2018年5月23日水曜日

悪質・清しい・バトン熱

 悪質なタックル問題が世間を賑わせ続けている。心から愛する我が母校の対応のひどさが本当にあんまりで、なんだかどんどん愉しくなってきた。こうなったらもう堕ちるところまで堕ちればいいと思う。僕はこれから出身校を訊かれたら、「悪質なタックル大学芸術学部です」と答えようかと思っている。「悪質なタックル」ってとにかく言いたい。あと、いつかなんかしらの行為によって謝罪するとき用に、ピンク色のネクタイを買っておかなければならないな、とも考えている。
 日芸生は今回のことで大体そんなことしか感じていないと思う。

 なんの縁もゆかりもない小学校の校歌の歌詞を眺めていたら(なんでだよ)、その中に「清しい」という表現があり、なんだそれは、となった。意味は解る。「清々しい」だ。しかしこれまでそんな表現は見たことがなかった。実際、広辞苑を確認したら載っていなかった。ウェブの辞書には項目としてあったけれど、ウェブの辞書になんて「そこに載っていたら正式な日本語だ」という権威はまるでないので、なんのあてにもならない。たぶん今回の場合、本来なら「清々しい」としたかったところを、曲の音数に合わせるために「清しい」にしたんだろうと思う。
 それは別にいい。怒らない。怒らないどころか、逆に「清々しい」ってなんだよ、とさえ思えてきた。考えてみたらなんで2回、「すがすが」って言わなけりゃならないのか。って言うか「すがすが」ってなんだよ。「すがすが」だけこうして抜き出すと、やけに間抜けな字面で音で、本当になんでこんな言葉を口に出さなけりゃならないのか、と思えてくる。それに対して「清しい」の清しさったらどうだ。清々しいよりもはるかに清しいではないか。これまでさんざん世界の清々しいところを表してきた清々しいという言葉だったが、実は自分自身に、もっと清々しくなれる要素が隠されていた、という皮肉。紺屋の白袴。往々にしてそういうものかもしれない。
 こんなときは断捨離。「清々しさ」から、「々」を捨てる。だって実はぜんぜんいらなかった。なんの役にも立っていない、むしろ邪魔でさえあったのに、なんとなく捨てられずにずっととってしまっていた。それを今回とうとう捨てた「清しさ」さん、生まれ変わった現在の心境はいかがですか。「はい。清々しました」。だーかーらー!

 日曜日のバトンのステージを見て以降、またバトン熱が高まっている。こう言うとまるで熱が低下気味だったようだが、別にそんなことはなく、日々励んでいたのだけど、またさらに改めて、ということである。そして当日にも書いたように、これまでバトンを頭上に飛ばす練習なんかをしていたのだけど、反省して、今はまたひたすらバトンを回す基礎練習に戻っている。これが愉しい。バトンを飛ばすのって、演技として見たとき、それをしなければ観客が納得しないだろう、という感じがあるが、やっている側としては案外つまらないんじゃないかと思う。それに対してひたすらバトンを回すの、チョー愉しい。マジで愉しい。クルクルクルクルクルクル、と回し続けていると、だんだんトリップ状態みたいになってきて、愉悦の境地に至りそうになる。今日なんか昼休み終了5分前のベルに気付かず、そのあとも回し続けてしまい、危ないところだった。手首が柔らかくなりたい。

2018年5月20日日曜日

日大・友達袋・CCさくら

 会社で「日大が話題になっとるやーん」と嘲られる。アメフトのタックルの件である。たしかにひどい話である。競技のことは詳しく知らないのでなんとも言いようがないが、発覚後の態度の悪さがとにかくひどい。このSNS全盛のウェブ社会において、いまどきこんなに評判を気にしない、悪い体制を隠そうとしない団体があるかよ、と衝撃を受けた。
 それはそれとして、日大のことで僕をいじられても困る。日本大学という巨大な組織の、中心と言ったらどこらへんのことになるのか、さっぱり分からないけれど、芸術学部がそこから外れていることだけは断言できる。あまりこういうことを言うと、芸術という分類の性質ゆえに、鼻にかけている感じがどうしたって出てしまい、もちろんその種の特権意識みたいなものがまったくないわけではないのだが、かと言って在籍した4年間によって芸術への造詣が一般人をはるかに凌駕するレベルに到達したかと言えばそんなこともまるでなく、しかし曲がりなりにも高い授業料を払って修了したからには対外的には一目置かれたって罰は当たらないじゃないかという思いもあり、そのあたりはなかなかに複雑な心模様なのだけど、とにもかくにも言いたいのは、日芸生には日本大学という組織への帰属意識がほとんどない、ということなのである。僕は出身地を訊かれても、よく言われるように「神奈川県」ではなく「横浜」と答えるし、なんかその手の鼻につく感じには筋金が入っている。
 それなので、日本大学いじりをされて、とても驚いた。日本大学出身者として扱われていたのか、というショックみたいなものも正直少しあった。それでちょっと頭に来たので、母校名物の悪質なタックルを喰らわせてやろうかと思ってしまった。日大出身者はみんなあれ出来るんだよ。

