2022年10月18日火曜日

会員・新しい形・インスタはるか

 10月に入ってから、通っているプールにひとつの変化があった。これまで、本当にあった怖い話のごとく、「行ったら必ずいる人」というのがいたのだが、その人の姿がぱったりと見えなくなった。これは一体どうしたことかと考え、もしかしたらあの人は、4月からの半年会員だったのではなかろうか、と思った。10月に入り、日が暮れてからの気温ががくんと下がるようになって、それでもせっせと通ってはいるのだけど、あたたかい時期だけの半年会員という選択も、あるにはあるな、などと、勝手に決めつけ、勝手に得心している。たぶん経験値が違う。なにぶんこちらは初めてなのだ。実はその初めての1年会員も、ただの1年会員ではなく、それよりも当然ながら金額が上乗せになる、家族会員というものを選んでいた。そんなわけで夏場は頻繁に娘たちを連れてプールに行ったのだが、子どもというのは夏以外にプールに行くと、わりと如実に風邪を引くものなので、1年のうち3、4ヶ月くらいしか利用できないということに、夏が終わったところで気付いた。なので家族会員ははっきり言って失敗だった(ちなみにファルマンはとうとういちども行かなかった)。来年以降、自分の1年会員はやったとしても、家族会員にはしない。経験値を積んだ。こうした経験の末に、4月から9月までの半年会員というスマートな境地はあるのだろうと思う。

 りゅうちぇるの言い放った「新しい家族の形」が、聞いた当初からおもしろかったが、いつまでもおもしろく、愛しい。ぜひ流行語大賞にノミネートしてもらいたいと思っているが、微妙なデリケートさも孕んでいる感じがあり、果たしてどうなのだろう。関係者は慎重に打診してもらいたいと切に願う。
 もちろん「新しい〇〇の形」という大喜利的な使い方も魅力的である。なんてったって多様性の時代ですから。全員共通の理想を追い求める時代は終わっていますから。それはちょっとどうなんだろうと思われるようなものでも、「新しい〇〇の形」と名付けてしまえば、周りはもう、ぐうの音も出ない。ぐうの音を出したら叩かれますからね!
 新しいセックスの形。新しいマスターベーションの形。新しいセクハラの形。新しい痴漢の形。新しいちんこの形。
 みんなちがってみんないい。

 10月から始めたインスタグラムを、今のところ毎日投稿している。
 いま投稿と言ったが、これに違和感を抱かなかったあなたは古い。インスタグラムにおける、「送信」なり「投稿」なり「公開」なりの、要するに作成した記事をアップするボタンの名称は、「シェア」だ。シェアなのだ。ウェブログとはそもそも目的が違うのだ。そんなに違うことってあるかよ、とそれを目にしたときは大きな衝撃を受けた。インスタグラムって、ウェブ日記とかブログとかをまったく知らない星の人が作ったものなのかもしれない、と思った。前にも書いたが、投稿内容は画像ありきで、文章は「キャプション付けます?」くらいの扱いでしかない。画像や映像に対して、文章ってそんな程度のもの、という事実は、これまでもいろいろな場面で痛感していたが、それをまざまざと見せつけられ、さすがにちょっとショックだった。なにぶん僕はほら、日本大学芸術学部キャプション学科出身だからして……。
 投稿にはぽつぽつと「いいね」が付けられている。「ハンドメイド」というハッシュタグを置いているためだろう、時折、ほっこり系ハンドメイドマルシェみたいなアカウントから、いいねが来ていたりして、大丈夫か、と思う。女の子が穿くようなショーツを穿きたくて自作している男の、ひたすらちんこ周りの話だぞ。ちゃんと読んでいるのか。読んでいないんだろう。まあハンドメイドイベントの主催者なんてそもそもだいぶ胡散臭いしな。見せかけだけで、内実はぜんぜんほっこりしていないに違いない。あと、プロフィール画像が綾瀬はるかのアカウントからもたびたびいいねが来ていて、この人は自分ではなにも投稿していないので素性はまるで分からないのだが、僕は実は本物の綾瀬はるかなのではないかと疑っている。逆に綾瀬はるかの画像を使って、まさか本物の綾瀬はるかだとは思われまいと思って油断している、どっこい実際の綾瀬はるかだと思う。そうか、はるかは俺の作ったショーツが、俺のちんこ周りの話が、好きか。さすがだな。

