連の言葉が大賞になったこともあり、やくみつるが槍玉に上がって、感覚があまりにも時代遅れだ、ということが例年以上に叫ばれている様子があるけれど、かと言ってネット流行語大賞やSNS流行語大賞といったものがより世相を反映しているかと言えばそんなこともないわけで、現代はメディアが多様化しているので昔と違ってあらゆる世代で全般的に流行するものなんてないのだ、という意見は、それを言ったらおしまいだよ、という正論ではあるのだけど、やはりもうしばらくはユーキャンのそれが、このジャンルでの最高権威ということでやっていくしかないと思う。最高と言っても、もはや本当に乏しい高さだけども。

 牛乳の1リットルパックが2日もたないので、日々せっせと買う。1ヶ月に15本以上20本未満くらい買っているのだと考えると、毎月4000円近くを牛乳代として使っている計算だ。ちなみに僕は成分無調整の生乳は飲まず、低脂肪乳を別で買っているので、これは僕以外の3人による消費である。3人というか、ファルマンはたぶん朝のミルクティー以外では牛乳は飲まないので、ほぼほぼ子どもたちふたりということになる。
 うちの子は本当に牛乳をよく飲むものだな、と牛乳を買いながら考えていて、あることに思い至る。それは、うちの子って水分を、牛乳と麦茶でしかほぼ摂ってない、という事実である。ジュースの類を進んで与えることはしないし、炭酸やカフェインはふたりともまったく飲めない。であれば、子どもというのは、牛乳と麦茶ばかりをせっせと飲むほかないのだ。自明の理と言えば自明の理なのだけど、改めてこのことを認識して、なんだかびっくりした。あいつらって、そんなに水分補給のバリエーションが少ない生き物だったのか。この多彩な世界において、そんな野生動物のような暮しをしていたとは。どうりで冬になり、ココアが食卓に現れると異様にテンションを上げるわけだな、と腑に落ちた。

 この年末年始には帰省をしないことにした。理由は複合的で、複合的な理由をひとつひとつ挙げて説明していくと、どうしても言い訳めくというか、(行かないという)結論を正当化するための材料探しに余念がないっすね、という感じになってしまうのだけど、それでも述べてゆく。
 まず、自分が思っていたよりも新幹線の料金というものは高額であった、ということ。これまでファルマンに任せきりだったのだけど、聞いてみたらすごい金額だった。これは今回からポルガが大人料金になるというのも影響している。
 そしてその新幹線が、今回の年末年始期間から、自由席車両というものがなくなるそうで、それ自体はいつも指定席を取っていたから関係ないのだけど、じゃあこれまで自由席車両にぎゅうぎゅう詰めになっていた、指定席を取らない輩はどうするのかと言えば、どうもデッキ部分や指定席車両の通路部分などに立って乗車するようで、これを聞いたとき、起りそうなトラブルや気まずさ(すぐ横に高齢者や赤子連れが立ったらどうすればいいのか)などを想像し、とてもそこに身を置きたくないと思った。
 さらには、そんな苦労をして年末年始に帰省をしても、年末年始なので、せっかく首都圏に行ったのだから行きたいと思うような施設もほぼ休業しており、現地でできることは実家で酒を飲んでダラダラすることだけだ、というのもある。それでも顔を出すことが大事なんだ、という意見もあろうが、それならば年末年始じゃなくてもいいはずだ。
 95歳になる祖母の存在はもちろん気にかかるのだけど(元気だそうだが)、先日17年前に書いた日記を読んでいたら、23歳の僕が、年末年始の帰省に際し、「行かなくて祖母になにかあったらいけないので行く」と書いていて、急に気が楽になった。もうその懸案は長年じゅうぶんにしたので、ローンで言うなら払い終わったと言っていいと思う。もうこの案件は自分の所有になったので、好きにして許されると思う。
 というわけで、僕はこの年末年始の帰省をやめた。やめることにしたらとても身軽な気持ちになった。よほど気重だったのだな、と気付いた。

