2023年9月16日土曜日

タイガース・X(笑)・魂胆

 阪神タイガースが優勝した。18年ぶりだという。
 2005年のことだそうで、そこは既に「おもひでぶぉろろぉぉん」の作業が完了している時代だったので、優勝が決まったであろう当時の9月や10月あたりの抜き出し記事をざっと読み返してみた(便利です)。すると、「ほっとけない」でおなじみのホワイトバンドをはじめとするラバーバンドが流行っていた時期だった。そうか。大昔だな。あと個人的なことだが、ソニーの携帯電話からパナソニックのものに乗り換えていて、記憶媒体がメモリースティックからSDになったので便利になった、と喜んでいた。折しも先日発表されたiPhone15で、アップルはとうとうLightningケーブルを諦め、USB‐Cを採用することになった、というニュースがあったので、18年越しの共通項というか、人類の技術進化のスピードは加速化していると言われるが、案外そんなこともないんじゃないか、と思ったりした(Lightningケーブルというものには結局まったく触れ合わなかった人生だった)。
 ちなみに「優勝」を指して岡田監督が用いた「アレ」という表現は、かなりよかったと思う。大賞になるかどうかは分からないが(今年は当たり年である)、流行語大賞にノミネートされるのは間違いないし、よくある「それは流行語じゃなくてただの流行!」というツッコミに当て嵌まらない、純然たる流行「語」なので、好感度が高い。優勝が決定した試合後のインタビューで「アレはもうやめて優勝と言います」と監督が述べ、ファンが「ワーッ!」と盛り上がったのも秀逸だと思った。でも同時に、だからもうあの時点から、優勝のことを「アレ」と濁して発言するのは古い、ということにもなったと思う。そのため優勝が決まったあとの街頭インタビューで、「アレが決まって最高でした!」などと答えている人を見ると、ダサッ! と思った。そしてこの、一瞬で古くなるというのも、流行語としてのポイントが高いんじゃないかと思った。

 TwitterがXになり、もう1ヶ月くらい経ったのだろうか。
 この一連の騒動に関して、自分がどういう思いを抱いているのか、これまで心の動きを静かに見つめていた。そしてこのたび結論が出たので記す。
 ざまあ、だ。
 ブロガーにとって、Twitterは脅威だった。華やかで、ポップで、活気があって、品も(まあ)ないこともなかったように思う(いま思えば)。
 ブログが、築30年くらいの、和室なんかも普通にあるような、質実剛健な、5階建てくらいの、でも法律がなかったのでエレベーターが設置されていないみたいな、昔ながらの集合住宅であるのに対し、Twitterはそのすぐ横に建った、タワーマンションであった。豪奢な造りで、設備も充実し、なにより新しさがあった。
 でもその誰もがひそかに羨んでいたタワーマンションに、施工の致命的な欠陥が見つかった。耐震性がぜんぜんないとか、塗料に発がん性物質を使っているとか、なんかそういう感じの、本当にどうしようもない欠陥。これまで栄華を誇っていた住民たちは阿鼻叫喚。しかも頼みの綱の補償関係も、業者がとんずらしたとかでままならないと来た。
 そのさまを見て、昔ながらの集合住宅の住民たちは思う。思わない。大声で叫ぶ。
 ざまあ、と。
 別に自分たちの立場が上がったわけでは決してないのだけど、忌々しく思っていた存在の凋落は純粋に嬉しい。この世に本当に純粋な感情があるのだとすれば、こういう感情だとしみじみと思う。テレビなどで、「X(旧Twitter)」などと見苦しい表現をしているのを見るたびに、ベホイミくらい生命力が回復するのを感じる。
 Xという名称がまたいい。悪すぎて、こちらとしては万々歳だ。よく知らないが、イーロン・マスクはこれまで、ブログを一切やってこなかったんじゃないだろうか。ブログをいくつかやっていたら、絶対にこんなネーミングはしない。最初はどうしたって、「つれづれ日記」みたいなタイトルを付けてしまいがちだ。Xには、「つれづれ日記」と同じセンスを感じる。黒歴史感がすごい。ブログもせず、コーチの経験もなく、監督になってしまったら、Twitterみたいなことになるし、中日ドラゴンズみたいなことになるといういい例だ。
 この文章内で、僕はどれほどの人間を敵に回したろう。おかしいな。めっちゃ性格いいはずなのにな。