2022年10月10日月曜日

裸・さんま・整理

 急にガクンと寒くなったので、久しぶりに服を着て寝た。寒い時期は裸で寝なかったかと言えばそんなこともなくて、今年の2月3月あたり、まだぜんぜん寒かった時期から、僕は裸で寝始めたように思う。それでも今回は「急にガクンと」だったので、体や布団が追い付かないような気がして、仕方なく服を着て寝たのである。ちなみに上下ともである。
 その結果、どうだったか。裸で寝る信仰の人々が言う、衣服のゴムが血流を止めて体の調子が悪くなる、なんてことにはもちろんならない。逆に、久しぶりにそちら側に戻ってみたら意外と快適だった、ということもない。なんにも変わらなかったのである。服を着て寝ても、裸で寝た感じと、なんにも変わらなかったのだ。
 これは一体どういうことかと考えて、この半年あまり裸で寝続けた僕はもう、たとえ服を着ていても、裸で寝るように寝ることができるようになったのではないか、と思った。つまり裸で寝ようが、服を着て寝ようが、僕は裸で寝ているのだ。服を着ているタイプの裸で寝ている、と言うこともできる。ヌーディストたちは、裸のことを、裸ではなく、空衣をまとっているのだ、と主張するらしいが、逆もまた然りということか。人生は気付きの連続だな。

 さんまを食べる。新物である。9月になると、まるで新物のような素振りで、実は去年の解凍物らしいものが店頭に並ぶが、そこらへんのトラップには十分注意をして、おそらく正真正銘の新物らしいものを買って食べた。ちなみに1尾180円。ひと昔前の感覚からするとちょっと高い気もするのだが、サバやサケもじわじわ値上がりしているため、相対的にあまり抵抗なく買ってしまった。おそろしい話である。
 少し細身のような感じもあったが、それでも生さんまなので、おいしかった。もう今年の初物の生さんま、という時点で、おいしくなければ嘘と言うか、自分がこれまで日本で生まれ暮してきて築いてきたものが瓦解する感じがあるので、たぶんだいぶ思考停止でおいしかったと言っている。それでいいのか。いいのだ。

 3連休だったので、ずっとやりたいと思っていた、机周りの整理をする。どうも机周りの整理という行為を、半年にいちどくらいの頻度で大々的にやっている気がする。気のせいだろうか。今回は物をよく捨てた。結局、捨てなければこのごちゃごちゃが改善されることはないのだと喝破し、だいぶ冷徹にゴミ袋に投げ入れた。投げ入れたものは、かつて自分が必要だと思い、買ったり作ったりしたものだ。だからそれを捨てることは、その当時の自分のきらめいた気持ちも一緒に捨てることなのではないか、などと思う。危険な発想である。ばっさばっさと捨てた。布マスク作りに関する資材は、さすがに捨てはしないものの、だいぶ奥のほうへと追いやった。パパポッケマスク、爆売れするって確信していて、めちゃくちゃ材料を買い込んだのだよな。ダブルガーゼ、マスクゴム、ゴムストッパー……、マスク何百枚分もあるあれを、一体どうすればいいのだろう。数十年後くらいに、またなにか流行るかな。なんてね。僕がこのマスク材料を再び必要としない世の中が続けばいいなって思うよ……。半日かけて、へとへとになりながら、整理は完了した。とてもよくなった。とても機能的になったので、もう散らかって混沌とすることは二度とないと思う。僕の机周り整理史は、今回のこれによって終止符が打たれたと思う。