2023年11月14日火曜日

BGM・日本シリーズ・からし

 ホームグラウンドプールのBGMが自由だ。たぶん本当に自由なんだと思う。規定とかがなくて、その日のシフトの職員が、掛けたい曲を掛けているんだと思う。
 Adoであるとか、BTSであるとかは、「いまどきの曲」として、違和感がない。「いまどきの曲」というのは、時代ごとに違うものなのに、やはりその時代の空気感に寄り添っているから「いまどきの曲」なわけで、きちんと「そのとき」であれば、お葬式とかを除けばあらゆる場面で受け入れられるようになっているものだと思う。
 映画音楽チャンネルにでも合わせたのか、「ハリーポッター」や「トップガン」、「2001年宇宙の旅」の音楽が流れたときは違和感があった。普段と同じいつものプールなのに、なんか物語性があるような気がした。「トップガン」のときは心なしかクロールのスピードが速くなった気がしたし、「2001年宇宙の旅」のときは新しい時空へ突入するような気がした。
 これまででいちばん印象に残っているのは、尾崎豊の「卒業」が流れたときで、平日夜の、子どもなどひとりもいない、健康志向のおっさんおばさんしかいないプールに響く、「卒業」。これほどふさわしくない音楽もそうそうないだろう。25mを延々と往復して、水の抵抗に逆らい続け、あがき続け、俺たちはどこへ向かうべきなのか。しかしだとしたら、いまどき「卒業」を掛けるのにふさわしい空間って果たしてどこなのだろう。お葬式とかだろうか。

 ちょっともう古い話になるが、タイガース対バファローズの日本シリーズが行なわれ、タイガースが優勝したのだった。シリーズ中は世の中が盛り上がっていて、そういうのには素直にミーハーなので、チャンネルを合わせて中継をちょっと観たりもしたのだけど、もちろん僕以外の3人は野球にまったく興味がないので、そこまでがっつり眺めはしなかった。もとより僕自身、話題に乗ってチャンネルを合わせるだけで、がっつりスポーツを眺める素地は持っていない。
 そんな日本シリーズを垣間見て、ファルマンがこう言ったのが印象に残っている。
「日本シリーズって、いる?」
 なんかちょっと前にも決定戦みたいのやってたのに、またやってんの、と。
 今年もまた、毎年恒例の、プレーオフ(クライマックスシリーズ)は不要ではないのか論争が繰り広げられていたが、そんな議論はもう時代遅れらしい。時代の先を行くファルマンともなると、もはや日本シリーズが必要なのか、という境地である。ちょっと前に決定戦みたいのやってたんだからもうあれでいいじゃん、と。140試合やって優勝チームを決めて、そのあと同じリーグの3位と2位と1位とで改めて短期決戦をして、それで勝ったチームがバンザイしておしまい。セだのパだの知らねえ。
 非常に大胆で、希少価値のある意見であると思う。NPBにはぜひ一考を望みたい。

 納豆には、たれとともにからしの小袋が入っているけれど、あんまり使わない。わが家の場合、子どもは使わないし、大人も、納豆を納豆として食べるときには入れるけれど、卵と混ぜるときや、オムレツに入れるときなどは、たれは使ってもからしは使わない。だからからしの使用率は、20%未満だと思う。つまり納豆3個パックふたつ分、6個の納豆を消費したとして、からしの小袋は5個も余る計算となる。
 余ったからしは、とりあえず冷蔵庫のドアポケットの最上階、刺身を買ったときに付いてくる個包装の刺身醤油などと同じエリアに放り込むわけだが、既にそこには、何ヶ月前のものだか知れない、よく見ると謎の作用でなんか成分が分離している感じになっている小袋があったりして、まったく活用できていない。ここからからしがすくわれるケースとしては、お弁当に焼売を入れるときであったり、チューブのからしを切らしたときであったりするのだけど、それはきわめて稀だ。
 今ではすっかり駆逐されてしまったけれど、かつて大容量タイプのヨーグルトにはかなりの分量のグラニュー糖の袋が封入されていて、あれも各家庭で持て余されていた。しかしグラニュー糖は、なんだかんだで料理にも使えるので、消費のしようがあった。からしにはそれがない。からしを調味料として使う料理として検索したら、「辛し和え」というものが出てきた。そんなものは作らないし、しかも小袋の大量消費にはならなそうである。
 もういっそグラニュー糖と同じくからしの封入をやめてしまえばいいのではないかという話だが、しかし15%以上20%未満くらいの確率で、からしは必要なのである。完全になくされると(いささか)困る。
 というわけで考えたのが、「からしプチ当たり方式」である。当たったあなたは幸運、というほどの低い確率ではなく、3個パックのうちのひとつには入っているくらいの割合で小袋を入れるのだ。使わないときは冷蔵庫に入れておいて、次に納豆を買って、からしを入れたかったのに3つともにからしが入っていなかったときに使えばいい。そのくらいの案配で、からしの不良在庫はゼロにすることができると思う。でも現実的じゃないだろうな。同じ値段で内容が違うことになるわけで、クレーマーの餌食だろうな。

