2020年3月26日木曜日

延期・アスリートファースト・ロゴデザイン

 オリンピックの延期が決まった。ようやくだ。その前にたっぷりと、「延期する以外ありえないだろ」という空気を蔓延させてからの発表だったので、世間はこのことをとてもなめらかに受け止めた感じがある。さまざまな利権が絡んでいるため誰もバシッとしたことがいえない組織構造、なんてことがいわれていたが、結果的にこのなめらかさを目の当たりにすると、ここまで引っ張ったことは、巧妙な手法だったんじゃないかという気もする。オリンピックが延期って、100年以上の歴史で初めてのことだそうで、わりととんでもないことなのに、我々はそれをスーッと染み透るかのように自然に受け入れてしまった。
 しかし1年延期。もう1年以上前からだいぶどうでもよくなってきていたオリンピックが、ここからさらに1年延期。ほとほとうんざりする。1年延びたということは、オリンピックに対して我々は、いまから1年前の状態に再び舞い戻ったということである。そしてそれはもう既に経験しているため、よく知っている。「来年のオリンピックに向けて」の話題が、どれほどしつこくて辟易するか。
 もっともいうまでもなく、純粋に1年前にリターンしたわけではない。2巡目の今回はそこへ、「見通しが立たないコロナの収束」と、「延期によって発生するさまざまな問題」までが付与される。そしてずっと騒ぎ続ける。
 以前母が、子どもたちが10歳前後から20歳前後になるあたりの期間を指して、「私に40代は存在しなかった」という表現をしたことがあり、(じゃあ俺はいったい誰と10年間暮していたのか……)と思ったことがあったが、どうもこれから1年半くらいは、日本のみならず世界の人々にとって、「ほとんど存在しない」日々になりそうな気がする。今回の発表で、その日々がとてもなめらかに始まったのだと思う。

 1年間の延期に関して、アスリート本人がいっているのを聞いたことがないので、アスリートそのものに対して義憤を抱いているわけではなく、ふた言目には「アスリートファースト」などと唱える謎の輩が、これについてもたぶんいっているので、その謎の輩のことを糾弾したいのだが、あの「アスリートは今年の夏に照準を合わせて調整をしてきたのでそれが変更になるのは非常に困難だ」という論調、あれはいったいなんなんだ。オリンピックに出るようなトップアスリートの調整はよく知らん、よく知らんが、7月の本番にピークを持ってくるために、3月時点でそこまでガチガチに行動を定めているような、そんな人間がいるとは思えない。もちろん日々の鍛錬はあるだろうが、試合当日にピークを持ってくる調整は、せいぜい3週間前くらいからでいいだろう。実際そんなもんだろう。どうもアスリートのストイックさをやたら神格化したがる層というのがいて、彼らはとにかくアスリートのことを崇拝しているため、スポーツをしない人間が下手なことをいうと、烈火のごとく怒る。アスリートに対して失礼、ということをすぐにいう。お前らにとってアスリートは尊い存在なのかもしらんが、体を動かすのが得意であることを尊敬につなげない価値観の人間もいるのだ。逆になぜ体を動かすのが得意だという程度の人のことを褒めそやさなければならないのか。もっともこれはアスリートに限ったことではなく、アーティストと呼ばれる人の周りにもまったく同じ感じの人々がいて、要するにその正体は「ファン」である。ファンというのは本当に恐ろしく、理解ができない存在だ。

 この期間において、しれっと「干支4コマ 2020ねずみ」を開始していた。やるなら今だな、と思って見切り発車でスタートさせたのだった。正月にアップをしなくなって以来、その年に起った時事ネタを含ませるのも常套手段となっていたが、ここまで現実世界に対してタイムリーに取り組んだのは初めてのことである。いま6話目までを投稿したところで、ここからオリンピックの話に入っていくつもりだったのが、ぼやぼやしているうちに延期が正式に発表になってしまい、すっかりタイミングを逃した。今年はタブロイド紙並みのタイムリーさを売りにしようと始めながら、いちばん大事なタイミングを逃してしまい、なんだかとてもホワイトキックな気持ちだ。あと6話、どうしたものか。
 まあそれはそれとして、今年は「ETO YON COMA」のタイトルデザインがとてもうまくいったので、もうそれだけでだいぶ満足している。ゼロから作ったオリジナルのデザインで、なかなかセンス良く仕上がったのではないかと自画自賛している。
 と、逆にいまそれをイジる人間がいるのか、と我がことながらなかなかに驚いている。このタイトルデザインを作るにあたり、くだんのデザインについてネットで検索をしていたら、「ロゴがパクリだったなんてありえない! こんなオリンピックはもう中止にするべきだ!」と怒っている人がいて、ああ、5年前にこの人の意見を聞き入れて中止にしていたらこんなことにはならなかったのにな……、と思った。ロゴデザインがパクリだった程度のことでオリンピックを中止にしろだなんてあまりに乱暴な意見だと思われがちだが、どっこい素晴らしい慧眼だったと今ならいえる。