2022年9月18日日曜日

ほん怖・運動会・ピザ

 本当にあった怖い話をひとつ。
 平日の退勤後にプールに行ったときの話です。その日は、プールに行くことを朝から心に決めていたのですが、そんなときに限って仕事が忙しく、普段の退勤よりも1時間半ほど遅くなってしまったのです。それでもやはり泳ぎたい気持ちが強かったので、少しだけ泳いで帰ることにしました。そう決めたら、それはそれで愉しみな気持ちが湧いてきました。それというのも、普段行く時間帯に泳いでいる人たちというのは、顔見知りというわけでもないのですが、どうしたってだんだん顔を覚えてくるもので、ああ今日もあのじいさんがいるな、あのムキムキの男がいるな、そして私が2日おきだったり3日おきだったりに行ってもいつもいるということは、この人たちはたぶん毎日ここに来ているんだろうな、なんてことを思うわけですが、今日はそれが1時間半も遅いので、泳いでいるメンツがぜんぜん違うはずです。遅い時間ということで、閉館時間まで泳ぎ続けるようなよほどのガチ勢が多いのではないか、ガチ勢にレーンを占拠されて、入る隙がなかったら少し嫌だな、なんてことを思いながら、私はプールエリアに出たのです。するとなんだか嫌な感じがするんですね。なんだろう、嫌だな、怖いな、と思いながら、私はそろりそろり、プールへと向かいました。そしてたどり着いたとき、そこに広がっていた風景に、私は腰を抜かしそうになりました。
 それというのも、そこで泳いでいたのは…………、いつものメンツだったからです。
 キャーーーーーー! (女性の悲鳴)

 先日、子どもたちの運動会が執り行なわれ、夫婦で観覧した。この2年は、運動会自体がなかったり、あっても保護者の観覧不可であったりしたため、だいぶ久しぶりというか、ピイガに至っては小学校の運動会に出ているのを観るのが、3年生にして初めてだった。
 しかしなんとか開催にはこぎつけたものの、やはり簡易版ということなのか、演目は個人の徒競走と、チーム対抗で全員が参加するリレーという、全学年においてそのふたつで、だから運動会は、ほとんど短距離走会だった。ずっと誰かしらがひたすら走っていた。
 感染対策であるとか、時間短縮であるとか、いろいろな理由はあるのだろうが、しかしあまりにもシンプルで、シンプルと言えば聞こえはいいが、まるで文明がない世界のようだな、とも思った。戦後、物資はなにも満足になかったが、しかし希望だけは満ち溢れていた、みたいな、そんな感じ。それでいて、別に人々の心に希望は満ち溢れていない。
 インスタグラムで、外国の、説明不要で「わー!」となる画像や映像が垂れ流される様を眺めていると、文明が成熟した果てには、こんな原始的な風景が広がっていたのか、と虚しい気持ちになったりするが、道具もややこしいルールもなくただ走るだけの運動会にもまた、同じような感情を持った。きっと感覚が古いんだろうな。ぜんぜんSDGsじゃない、無駄で余計なものに浸って生きてきたので、最小公倍数のような清貧の世界に、違和を抱いてしまう。居心地悪くなってしまう。頑固親父、まっしぐらである。

 ピザを作る。GWに母から生地のレシピを教えてもらい、ずっと冷蔵庫に貼ってあったのだが、ここまで手を付けずにいた。言い訳をするなら、かつてファルマンが買い、ポルガの出産前後に10回くらい食パンを焼いたあとは放置され、どこかのタイミングでファルマンの実家に渡っていたホームベーカリーを、混沌という名の屋根裏部屋から回収するのに時間がかかったのだ。それが成ったのが8月だったので、暑さとかもいろいろあり、さあそれではピザ生地というものを初めて作ってみようかな、となるのがシルバーウィークになってしまったのも、致し方ないと思う。しかし改めて母にLINEで教えを乞いながら製作したところ、ここまで引っ張ったのが阿呆らしくなるほど、簡単なことだった。材料を分量通りに内釜に入れ、あとはコースを設定して作動スイッチを押せば、じきに生地はできあがった。それだけだった。それを伸ばして、ピザソースを塗り、用意していた具を乗せて焼いたらば、紛うことなく立派なピザだった。普通においしい。なんの問題もなく、1回目から万全においしいピザができあがった。どうやらピザもあれだな、シュウマイと同じ部類で、作ったことがない人には手間がかかるように見えて畏敬の念が集まりがちだけど、いざ作ってみたら想像よりもはるかに簡単という、対外的コスパに優れた食べ物のようだな。こんど仲間の誰かのホームパーティーの誘いがあったら、絶対に持っていくことにしようっと。

