Adoであるとか、BTSであるとかは、「いまどきの曲」として、違和感がない。「いまどきの曲」というのは、時代ごとに違うものなのに、やはりその時代の空気感に寄り添っているから「いまどきの曲」なわけで、きちんと「そのとき」であれば、お葬式とかを除けばあらゆる場面で受け入れられるようになっているものだと思う。
映画音楽チャンネルにでも合わせたのか、「ハリーポッター」や「トップガン」、「2001年宇宙の旅」の音楽が流れたときは違和感があった。普段と同じいつものプールなのに、なんか物語性があるような気がした。「トップガン」のときは心なしかクロールのスピードが速くなった気がしたし、「2001年宇宙の旅」のときは新しい時空へ突入するような気がした。
これまででいちばん印象に残っているのは、尾崎豊の「卒業」が流れたときで、平日夜の、子どもなどひとりもいない、健康志向のおっさんおばさんしかいないプールに響く、「卒業」。これほどふさわしくない音楽もそうそうないだろう。25mを延々と往復して、水の抵抗に逆らい続け、あがき続け、俺たちはどこへ向かうべきなのか。しかしだとしたら、いまどき「卒業」を掛けるのにふさわしい空間って果たしてどこなのだろう。お葬式とかだろうか。
ちょっともう古い話になるが、タイガース対バファローズの日本シリーズが行なわれ、タイガースが優勝したのだった。シリーズ中は世の中が盛り上がっていて、そういうのには素直にミーハーなので、チャンネルを合わせて中継をちょっと観たりもしたのだけど、もちろん僕以外の3人は野球にまったく興味がないので、そこまでがっつり眺めはしなかった。もとより僕自身、話題に乗ってチャンネルを合わせるだけで、がっつりスポーツを眺める素地は持っていない。
そんな日本シリーズを垣間見て、ファルマンがこう言ったのが印象に残っている。
「日本シリーズって、いる?」
なんかちょっと前にも決定戦みたいのやってたのに、またやってんの、と。
今年もまた、毎年恒例の、プレーオフ(クライマックスシリーズ)は不要ではないのか論争が繰り広げられていたが、そんな議論はもう時代遅れらしい。時代の先を行くファルマンともなると、もはや日本シリーズが必要なのか、という境地である。ちょっと前に決定戦みたいのやってたんだからもうあれでいいじゃん、と。140試合やって優勝チームを決めて、そのあと同じリーグの3位と2位と1位とで改めて短期決戦をして、それで勝ったチームがバンザイしておしまい。セだのパだの知らねえ。
非常に大胆で、希少価値のある意見であると思う。NPBにはぜひ一考を望みたい。
納豆には、たれとともにからしの小袋が入っているけれど、あんまり使わない。わが家の場合、子どもは使わないし、大人も、納豆を納豆として食べるときには入れるけれど、卵と混ぜるときや、オムレツに入れるときなどは、たれは使ってもからしは使わない。だからからしの使用率は、20%未満だと思う。つまり納豆3個パックふたつ分、6個の納豆を消費したとして、からしの小袋は5個も余る計算となる。
余ったからしは、とりあえず冷蔵庫のドアポケットの最上階、刺身を買ったときに付いてくる個包装の刺身醤油などと同じエリアに放り込むわけだが、既にそこには、何ヶ月前のものだか知れない、よく見ると謎の作用でなんか成分が分離している感じになっている小袋があったりして、まったく活用できていない。ここからからしがすくわれるケースとしては、お弁当に焼売を入れるときであったり、チューブのからしを切らしたときであったりするのだけど、それはきわめて稀だ。
今ではすっかり駆逐されてしまったけれど、かつて大容量タイプのヨーグルトにはかなりの分量のグラニュー糖の袋が封入されていて、あれも各家庭で持て余されていた。しかしグラニュー糖は、なんだかんだで料理にも使えるので、消費のしようがあった。からしにはそれがない。からしを調味料として使う料理として検索したら、「辛し和え」というものが出てきた。そんなものは作らないし、しかも小袋の大量消費にはならなそうである。
もういっそグラニュー糖と同じくからしの封入をやめてしまえばいいのではないかという話だが、しかし15%以上20%未満くらいの確率で、からしは必要なのである。完全になくされると(いささか)困る。
というわけで考えたのが、「からしプチ当たり方式」である。当たったあなたは幸運、というほどの低い確率ではなく、3個パックのうちのひとつには入っているくらいの割合で小袋を入れるのだ。使わないときは冷蔵庫に入れておいて、次に納豆を買って、からしを入れたかったのに3つともにからしが入っていなかったときに使えばいい。そのくらいの案配で、からしの不良在庫はゼロにすることができると思う。でも現実的じゃないだろうな。同じ値段で内容が違うことになるわけで、クレーマーの餌食だろうな。