 あまりにも友達がいないせいか、お店などで同年代とか、もう少し若いくらいの男性を見ると、この人が俺の友達だったら……、などと考えるようになった。もはや片親のいない子のようだ。もっとも僕は実際に片親のいない子どもだったが、街中で見かける父親くらいの年齢の男に対し、この人が父親だったら、なんて発想は抱いたことがなかった。たぶん父親は別に欲しくなかったし、友達は今でもやっぱり欲しい気持ちがあるからだろう。友達がいつまでもひとりもいないので、友達なんていても別にしょうがないもんだな、という真理にいつまでも到達せず、憧憬の燃え殻みたいなものだけがくすぶり続ける。
 先日は、僕に友達をもたらすという目的で、三女が結婚をすればいいんだ! ということを思った。三女が結婚をするとなったら、その相手本人であったり、相手の人間関係において、僕に友達が生まれる可能性がにわかに湧いてくると思う(そうだろうか?)。
 思わずもうちょっとのところで、三女にLINEをするところだった(頭を冷やし、思いとどまった)。独身者に婚活をけしかけるのって、大抵はおせっかいというか、それでも一応は本人のことを思って行なわれる行為であることが多く、それであっても今の時分、時代錯誤だと大いに疎まれがちだというのに、僕のこの魂胆の場合、良かれと思ってでさえない。ただ僕の友達を生み出すためにやれと言っているわけで、ここまで最低だと、逆に清々しさも出てくる気がする。さらにゲスなことを言うなら、僕との友情が築かれたあとなら、いくらでも離婚してくれたって構わないと思う。

2023年9月13日水曜日

還暦・人生一・プレゼント

 ちょうどあと1週間で誕生日である。皆々様、プレゼントの準備はお済みですか。
 40歳になるということについて、なんだかそれってものすごいことのような気もする一方で、もはや逆に凪いでいる感じもある。先日、おもひでぶぉろろぉぉんで読んでいた2006年9月の記事で、僕は23歳の誕生日を迎えていて、でもそれは23歳の自分には受け入れがたいことだったようで、「自分は20歳から先はこれまでの年齢を下っていく奇病にかかった」と主張し、「だから僕はこのたび17歳になった」とほざいていた。23歳の僕は、23歳という年齢が、大人すぎて受け入れられなかったか。そうか。23歳か……。
 それでいくと、僕は1週間後の40歳になった瞬間、満0歳ということになり、存在が消え去る計算だ。この仕組み、なんか微妙に引っ掛かる部分があるな、と感じて、その正体をよく考えたら、なんのことはない、還暦とほぼ同じ考え方だ。60年で十干十二支がひと回りして、元通りになるから、赤ん坊に帰り、赤いちゃんちゃんこを羽織る。それを僕ともなると、40年でしてしまうということか。人類未踏の2度目の還暦、いわゆる大還暦も、120歳はさすがに難しいので、いっそのことこの方式にしてしまえば、80歳で条件が満たされることとなり、ぐっと現実味が増す。そして目指すは夢の3度目の還暦、いわゆる超還暦だ。結局120歳じゃないか、という。そしてなんでそんなに還暦をしたがるのか、という。

 職場の上司がおもむろにケーキ屋の話を始める。本人が買いに行ったわけではなく、奥さんが買って帰ったものらしいが、プリンであったという。上司はプリンが好きで、ケーキ屋ではいつもプリンを選ぶのだそうだ。そのプリンは、アルミの容器に入っていて、注文をすると店員がいちど厨房に持って帰り、バーナーで表面を炙ってくれるらしい。それはプリンではなくクレームブリュレですね、と口を挟もうとしたが、実際のところプリンとクレームブリュレの定義をしっかり知っているわけでもないのでよした。
 そしてここからがこの話の骨子であり、上司がわざわざ話題に出した理由でもあるのだが、「そんでそのプリンがさ、俺がいままで食べてきたプリンの中で、いちばん美味かったんだよ」と上司は言ったのだった。
 この表現に、ほほぅ、と感じ入る部分があった。「今まで食べた中でいちばん美味しい」って、ありきたりな表現ではあるけれど、それは子どもやB級タレントがよく使うものであって、一般人の50代の男性が、さらにはその場にいる人が作ったものだったり、持ってきてくれたものを褒めるために冗談めかして言うわけでもなく、本当にそう感じたから、いまここにその物品があるわけでもないのに、どうしても感動を伝えたくて使ってしまったのだと考えると、まるで重いパンチのような強いパワーがあるな、ということを思った。50代一般男性の、人生一。もっともカラメルが焦げてるのが初体験で新鮮だっただけの可能性もあるけれど。