2022年9月8日木曜日

痩せ・値上げ・ピコピコ

 体重を半月に一度くらい計るのだが、そのたびにじわじわと、200gぐらい減っている感じがあり、6月に54kgあったのが、今は52kgになってしまった。特に瘦せようとしているわけではないのだが、普通に日々の摂取カロリーが消費カロリーよりも少なくて、その結果ジリ貧のように体重が目減りしてきているのだと思う。筋トレとプロテインは続けているが、それなのに筋肉が盛り上がっていかない、体が分厚くならないのは、単純にそこに原因があるのだと、気付くのがすごく遅いが、気付いた。
 糖質オフダイエットということが言われ、炭水化物を忌避する向きが世間にはあるが、僕は炭水化物に関しては、これまでも特に節制していなかった。それよりも脂質をものすごく意識していた。物を買う際は、栄養成分表を見て、脂質の数値がたんぱく質よりも大きいものは、極力買わないように心がけていた。別にたんぱく質が脂質を相殺させるわけではないのだが、それを目安としていた。これはこれで正しい心がけだろうと思う。脂質はまあ、なるべく摂らないほうがいいんだろうと思う。なので僕の場合、増やすべきは糖質だ。具体的に言うと、これからはもっとお米を食べようと思う。節制するつもりはなかったが、そこまでたくさん食べたいとも思わず、たぶん一日のお米の消費量としては、小学生の娘たちよりも少なかったのではないかと思う。それじゃあ筋肉は増えていかない。筋肉がついている人なのか、ただ痩せているだけの人なのか、ぱっと見じゃ判らない境地から、いよいよ脱却したいのだ。
 今年の秋は、強迫観念食欲の秋。

 物価が高くなって嫌だが、それ以上に嫌なのは、物価が上がったことを伝える報道だ。世の中には気分がくさくさするニュースが多いけれど、物価の上昇というものは、その最たるものだと思う。物価の上昇のことを憂うと、日本人はそれだから経済が発展していかないんだ的な、健全なインフレだのなんだのと、すかさず言ってくる輩がいるけれど、言いたいのはそういうことではない。僕が嫌なのは、ニュースのあの感じなのだ。視聴者を暗い気持ちにさせるのが趣味なのか、ニュース番組というのは、物価の上昇についてちょっと偏執的ではないかと思う。値上げの品目を、そこまで精細に調べ上げなくてもいいだろう、そうやってなるべく身近な商品を持ち出してなるべくショックを受けやすいよう工夫を凝らさなくていいだろう、と思う。
 9月1日から値上げされる品目のニュースで、9月1日はじっとりと嫌な気持ちになった。そしてどの番組も最後に必ずこう言った。「値上げされる品目が最も多いのは10月」と。10月1日はテレビを観ないように心掛けようと思う。

 自分が10代の頃はさんざんやったくせに、大人になってみたら、テレビゲームってすげえ時間の無駄だな、と思うようになった。思うようになるんだな。eスポーツなどと言って、最近はゲームの地位が向上したと言われるが、頭の固い大人なので、理解が及ばない。なに言っとんねん、テレビゲームやろ、ピコピコのやつやろ、と思う。このピコピコという表現も、古いゲーム機の名前を言って若者にバカにされるくらいなら、総称というか、蔑称というか、総蔑称というか、「お前らが時間を費やしているのはすごく虚無的でくだらないものなんだよ」という思いを言外に伝えようという意志が漲っていて、とてもいいと感じるようになった。
 そんな大人になった僕が、目下さらに輪をかけて理解が及ばないのが、ゲーム実況だ。自分自身でやるゲームでさえ時間の無駄だろうと思うのに、他人がプレイしているのを観るものだという。なんやそれ。もう自分でピコピコさえせえへんのかいな。虚無すぎるやろ。虚無も虚無、大虚無や。生み出さなさに生み出さなさが掛け合わされ、しかしその経済規模は年々増大しているのだそうで、なんかもう、ただただこの世に白けてゆく。生きづらい。

