2005年のことだそうで、そこは既に「おもひでぶぉろろぉぉん」の作業が完了している時代だったので、優勝が決まったであろう当時の9月や10月あたりの抜き出し記事をざっと読み返してみた(便利です)。すると、「ほっとけない」でおなじみのホワイトバンドをはじめとするラバーバンドが流行っていた時期だった。そうか。大昔だな。あと個人的なことだが、ソニーの携帯電話からパナソニックのものに乗り換えていて、記憶媒体がメモリースティックからSDになったので便利になった、と喜んでいた。折しも先日発表されたiPhone15で、アップルはとうとうLightningケーブルを諦め、USB‐Cを採用することになった、というニュースがあったので、18年越しの共通項というか、人類の技術進化のスピードは加速化していると言われるが、案外そんなこともないんじゃないか、と思ったりした(Lightningケーブルというものには結局まったく触れ合わなかった人生だった)。
ちなみに「優勝」を指して岡田監督が用いた「アレ」という表現は、かなりよかったと思う。大賞になるかどうかは分からないが(今年は当たり年である)、流行語大賞にノミネートされるのは間違いないし、よくある「それは流行語じゃなくてただの流行!」というツッコミに当て嵌まらない、純然たる流行「語」なので、好感度が高い。優勝が決定した試合後のインタビューで「アレはもうやめて優勝と言います」と監督が述べ、ファンが「ワーッ!」と盛り上がったのも秀逸だと思った。でも同時に、だからもうあの時点から、優勝のことを「アレ」と濁して発言するのは古い、ということにもなったと思う。そのため優勝が決まったあとの街頭インタビューで、「アレが決まって最高でした!」などと答えている人を見ると、ダサッ! と思った。そしてこの、一瞬で古くなるというのも、流行語としてのポイントが高いんじゃないかと思った。
TwitterがXになり、もう1ヶ月くらい経ったのだろうか。
この一連の騒動に関して、自分がどういう思いを抱いているのか、これまで心の動きを静かに見つめていた。そしてこのたび結論が出たので記す。
ざまあ、だ。
ブロガーにとって、Twitterは脅威だった。華やかで、ポップで、活気があって、品も(まあ)ないこともなかったように思う(いま思えば)。
ブログが、築30年くらいの、和室なんかも普通にあるような、質実剛健な、5階建てくらいの、でも法律がなかったのでエレベーターが設置されていないみたいな、昔ながらの集合住宅であるのに対し、Twitterはそのすぐ横に建った、タワーマンションであった。豪奢な造りで、設備も充実し、なにより新しさがあった。
でもその誰もがひそかに羨んでいたタワーマンションに、施工の致命的な欠陥が見つかった。耐震性がぜんぜんないとか、塗料に発がん性物質を使っているとか、なんかそういう感じの、本当にどうしようもない欠陥。これまで栄華を誇っていた住民たちは阿鼻叫喚。しかも頼みの綱の補償関係も、業者がとんずらしたとかでままならないと来た。
そのさまを見て、昔ながらの集合住宅の住民たちは思う。思わない。大声で叫ぶ。
ざまあ、と。
別に自分たちの立場が上がったわけでは決してないのだけど、忌々しく思っていた存在の凋落は純粋に嬉しい。この世に本当に純粋な感情があるのだとすれば、こういう感情だとしみじみと思う。テレビなどで、「X(旧Twitter)」などと見苦しい表現をしているのを見るたびに、ベホイミくらい生命力が回復するのを感じる。
Xという名称がまたいい。悪すぎて、こちらとしては万々歳だ。よく知らないが、イーロン・マスクはこれまで、ブログを一切やってこなかったんじゃないだろうか。ブログをいくつかやっていたら、絶対にこんなネーミングはしない。最初はどうしたって、「つれづれ日記」みたいなタイトルを付けてしまいがちだ。Xには、「つれづれ日記」と同じセンスを感じる。黒歴史感がすごい。ブログもせず、コーチの経験もなく、監督になってしまったら、Twitterみたいなことになるし、中日ドラゴンズみたいなことになるといういい例だ。
この文章内で、僕はどれほどの人間を敵に回したろう。おかしいな。めっちゃ性格いいはずなのにな。
あまりにも友達がいないせいか、お店などで同年代とか、もう少し若いくらいの男性を見ると、この人が俺の友達だったら……、などと考えるようになった。もはや片親のいない子のようだ。もっとも僕は実際に片親のいない子どもだったが、街中で見かける父親くらいの年齢の男に対し、この人が父親だったら、なんて発想は抱いたことがなかった。たぶん父親は別に欲しくなかったし、友達は今でもやっぱり欲しい気持ちがあるからだろう。友達がいつまでもひとりもいないので、友達なんていても別にしょうがないもんだな、という真理にいつまでも到達せず、憧憬の燃え殻みたいなものだけがくすぶり続ける。
先日は、僕に友達をもたらすという目的で、三女が結婚をすればいいんだ! ということを思った。三女が結婚をするとなったら、その相手本人であったり、相手の人間関係において、僕に友達が生まれる可能性がにわかに湧いてくると思う(そうだろうか?)。
思わずもうちょっとのところで、三女にLINEをするところだった(頭を冷やし、思いとどまった)。独身者に婚活をけしかけるのって、大抵はおせっかいというか、それでも一応は本人のことを思って行なわれる行為であることが多く、それであっても今の時分、時代錯誤だと大いに疎まれがちだというのに、僕のこの魂胆の場合、良かれと思ってでさえない。ただ僕の友達を生み出すためにやれと言っているわけで、ここまで最低だと、逆に清々しさも出てくる気がする。さらにゲスなことを言うなら、僕との友情が築かれたあとなら、いくらでも離婚してくれたって構わないと思う。