 LINEの友達がふたり増える。職場の、それなりに話す同僚に、「LINEの友達って何人いるの? 俺6人なんだけど。そのうち3人は仕事の人で、もう3人は妻と母と姉なんだけど」と話しかけたら、「え、じゃあ交換する?」と相手が言ってくれ、QRコードを読み取る画面の出し方が分からなかったからその操作もしてもらって、登録した。やったぜ。しかし登録したらしたで、職場の同僚と改めて話すことなんてなにもないものだなあと気付いたり、と言うかLINEってチャットみたいな感じだから、家族とか、あるいは仕事上の事務的な連絡とか以外では、1対1で語り合うのってちょっと重くない? などと思ったりして、まだなにも発言していない。登録してもらっておいてなんの挨拶もしないという状態が果たして正しいのかどうかも解らない。解らないことだらけだ。山から降りて初めて舞踏会に出たような気持ちだ。誰か俺をひとりの立派なレディーに仕立て上げろよ。
 でも、そんなヘロヘロの友達状態の僕だけど、そんな僕だからこそ説得力がある気がしないでもないこととして、友達って質より量なのだ。本当にそう。量より質とか言う奴は絶対に負け惜しみだと思う。3人くらいしか友達と呼べる人間ができない、負け犬の遠吠えなのだと思う。本当に、ひとりも友達がいない僕が、どこまでも透き通った瞳で世の中を見つめて、そしてこう主張したい。友達は質より量。大事なのは量だ。食べものなら量より質だってことはある。なぜなら胃袋の大きさには限りがあるから。友達はそうじゃない。友達袋は四次元ポケット。いくらでも入る。だからたくさん入っていたほうがいいに決まってる。ピンチのとき、パニックになって、あれでもない、これでもない、となかなか目当てのものが出てこない、そんなくらいに中身がいっぱい詰まっていればいい。

 始まったときにはとてもワクワクしていた「カードキャプターさくら クリアカード編」なのだけど、最近は視聴が追いつかず、ハードディスクに毎週自動で録画されるのがどんどん溜まって、ファルマンから顰蹙を買いはじめている。
 なぜ視聴が追いつかないのかと言えば、視聴の触手がなかなか伸びないからで、心が躍っていれば、ファルマンにとっての「おっさんずラブ」のように、この人これが終わったら脱け殻みたいになるんじゃねえかな、と不安になるくらい、がっついて観るのだけど、残念ながら今の僕にとって「カードキャプターさくら クリアカード編」はそうではないのだった。
 ここに、このアニメに対してとにかく付き纏う、時代の流れ、現実世界の自分の加齢をまたしても痛烈に感じる。アニメは、さくらが小学6年生から中学1年生になったことと、携帯電話がスマートフォンになったこと以外、作品としての本質はほとんど変わっていない。だから、それがきちんと愉しめなくなったということは、僕のほうが変わったということになる。
 20年近く経っているのだから当たり前だ、変わっていないほうが不健全だ、というのはもっともだが、どうしても寂しさがある。劇画オバQのような寂しさ。そうか、パピロウはもう大人になっちゃったんだな……。もう李くんの桃まんくらいでしか愉しめなくなっちゃったんだな……。