 誕生日プレゼントが浮かばない。ファルマンから「どうすんだ」とせっつかれているのだが、いまだに決められずにいる。なんだか寂しい。昔は、もっと欲しいものがたくさんあった気がする。「欲しいもの」という言葉は、類語というわけでもないが、「意欲」という言葉と結びつきやすい。それが減退してしまったことか、などと思う。
 先日は悩んだ挙句、寝る直前にamazonのカートに、新体操のリボンと、ヌンチャクを入れていた。でも次の日に、どちらもいらないな、と思って削除した。それにしてもどうして僕は小手先でクルクルするようなものに魅力を感じるのだろうか。
 新しい服も別にいらないし、アクセサリーも欲しくない。ゲームもしないし、推しもいない。なんだか考え始めると、自分がつまらない人間のように思えてくる。日常の中で、自分の自由に使えるお金をなにに使っているかと言えば、生地と、酒と、プールの会員費くらいのものか。どうしたものかな。10月から第3のビールの酒税が上がるらしいので、それにしようかなとも思ったが、あまりにも日常的でしみったれていて、節目の40歳の誕生日プレゼントがそれってどうなのか、と思ってやめた。やめてどうしよう。どうしようどうしようとなって、欲しいものを探してamazonをさまよう行為の、なんと阿呆なことか。

2023年9月7日木曜日

プールよ・LINE・侵食

 9月に入り、夏が終わった感はありつつも、でもまだ晴れた日は暑く、むしろ夏の疲れがぼちぼち決算され、不足していた分の体力の支払いが求められているような、不良債権のごとく重くのしかかってくるものがある感じもする。そんなわけで、夏休みを中心になんだかんだで8月はそこそこの回数行ったプールに、9月に入ってからはいよいよ足が向いていなかったのだけど、会員なのだから行かないことには、と貧乏根性で奮起し、泳ぎに行った。そうしたら8月の喧騒が嘘のように空いていて、祭りの後の会場跡みたいに寂しかった。でもそれが実は常態なのだし、実際人が少ないほうが利用する上では快適だった。そして行ったら行ったで、やはり泳げば気持ちがよく、夏のバブルにあてられたけど、ここでいちどリセットし、オフシーズンの、趣味としてのスイミングを、実直に行なっていこうと決意を新たにした。本当にただそれだけのことを書いた。

 ファルマンがLINEの設定画面を刷新する。中心の、会話の画面にも出てくるあの円形の画像はヒエログリフになり、その背景の、わざわざ見ないと見れないあの画像はイズミル王子になった。「王家の紋章」を読んだのだな、そしてかなり嵌まったのだな、ということが容易に窺える新体制なのだった。経験があるので分かるが、変えると気持ちが改まって少しいい気分になるようで、ファルマンは僕にも「変えるといいよ」と薦めてきて、それも悪くないなあと思ったのだけど、しばらく考えても、なんにも変更する当ての画像が思い浮かばないのだった。僕は最初、あの円形の画像は、「耳をすませば」の杉村の顔にしていて、そのあと「スター☆トゥインクルプリキュア」のキュアミルキーに一瞬したのだけど、姉から即座に「やめなよ」と窘められて以降は、もう何年もオオキンケイギクの写真のまま停止してしまっている。変えたい、とも思う。しかし本当になにも思い浮かばない。昔の人間なので、現実世界とネット世界をきちんと分けており、現実の人と繋がるLINEに、ヒット君やクチバシを登場させるわけにはいかない。目下の趣味は、ショーツ作りと、水着作りと、スイミングだが、そのどれもがLINEの画像にするにはふさわしくないと思う。かと言って今さら、ブラックジャックだったり上杉達也だったり、漫画のキャラクターにするのもダサい。いったいどうすればいいのか。もう無難な花の画像とかにしておこうかな。