2023年11月2日木曜日

流行語・かわいそ(笑)・排出権

 10月が終わり、11月になった。今年もあと残り2ヶ月。そのことに信じられないような思いもありつつ、cozy ripple名言・流行語大賞のために1年の日記の読み返しをしているので、まあたしかに10ヶ月、ちゃんとかどうかは別として、生きてはいたな、という確信もある。
 ところで本日、世間一般のほうの新語・流行語大賞のノミネート語が発表になった。30語。納得のいくものもあればそうでないものもあり、しかしその感想は毎年きれいなくらい均一だな、ということを思った。過した1年も、その30語も、毎年ぜんぜん違うのに、その一覧を眺めて抱く思いは必ず一緒。だとすれば賞の理念として強固な一貫性があると言えるかもしれない。大賞は「アレ」で岡田監督はきっと上手なスピーチをするし、とにかく明るい安村も登壇することになるだろうから、今年の授賞式は久しぶりにまあまあ盛り上がるのではないかと思う。あとひとつ気になるのは、サッカーのW杯は2022年の12月だったのだが、こちらの賞というのは、cozy ripple名言・流行語大賞のように、昨年のノミネート語発表の翌日からが集計範囲ということにはなっていないのだろうか。「ブラボー!」や「三苫の1ミリ」が、30語の中に、影も形もない。だとすれば11月12月にいくら言葉を流行らせても徒労だということになる。別にサッカー派というわけでもないが、なんとなく釈然としないものを感じる。だって、それじゃあ1年間の流行語ではなく、10ヶ月間じゃないか。

 新語流行語のノミネートにも入っていたが、「X」である。
 実は心の奥底では脅威だったり憧憬だったりを抱いていないこともなかったTwitterがあんなことになってブロガーとしては胸がすく思いだ、ということは前に書いた。名前がXになったり、有料サービスになるという噂が現実味を帯びたり、それだけで「ハハッ、かわいそ(笑)」と思っていたのに、ここへ来てイーロン・マスクは、Xを将来的には有料の出会い系サービスにするつもりでいる、というニュースを目にし、なんかもう、さすがに不憫になってきた。Twitterがアイデンティティみたいになっている人って、世の中にわりとたくさんいただろうに、宇宙船地球号で考えれば、大気が汚れたとか、文明が荒廃したとかいう、叡智を結集すればなんとかできるかもしれない局面を超越し、これはもう地球そのものが壊れてなくなります、というレベルの話だ。もうジタバタしてもしょうがないのだ。世界は、神様のスイッチひとつで簡単に消え去ってしまうみたいな、Twitterをやっている人たちというのは、今そういうSF哲学みたいな境遇にあると思う。かわいそ(笑)。