2020年3月14日土曜日

共学・エルドアン・パラ

 毎度おなじみコロナの話題。WHOがこのたびとうとうパンデミックを宣言したのだった。そして感染の中心はアジアから欧米へと移動したらしい。特にイタリアでは死者が千人を超えたとか。なぜイタリアか、という理由はいくつかあるようだが、その中でたぶんいちばん信憑性の低い、「イタリア人はスキンシップが多いから」という説が、心に突き刺さった。その説が成り立つのならば、もしもこの国で一斉休校の対策が取られなかったとしたら、コロナは共学高校からまず流行りはじめたことだろうなあ、と思った。そうファルマンにいったら、「あなた高校が共学じゃなかったことを引きずり過ぎ」と呆れられた。引きずり過ぎもなにも、一生背負っていく所存だ。

 世界中でスポーツの大会やリーグ戦が中止になっていて、もはや今夏の東京オリンピック開催は風前の灯状態だ。立場上「やるに決まってんじゃん!」というほかない、都知事や組織委員長の言葉が、とても哀しく聞こえる。これはもう負けが決まっている戦争の、しかし逃げることは許されない指揮官のそれだ。本当はもうみんな判ってる。こんな、ギリシャでの聖火リレーが中止になったような状況で、4ヶ月後にオリンピックができるわけがないってことくらい。それでもさすがに中止にはしないようなので、延期になるわけだ。うんざりだな。こっちはもう数ヶ月前から、もうオリンピック飽きた、本当にどうでもいい、一刻も早く終われ、と思っているというのに、ここからさらに1年とも2年ともいわれる延期。この悪夢の狂騒曲はまだまだ続くのだ。
 そんな折、コロナ対策として握手などの接触をしない代替案として、トルコのエルドアン大統領が、これまでならば相手と握手をしていた場面で、自らの胸に手を当てて、「コロナ!」と唱える、というパフォーマンスをしていた。これは、だいぶ考えた末にこういう結論に至ったのだろうということが窺え、評価したい気持ちもあるのだけど、やっぱりどうしても、結果的にコロナ教の信者みたいになってしまっているため、浸透しないだろうと思う。そこはかとなく、はしゃいでる感もある。
 そしてこのはしゃいでる感で思い出したのだけど、トルコといえば、東京とイスタンブールとで、2020年のオリンピック招致で最後まで争った国だったではないか。なんか争ってたのにやけに友好的で、東京に決まったとき一緒に喜んでくれたとか、当時そんな報道があった。それで検索してみたら、「Tokyo」が告げられた瞬間、安倍総理のもとに駆け寄って抱擁して祝福した人物こそ、当時首相であったエルドアン現大統領その人だった。それを知り、なるほど、と膝を打った。はしゃいでる感、ではない。本当にはしゃいでいるのだ、エルドアン大統領は。あのときもしもオリンピックがイスタンブールになっていたらと考えたら、そうではない今の状況が嬉しくて仕方ないはずだ。ああよかった、日本が貧乏くじ引いてくれて。