 先日、起きたポルガが目の調子が悪いと言って、ファルマンが学校の前に眼科に連れて行ったところ、目の中に異物、それも植物の種子と思しきものが入っていたそうで、麻酔効果のある目薬を注したのち、摘出してもらったそうだ(ひー)。しかしなぜ植物の種が目の中に入るのか、それも寝て起きたあとなどに、という話なのだが、この報告をファルマンから聞いた瞬間に、僕にはピンときた。ポルガは相変わらず、昔に作った、1メートル超あるヒット君を抱いて毎晩寝ているのだけど、何を隠そう、ヒット君というのは植物なのである。そういう設定の生き物なのである。ポルガとあのヒット君との関係は、イマジナリーフレンドの域を超えて、作った僕が言うのもなんだが、少し気色悪い次元に至っているが、ここに来ていよいよ、ヒットくんはポルガを乗っ取ろうとし始めたかもしれない。今回は失敗に終わったが、もしも摘出しなかったら、ポルガの眼窩内の水分で種が発芽し、なにしろ眼と脳はすぐ近くだ、あっという間に侵食されて、ポルガはヒット君になっていたことだろう。怖い。ヒット君が一気にホラーになった。そしてそんな出来事があった日からも、ポルガはもちろん毎日ヒット君を抱いて寝ております。もう時間の問題かもしれませんね。

2023年8月27日日曜日

蛙化現象・王家の紋章・夏の終わり

 蛙を200匹くらい殺してしまった。
 労働で遅くなり、この時期にしては珍しく、会社を出たときにはすっかり暗くなっていた。会社のすぐ横には端から端まで数百メートルあるような広大な田んぼが広がっていて、その田んぼと田んぼの間に、慎ましやかに、田んぼの畔の事情なのだろう、やけにアップダウンのある道が拓かれ、そこが僕の通勤路なのだが(岡山の灘崎の風景もなかなかのものだったが、こちらも引けを取らない)、そこを走っていて、最初は、なにかやけに道に散らばってるものがあるな、植物かなにかかな、と思っていたのだが、ハイビームで照らされたそれが、たまにピョンピョンと跳ねたりするのを目にして、無数のそれが、すべて蛙であることを悟った。その道を通らないわけにはいかないので、悟らなければよかった。悟ってしまったばっかりに、ファルマンに帰宅を告げる電話を掛け、通話をしている最中だったのだが、「うひゃあ!」「いやあっ!」と絶叫を聞かせることとなり、ファルマンを動揺させた。これがほんとのカエルコールだね、というジョークは、いまこれを書いていて思いついた。
 ハンドル操作で避けようにも、避けた先にも蛙はいるのだから、どうしようもなかった。結局その晩、僕はたぶん、200匹くらいの蛙を轢き殺したことだろう。つらい出来事だった。もちろん轢き殺された蛙のほうがつらかったに違いないけれど。
 しかし翌朝、出勤で同じ道を走ると、生きた蛙はもちろんのこと、蛙の死骸もまるでない。まさか潰された蛙が、すべてタイヤの溝に詰まったわけではないだろう。これはいったいどうしたことかと思っていたら、道のすぐそばには何羽もの鷺がいて、6月にも書いたけれど、ああそういうことか、と思った。自然界はやけにシステマティックなところがあって、まるで、蛙500匹が鷺1羽とイコールです、と窓口で告げられたような、そんな気持ちになった。そして普段は丸呑みするのだろう蛙を、タイヤで潰した状態で食べることで、鷺の消化の負担が減り、普段なら新しい鷺を1羽発生させるのに必要な蛙が500匹であるところ、200匹で済んだ、などというのなら、昨晩の自分の抹殺走行も、少しは救われるな、などと思った。