2022年8月27日土曜日

りゅうちぇる・マイナ・女子

 りゅうちぇるとぺこが離婚したそうじゃないか。
 一報を目にしたとき、いろいろな思いが胸に去来したけれど、一言で簡潔に表すと、やっぱり「やったぜ」ということになると思う。子どももいることだし、離婚そのものはもちろんあまりいいことではないだろう。両親はなるべくなら離婚しないほうがいい。どうしようもなく仕方ない場合というのも当然あるだろうが、本当にギリギリのところであっても、しないで済むのなら、子どもにとってはそのほうがいいに決まってる(言葉に重みがあるだろう)。
 それならばなぜ「やったぜ」なのかと言えば、りゅうちぇるはちょっと、先進的ないい夫、いい父親的な発言をし過ぎていた。イクメンとか、育児に協力とか、なんかそこらへんのことについて、そういう自覚を持つこと自体がおかしい、くらいのことを言っていたと思う。そんなの当たり前のことだから、そう努めようとする時点で間違っているのだと。
 言いたいことは解る。解るが、そんなことを求められても困る。またMD世代のことを僕は言い出す。MD世代の親の世代、すなわちモーレツ世代はまだ、男は外の仕事、女は家の仕事と役割がはっきりしていた。明解だったとも言える。でもMD世代からはそうもいかなくなって、それでイクメンなどという言葉が編み出されたのだ。我々はイクメンネイティブではないのだ。親からは学べなかったその姿を、誰も明確な正解が分かっていないまま、社会の流れという漠然としたものから、泥団子を作るように、あがいてあがいてなんとか形成していったのだ。
 それだのにりゅうちぇるは、それを「意識してやることじゃない」と言った。「意識が低い」ならまだ許せただろう。そうじゃない。意識をしたらいけないというのだ。意識をせずとも行なえることが正しいというのだ。なんだそれは。ニュータイプか。アムロ・レイか。しかしどれほどMD世代が憤っても、りゅうちぇるは新時代の旗手として、ぺこときちんと結婚し、きちんと子どもを作り、きちんと幸せな家庭を築いていた。だからこれまで、ぐうの音も出せずにいた。
 そういった経緯によって、今回の離婚に関しては喜びの感情がまず出た。ジェンダーとか、同居は続けるとか、新しい家族の形とか、まだいろいろと理論武装を繰り広げているようだけど、どんな言葉も虚しく過ぎ去るばかりである。結局のところ、弱い犬ほどよく吠えるのやつで、確固たる自信があったり、本当に当たり前のこととして受け止めていることについては、人はあんなふうに語ったりしないのだと思う。りゅうちぇる論法で言うならば、「語る時点でダメ」なのだ。そうじゃないから、自己催眠をかけるかのように、自分自身に言い聞かせていたのだ。
 ジェンダーマイノリティ方面のことを主張すれば、そこから先はもう誰もなにも言えない、という風潮がある。こっちだって、お前らがジェンダーマイノリティであることを声高に主張さえしなければ、当たり障りのない扱いをするのだ。それこそ理想的な、「両語らず」の形だろうと思う。もう僕はりゅうちぇるの述べることには一切耳を貸さない。りゅうちぇるとぺこの結婚および離婚は、本人がどれほどその崇高さを訴えようが、僕の中でIZAMと吉川ひなののそれと、一緒のカテゴリに分類された。

 マイナポイントで配るはずの資金が、ものすごく余っているという。信じられない。
 選挙の投票に行かない人の気持ちは解る。投票をしないことは結果的には〇〇円の損、などと脅されたりするけれど、どうしたって「自分ひとりが投票しようがしまいが結果は変わらないしなあ」という思いはある。投票率が半数を切っているということは、投票しなかった側の人が結託すれば社会はひっくり返るんだなあ、などと思ったりもするけれど、そんなことは永遠に実現しない。投票したところで、すぐに個人的な見返りがあるわけではないからだ(逆に投票しなければ罰金という国はあったはず)。
 マイナポイントはそうではない。作ったら、むちゃくちゃ即物的な見返りがある。ポイントと言うが、ポイント支払い全盛の現代において、それはもはや現ナマである。作ったら確実に、なかなかの金額の現ナマがもらえるのだ。そんなの作らない理由がないだろう。
 政治的な思想を理由とする人々に対しては、なにも言わない。僕は、政治的な主張がある人と会話をしたくない選手権の世界チャンピオンなので、その人たちはいい。いいと言うか、不可侵である。しかしそんな人々は、ひと握りだろう。そうじゃない大抵の人たちは、なんとなく億劫でやっていないだけだろう。
 結果的に、余剰金額は6000億円だそうだ。諸経費などいろいろあるだろうとは思うが、ひとり2万円で考えれば、3000万人分ということになる。なるほど。
 昔の僕ならば、誰ももらおうとしないんなら、その6000億円、俺にくれよ、と思っていたことだろう。今はそうは思わない。6000億円もらっても困る。20億円くらいならやぶさかじゃないが、ひとりひとりがそういうことを言うとややこしくなるので、言わない。主張するとするならば、9月30日までにお利口にマイナカードのことをやったほうの国民で、その6000億円を山分けしようよ、ということだ。これなら誰も文句ないだろう。山分け分の支給は簡単だ。なぜならマイナンバーカードを作っていて、管理しやすいからだ。余剰金がなんとなく闇に消えるより、これは本当にいいアイディアのような気がする。