 というわけで、もう表面張力がいつ弾けてもおかしくない、今夏のオリンピックなのだけど、この事態になってからの、「オリンピックはどうなる」「オリンピックはできるのか」という話題に接して思うことは、これまで大きな問題がなく予定調和に事が進んでいる間は、「オリンピック・パラリンピック」と、絶対にふたつをセットにして呼称し、オリンピックだけが大事なんじゃなくてパラリンピックもちゃんと注目してますよ、差別しないですよ、興味ありますよ、ということをアピールしていたのに、非常事態になったらもう、化けの皮はものの見事に剥がれ、人々の口からはパラリンピックのパの字も出てこない、ということだ。いや、解ってはいたのだけど。しかしまあ、いざとなったらこうもあからさまに、パラリンピックは意識の埒外に置かれるのか、と驚く。これまでだって別に信じてなんかなかったけど、マスクの転売やトイレットペーパーの買い占めなんかも目の当たりにして、しみじみと、良識なんてものは本当に、人間社会の、それも恵まれた地域の人々の、安定した暮しの中に時おり発生する、オーロラのように希少で尊いものだったのだな、と思った。

2020年3月13日金曜日

インターネット・いい体・スパゲッティ

 職場で休憩時間にタブレットを操作していたら、後ろに立っていた婆さん(職場には婆さんがたくさんいる)が、「それってなんでもできるの?」と訊ねてきたので、「なんでも……?」となる。それで返答に困っていたら、婆さんは重ねて「なんでも」といってくる。依然として問いかけの意図が掴めないが、「インターネットができるだけですよ」ととりあえず答えた。そうしたら婆さんは「はあ。インターネットね……」とふわっとした反応なので、「インターネットしないんですか?」とこちらから訊ねると、「ないない。ぜんぜんしたことないの」という答えだった。へええ、と思った。インターネットにまるで触れずに生きてきた人を、ずいぶん久しぶりに見たかもしれない。それはいまどき、かまいたちのネタにあったような、となりのトトロを見たことがない人よりも、はるかに希少価値があるのではないかと思った。インターネットの普及前と後では、パラダイムシフトが起っていて、だから知ってしまった後の我々は、もう前の世界の状態を正しく捉えることができない。この婆さんには、もはや我々がどうがんばっても見ることのできないその世界が見えているのだ、と少し昂揚した。ただし婆さんは続けて、「インターネットってあれでしょ。悪口が広まるやつでしょ」といったので、なんのことはない、インターネットのことを完全に知らない人ではぜんぜんなかった。とてもわかりやすい偏見を持っていた。

 コロナのあおりを受けて、ジムにもプールにもサウナにも、もうひと月以上行っていない。そもそも公共のジムなんかは閉鎖されているし、プールやサウナは開いてはいるが、なんとなく足が向かない。なにもこのさなかに行かんでも、と思い自重している。自粛ではない。なにか大きなものにおもねっているわけではない。自らの意思としてそう選択してるのである。とはいえそのため、なんとなく発散できていない感じがある。
 思えばこの1年ほどでずいぶんとアクティブな人間になったものだ。きっかけは1年前の健康診断に向けての対策だった。それで運動不足の解消としてプールに行きはじめたのが、この肉体改造に勤しんだ1年間のはじまりだった。
 先日テレビに氷川きよしが出ていて、箱根八里の半次郎を唄うにあたり、半次郎の恰好をしていた。去年末からの氷川きよしの姿を見ているので、「これは氷川きよしにとって男装ということになるのだろうか……?」などと思案しながら眺めていた。それを一緒に観ていたファルマンが、「あなたってまだ女装願望があるの?」と訊ねてきたので、「もちろんある」と即答した。「ワンピースとか着たいよ」と。すると「そのわりに体を鍛えてるじゃない」といってきたので、「それは違う」と反論した。なにがどう違うかといえば、筋肉がついていない体=女性っぽい体という点だ。これは大いなる勘違いで、去年までの僕がそうであったように、筋肉がついていない体というのは、ただのだらしない体という、それ以上でもそれ以下でもないもので、別にぜんぜん女性のそれには近づかないのだ。だから筋トレと女装願望は矛盾しない。これに気づくまでにすごく時間がかかった。