 「王家の紋章」を、最新69巻まで読み終えた。34巻まで読んだと書いたのが8月20日なので、1週間で35冊、1日7冊ペースで読んだことになる。怒濤である。まるで母なるナイルの氾濫のようではないか。
 読み始めた頃は、この目まぐるしい展開が続くのだとしたら、いったい69巻ではどんなことが繰り広げられているのか、と途方もなく感じたけれど、いざ読んでみれば順当に、この漫画は35年だか40年をかけて、漫画世界の中ではたった数年ほどのことを、丁寧に丁寧に描いているのだった。絵柄もほとんど変わらないし、作者の理念のブレなさに、驚嘆を超えて、震撼する思いを抱いた。
 この1週間、おかげで筋トレもプールも裁縫もほとんどままならず、日常が瓦解し、特異な期間となった。それはまるで主人公であるキャロル(当初は20世紀から古代に来た少女という設定だったが、途中から21世紀ということになっていた)の追体験のようでもあった。現代と古代、そして昭和から平成、さらには令和と、さまざまな時代が、目まぐるしく移り変わり、少し疲れた。前回の記事で、おもしろい長編漫画は一種の蝗害のようなもの、と書いたが、読み尽くし、作物が食い尽くされたことで、僕はようやく蝗害から解放され、平和な日常を取り戻せそうだ。ものすごくおもしろかったけど、反面その嬉しさもある。ちなみに最新刊の刊行はほんの2ヶ月ほど前なので、続刊は当分先だろう。そしてこの読み方をしてしまったら、70巻が発売されても、1巻だけの追加分なんてどうせなあ……、などと思ってしまいそうで、まあとにかくあまり健全な読み方ではなかったな、と思う。

 今日で子どもたちの夏休みが終わる。まだまだ暑いので心配だが、暑さを理由に休業していたら、大学生並みの夏休みにしなければならないので、仕方ないだろう。
 夏休みは、大きくどこかへ出掛けるということはなかったが、もうこれはどうしようもない。連日警戒アラートなのだから。レジャーは、秋や春に集中して行なえばい(ポルガの部活もあり、これまでのようにはままならそうだが)。
 夏休み最終日の今日は、ピイガが「夏休みの間にいちどくらいホットケーキをしたかったな」などと、いじましいことを言ったので、滑り込みで行なった。ホイップクリームを立て、バニラアイスやチョコソースなども用意して、気を済まさせてやった。ピイガは1枚、ポルガは2枚、僕とファルマンは1枚を半分ずつという、まんま人間の生命力曲線グラフみたいな分量を食べた。1口目がとてもおいしかった。
 とにかく一刻も早く涼しくなってほしいが、週間予報を見れば暗澹たる数字が並んでいて、まだまだ我慢の時は続きそうだ。地を這うような曲線グラフの人間は、せっせとビールを飲んで耐えるしかない。われわれは文字を持たない、聖書に記述だけが残されている、ビールばかりをよすがに生きていたという謎多き民族。愛い奴。

2023年8月20日日曜日

王家・ハイカカオ・絵本

 夏休みに借りて読み始めた「王家の紋章」が滅法おもしろい。
 話そのものがもちろんおもしろいのだけど、それに加えて、「ガラスの仮面」とまったく同じ、「作者の情熱」としか言いようのない、読者の反応だとかマーケティングだとか、そんなものに囚われていない、混じりっ気のない「私はとにかくこれが描きたいのだ!」という強烈な業が、全編に渡って満ち溢れていて、それがたまらなくおもしろいのだ。作者が自分を愉しませるためだけに描かれている(実際はそんなことないのかもしれないが)ものが、なぜか「読者はこういうのが読みたいだろうな」と計算されて描かれたものよりもはるかにおもしろいという、その奇蹟的な現象を生み出す力こそ才能というのだろうな、などと読んでいて感じる。
 状況に恵まれ、いま実は、家に最新刊までの全巻が揃っている(完結ではない)。だから心置きなく読み進められる。それはもちろん嬉しいのだが、時間を取られるのも事実で、なかなか他の読書や、日記を書いたりということができずにいる。でもこれはもうしょうがないと、あきらめている。おもしろい漫画は、しょうがないのだ。喩えは悪いが、これはもう蝗害みたいなもので、食い尽くすまで収まらない。せいぜい早く読み終えようと思う。ただし夏休みから読み始めているのに、まだ34巻で、やっと半分というところ。先は長い。嬉しいけども。