 あまり女子女子した傾向がないこともあり、ポルガのことを、ずっと性別不明の奇妙な生き物として扱ってきた。願望というか、一種のモラトリアムというか、男親としての複雑な感情がここにはあったのだと思う。
 ポルガがこのたび、初経を迎えまして。
 あの、あの11年前に生まれた赤ん坊が、もう、もうそういう、女の子の、女の、そういう、そっちの、そのやつに足を踏み入れたのだと思うと、月日の速さ、その容赦のなさに、めまいがする思いだ。
 もちろん本人から報告があったわけではなく、ファルマン伝いに僕は聞き、本人的にはどのような様子なのかと訊ねたら、「まあ別に平然としてたよ。健康な証拠だって言ったら嬉しそうだった」とのことで、安心した。おそらく授業であったり、クラスメイトであったり、母であったり、外堀はじわじわと埋まっていて、心の準備はそれなりに出来上がっていたのだろう。女子というのはさすがだな、としみじみと思った。そのことが少女にとってものすごくショッキングに描かれる創作というものを、これまでいくつか目にしたことがある気がするが、あれってもしかしたら、男性作者が、男性担当者に促され、男性読者に向けて描いたものだったのかもしれない。そう考えると非常に気持ち悪いな。
 今回、その報告を聞いて、父親としての感慨深さからショックを受けると同時に、じゃあもうこれからは気軽にプールに誘えないな、ということをすぐ思い、我ながらその感想の無邪気さ、バカな男子っぽさに衝撃を受けた。女子のその感じをまざまざと見せつけられたことで、自分って、男って、なんでいつまで経ってもちんこでただひたすら愉しいんだろう、もしかしたらものすごく阿呆なのかな、ということを思った。

2022年8月24日水曜日

相似・しまむら・転生

 お盆休みの直前に、amazonプライムに「This is us」の最終第6シーズンが出た。暑さで出掛けづらく、時間を持て余し気味な夏休みに、一気見すればいいという配慮なのか。意外と人情があるじゃないか、amazon。
 さすがに18話をお盆休み中に全て観切ることはできなかったのだけど、そのあとの数日と週末をかけて、このたび観終えた。ちなみに最終シーズンにして初めて、全編ファルマンと一緒に観ることができた。観かたにタイムラグがあると、先を行く一方はまだ相手に感想を語れなかったり、遅れている一方が感想を言ったら相手は既にそのシーンがうろ覚えだったりして、もどかしかったりする。また最終シーズンということもあり語るべき事柄は多々あったので、一緒に観られたのは実によかった。
 そうしてファルマンと感想を言い合いながら観ることができたので、ここで感想を述べたい衝動はない。もとい第6シーズンともなると、なにを言ってもネタバレになってしまうので、なにも言えないのだ。それでもどうしても言いたいこととして、物語の終盤、作中において、ずっとインストゥルメンタルの曲だと思っていたエンディングテーマに、急に歌詞が乗る場面があり、その瞬間、僕の頭には天童よしみの顔が浮かんだ。そのことだけ、どうしても主張しておきたく、ここに書き記しておく。

 ファッションセンターしまむらに行ったら、サウナ5点セットと銘打った商品が売られていた。Tシャツ、ハーフパンツ、フェイスタオル、サウナマット、そしてそれを収納するナップサックというセットで、値下げされていたこともあり、一瞬買おうかとも思ったのだが、結局買わなかった。というのも、サウナマット以外にはオリジナルのロゴが印刷されているのだが、そのロゴというのが、「イマカラサウナイキマス」というフレーズなのだ。そのフォントがどうこう、デザインがどうこう、というのではない。あくまで内容である。だってTシャツとハーフパンツって、それ、サウナのあとに着るもんなんじゃないの、という話だ。サウナのあとのリラックスした恰好としてのそれだろう。それなのに文面は「イマカラサウナイキマス」。ここが納得いかなかった。サウナの前にそんな楽な恰好をするシチュエーションは思い浮かばないし、かといってサウナのあとにそれを着るのも間抜けだ。たぶんサウナ情報サイトの「サウナイキタイ」を意識しているのだろうけど、ならば過去形の「サウナイッテキタ」でよかったんじゃないかと思う。あるいはやっぱり「After Sauna」ですよ。「After Swimming」Tシャツ、すごくいいですよ。プールのあと必ず着ている。

