職場で休憩時間にタブレットを操作していたら、後ろに立っていた婆さん(職場には婆さんがたくさんいる)が、「それってなんでもできるの?」と訊ねてきたので、「なんでも……?」となる。それで返答に困っていたら、婆さんは重ねて「なんでも」といってくる。依然として問いかけの意図が掴めないが、「インターネットができるだけですよ」ととりあえず答えた。そうしたら婆さんは「はあ。インターネットね……」とふわっとした反応なので、「インターネットしないんですか?」とこちらから訊ねると、「ないない。ぜんぜんしたことないの」という答えだった。へええ、と思った。インターネットにまるで触れずに生きてきた人を、ずいぶん久しぶりに見たかもしれない。それはいまどき、かまいたちのネタにあったような、となりのトトロを見たことがない人よりも、はるかに希少価値があるのではないかと思った。インターネットの普及前と後では、パラダイムシフトが起っていて、だから知ってしまった後の我々は、もう前の世界の状態を正しく捉えることができない。この婆さんには、もはや我々がどうがんばっても見ることのできないその世界が見えているのだ、と少し昂揚した。ただし婆さんは続けて、「インターネットってあれでしょ。悪口が広まるやつでしょ」といったので、なんのことはない、インターネットのことを完全に知らない人ではぜんぜんなかった。とてもわかりやすい偏見を持っていた。
コロナのあおりを受けて、ジムにもプールにもサウナにも、もうひと月以上行っていない。そもそも公共のジムなんかは閉鎖されているし、プールやサウナは開いてはいるが、なんとなく足が向かない。なにもこのさなかに行かんでも、と思い自重している。自粛ではない。なにか大きなものにおもねっているわけではない。自らの意思としてそう選択してるのである。とはいえそのため、なんとなく発散できていない感じがある。
思えばこの1年ほどでずいぶんとアクティブな人間になったものだ。きっかけは1年前の健康診断に向けての対策だった。それで運動不足の解消としてプールに行きはじめたのが、この肉体改造に勤しんだ1年間のはじまりだった。
先日テレビに氷川きよしが出ていて、箱根八里の半次郎を唄うにあたり、半次郎の恰好をしていた。去年末からの氷川きよしの姿を見ているので、「これは氷川きよしにとって男装ということになるのだろうか……?」などと思案しながら眺めていた。それを一緒に観ていたファルマンが、「あなたってまだ女装願望があるの?」と訊ねてきたので、「もちろんある」と即答した。「ワンピースとか着たいよ」と。すると「そのわりに体を鍛えてるじゃない」といってきたので、「それは違う」と反論した。なにがどう違うかといえば、筋肉がついていない体=女性っぽい体という点だ。これは大いなる勘違いで、去年までの僕がそうであったように、筋肉がついていない体というのは、ただのだらしない体という、それ以上でもそれ以下でもないもので、別にぜんぜん女性のそれには近づかないのだ。だから筋トレと女装願望は矛盾しない。これに気づくまでにすごく時間がかかった。
アメリカのドラマ「THIS IS US」を観ている。ちょうど36歳でこのドラマを観ているというのも、なかなか貴重な経験なのではないかと思う。
観る人はものすごく観るらしいアメリカのドラマだが、僕はこの作品が初めてで、だからとても新鮮だ。思えばアメリカ人の暮し向きについて、僕はハリウッド映画の印象しか持っていなくて(それだって人生で数本くらいしか観ていないが)、だからアメリカ人というのは、日本人なんかとはぜんぜん違う思考で動く、とにかく激しい、ほとんど違う星の人々のように思っていた。しかしこのドラマを観ていたら、ぜんぜんそんなことなかった。36歳のアメリカ人たちは、僕が普通に共感できることで喜び、驚き、悩んでいた。そのことにとても驚いた。あの人たちと僕は、同時代を生きる、同じ「科」だったのか。
あと登場人物たちのセリフで、セックスは「セックス」だったし、スパゲッティは「スパゲッティ」だったし、ダイエットは「ダイエット」だった。案外そうなのか、と思った。特に「スパゲッティ」だ。アメリカ人、「スパゲッティ」っていうんじゃないか。スパゲッティはパスタの一種のスパゲッティーニに過ぎずうんぬん、みたいな御託はなんだったんだ。よかったんじゃないか、スパゲッティで。「パスタ」とかいわなくてよかったんだ。なんだ「パスタ」って。いいよもう、あのマカロニの亜種みたいなやつら。あのシリーズ、もう一生食べられなくてもいい。どんなソースだろうと、ちゃんと麺になってる、あのスパゲッティでしてくれればいい。ちなみに僕はスパゲッティを必ず箸で食べる人です(ファルマンからはいつも睨まれながら啜って食っている)。
今はまだ18話中の7話あたり。ゆっくり観ている。滅法おもしろい。