 ちょっと遠出をする予定があり、車内で流す音楽を、それ用に新しいプレイリストを作成しようぜという話になり、ひとり25曲、4人で100曲ということでどうか、となったのだが、実際のところ曲を25曲もホイホイ選べるのは中学生のポルガのみで、あとの3人は25曲なんて持て余すのだった。しかしポルガだけ25曲で、他の人間が少ないと、高頻度でボーカロイドの中二病っぽい歌詞の曲ばかりを聞くはめになるので、ポルガが20曲、他は15曲ということで手打ちとなった。
 この擦り合わせの際、はじめ与えられていた25曲の権利のうち、10曲分を400円ほどでポルガに販売するのはどうか、そうした場合、僕の曲が15曲、ポルガの曲が35曲ということになるが、400円儲かるならいいな、などと思い、これは炭素の排出権ビジネスとまったく同じ発想だな、と思った。カーボンニュートラルとは、これくらいくだらない話なんだな、ということを実感した。

2023年10月28日土曜日

痺れ・しろ・丈

 朝起きて、手首のあたりが軽く痺れたようになっているときがある。
 その原因について考え、このほど真相に至る。
 そういう症状が出る日は、なんとなく気が向いて、服を着たまま寝た日なのであった。この場合、ズボンの中に手を差し込み、ちんこを触ることになるため、ちょうど手首のあたりにウエストのゴムが来ることとなり、それで圧迫されることによって痺れが来るという寸法なのであった。
 もはやバイブルと言ってもいい、裸で寝ることの良さを謳った例の本では、下着やズボンのウエストゴムなど、下半身のゴムが恒常的に体に与えるストレスについては語られていたが、眠りながら股間に手を伸ばしてしまうがために手首が圧迫される害については触れられていなかった。だとすれば今回の僕の発見により、かの論はさらに深化したと言えるかもしれない。
 ファルマンにこのことを離したところ、「触らなきゃいいじゃん」という指摘が返ってきたのだけど、きわめて浅い意見だと思う。じゃああなたは、いびきについて悩む人に、「息をしなきゃいいじゃん」と言うのですか。あまりに乱暴ですよ。
 今回の気付きを経て、寝るときにゴムを身に着けない志は、改めて強固になった。手を守るために、僕は下半身になにも纏わせずに寝る。そして思うがままにちんこを触る。ちんこは本来、そういうノーストレスな存在であるべきだと思う。

 子どもたちと少し久しぶりに「ぷよぷよ」をしたら、なんかあっという間にこれでもかと妨害の白いぷよぷよが落ちてきて、こてんぱんに負けた。3人プレイをして、普通に最初に敗退した。それが2回続いたので、そこでもう「目が疲れたわ!」と叫んでゲームをやめた。
 ソフトを買った直後は、昔少しやっていたこともあり、不慣れな子ども相手に楽勝だったのに、わずか半月ほどで子どもたちはすっかりコツを掴んだようで、普通に勝てなくなってしまった。切ない。「伸びしろ」という言葉が脳裏をよぎる。子どもにあって大人にないもの、なーんだ? それは伸びしろ。じゃあ逆に大人にあって子どもにないもの、なーんだ? それは縮みしろ。「目が疲れたわ!」は決して嘘ではない。2戦もやれば、目も頭ももう限界を迎えるのだった。