 10インチのタブレットからスマホになって半月ほどが経つ。はじめは小ささに戸惑っていたが、もう慣れた。慣れてしまえば、10インチのタブレットはなんと巨大だったのかと思う。タブレットはタブレットで存在意義があるだろうが、それを携帯電話として1台だけで持つというのは、ちょっとおかしな話だと思う。多分その人とは、あまり仲良くなれないと思う。購入の際、画面の大きさに拘泥したい気持ちはまだ色濃く残っていて、スマホにしては大きい、7インチになんなんとするような製品も候補に挙がっていたのだが、半端なことをしなくてよかった。カメラ機能を重視して買って正解だったとしみじみと思う。
 ホーム画面は、これまで歴代の端末でずっと「タッチ」の達也と南が自転車に乗っているイラストにしていたのだが、いよいよ飽きたので替えることにした。それでどういうものにするか考え、とにかく自分が目にして心地よくなるものがいいので、だとすればビキニの女の子の画像とかになってくるのだけど、ホーム画面というのはなんだかんだで他人の目に触れることもあるものなのでそれは自重し、ビキニの女の子はいない、どこかの国のきれいなリゾートプールの画像にした。さわやかでとてもいい。手のひらサイズのスマホで、ホーム画面は外国のリゾートプール。この人となら仲良くなれそうだと万人に思われること必至だ。

2022年8月15日月曜日

夏の変化3つ

 金髪をやめた。とうとうやめた。やめる決意はだいぶ前から固まっていて、かなり暗い茶色のカラーを入れたりしたのだが、それは1週間くらいでみるみる薄まってしまい、結果として元の金髪に戻る、という形での金髪が継続されていた。やはり髪の色をきちんと戻すためには黒髪戻しをしないといけないようで、しかし前にもやったけど、本当に黒の黒髪戻しは、元々の黒よりもだいぶ黒の濃い、「俺は漆黒の闇の代弁者」みたいな中二病のコスプレのようになってしまうので、それが嫌だった。しかしお店でうーむ、と思いながら棚を眺めていたら、黒髪戻しの茶色版という商品があったので、これだ、と思い買った。買ったけどすぐには使わなかった。実は買ったのはひと月近く前だ。これはなぜかといえば、この期に及んで迷っていた。飽きてやめようと思ったくせに、いざやめるとなると、せっかくの金髪がもったいなく思えて、もうしばらく続けてもいいのではないか、髪の根元側、全体の4分の1くらいは既に黒いわけで、施術はせず、このまま1年くらいかけて、金髪がその時々でカットされてゆくことで、ゆるやかに黒髪に戻っていけばそれでいいのではないか、などと思った。それでもこのたび、やっぱり薬剤を使って茶色く染めた。紫外線と、塩素と、長さで、髪の健康状態が実際えらいことになっていたので、ビジュアルどうこうというより、ここらできっぱり是正しなければならない、と思った次第である。そんなわけで短く切ってもらい、そののちに茶色く染め、これを契機に買ったダメージリペア系のシャンプー、コンディショナー、トリートメントに切り替え、一気にいたわるほうへと舵を切った。髪の毛はさぞや、主人の急な心変わりに戸惑っていることだろう。これまでの虐待のトラウマもあり、夢のような扱いを受けながら、まだ素直に受け入れられないでいると思う。どうせそのうち、主人は気まぐれに私にひどいことをするのではないか、と疑っているに違いない。正解だ。主人の悪い虫は、どうしたってまた騒ぎ出す。ごめんな。死なないでな。

