ポップサーカスの松江公演を観て、大いに感動したのだけど、でもどうしたって大人なので、外国の人も大勢いるサーカス団員の、背景のことなどにも思いを馳せてしまい、それは不純であると思った。故郷の親はどう思っているのかとか、どういう環境で暮し、どの程度の自由が与えられているのかとか、つい考えてしまう。演目のひとつに、中国雑技団系の6人の少女による曲芸があり、これなんかはもう、完全に親の視点で見てしまい、いかにも先輩だろう相手の投げたものを、後輩と思しき少女がキャッチするのを失敗したりすると、舞台裏での叱責の情景が思い浮かんでしまい、それはもう芸そのもののハラハラドキドキとはまったく別のハラハラドキドキで、サーカスの見方としては間違っているに違いなかった。子どもは決してそんなことは思わないので、やはりピュアであることは尊いな、と思った。
ちなみにサーカスは、動物も登場するのかと思いきや、ほぼ現れず、帰宅後にウェブで確認したところ、どうもいまどきのサーカスというものは、動物愛護の観点から、動物による曲芸というものは排斥されつつあるらしい。ほうそうか、と思う。動物は、文句を言うことも逃げ出すこともできないので、人間の勝手で芸を仕込まれてあっちこっちと引き回されて可哀相だ、というのはもっともな話だが、でもそれは人間自身だって同じようなものではないか、ということも思った。華やかなショーを眺めながら、「やりがい搾取」などというワードが頭に思い浮かぶので、ピュアでなくなった大人は哀しい生き物だと思う。
夏の暑さが原因であるに違いないが、髪が傷んでいて、キシキシする。それをファルマンに訴えたところ、「上の妹はナイトキャップを着けて寝ているらしいよ。髪にいいらしいよ。シルクがいいらしいよ」という答えが返ってきて、へえ、となった。
ナイトキャップ。amazonで見てみると、「赤ずきん」に出てくるおばあさんのような、あれである。あの時代、それどころかもっと前から、ナイトキャップというものはまるで進化していないようだ。それでも美容に造詣の深い次女が言うのだからということで、1枚注文することにした。
選ぶにあたり、頭に密着させる仕組みがゴムでないというのは絶対条件だった。とにかく就寝時のゴムを毛嫌いしているので、それだけは避けなければならなかった。というわけで、リボンで結ぶタイプのものにした。
まだ着けて寝るようになって3日目なので、効果のほどは分からない。実は商品が届いたその日に、ファルマンに髪を切ってもらい、それでキシキシ感がだいぶ緩和されたので、ナイトキャップそのものによる効果というものは計測できなくなってしまった。なんやそれ。
ちなみにだが、ナイトキャップを頭に被りつつ、相変わらず全裸で寝ている。全裸就寝に関してはファルマンからずっと呆れられていて、「せめて下着だけでも」と懇願されたりもするのだが、ずっと拒み続けていた。それだのにここへ来て、ナイトキャップだけが採用された。全裸ナイトキャップ。いよいよファルマンの眉間の皺は深くなる。「寝るときに全裸である」と「寝るときにナイトキャップを着ける」のベン図の重なりは、どのくらいだろう。同志はどれくらいいるのだろうな。
おもひでぶぉろろぉぉんで過去の日記を読んでいたら、2006年の8月に僕は京極夏彦の京極堂シリーズを読んでいて、ああ京極堂シリーズ懐かしいな、などと思っていたら、なんとものすごくタイムリーに、9月にシリーズ最新作(「鵼の碑」だそう)が発売される、というニュースが飛び込んできたので、だいぶ驚いた。シンクロニシティ。
ちなみに17年ぶりだそうで、そういう意味でもシンクロがある。当時の再読は、その年に刊行された「邪魅の雫」とは無関係のようだが(自分が「邪魅の雫」を読んだのか読んでいないのか定かでない)、17年ぶりの時を経て、ちょうど読み返している当時の日記の自分とともに京極堂シリーズの最新作を読むというのも一興だな、などと思う。
でも腰が引ける。果たして17年経った今の自分に、京極堂シリーズが読めるだろうか。読む気力、体力があるだろうか。やってみたらぜんぜん無理だった、ということになったら、ちょっとショックを受けそうで、挑戦そのものをスルーしたい気もしている。そもそもキャラクターをほとんど覚えていない。いきなり最新作を読んでもいいのだろうか。過去作を再読するべきなのだろうか。でもだとしたら本当に壮大な計画になってしまう。悩んでいる。