2018年5月15日火曜日

荷物・オオキンケイギク・撮影

 職場に持っていく毎日の荷物がやたら多い。自分でもたまにびっくりするほどだ。
 まずメインのバッグがある。これがまずわりと大きい。ベジバッグというやつで、そもそも市場で野菜をたくさん買って持って帰るためのバッグだという。だから搭載量はかなりある。ここに財布やら、飲み物やら、身だしなみグッズやら、本やら、眼鏡ケースやら、おやつやら、なんだかんだでパンパンに物を入れている。これだけでずいぶん重い。近ごろ半袖になったら、持ち手を引っ掛けていた肘の内側が内出血を起すようになった。それほど重い。
 加えて、お弁当を入れるためのミニバッグを持つ。これは弁当箱がぴったり入るサイズなので、大きくはない。しかしお弁当は毎日のことなので、これも必ず持たなければいけない。食後に飲むお茶用に、マグカップも毎日ここに入れて持ち運んでいる。
 そこへ、手作りのバトンバッグも必ず携える。携えていきながらいちども回さない日というのも少なくないのだが、もはや精神安定のためにこれも必ず持っていないといけない。朝、玄関先で、ファルマンはたまに「ご武運を」と言って低頭しながらこれを捧げてくる。武士と妻コントである。しかし中身はトワリングバトンである。先日ここに煮玉子のキーホルダーを付けたのだけど、これがまたやけに重たいキーホルダーなのだ。付属のボールチェーンが駄目になるくらい重くて、仕方なく家にあったもっと丈夫なボールチェーンに付け換えた。なぜか外すという発想はなかった。
 ちょっと前まではここまでだったのだけど、先月からタブレットを持ちはじめ、タブレットにはキーボードもセットで必要になってくるため、その一式専用のバッグを持つことになった。タブレットを購入するにあたりちょっと相談したりした会社の人に、「それで結局タブレットは買ったの」と問われ、「買いましたよ、ほら」とそのバッグからタブレットを取り出したら、「なんなの、その大きいバッグ」と追及され、「これにはキーボードが入っているのです」と続けてキーボードを取り出してみせたら爆笑された。ギャグの一種と思われたのかもしれない。
 そんなわけで、いまそんな4つのバッグを持って、日々出勤している。これが合計で、すごく嵩張るしすごく重たい。歩く距離が、車から自分の仕事場までの100メートルくらいだからなんとかなっているが、公共交通機関での出勤だったら考えられない体積と重量である。疲れの溜まった週末など、たった100メートルでもつらくなるときがあるので、少し減らしたい気持ちはあるのだが、ためつすがめつして見ても、なにひとつとして省けるものがないのだった。男性の同僚には、水筒と財布しか持ってこない人なんかもいて(昼ごはんは宅配弁当)、驚嘆する。

 オオキンケイギクが咲き始めている。やっぱりうっとりするほどきれいだ。好きな黄色、好きな形。これの存在だけで、この時期は自然と愉快な気持ちになる。
 そしてオオキンケイギクをウェブで検索したら出てくる、特定外来生物だの駆除だのという言葉にうんざりする。なんでこんなに毛嫌いされているのか読んだら、別に毒があるとかそういう話では一切なく、繁殖力が強くて在来種を追いやってしまうからだという。その程度の話なのだ。それを「特定外来生物に指定!」などと言うものだから、国が戦争を始めたら一億総火の玉とかすぐに叫び出しそうな輩が、「駆除しなければ!」となる。本当にばからしいと思う。

 ファルマンが「おっさんずラブ」にど嵌まりしている。僕もそれなりにおもしろく観てはいるのだけど、横にいる人があまりにも入れ込んでいると、引いてしまう。本当に、あらゆる日常会話が、ツーステップくらいですべて「おっさんずラブ」につながるので、どうせ結論が「おっさんずラブ」ならば会話などする必要がないのではないか、とさえ思えてくる。
 そんな「おっさんずラブ」の先週の放送では、とてもタイムリーに中川駅を出てすぐの歩道橋で撮影をしていた。昔からあそこはよくドラマの撮影に使われるのである。それが今回は、妻のど嵌まりしているドラマで、しかも僕は実際にそこを数日前に思い出散歩したばかり、ということがあったので、わりとインパクトが強かった。別に林遣都を目撃したわけではないのだが、ファルマンは大いに発憤していた。「昔からよくドラマの撮影に使われるんだよ」の部分が、怒りの琴線に触れたのかもしれない。いやでも、ほら、島根もちょっと前にやってたじゃん、エグザイルがたたら場に行ってなんかする映画。出演していた橋爪功の息子が覚醒剤で捕まったせいですぐに上映中止になったやつ。あれやってたじゃん。すげえじゃん! フゥー!