 アメリカのドラマ「THIS IS US」を観ている。ちょうど36歳でこのドラマを観ているというのも、なかなか貴重な経験なのではないかと思う。
 観る人はものすごく観るらしいアメリカのドラマだが、僕はこの作品が初めてで、だからとても新鮮だ。思えばアメリカ人の暮し向きについて、僕はハリウッド映画の印象しか持っていなくて(それだって人生で数本くらいしか観ていないが)、だからアメリカ人というのは、日本人なんかとはぜんぜん違う思考で動く、とにかく激しい、ほとんど違う星の人々のように思っていた。しかしこのドラマを観ていたら、ぜんぜんそんなことなかった。36歳のアメリカ人たちは、僕が普通に共感できることで喜び、驚き、悩んでいた。そのことにとても驚いた。あの人たちと僕は、同時代を生きる、同じ「科」だったのか。
 あと登場人物たちのセリフで、セックスは「セックス」だったし、スパゲッティは「スパゲッティ」だったし、ダイエットは「ダイエット」だった。案外そうなのか、と思った。特に「スパゲッティ」だ。アメリカ人、「スパゲッティ」っていうんじゃないか。スパゲッティはパスタの一種のスパゲッティーニに過ぎずうんぬん、みたいな御託はなんだったんだ。よかったんじゃないか、スパゲッティで。「パスタ」とかいわなくてよかったんだ。なんだ「パスタ」って。いいよもう、あのマカロニの亜種みたいなやつら。あのシリーズ、もう一生食べられなくてもいい。どんなソースだろうと、ちゃんと麺になってる、あのスパゲッティでしてくれればいい。ちなみに僕はスパゲッティを必ず箸で食べる人です(ファルマンからはいつも睨まれながら啜って食っている)。
 今はまだ18話中の7話あたり。ゆっくり観ている。滅法おもしろい。

2020年3月3日火曜日

コロナ・コロナ・コロナ

 コロナで春休み前倒しの一斉休校となり、ポルガの通う小学校も例に漏れず、先週の金曜日で今年度がほぼ終わった。なんとも性急で特異な事態なことだな、と思う。しかし小学校は休校なのだが、幼稚園は休園にならず、そのためピイガは今週も普通に登園している。なんとなくおかしな感じだ。小学生は留守番ができるが幼児はできない、みたいな判定なのだろうか。あまり理屈になっていない。そもそも理屈になっていないという意味では、これまでもこの時世は、女性に対して仕事と出産と子育てと家事というムチャブリをしてきたわけで、その時点でぜんぜん理屈になっていなかったし、今回のことでさらにその理屈は大いに破綻したように思う。わが家にはファルマンがいるので、今回の事態においてもあまり問題はなかったが、じゃあ結局、両親ふたりともが外に働きに出ていかないほうが正解なんじゃないの、ということになる。こうして、いざってときに結局は母親による融通に頼る感じになるんだったらば。

 コロナで買い占めが起っていて、気持ちがくさくさする。買い占めも嫌だし、高額転売も嫌。僕なんて平常の暮しにおいてもだいぶ他者のことを嫌悪しながら生きているのに、こういう事態になるといよいよ世の中に対しての苛立ちが募る。
 たしかに不足は怖い。物資に満ちているように思える現代社会だが、結局は「店に並んでいるもの」で生きているのだな、ということを、今回のことで痛感した。それはかつて自然の中で狩猟をしていた時代と、綱渡り加減はそう変わらないのかもしれない。どこのスーパーに行っても、肉も魚も野菜も売っていなかったら、われわれは10日くらいで飢えてしまう。店に売ってなかったらなんにも手に入らないんだな、としみじみと思った。
 マスクが店頭から消えて久しいが(幸い家にはまだストックがある)、近所のドラッグストアでは、がらんとしたマスクの売り場に石鹸が置かれ、その脇に手書きの、手洗いがどれほど大事か、どうやって洗えばいいかを伝えるポスターが掲示されていた。これはとかく気持ちがマイナスになりがちな今回の出来事の中で、だいぶ救われた。店頭のがらんとした棚というのは、それだけで寂寥感があるので、それを隠す意味でも、そしてマスクを妄信的に求める精神を諫める意味でも、とてもよかった。新聞に投書したいくらいの、いわゆるちょっといい話だ。