 先月の体調不良の折に服んだ薬で、陰嚢が思うがままに寛ぐ姿を目の当たりにし、血流というのはなんと大事なものかと再認識し、恒常的に血流が良くなれば、いつでもあのような陰嚢でいられるのかと希望を抱き、インターネットで血流を良くする方法を検索したところ、ハイカカオチョコレートを紹介される。カカオ分が70%とか80%とか90%とかの、あれである。
 これまでもチョコレートは愛好していたが、それはハイカカオなどと謳っているものではなく、そしてそれは、ハイカカオチョコレートをおすすめするページにおいて、「ああいうチョコレートは飴です」という、なかなかセンセーショナルな文言でばっさりと切り捨てられていた。それ以来、まだ食べかけだったそれは、そのまま冷蔵庫で冷やされ続けている。薄々は感じていた。薄々というか、甘いチョコレートはそもそも、罪悪感を伴う妖しいおいしさが身上みたいな食べ物だったはずだ。
 しかしページを読んだ日からすっぱりと宗旨替えし、今はせっせと、カカオ分80%台のチョコレートを摂取している。これまで食べていたものより甘くなく、口どけもよくないが、でもただそれだけのことだな、と思った。幸い僕は、これまで食べていた飴チョコに、飴を求めていたわけではなく、それでもチョコレートらしさを得ようとしていたようで、チョコレートの濃さを希求した製品に、抵抗感はなかった。なにより、これを習慣的に食べることで、陰嚢が寛ぎ、さらにはアンチエイジング効果まで望めるのだと思うと、メリットしかないと思った。ありがとうございます。

 夏休みに行なった図書館巡りには、スタンプラリーのほか、実はあともうひとつ個人的な目的があって、子どもたちに絵本を読んでやっていた頃に読んだものだと思うのだけど、断片的な場面だけが思い出され、しかしそれが誰の何の本だったかはっきりしないものがあって、家にある蔵書では見つけ出せず、図書館でその探し当てようと目論んでいたのだった。
 とはいえ、完全になんの取っ掛かりもなく、記憶の中の曖昧なひとつの場面だけを頼りに、絵本棚の端から端までを当たるわけもいかない。なんとなくイメージの中のそれは、五味太郎の絵ではないかという気がしていたので、行った先々の図書館で、五味太郎の本を片っ端に確認した。しかし「これだ!」というものは発見できなかった。もしかするとぜんぜん五味太郎じゃないのかもしれない。
 というわけで、今でもその本の正体は判明していない。
 思い浮かんでいる場面は、サーカスの情景が俯瞰で描かれていて、たぶん本の前半で、パフォーマンスを失敗し団員が怪我をするのだが、ショーの最後でその団員が再びステージに現れ、客は「大事なかったようだ」と安心する、みたいな、なんかそんな情景。
 どなたか、心当たりのある方は、お知らせください。なんてことを、妻以外ほぼほぼ誰も読んでいなさそうなブログで書くという、この行為の清廉と美しいこと。

2023年8月8日火曜日

不純・ナイトキャップ・京極堂

 ポップサーカスの松江公演を観て、大いに感動したのだけど、でもどうしたって大人なので、外国の人も大勢いるサーカス団員の、背景のことなどにも思いを馳せてしまい、それは不純であると思った。故郷の親はどう思っているのかとか、どういう環境で暮し、どの程度の自由が与えられているのかとか、つい考えてしまう。演目のひとつに、中国雑技団系の6人の少女による曲芸があり、これなんかはもう、完全に親の視点で見てしまい、いかにも先輩だろう相手の投げたものを、後輩と思しき少女がキャッチするのを失敗したりすると、舞台裏での叱責の情景が思い浮かんでしまい、それはもう芸そのもののハラハラドキドキとはまったく別のハラハラドキドキで、サーカスの見方としては間違っているに違いなかった。子どもは決してそんなことは思わないので、やはりピュアであることは尊いな、と思った。
 ちなみにサーカスは、動物も登場するのかと思いきや、ほぼ現れず、帰宅後にウェブで確認したところ、どうもいまどきのサーカスというものは、動物愛護の観点から、動物による曲芸というものは排斥されつつあるらしい。ほうそうか、と思う。動物は、文句を言うことも逃げ出すこともできないので、人間の勝手で芸を仕込まれてあっちこっちと引き回されて可哀相だ、というのはもっともな話だが、でもそれは人間自身だって同じようなものではないか、ということも思った。華やかなショーを眺めながら、「やりがい搾取」などというワードが頭に思い浮かぶので、ピュアでなくなった大人は哀しい生き物だと思う。