2018年5月11日金曜日

エロ本・縁・キーボード

 帰省初日の出来事なのだけど、一家の荷物を、滞在中あてがわれている部屋にとりあえず置いて、「おこめとおふろ」に書いたように、僕とファルマンは電器屋へと出掛けたのである。その間、子どもたちはすっかり慣れたもので、母や叔父に見守られながら、Wiifitなどして過ごしていたらしい。Wiifitというのが悲劇の引き金だった。無駄にジョギングなどするものだから、長袖を着ていたピイガは汗だくになったという。それで母は、かわいそうだから半袖に着替えさせてやろうと思い、部屋に置かれたキャリーケースの中を探った。しかしそのキャリーケースは、帰省のあとそのまま出張へ行く僕の荷物専用のものであり、探せど探せど子どもの服は入っていない。入っているのは、34歳の息子の衣類と、そして数冊のエロ小説だけなのだった。そうなのだ。エロ小説なのだ。出張で、移動時間も長いので、それはエロ小説の1冊や2冊、2冊や3冊は、荷物の中に入れてくるに決まってるじゃないか。そんなこと言ったってしょうがないじゃないか(えなり)。子どもたちの服は実はファルマンの背負っていたリュックに入っていたのだけど、なんとなくそちらの開帳は遠慮したらしく、キャリーケースの中に息子の衣類とエロ小説しか見つけられなかった母はそこで見切りをつけ、たまたま家にあった、姉の娘の服を着せていた。もちろんちょっと大きかったのだけど、はじめからそうすればよかったじゃないか。もちろん面と向かってエロ小説のことを言及されたわけではないのだが、しかし事の次第を考えれば、母がそれを目にしたことはほぼ間違いない。まさか実家を出て、家庭を持ち、34歳にもなって、オカンとエロ本のこういった出来事に遭遇するとは思っていなかった。帰省初日にして大いにへこんだ。ファルマンに話したらすげー爆笑された。

 帰省初日の晩ごはんの際、義兄と話をしていて、義兄はやけに僕に対してそういうことを言うのだけど、今回もまた、「パピロウはもっと自分をアピールして創作活動をしていくべきだ」という内容のことを言われる。義兄が僕の作ったなにを見て、そこまで忸怩たる思いを抱いてくれているのかよく解らないが、ありがたい話ではある。「こういうのって人と人との縁なんだから」とも言われる。もちろんそんなことは解っちゃいるのだ。だがそこの部分が壊滅的にできないから、なにも広がっていかずにここまで来ているのではないか。「もうパピロウがやらないなら俺が動くよ」とさえ義兄は言ったが、果たして義兄は僕の作ったものをなにか持っていただろうか。ヒットくんとクチバシの絵でも描いて送ったら、数ヶ月後くらいにサンリオのキャラクターになっていたりするのだろうか。義兄ならやってくれるかもしれない。あの友達クーポンを体現して生きているような義兄ならば、この世でできないことなどなにもないような気がする。友達クーポンを使ったことがなさすぎて、未だ見ぬそれに対して無敵のようなイメージを持っている。

 タブレットを携えての帰省および出張は、とてもよかった。ホテルで帰省の日記を書くこともできたし、LINEで家族と映像通話をすることもできた。かく言うこの記事だって、帰りの新幹線で書いている。簡易テーブルにスタンド台を置き、タブレットをセットして、膝の上でキーボードを打っている。やっぱりキーボードも買ってよかった。ファルマンとのLINEでも、すごく快適に文言が打てて、けれど向こうは画面上のキーを打っているので、やがて「手が疲れたからもう勘弁してくれ」と拒まれてしまった。妻が「もう勘弁」と音を上げて、夫はまだまだ元気だなんて、まるでキーボードってバイアグラのようだな、などと思った。あと写真やビデオも便利。普通にきれいだし。中川駅で降りての思い出散歩や、出張先の街並みなんかを、すごく気軽に撮影した。そして撮影しながら、「ああ俺はいま、タブレットで風景を撮影しただけで、ちょっとなんかしたような気になってるな……」と思った。この自覚だけは失わぬよう、自らを戒めていかなければならないと思う。