 コロナでやはり大相撲の3月場所は、無観客での開催が決まった。大相撲を無観客でやるとどういう感じになるのか、あまり想像がつかない。今週の日曜日が初日。相撲そのものへの興味よりも、その異常事態への興味本位で、チャンネルを合わせてしまうだろうな、と思う。
 その大相撲に関して、不謹慎なのであまり大きな声では言えないのだが、思いついた以上どうしても言わずにおれないフレーズというのがあり、ここに記しておきたい。
 「はっけよーい、濃厚接触!」というのがそれで、「のこった」と「濃厚接触」は「のこ」までが掛かっているので、これはかなり上手いのではないかと思う。決まり手は上手出し投げ。上手出し投げで破皮狼関の勝ち。

2020年2月26日水曜日

オリンピック・カーリング・ヴォルデモード

 コロナ騒ぎが止まらない。サウナでもおっさんたちがコロナの話をしていた。果たしてサウナは濃厚接触的にどうなんだ、という話だが、そこはまあ熱気でウィルスもやられるんじゃないの、よう知らんけども。
 大型イベントは軒並み中止や延期で、とうとう7月のオリンピックの開催可否まで取り沙汰されてきた。最初はTwitterのデマだったのに、なんかここ10日ほどで話がまことしやかなものになってきている感がある。えらいことだ。もう東京オリンピック、本当につらい。シンボルマークのパクリ疑惑とか、新国立競技場のデザイン変更とか、ここまでで既に数多の、どさくさ紛れのひっちゃかめっちゃかがあったというのに、それでもいよいよあと半年でこのうんざり感満載の狂騒ともおさらばだと思っていたら、誰も予想していなかった方向から、リアルに「開催できないかも……」と来た。あんまりだ。あんまりに苦難が多すぎる。野島伸司のドラマか、と思う。それでも開催されれば、「なんだかんだでよかったよかった」となるのだろうが(それはそれでひどい話だが)、これで本当に開催地移転とかになったら、日本はこの7年間くらい、別に出さなくてもよかった恥部をひたすらさらけ出しただけ、ということになる。むなしい。

 大相撲の3月場所が無観客試合になるかも、という話もあり、「笑点」が公開収録中止になったのと同じで、客層が客層なのだから、それはぜひそうしたほうがいいと思うし、この分だと実際そうなる気がするが、それはそれとして、昨日開幕したカーリングの日本ミックスダブルス選手権について、札幌で行なわれているこの大会が無観客試合になった、というのを今朝ニュースでやっていたのだが、それは別にいいだろ、と思った。平日のカーリングの試合である。誰が見るんだ。地球上に7人くらいだろ。観客席カスカス。濃厚接触なし。ああカーリングが憎い。

 コロナ騒ぎで人々がパニック状態となり、もちろんファルマンもパニックになっている。ここ数日で多少は落ち着いた感があるが、10日ほど前あたりはひどかった。昔なら「疫病が流行っているらしいから気を付けよう」でしかなかったものが、現代は情報を得ようと思えば、本当に情報と呼べるものから単なる噂話まで、無尽蔵にいくらでも得ることができてしまうので、頭の中をそれで満杯にしてしまうことが可能で、だから簡単にパニックになるのだと思う。そのうえ閲覧されやすい、リツイートされやすい、すなわち引きのある情報というのは、得てして恐怖心を煽るものであるため、なおさらだ。そしてこの状態になった人と、なっていない人は、完全に別の世界を見ているので、共同生活に齟齬を来す。一方は過敏さを厭い、一方は意識の低さを厭う。だからなにもスムーズに事が運ばなくなる。
 この思いを抱くのは2度目だ。1度目はもちろん東日本大震災の放射能のときである。もっとも放射能とウィルスはぜんぜん違う。放射能に対して人間は(物質は)無力だが、ウィルスはそうではない。健康にしていたら防御効果があるし、もとよりそれ以外に対抗策はない。だから、思いわずらうのが最も悪い。ヴォルデモードという絶対的な悪もおそろしいが、その悪に対するスタンスの違いで対立や排斥をする魔法界もまたおそろしいのである。
 こんな思いを、これからの人生でまだ何度もするのだろうか。そのうち、こういう社会情勢になったときの妻の操縦テクニックも上達するのだろうか。今回、2度目なのにまるで上達していない自分をふがいなく思っている。