 スマホを買う。買った目的については、「nw」に記した通りである。じゃあここではなにを述べるのかと言えば、僕と、ガラケーと、タブレットと、スマホにおける、心の変遷や関係性についてである。なんだそれは、と思われるかもしれない。心の変遷ってなんだよ、ただ新しい機種に乗り換えていくだけのものだろ、と。
 そうではないのだ。ちょうどcozy ripple新語・流行語大賞のために過去の日記を読み返しているところなので、そこに綴られた思いが、いま自分の中でわりと生々しくあるのである。
 ガラケーから、仕事の都合でLINEをする必要に迫られ、まず8インチのタブレットに乗り換えた。2018年の4月のことである。あの小さい、魔法のような、持っている人間が調子に乗っている、スマートフォンというものにどうしても抵抗があり、俺は電話もできるノートパソコンを持つのだ、という妥協点としてのタブレットであった。それから仕事が変わり、新しい職場において、今度は電話をポケットに入れて持ち運べるものにする必要に迫られた。必要に迫られるというか、それはガラケー時代からの、世間の当たり前であった。タブレットしか持っていない人間が異常なのだった。それで仕方なく、6.5インチくらいの、いわゆるスマホを持つことになった。2021年の2月のことである。しかし忸怩たる思いでそれを持ちながら、僕はいちどタブレットを挟んだ矜持から、自分はスマホの軍門に下ったわけではなく、あくまで電話もできるノートパソコンが手のひらサイズになった、そういうものを持っているだけだ、と当時の日記の中で主張していた。それから、まあいろいろあって、再び僕は、電話をポケットに入れて常に持っておく必要がない境遇になった。そしてこの期間に溜まった様々なフラストレーションの象徴として、スマホに対して猛烈な忌々しさを感じていたため、その反動として、当てつけのように今度は10インチのタブレットに乗り換えた。2021年の10月のことである。これは必死に弁明するまでもなく、とてもノートパソコン性が高かった。8インチの頃は、まだ大きめのメモ帳サイズというか、コートの大きめのポケットなら入らないことはないかも、くらいで、携帯電話の範疇に片足は残っていたが、10インチともなると、それはもう大学ノートの大きさであり、むしろ電話機能があることに違和感があるような代物だった。でも電話なんて帰りの車中でファルマンと話すだけなので何の問題もなく、画面の大きさはやはり魅力的であった。しかしいかんせん安物なので、機能が乏しかった。カメラの画質の悪さ、Bluetoothの不具合、電池の消耗の速さなど、不都合に思う場面は少なくなかった。なにより重たかった。
 それでこのたび、「nw」に書いたとおりの理由から、いよいよ自分の意志によってスマホに乗り換えた。画質のいいカメラで写真を撮り、それをインスタグラムなどにアップする心積もりもある。きわめてスマホなのである。もはやノートパソコンの小型版という言い訳はしない。スマホを、スマホとして買った。僕はスマホユーザーであると、堂々と宣言する。長い年月をかけて、ようやくその境地に至った。僕がその境地に至る間に、iPhoneは13に至った。長い長い遠回りをした。
 あんた、そうやってウロウロして頻繁に買い換えるんだったら、高いやつが買えたんじゃないの、とファルマンに言われたが、はじめのタブレットから今回のスマホまで、4台の合計はせいぜいが7万円くらいのものだ。試しにiPhone13の値段を検索したら、12万円とかしていた。たっか! 高いんだろうとは思っていたが、まさかそこまでとは。信じられない。思考停止でなんとなくiPhoneを買うような輩(親あたりの世代を想定)が、12万円分の機能を活用しているとはとても思えない。阿呆だと思う。

 子ども部屋体制の刷新に伴う模様替えで、夫婦の部屋とピイガの部屋がマーブル模様になっていた。ピイガの学習机が夫婦の部屋に来て、ファルマンとピイガがピイガの部屋で寝る、という中途半端な状態だったのだ。これは、ポルガがひとり部屋になったのに伴い、ピイガもひとり部屋を持ってしまえばいいものを、ひとりで寝るのは嫌だと本人が拒んだ結果としてそうなっていた。この結果、僕はひとり寝の日々であった。しかしこんな宙ぶらりんな状態は長く続かないだろうと予想していて、案の定もう終わった。ピイガがひとりで寝ることを受け入れ(ただし寝かしつけはするという条件付き)、学習机は子ども部屋に帰り、その代わりにファルマンとファルマンの布団がこちらの部屋に舞い戻ってきた。まあ真っ当な、然るべき形である。われわれ4人家族は、ようやくこの部屋割りに至った。これがこの4人で生活する中での、到達点だろう。そう考えると少しだけ寂しくもある。