 夏の暑さが原因であるに違いないが、髪が傷んでいて、キシキシする。それをファルマンに訴えたところ、「上の妹はナイトキャップを着けて寝ているらしいよ。髪にいいらしいよ。シルクがいいらしいよ」という答えが返ってきて、へえ、となった。
 ナイトキャップ。amazonで見てみると、「赤ずきん」に出てくるおばあさんのような、あれである。あの時代、それどころかもっと前から、ナイトキャップというものはまるで進化していないようだ。それでも美容に造詣の深い次女が言うのだからということで、1枚注文することにした。
 選ぶにあたり、頭に密着させる仕組みがゴムでないというのは絶対条件だった。とにかく就寝時のゴムを毛嫌いしているので、それだけは避けなければならなかった。というわけで、リボンで結ぶタイプのものにした。
 まだ着けて寝るようになって3日目なので、効果のほどは分からない。実は商品が届いたその日に、ファルマンに髪を切ってもらい、それでキシキシ感がだいぶ緩和されたので、ナイトキャップそのものによる効果というものは計測できなくなってしまった。なんやそれ。
 ちなみにだが、ナイトキャップを頭に被りつつ、相変わらず全裸で寝ている。全裸就寝に関してはファルマンからずっと呆れられていて、「せめて下着だけでも」と懇願されたりもするのだが、ずっと拒み続けていた。それだのにここへ来て、ナイトキャップだけが採用された。全裸ナイトキャップ。いよいよファルマンの眉間の皺は深くなる。「寝るときに全裸である」と「寝るときにナイトキャップを着ける」のベン図の重なりは、どのくらいだろう。同志はどれくらいいるのだろうな。

 おもひでぶぉろろぉぉんで過去の日記を読んでいたら、2006年の8月に僕は京極夏彦の京極堂シリーズを読んでいて、ああ京極堂シリーズ懐かしいな、などと思っていたら、なんとものすごくタイムリーに、9月にシリーズ最新作(「鵼の碑」だそう)が発売される、というニュースが飛び込んできたので、だいぶ驚いた。シンクロニシティ。
 ちなみに17年ぶりだそうで、そういう意味でもシンクロがある。当時の再読は、その年に刊行された「邪魅の雫」とは無関係のようだが(自分が「邪魅の雫」を読んだのか読んでいないのか定かでない)、17年ぶりの時を経て、ちょうど読み返している当時の日記の自分とともに京極堂シリーズの最新作を読むというのも一興だな、などと思う。
 でも腰が引ける。果たして17年経った今の自分に、京極堂シリーズが読めるだろうか。読む気力、体力があるだろうか。やってみたらぜんぜん無理だった、ということになったら、ちょっとショックを受けそうで、挑戦そのものをスルーしたい気もしている。そもそもキャラクターをほとんど覚えていない。いきなり最新作を読んでもいいのだろうか。過去作を再読するべきなのだろうか。でもだとしたら本当に壮大な計画になってしまう。悩んでいる。

2023年8月2日水曜日

副産物・よよよよ400・あだち充足

 新型コロナに罹患した疑惑があり、その後遺症として名高い、「ちんこが小さくなる」について、「その様子は見受けられない」という報告をした(だからみんな安心したと思う)。しかしながら、まだサンプル数(回数)が少ないため確かなことは言えないのだけれど、なんとなく、罹患前に較べて、発射が早くなったような気が、しないでもない。前までなら耐えられていた度合で、「あっ、あっ」となる。ちょっとそんな傾向を感じる。
 そこで「新型コロナ 後遺症 早漏」で検索してみたところ、やはり「ちんこが小さくなる」や「勃起不全」ばかりが出てきて、早漏ということを言っているページは見つけられなかった。もしかしたら世界初の症例なのかもしれない。
 もっとも早漏かどうかというのは、長さや固さ以上に感覚的なものなので、それが事実かどうかは確かめようがない。あるいは発想の転換で、性器に問題が生じて早漏になったと考えるのではなく、コロナ罹患を経て、俺の指使いに磨きが掛かったと捉えることも可能だ。だとすれば後遺症ではなく、副産物だ。新型コロナの副産物、自慰のテクニックの上昇。力が抜けたことで、絶妙なタッチが実現したのかもしれない。