2020年2月13日木曜日

映画ハリポタ・よきも・Google

 映画版「ハリーポッター」を、先日最後まで観終えた。観終えた、のだと思う。微妙にあやふやなのは、話の展開がとにかく駆け足だったことと、あと「謎のプリンス」あたりからあまりにも画面が暗かったため、映像を観ているわけではないような気になったからだ。本当に暗かった。もとい、黒かった。黒い画面の中に、少しだけ灰色の部分があって、それが移動することでどうやら人か物が動いているようだと類推する、というような、そんな有様だった。それくらい暗い画面なのだった。ヴォルデモードの復活によって魔法界に暗雲が立ち込め、誰もが絶望感でいっぱいだ、というのは解る。でもその絶望感を、画面の暗さで表すのはどうなのか。小説でいうならこれは、怪談などでおなじみの、なんという名前のフォントかは知らないが、血で書かれたみたいなあれ、あれをしかも赤で記したようなもので、そんな用立てをしたらなんだって怖くなる。たとえば二次元ドリーム文庫だってホラー小説みたいになるだろう。話のイメージでフォントを変えること自体は卑怯でもなんでもないが、やり過ぎると反感が生まれる。「内容で勝負しろよ!」とツッコみたくなる。映画版「ハリーポッター」の暗さはまさにそれだった。暗すぎて、曇りの日の夜空の環境映像でも観ているような気分だった。あと白人の少年(青年)たちがみんなあまりにゴツくなってて引いた。

 カッティングマシンを購入してから、オリジナルTシャツ作りをしている。このブログのちょっと前の記事で、クラTについて書いたが、それももちろんこのあと始まるオリジナルTシャツ製作のことを念頭に書いたものなのだった。
 当該の記事では、実際に製作されたクラTを部外者にも販売してくれないだろうか、という話をしたが、いまの僕ならば、購入せずとも作れる。なにをか。クラTをだ。僕はいま何年何組でもないし、学校祭を控えているわけでもないが、しかしクラTを作る設備はある。あってしまうのだ。だから本気で作ろうかとちょっと考えている。デザインの中に30人あまりのクラスメイトのファーストネームを列挙し、その中に自分の本名もこっそり混ぜるのだ。本当は自分の名前以外は全員女子がいいのだが、それをやると一気にリアリティがなくなるので、男女比は半々にする。ところでお前、36歳なんだから生徒じゃなくて担任ポジションだろう、という意見もあるだろう。クラTを作ったことがないので詳しくは知らないが、たしかにクラTには担任の名前も入っていたりする。鈴木先生の場合、「鈴木組」なんて記されたりするんだよね、よく知らないけど。まあそれも悪くない。それなら生徒の名前は全員女子でもよくなってくるし(夢が膨らむ)。
 そしてそれを実際に作り、実際に着て街に出たとき、ぜんぜん見たことがない知らない若者が、「えー、めっちゃ懐かしい!」「ちょっとなんでクラT普通に着てんの?」などと次々に話しかけてきたら、世にも奇妙な物語みたいだな、と思う(血で書かれたみたいなフォント)。

 Googleで検索して情報を得ることが、同時にgoogleに情報を与えることでもあり、Googleに携わった人生の1コマ1コマが、僕の人生の一部であると同時に、Googleにも保存されて、つまりGoogleにはほんの少しだけ僕が含まれているといえ、それはGoogleを使ったことのあるすべての人類に共通していえることで、これってなにかに似ている、となって記憶をたどれば、それは「火の鳥」の未来編で30億年生きた後、火の鳥の一部になった山之辺の姿なのだった。火の鳥の中には、タマミをはじめとするすべての生命がいて、そのすべてが、ひとつなのだった。これととてもよく似ている。だとすればGoogleとは、宇宙生命(コスモゾーン)なのかもしれない。僕が死んでも、僕はGoogleの中に生き続けるのかもしれない。

