2018年7月16日月曜日

剣・歯・命

 バトントワリングを「見られるもの」にするための動きとして、最初にどうかと思ったストリートダンスがちょっと無理そうだとなり、じゃあ太極拳はどうかと睨んでいる、ということを前に書いた。それで太極拳の教本を選んでいたら、太極拳の中の一ジャンルとして太極扇というものを知り、これは片手で扇を持って太極拳をするというものらしいが、太極拳の時点でだいぶ怪しかったが、こうなってくるともう完全に拳法ではなく演舞であり、扇の所をバトンに変えればそのままバトントワリングに応用できるのではないかと思った。それで教本を借りて練習しようとしたが、やっぱり本だと太極拳のあの間合いというのは理解しづらく、こんなときこそ現代文明に頼ろうとユーチューブで検索をする。すると太極拳も太極扇も出たが、同時に太極剣というのも出てきて、これは剣を持ってやるバージョンの太極拳とのことで、こうなってくるともういよいよ形状がバトンに近似してきたので、扇よりもさらに応用しやすいのではないかと色めきたった。そうして僕が盛り上がる様を横で見ていたファルマンが、「じゃあもう剣を持てばいいじゃん」と言った。

 歯がいよいよかもしれない。だいぶ前から懸念している左上の親知らずが、とうとう予断を許さない状況になってきている。これまでもたまに疼くことがあって、でもそれはスペースのない所に無理やり顔を出そうとする親知らずが歯茎を圧迫するからに過ぎず、だからその発作の時期を過ぎたらケロリと楽になることは分かっているので、痛み止めを服んでやり過していた。
 でも今回のこれはもう違う感じがある。その無理やり出ようと顔だけ出している状態(たぶん)の親知らずが、そんな半人前の状態でありながら、一丁前に虫歯になっているような気がするのだ。これまで何度かやり過した圧迫の痛みとは別種の痛みが、そこからは発せられているような気がしてならないのだ。なんてことだろう。身の程知らずもいいところだ。お前が虫歯菌を養えるような立場か。そういうのはひとり立ちしてから考えればいいだろう。そう怒鳴りつけてやりたい。
 でもいくら向こうの貞節をなじったところで、できてしまったものは仕方ない。このままでは日常に支障を来すので、来週中にでも歯医者に連絡を入れようと思う。気が重い。そりゃあ重いよ。だって親知らずの治療ということは、つまり抜歯ということだろう。上の歯は下の歯に較べていくらか楽、という話は聞くが、それにしたって抜歯は抜歯だ。想像すると涙が出る。痛みとか、血とか、そういう関係のことに、幸福なことだが本当に耐性がないのだ。だから本当につらい。
 犯罪みたいに、逃げて逃げて、最後まで逃げ切ったら、時効になればいいのに。逃げても痛みが強く長くなるだけ、というのが絶望的につらい。

 「耳をすませば」とかについて考えていると、もうすぐ35歳になる今でも、高校が共学じゃなかったことに絶望をする。「耳をすませば」は中学生で、中学校は僕も地元の公立だったので共学だったわけで、「耳をすませば」で絶望感を抱くのは本当はお門違いなのだが、なんかもうそんな冷静な見境などつけられなくなっていて、制服を着た男女が一緒の教室で授業を受けている風景に対して、条件反射的に絶望感を抱く仕様に脳が委縮してきているのだと思う。
 そんな絶望感に苛まれたとき、さいきん僕はこのように考えることにしている。
「男女共学の高校に通った人は、もう二度と人間に生まれ変わることはないのよ」
 僕の中の火の鳥が、そう言って僕のことを慰めてくれる。男女共学の高校に通った男は、もうそれが最後の人間としての命で、あとは虫ケラとかにしかなれない。それに対して男子校だった僕は、まだいつか男女共学の高校に通う人間としての命の機会を有している。
 そう考えることで必死に溜飲を下げている。僕の中の火の鳥はどこまでも僕に優しい。