 気を悪くした出来事があった。
 ネットショップで寒い時期用のズボンを買ったのだけど、購入前にレビューを確認したところ、大勢の人が「丈が少し短めなのでワンサイズ大きめがおすすめ」と言っている。ふむそうかと皆の意見を取り入れ、普通に考えたらこれだろうと思うサイズより、ひとつ大きいサイズを注文した。
 そして到着したものを穿いたところ、姿見には、新品の大きなズボンを穿いた、憮然とした表情の僕が立っていた。
 裾がかかとを超えて、床にべったり垂れているのだった。
 別に自分のことを、足の長いスタイル抜群の人間だと思っていたわけでもないが(巨根ではあるけれど)、身長に対し、自分がそこまで平均からかけ離れた足の短さであるとも思えない。それなのに、レビューの「丈が短めです」という意見の比率はあまりにも高く、そしてまんまと騙される結果となったので、思わずここに悪意というか、悪意ほどではないにせよ、人間の業のようなものを感じ取った。
 ショーツ作りを始めた際にもさんざん語ったが、メンズショーツの、ちんこのためのスペースをしっかり用意してある系商品のレビュー欄には、そのスペースについて、「小生には小さすぎました……」という意見が必ずあるのである。
 今回のズボンも、これと同じような作用が起っているのではないだろうか。買ったズボンの感想として、「(小生には)丈が短め」と言わずにおれない層というのが、一定数存在するのではないだろうか。そうとしか思えない。
 この悪い流れを断ち切るには、誰かが「丈が短いなんてことないよ! 見栄っ張りたちに騙されないで!」とレビューを書き込む必要がある。だけどそれは僕ではない。なぜなら僕は短足ではないからだ。そんなことを主張する奴は、よほどの短足なんだろう。お前の意見は聞き入れない。俺は向こう側の人間だから、「丈が短い」と教えてくれている同輩たちの言うことを聞く。

2023年10月17日火曜日

裸フェス・試験結果・ハイカカオ

 裸フェスに参加した。
 夢の話である。
 裸フェスとはなにかと言えば、会場内では裸で過すフェスであり、特に会場ステージで愉しいイベントが繰り広げられるなどということはない。じゃあそれってヌーディストビーチ的な、(表向きは)裸をエロいものと捉えず、自然に還ろう的なやつなんじゃないの、と思われるかもしれないが、決してそんなこともないようで、男女ともに、見る・見られることに悦びを覚える輩が来場しているらしかった。
 僕はそこでどうしていたかと言えば、参加者たちが開けっぴろげに裸を披露するさまを軽く眺めつつも、主に視線をやっていたのは、いまから入場門をくぐろうとしている、すなわちまだ着衣の女性たちだった。これから脱ぎ捨てる服を着た、まだ開けっぴろげではない、でも開けっぴろげになれる場所にわざわざやってきたという、羞恥心もまだ服とともに纏っている、そんな女性たちの複雑な表情を熱心に眺めていた。
 ここがいちばんエロいんだよ、と、夢の中の僕はずいぶんと裸フェスの手練れであるらしかった。

 ポルガの2学期の中間試験の結果が返ってきて、やけによかったらしい。やけによかったというか、点数が落ちなかったらしい。中学1年生の1学期のそれは、お試しみたいなもので、なんとなく普通に点数が取れたりするものだが、「2学期以降はそうはいかないよ!」というのは、試験前期間中、ファルマンが呪詛のように唱え続けていた言葉で(苦い実体験に裏打ちされているのだろう)、ろくに試験勉強をしようとしないポルガに向かい、「そうはいかないよ」「ひどいことになるよ」「結果が悪かったら塾に行かすよ」と、さんざん脅しをかけていた(それでもポルガはやはりろくに勉強をしなかった)。
 そうしたら、それなのに、ポルガはいい点数(1学期よりもむしろ主要5教科の平均点は上がりさえしたらしい)を取ってしまい、親としては喜んだり褒めたりしてやるべきなのかもしれないが、ファルマンは「こんなはずじゃ……」と、返討ちに遭った敵キャラのようになり、むしろ消沈している。ファルマンの中の勧善懲悪のシナリオが崩れたのだと思う。かわいそう。早く娘が落ちこぼれたらいいね。もはやなにが真の望みなのか見失い始めている感がある。