2020年2月4日火曜日

乗り物・顕微鏡・ブラトップ

 ポルガに「いまいちばん乗りたい乗り物はなに?」と訊ねられ、悩む。乗りたい乗り物……、あまり考えたことがないテーマだ。飛行機、新幹線、船、バイク、どれも別に乗りたくない。目的地にもよるけれど、その移動手段にこだわりはない。なので本当に思い浮かばない。それで仕方なく、「ポルガは?」と訊き返したら、「タイムマシン!」という答えが返ってきて、えー、となった。乗り物としてのタイムマシン、ちょっと答えとしてずるくないか。ポルガのそれは間違いなくドラえもんのイメージでいっているわけだが、同じくドラえもんの中に、タイムベルトという道具も出てくる。これは機体に乗らない、ベルトタイプのタイムマシンである。タイムマシンに乗りたい、という願望は、要するに時間旅行がしたいという願望であり、ならばタイムベルトでもことは済む。その事実が証明するように、乗りたい乗り物という問いにタイムマシンと答えるのは、なんとなく真摯ではないと思う。その次に、横でこの会話を聞いていたピイガが、「ピイガはブランコ!」といってくる。バカでかわいい。バカでかわいいが、その答えも果たしてどうなのか。ブランコは、たしかに乗るけれど、乗り物ではなく、遊具だろう。これもまた質問に対する正面からの答えになっていない。挙げ句の果てには、「ちなみにお母さんはベッドだって」とポルガが告げてくる。ベッド! こいつがいちばん阿呆だ! と震撼する。あまりにひどい答え。乗り物という括りのお題に対してベッドという答えもえげつないし、そもそも生命体として、いちばん乗りたい乗り物を寝具と答えるその気概がよくない。膝から崩れ落ちそうになった。俺だけ真面目に、飛行機とか船とかに思いを馳せたのに、俺以外の家族3人とも、ぜんぜんまともに答えねえじゃんかよ……。こんなことならば9歳の娘からのその問いかけに、「女!」と即答すればよかった。

 ポルガの誕生日に顕微鏡をプレゼントした。別に勉学に役立つものでなければ与えない、などといったわけではなく、本人のリクエストである。それで繊維を見たり、葉っぱを見たり、さらには公園の池からちょっと水を掬ってきて見たり、先日からいろいろしている。しかし750倍までできるという触れ込みの製品なのだが、なかなか高倍率で焦点を合わすのは難しく、四苦八苦している。池の水は、藻の生えているあたり、いかにも微生物がたくさんいそうな所のものを採取したので、低倍率で見たとき、たしかになにか動いているものはいたっぽいのだが、高倍率ではてんで捉えることができず、そのため顕微鏡を覗いて、動き回る小さな生き物の姿を見て「うおおっ!」となる感動はまだちゃんと味わえずにいる。
 もちろん、これを味わうための最善策は初めから分かっているのだ。細かい無数のものが蠢いていることは確実(ウェブで検索したところ、400倍程度で、頭と尻尾のあの形がちゃんと確認できる模様)で、感動もいろんな意味でもれなく付いてくる。ちなみに顕微鏡を発明したレーウェンフックは、すなわち人類で初めてこれの姿をちゃんと見た人間だといわれているらしい。プレパラー射すれば、簡単にこの願いは叶う。プレパラー射……。
 しかし娘にやったプレゼントの顕微鏡でそれを見るというのも、ちょっと気が引けるというか、もちろん娘に見せるわけにもいかないし、ジレンマだな、と思っている。

 居間にいつもファルマンの肌着が干してあって、よくぶつかったりするので、そういえばなんでこれはいつもこうして1枚だけ干されているのか、と訊ねたら、「これは下着だからだ」という答えが返ってきた。そういわれて見てみたら、なるほどただのいわゆるババシャツではなくて、胸の部分にカップが入っている、ユニクロのブラトップというやつだ。これでブラジャー要らず、という例のやつ。ブラジャー要らずなので、つまりブラジャー代わりであり、そのため下着である、という論理であるらしい。だからショーツ類(それはそれで子どもらのものも含めて小型のパラソルハンガーに吊るして室内に干している)と同じく外には出せないのだ、と。その論理そのものを否定するつもりはないが、それはあくまで着用する女性側の考え方で、女性が下着類を外に干さない理由であるところの、他者(主に男)の目からすれば、ユニクロのブラトップは、ぜんぜんブラジャーの代替にはなっていない。ブラジャーで得られる情趣を、われわれはブラトップからはひとつも受け取らない。どんなに好色な下着泥棒でもブラトップは盗らない。ブラトップというのはそういう存在だと思う。だからお前、安心して外にお干しよ、と諭して以降、わが家で歩いていてブラトップにぶつかることはなくなった。めでたしめでたし。