2018年10月19日金曜日

テルー・カサノヴァ・さよならの向こう側

 先日カラオケでも唄った「テルーの唄」に、ど嵌まりしている。ここ数日、車中や散歩中、ずっとリピートで聴いている。車中では唄ってもいる。たぶん季節もちょうどいいのだ。夏が終わり、秋が深まってゆくこの季節に、ぴたりと当て嵌まったのだと思う。昼ごはんを外の公園で食べる習慣も数ヶ月ぶりに再開しており、桜の葉は紅くなって落ちはじめ、トンボは跋扈し、セイタカアワダチソウとススキは静かに死闘を繰り広げ、空には高くトンビが舞っている。そして僕は「テルーの唄」を聴くのである。秋だ。紛うことない秋だ。相変わらず友達のいない秋に、「テルーの唄」はそっと寄り添う。人影絶えた野の道を、僕はいつも親鸞とともに歩いているつもりだけど、絶えて物言うこともなく、そんなひとりぼっちの寂しさを、なににたとえればいいのだろうかと思う。
 そして「ゲド戦記」は観ない。そんなに主題歌に嵌まっているならいちどくらい観ればいいだろうに、異様なまでに手が伸びない。なんか暗そうで嫌。

 カサノヴァの伝記を読んでいる。カサノヴァはすごい。すごいバカ。性的な方面に関して、本当に「まいっちんぐマチコ先生」レベルのことをひたすらやっている。霊能力者のフリをして、儀式の前の清めのために処女の身体を隅々まで洗うとか、発想が十代男子のそれだと思う。しかもそれが実話だからすごい。もっとも男よりも女の子のほうが実はエロくて、だから女の子はいつだってエッチなことをしたがっている、しかしながらただ無造作に男を誘っていたらただの淫売になってしまうので、女の子は常に男が騙してくれる(エッチなことをしてもいい大義名分を与えてくれる)のを待っている、という説があり、説と言うかそれはまぎれもない真実なのだけど、カサノヴァはそれを最大限に利用したということなのだな、と読んでいて思った。
 あと女性をそこまで籠絡できるということは、要するに人ったらしなわけで、女性のみならず、カサノヴァは行く先々で、すぐに知り合いを作るのだった。そこなんだよな、と思った。友達ができない人間が、ハーレムエンドにたどり着けるはずがないのである。

 賞を受賞した(昔の)歌手が使うやつのように、マイクにリボンとかで装飾を施したものを作りたい、ということを何記事か前に書いた。それから100均などで材料を買い揃えたり、図書館でリボンワークやラッピングのテキストを借りたりして、着々と準備を進めていた。100均では、リボンのみならず、フェルトのポンポンや造花、カラー紐など、あれも使えるんじゃないかこれも使えるんじゃないかと、次々にカゴに入れていき、さらには店も一軒では済まさず、ダイソーやセリア、ミーツなど、いろいろ巡って、最終的に大きな袋いっぱいにまで資材が整ったのだった。
 そして実際に昨晩から練習を始めた。しかしやっぱりなかなか難しい。教材の通りにやったつもりでも、立体感が出ない。これは鍛錬の必要がありそうだ。
 いい具合のものができたら、実際にマイクに取り付けて、画像を「nw」にでもアップしたいと思うが、残念ながらわが家にはマイクがない。以前キーボードを買った際に付属していたものがあったのだが、子どもたちによって破壊されてしまったのだ。それでマイク代わりになるもの、と考えて、すぐに思い浮かんだのは勃起したペニスだった。マイクと勃起したペニスは、思えば円筒の部分がだいぶ似通っている。そうか、それじゃあ勃起したペニスに、作ったリボン飾りを纏わせて、画像をアップすればいいのか。俺のブロガー人生がそこで寂しく終わりを迎え、武道館のステージにそっと萎えたペニスを置いて、去っていくのだな。