既存の友達と言ったが、それはLINE側が多様な関係性を忖度せず、十把一絡げに「友達」と、こちらの心の琴線を刺激する言い回しを用いてくるからで、実際に「友達」と言える人間は、登録されているメンツの中にもちろんひとりもおらず、おらんのだからやりとりが生まれるはずもない。おらんのに、そのおらん相手とやりとりをしていたら、もう人として最終的な段階に来ていると思うので、それよりは救いがあるのではないかと思う。
ところで先日ふと、僕が女子校の教師であったならば、LINEがむちゃくちゃ愉しいんだろうなあ……、ということを思った。娘をふたり持つ父親がなにをふと思っているのか。本当は生徒とLINE交換なんてしたらいけないんだけど、ひとりちょっと不安定な生徒がいて、その子がいざという時にいつでも俺に連絡を入れられれば、と思いLINEを交換したら、そこから他の生徒たちも「えー、ずるい」とか「ウチも先生とLINEしたいし」などと言って交換することになり(「学年主任には内緒だぞ」)、それからというもの、生徒たちからのLINEのメッセージが引きも切らず、しかも既読スルーとかしたらJKはめっちゃキレるものだから必ずなんかしらの返信をせねばならず、ホントにもう、参るんだよ……、とジモ友との飲み会で愚痴を吐きたい。そしてそんな愚痴を吐いている間にも生徒たちからのメッセージは鳴り止むことがない……。
だけど僕は女子校の教師ではないし、JKからメッセージが送られすぎるという愚痴を吐く相手のジモ友もいない。兄のエースも死んだ。じゃあ僕には一体なにがあるというのか。
「仲間がいるよ!」
だからいないんだってば。
ファルマンに髪を染めてもらう。「USP」で確認したら、去年の9月13日に「気が済んだ宣言」をして、髪を黒くしていた。だから10ヶ月ぶりということになる。
染めてもらうという表現だったのは、今回はブリーチから始めるわけではなく、むしろその真逆で、ちょっと白髪が目に付くようになったから、それを染めるのが目的だったからだ。ちなみに白髪に関しては、子どもの頃からあったし、20歳前後の頃など現在よりもよほど多かったので、僕の中では禿げと明確に区別され、老いとは直結しないので、ショックがない。だからそれを染めるためという理由も、少なからずただの大義名分であり、実際は「気が済んだ」の「気が済んだ」からだとも言える。ブログが収束と拡散を繰り返すように、髪のある間はこんなことを繰り返すんだろう。
カラーリング剤はいちばん明るい栗色系のものを選んだが、なにしろ黒髪からのスタートなので、パッケージの写真ほどは明るくならなかった。もちろんそれは想定済みで、ほどほどの茶色になった。気に入っている。今回は前回のように、躍起になって明るくするつもりはない。
ファルマンが前回の記事でTikTokの存在を知り、「いやでもこういうのって昔からあったよ」と言う。こういうときに自分たちの口から出る「昔」が、そろそろ本当に四半世紀ほど前の話になったりするので、言葉に重みが出てきた感がある。そしてファルマンはこう続ける。「結局クラスの目立つ子たちは、使い捨てカメラとかで休み時間にこんなことやってたもん。もちろん私はやらないほうだったけど。だから(現代の)これも、やってるのは一部の子で、大抵の子はやってないんだよ」。うん、まあそれはそうなんだろうな、と思う。僕はもう高校生をユーチューブでしか見られない立場になってしまい、そしてユーチューブにアップされた動画に映っている高校生というのはそっち側の高校生ばかりなので、現代の高校生ってみんなこうなのかと思いがちだけど、実際はもちろんそんなことはない。実際TikTokの教室で撮影された動画なんかを眺めていると、映っている子たちの後ろのほうに、休み時間なのにノートに向かっている生徒とかが映り込んでいたりする。ああいうのだって当然いるのだ。数年前、東京を離れるとき、出身大学である悪質なタックル大学のキャンパスに行って、現役の大学生を眺め、「時代が進んで、細かいアイテムは変わっているのかもしれないけど、オシャレな子のオシャレ感と、オシャレじゃない子のオシャレじゃない感は、結局まるで変わっていない」と感じたことがあったが、それと同じなのだ。ああ、それにしても本当に、妻の口からサラリと放たれる、使い捨てカメラという言葉よ……。近ごろ若者の間で使い捨てカメラがひそかなブーム、「スマホのカメラと違って現像するまでどんな写真になるか分からないのがいい」、という話は本当なのだろうか。そんな「よさ」、ないだろ。撮った写真がその場で確認できる喜びに、我々世代はこれから死ぬまで浸り続ける所存だぞ。そんな「よさ」、どこにもないだろ。不便だろ。