2018年5月2日水曜日

ややこし・セクハラ・人間ごっこ

 「増長」と「助長」と「冗長」がまぎらわしい。まず「増長」と「助長」は、意味がまぎらわしい。正しい用法を辞典で調べるということをひとまずしないで話を進めるが、どちらの「長」も「調子に乗る」みたいな意味だと捉えている。それを「増す」か「助ける」かの違いだ、ということだ。だから「増長」は自動詞的で、「助長」は他動詞的だ。Aが調子に乗っているとして、「Aは増長している」とも言えるし、「Aは助長させられている」という風に言うこともできる。それでややこしい。同じ現象に対して使えて、自動か他動かの部分だけをちょっと変えれば代替可能だから困る。それに、完全に自動で増長することなんてそうそうなくて、大抵の場合は周囲による助長が原因だろうと思う。そう考えれば増長を使える場面なんてなくなるような気もするし、しかしその一方で、周囲による助長の結果こそが増長なのだ、だから逆にすべては増長に帰結するのだ、という気もする。そういうことを迷って、咄嗟のときにどちらを出せばいいのかあぐねたとき、意味は別に似ていないが、増長と助長、ふたつのちょうど中間で、音的にまぎらわしい「冗長」までもが脳裏をよぎりはじめ、困る。日常の困りごとランキングの、これが78547位。

 労働をしていたら、60代のおじさん社員が後ろからやってきて、「やってるねえ」みたいな感じで背中に手を置かれ、怖気が立った。たぶん60オーバーのおじさん的には普通のことで、ましてや男同士だし、反応するほうがおかしいのかもしれないが、思わずのけぞり、すぐに体を前に流して、手の平から分離した。自分でもびっくりするほどの拒否反応が咄嗟に出た。そして思った。セクハラって本当に嫌なものだ。別に今回のこれをセクハラというつもりはないけれど、実体験を通して、世間で騒がれているセクハラというものが、どれほど嫌なものかということがよく解った。だって僕がこれまで一生懸命に生きてきたのは、あのおじさんに背中を触られるためじゃないもの。だからあんなことは絶対に他人にやってはならない。人生全体を侮辱されたような気がした。そして思った。セクハピなんてない。なんだセクハピって。阿呆か。神経を疑うわ。

 ファルマンが母の日のプレゼントで思案している。島根のほうの母の話なので、三姉妹で協議しているらしいが、妹たちの意見により話が花方面に傾きそうだという。親ってもう大抵の物は持っているので、いろいろ考えた結果、まあ花を贈っとけばええわ、となりがちなものだ。これに対してファルマンは、「なんで花なんか贈ろうって思うんだろう。花って、臭いし、腐るし、世話しなくちゃいけないしで、なんにもいいことないじゃない」と文句を言っていて(もちろん妹たちに言うわけではない)、ああさすがポルガの母親だなあと思った。えっ、じゃあ花のどこがいいって言うの、と問われたら、それはまあ僕だって別に明確な答えは持っていないのだけれど、でもそれにしたってあんた、花は尊んどけばいいじゃない。「花=素敵」と心に書き込んで決定事項にしておけば、たぶんその分だけ生きやすいわけじゃない。俺たちそうやってちょっとずつ世の中のことインプットしてなんとかこなしていこうよ。早く人間になりたい。

2018年4月21日土曜日

ポルガ・東京・ピイガ

 ポルガに、「どうしてパパとおかあさんはスマホじゃなくてタブレットなの?」と訊かれる。世間の大人は大抵スマホなのに、うちの両親はふたりしてガラケーにタブレット。どうして? となるのも無理はない。どうしてってそれはお前、お前の両親はふたりとも、生きるのがちょっと下手だからだよ。お前はそんなふたりの愛の結晶なんだよ。「ポルガはぜったいに小さいのがいい! だって進化してる感じがするもん!」そうか。それを面と向かって我々に言ってしまうお前もまた、たぶん生きづらい人生を送るんだと思うよ。ざまー見ろ!