 ハイカカオチョコレートが血行改善にいい(陰嚢が寛ぐ)という情報を得て、せっせせっせ、本当に涙ぐましいほど、せっせとハイカカオチョコレートを食べる日々を送っていた。5グラムの個包装で1キロ、すなわち200個あったのだろうそれは、もう残りが4分の1くらいになっている。そのさまを見て、数日前くらいまでは、また注文しなきゃな、と思っていた。
 それが昨日あたりでプツッと自分の中でなにかが切れ、急に忌々しくなった。
 だって85%のハイカカオチョコレート、おいしくないのだ。いや、ただ「おいしくない」ではなく、企業努力により、「おいしくなくはなくなくなくなくもない」くらい、迷える程度のおいしくなさにまでは到達している。すばらしいと思う。でもまあ、やっぱり結局おいしくないのだ。
 それでもはじめのうちは、陰嚢のため、健康のため、と高い意欲で食べていたが、約150個食べ、そのおいしくなさに飽きまでが加われば、それはもう苦行に等しい。
 先ほど、晩ごはんのあとのコーヒーに、いつもならハイカカオチョコレートのところ、反動というほかない、あろうことかチョコパイを食べてしまった。そして、ブラックコーヒーには、こういう、飴みたいに甘いチョコレートを食べないことには、成り立たねえだろうがよ、と、数ヶ月越しのツッコミをした。
 陰嚢をどうしても寛がせたい場面に臨む際は、鼻炎薬を服むことにしようと思います。いつだろう。裸フェスに参加するときかな。

2023年10月7日土曜日

寝言・運動会・鼓舞

 けっこう寝言を言うらしい。もちろん自覚はない。それも、かなり明瞭な発声をするそうなので、隣で寝ているファルマンはいつも驚くという。
 少し前のところでは、
「それはおもしろいことになりそうだ!」
 というセリフだったそうだ。そう言っていたよ、と言われた日にどんな夢を見ていたかは覚えていない。夢と寝言は、やはり連動するのだろうか。だとしたらずいぶん少年まんがのような、意気揚々とした夢を見ていたようである。
 最新のものでは、
「正しい。それは人生にとってすばらしい選択だよ」
 と僕は寝ながら言ったらしい。聞いたとき、嘘だろ、と思ったが、ファルマンがそんな嘘をつくメリットはなんにもないので、事実と認めざるを得ない。
 長い期間に渡って編まれてきた僕の少年まんが風の夢は、主人公もすっかり成熟し、そろそろ大団円を迎えるのかもしれない。苦楽を共にした仲間とも、別れの時が近づく。やるせない寂しさを覚えながらも気丈に振る舞い、新しい目的を見つけた仲間の決断を、受け入れることにしたのだろう。いい奴やん。
 そのうち、
「fin……」
 と寝言を言うかもしれないので、ファルマンにはぜひ聞き逃さないでほしいと思う。

 子どもたちの運動会が中学校と小学校でそれぞれ終わった。
 中学校のはそもそも保護者の存在はあまり意識されておらず、立ち入り禁止というわけでは決してないようだが、平日であり、僕はもちろんのこと、ファルマンも観に行くことはしなかった。ポルガも「来ないでよ」みたいなことを言ったらしい。年頃やねん。
 小学校のはもちろん週末に行なわれたので、夫婦ともども観に行った。ピイガはまだ無垢なので、「ちゃんと観ててよ、ちゃんと撮ってよ」である。あるいは性格かもしれない。相変わらず学年の中ではとびきり小さく、横に2年生や3年生の列があると、あっちに並んだほうがいいんじゃないかな、と思うほどだったが、オーバーじゃなく頭ひとつ分大きい輩とともにやった徒競走で、見事に1位になっていた。やっぱり遺伝ってあるんだな、と思った。僕もたぶん、全力でやればぜんぜん1位だったと思う。実際はまあちょっと、ヘラヘラしながらビリから2番目くらいでゴールする感じだったけど。

 ちんこを擦ることって、僕の人生にものすごい量の喜びを与えてくれているのではないかと思った。40歳、不惑。そんな真理に到達した。ちなみに出すと喪失感が大きいので、出てしまわぬよう、注意しながら擦る。前にも話に出た、不出という考え方である。不惑不出。新しい四字熟語の誕生である。
 ちんこを擦るという行為は、亀頭だけでなく精神を上向きにさせるという意味で、ただ手を滑らせるという行為を指す、どこまでも物理的なそんな漢字ではなく、「鼓する」と表記すべきではないか。擦っているのではない、鼓すっているのである。自分を、人生を、鼓すっているのである。そんな僕の提案をどう思いますか。
 正しい。それは人生にとってすばらしい選択だよ。

