実に梅雨めいていて、気怠い日々である。思考する気が起きず、読書をする気が起きず、裁縫をする気が起きず、筋トレをする気が起きず、日記を書く気が起きず、じゃあなにをしているのかと言えば、インスタグラムをやっている。ジョニファー・ロビンの下着紹介のやつ。ずいぶん間が空いて、フォロワーたちをだいぶやきもきさせてしまったと思う。久しぶりにやったら淡々とおもしろい。今のこの散漫な気分に合っているので、次々に投稿していこうと思う。
ところでこれをスマホから投稿することはないのだけど、過去にどういう投稿をしたか、スマホで確認したい場面はある。しかし職場でも、お店のレジ待ち中でも、なかなか自分のインスタグラムの画面を開く勇気はない。なにしろあまりにもビキニショーツのどアップ写真だ。田舎の車通勤なので感覚が少々失われているが、都心部の人々は、通勤通学の電車内でよくスマホを眺めるのだろう。であるならば、ビキニショーツのどアップ画像ばかりが並ぶインスタグラムというのは、なかなか開かれづらいだろうなあ、と思う。カリスマインスタグラマーへの道のりは遠い。
自分は強めの右利きなので、そのためにちんこが左に向いてしまっている、ということを前回の記事に書いた。だからこれからは左手の稼働を意識していきたい、と。
書いたあと、これって「タッチ」みたいな話だな、と思った。いつも右手(和也)ばかりが目立ち、左手(達也)は陰でいじけていた。しかし哀しいかな、和也が張り切れば張り切るほど、ちんこ(南)は達也のほうを向いてしまう……。
という話をファルマンにしたところ、「南を!? 南をそれに!?」と驚嘆された。たしかに浅倉南をちんこの喩えに使ったのは、これが人類史上初めてのことかもしれないと思った。
俺の南が、今後もうちょっと和也のほうを向いてくれますように。
でもこれだけは言っておきたいこととして、俺のちんこはゲームの賞品じゃない。
推しという言葉、文化が花盛りである。
なんか推しがある人って人生が愉しそうだな、羨ましいな、ということを思い、某ネット発の歌い手を推しているファルマンに話をしたら、「あなたにはMAXがいるじゃない」と半笑いで言われ、「なにを!」となった。
なんかしらのファンであることは愉しそうだという、今回とまったく同じ考えから、MAXのファンになることを表明したのは、振り返ったらもう4年も前のことだった(4年前はまだあまり「推し」という表現は一般的ではなかったようだ)。ということは僕は、もうMAXのファン歴が4年になるのか……。なるのか、ではない。なってない。白状してしまえば、実は僕はMAXのファンではないのだ。人生の中で一秒だってMAXのファンになり下がったことなどない。もぐりなのだ。丘MAXなのだ。MAXという頂は少し高すぎて、僕には登ることができなかった。
それでもいちどはファンになろうとした間柄なので、半笑いでオチのようにMAXのことを使われると、少し気に障る部分がある。MAXをバカにしていいのは俺様だけだ! と、ベジータのような気持ちになる。とても複雑な関係性なのである。
「まあ結局、あなたは自分のことしか好きじゃないもんね」
と、これもまた4年前と同じようなことを言われた。たしかにそうだ。だから僕は誰かを推したりしない。そして大々的に発信するわけでもないから、誰かに推されることもない。推しも推されもしないとは、つまりこういう状態のことを指すのか、と思った。