 先日の出張で、新幹線の東京駅に降り立ったのだった。いつもは新横浜で降りるわけで、そこから先の都内エリアは新鮮だった。もっとも品川は、車内からホームを眺めて思い出したが、何度か利用していた。だってかつては練馬在住だったんだもの。陸路で島根に行く際は、そこから新幹線に乗っていたはずだ。そんなに記憶に残っていないけど。しかし新幹線の東京駅というのは完全に初めてだったと思う。乗り換えの十数分、駅構内を歩いただけだけど、やっぱり東京駅というのはすごいのだなあ、と思った。乗降客で言えば新宿とか渋谷のほうが多いのかもしれないが、東北とか北陸とか関西とか、目的地のスケールが大きい。ここから日本のどこへでも行けるんだ……、さすが首都……、と感動した。あと品川から東京までの車窓の風景は、やっぱり開発に次ぐ開発という感じで、未来都市みたいな込み入った区画に、おためごかしのような公園があり、そこでは都会の子どもたちがすさまじい人口密度で遊んでいて、おらがとこと世界がぜんぜんちがう……、と思った。東京って、自分が住んでいるときはそのすさまじさにピンと来ないし、離れるとすさまじすぎて受け付けられなくなるしで、ちょうどいい距離感が掴めない。きっと永遠に掴めない。

 ピイガの女子力がすごい。前々から、これはなかなかのものなんじゃないか、とは思っていたが、幼稚園に入ったことでそれがさらに強調され、痛感した。入園式後の登園初日に、クラスの男の子のひとりを虜にしたようで、その男の子は一日、ピイガからひとときも離れなかったという。マジか。上の子があまりにもそういう女子らしさと無縁なので、ふたり目にして初めてのことで、驚く。たとえば朝、僕が出勤するとき、ポルガは居間で朝ごはんを食べ続けるのだけど、ピイガは玄関まで来て頬にキスをしてくれるのである。もちろん嬉しいのだが、僕ももういい大人なので、女子のこういう行為が、相手を愛しく思う気持ちというよりは、女の子が自分をより愛らしい存在にするためにしている、ということが理解できている。しかし幼稚園の彼も含めて、これからピイガと出会う数々の男子は、まだそんなこと解らないだろう。こわい。末おそろしい。

2018年4月14日土曜日

数値・端末・記憶

 職場で行なった健康診断の結果が届く。いつもの通り、γ-GTPだけが引っ掛かる。もうこれは仕方ないことで、高地で暮す人々の心肺機能は鍛えられて発達するみたいな感じで、常態として高い数値をキープするのならば、肝臓の機能もだんだんそれに対応してくるんじゃないの、などと思う。それでもなんとなく安心する材料が欲しくて、この人なら間違いない、という上司に、同じ項目の数値を訊ねたら、僕の2倍もあったので、うん、やっぱりまだまだ大丈夫、と一気に霧が晴れた。

 タブレット持つ計画が一気に進み、もう発注してしまった。結局ネットで発注したわけだけど、日中にお店にも実際に行った。しかし僕が求めているような用途の、SIMフリーの端末というのを店では売っていないということで、すごすごと退散したのだった。1年ほど前だったか、ファルマンが購入した際はそんなことはなかったはずなのだが、情勢が変わったのらしい。こういう業界の情勢はどうしてこうも目まぐるしく変わるのだろう。そもそも、僕がスマホをいちども待たないまま、世の中はアイフォン10なんてことを言っている。速すぎないか。なんなら僕はアイフォン1からのスタートでもいい。それが2円くらいで手に入るのならそれでもいい気がする。そしてそれを使って僕は思うのだ。これは画期的な製品だぞ、と。

 子どもたちがドラえもんに嵌まっていて、義母がWOWWOWを録画してくれた大長編のDVDをよく観ている。それで今日、「アニマル惑星」を僕も一緒に観た。とても懐かしく、おもしろかった。思えば僕にとってのドラえもん大長編の黄金時代と言えば、第9作である「日本誕生」(89年公開)から第12作の「雲の王国」(92年公開)のあたりであり、だからすごく思い入れがあるのだった。あの頃はとにかくドラえもんの絵ばかり描いていたような気がする。「ドラビアンナイト」の、ターバンを被ったドラえもんの絵とか、すごく描いた記憶がある。懐かしい。あれから作者も、声優も、すごく死んだり、なんなり、した。急にそんなことを言った。実際、そこから四半世紀ほども経ったのだ。四半世紀と言えばそれなりの年月である。22世紀からやってきたという設定のドラえもんだったが、四半世紀先では、作者や声優が、死んだり、なんなり、したのだった。それは当り前のことなのだけど、なんとなく切なさがある。