2023年9月29日金曜日

2023始動・水着・ぷよ

 毎年恒例の「cozy ripple名言・流行語大賞」の選考作業が始まった。これが始まると、1年ももう後半なのだなという感じがしてくる。もはや風物詩ですね。
 毎月ノルマとして、最低限2桁記事数ということを心掛けているのだが、これが今年は本当にほぼ最低限の様相を呈していて、果たしてノミネート語を選出できるほどの中身があるのかという懸念から、前回が期せずしてそうなったように、2年にいちどの開催のほうがいいのではないかという意見も運営委員の一部からは出たようだが、そのような引け腰な提案は委員長である僕が突っぱねた。丁寧に探せばなんだかんだであるし、もしも本当に少なかったら、最後に無理やり量産すればいいだけの話だ。なんとかなる。なんとかしてきた。老害は高度経済成長期のマッチョな思想に凝り固まっているのだ。
 最近はちょっとサボり気味で、だいぶ遠大な達成計画になりそうな「おもひでぶぉろろぉぉん」も、とは言え同時進行でなされているわけで、なんかもう僕は自分の書いた文章ばかりを読んでいる。そして数ヶ月前の僕も、十何年前の僕も、どちらもそれぞれ愛しいし、さらにはその二者のことを愛しいと思っている僕のこともまた、僕は愛しいと思う。愛しさの合わせ鏡が、光の速さで無限を繰り広げ続けている。

 水着の生地を買って作るのが愉しすぎて、日々生産して、日々違う水着で泳いでいるのだけど、先日ふと、こうして水着を自分で作るようになる前って、僕はいったい何を穿いて泳いでいたのだっけ、と思った。
 ショーツを作り始めたのだって実はまだ1年半ほどのことで、水着となったらそれよりもさらに最近の出来事なのだが、手作り水着で泳ぐのが当たり前になりすぎていて、既製の水着を穿いている自分が想像できなくなっている。
 岡山でもプールにはよく行っていた。岡山生活の途中から、プール習慣は始まったのだった。あの頃は水着はもちろん、ショーツだって自分で作るという発想はなかったので、僕はひたすら既製のものを穿いて泳いでいたはずなのである。それなのに思い出せない。
 そこで水着を洗濯してくれるファルマンに、「俺って昔どんな水着を穿いてたっけ」と訊ねたところ、ファルマンも「えっ、思い出せない」と固まった。そしてしばらく考えたのち、「なにも穿いてなかったんじゃない」と答えた。
 そうか。俺は水着を自作する前は、なにも穿かずに泳いでいたのか。よく捕まらなかったな。それなら、いま少々面積が小さい上にフロントが盛り上がった水着を穿いてても、穿いてるだけマシだな。穿くようになった分だけ偉いな。

 こないだの3連休に、switchのソフト「ぷよぷよテトリス2」を買った。最初、体験版で遊んでいて、とても健全に、体験版で体験して欲しくなったので買ったのだった。
 「ぷよぷよテトリス」はその名の通り、ぷよぷよとテトリスが組み合わさっていて、好きなほうを選んで遊べるのだが、僕はもっぱらぷよぷよばかりしている。ファルマンとピイガも基本的にそうだ。それに対しポルガだけが、やけにテトリスをするので、やっぱりちょっと変な奴だな、と思った。テトリスは、テトリスしかなかったらやるけれど、ぷよぷよと並んでいたら、それは断然ぷよぷよだろう、と思う。エンタメ性がぜんぜん違う。
 大貧民と同じで、とりあえず僕が頭ひとつ抜けてレベルが高いようで、普通にやると大抵勝つ。そのためとても気分がいい。子どもたちはいつまでもコツを掴まないでほしい。
 それにしても、マリオカートも桃鉄も、4人でやれて感動したけれど、ぷよぷよはそのさらに一段上の、「最高じゃねえか」感がある。長く、それこそ一生、集ったときにはこれで愉しめそうで嬉しい。さすがeスポーツだな。