 先日、夏祭りが3年ぶりだか4年ぶりだかに執り行なわれたので、家族で参加した。コロナ以降、初めてだし、コロナ以前も、なぜか倉敷では不思議なほどに夏祭りというものに縁がなかったので、ポルガも含めて、子どもたちはほぼ人生初の夏祭りなのだった(ポルガは第一次島根移住の際に連れて行ったこともあったが、記憶にないという)。
 数年ぶりの開催だったからか、島根のくせにすごい人出で、身動きが取れなくなるほどの瞬間もあり、そもそもそういう状況に慣れていないし、さらには暑さもあって、ひどく疲弊した。来年からは子どもだけで行ってくれよとも思うが、夏祭りの日のティーンのハイテンションを思うと(目の当たりにした)、なかなか娘を野放しにする気にもなれないのだった。
 屋台もたくさん出ていて、僕はもちろんこういう所のものは決して口に入れたくないのだけど、子どもたちはピュアなので「あれも食べたい」「これも食べたい」と言ってきて、でもだいたいのお店が行列だったので買うこともままならず、それでもひとつくらいはということで、チョコバナナの店の列に並び、購った。値段がどこにも書いておらず、いくらなんだろう、どうせお祭り価格だから高いんだろうなと思いながら、ポルガとピイガの分、2本を注文したら、「800円です」と言われたので、聞き間違いかと思った。あるいは、4人で並んでいたので、ひとり1本、4本の注文だと思われたかと思った。いいいい1本、よよよよ400円? ここここの、いかにも安そうな貧弱なバナナを、衛生面に大いに不安のあるチョコレートのプールにくぐらせ、そこにカラフルな粒粒のやつを振りかけただけの、これで、400円? 400円取るの? マジで? えっ、マジで言ってんの? たこ焼き600円とか、りんご飴500円とかは、まあ「お祭り価格だから」の許容範囲だ。でもこのチョコバナナ1本400円は、さすがに限度を超えている。易々と超えてるだろ……、と思いながら、子どもを引き連れて並んだ手前、「じゃあいいです」とも言えず、忸怩たる思いで1000円札を出し、200円だけ返ってきた。カツアゲかと思った。子どもたちは「おいしい」と言って嬉しそうに食べていて、まあ子どもが喜んでいるならいっか……、というふうに思えればいいのだが、あんな不衛生で法外な値段のものを喜んで喰うなよ、むしろ唾棄しろよ、と思ってしまうので、いつまでも溜飲が下がらなかった。今もだ。この半年くらいで、いちばん無駄に使ったお金だったんじゃないかと思う。
 そのあとに見た花火も、この衝撃には敵わず、久々の夏祭りの思い出は、チョコバナナ1本400円という驚き一色に染まってしまった。だって、ほんとに、あれが400円は、さすがに間違ってるだろう。あまりに儲けが出過ぎだろう。将来もうチョコバナナ屋さんになろうかな。おっさんのチョコバナナも咥えてくれーや。

 「タッチ」を読み終えた。途中でも書いたが、結局は浅倉南なんだな、ということを思った。あだち充が描きたかったのは、上杉兄弟でもなく、もちろん野球でもなく、ただ浅倉南なのだ。あだち充が描く物語は、主人公とヒロインが、表面上は紆余曲折ありながらも、結局は深い部分で一切揺らがず強く結びついていて、それは少年が物語を読むときの願望である、「とにかく無条件に主人公(俺)がモテ続ける」に他ならないが、あだち充はたぶんそれをビジネスライクにやっているのではなく、さらにその上位の存在として、「それを描いているのは俺である」という、自身の歪んだ欲求の充足のためにやっているのだと思う。それだからこんなにも、人の情欲をくすぐるのだと思った。大いに参考にすべき創作法だろう。