一報を目にしたとき、いろいろな思いが胸に去来したけれど、一言で簡潔に表すと、やっぱり「やったぜ」ということになると思う。子どももいることだし、離婚そのものはもちろんあまりいいことではないだろう。両親はなるべくなら離婚しないほうがいい。どうしようもなく仕方ない場合というのも当然あるだろうが、本当にギリギリのところであっても、しないで済むのなら、子どもにとってはそのほうがいいに決まってる(言葉に重みがあるだろう)。
それならばなぜ「やったぜ」なのかと言えば、りゅうちぇるはちょっと、先進的ないい夫、いい父親的な発言をし過ぎていた。イクメンとか、育児に協力とか、なんかそこらへんのことについて、そういう自覚を持つこと自体がおかしい、くらいのことを言っていたと思う。そんなの当たり前のことだから、そう努めようとする時点で間違っているのだと。
言いたいことは解る。解るが、そんなことを求められても困る。またMD世代のことを僕は言い出す。MD世代の親の世代、すなわちモーレツ世代はまだ、男は外の仕事、女は家の仕事と役割がはっきりしていた。明解だったとも言える。でもMD世代からはそうもいかなくなって、それでイクメンなどという言葉が編み出されたのだ。我々はイクメンネイティブではないのだ。親からは学べなかったその姿を、誰も明確な正解が分かっていないまま、社会の流れという漠然としたものから、泥団子を作るように、あがいてあがいてなんとか形成していったのだ。
それだのにりゅうちぇるは、それを「意識してやることじゃない」と言った。「意識が低い」ならまだ許せただろう。そうじゃない。意識をしたらいけないというのだ。意識をせずとも行なえることが正しいというのだ。なんだそれは。ニュータイプか。アムロ・レイか。しかしどれほどMD世代が憤っても、りゅうちぇるは新時代の旗手として、ぺこときちんと結婚し、きちんと子どもを作り、きちんと幸せな家庭を築いていた。だからこれまで、ぐうの音も出せずにいた。
そういった経緯によって、今回の離婚に関しては喜びの感情がまず出た。ジェンダーとか、同居は続けるとか、新しい家族の形とか、まだいろいろと理論武装を繰り広げているようだけど、どんな言葉も虚しく過ぎ去るばかりである。結局のところ、弱い犬ほどよく吠えるのやつで、確固たる自信があったり、本当に当たり前のこととして受け止めていることについては、人はあんなふうに語ったりしないのだと思う。りゅうちぇる論法で言うならば、「語る時点でダメ」なのだ。そうじゃないから、自己催眠をかけるかのように、自分自身に言い聞かせていたのだ。
ジェンダーマイノリティ方面のことを主張すれば、そこから先はもう誰もなにも言えない、という風潮がある。こっちだって、お前らがジェンダーマイノリティであることを声高に主張さえしなければ、当たり障りのない扱いをするのだ。それこそ理想的な、「両語らず」の形だろうと思う。もう僕はりゅうちぇるの述べることには一切耳を貸さない。りゅうちぇるとぺこの結婚および離婚は、本人がどれほどその崇高さを訴えようが、僕の中でIZAMと吉川ひなののそれと、一緒のカテゴリに分類された。
マイナポイントで配るはずの資金が、ものすごく余っているという。信じられない。
選挙の投票に行かない人の気持ちは解る。投票をしないことは結果的には〇〇円の損、などと脅されたりするけれど、どうしたって「自分ひとりが投票しようがしまいが結果は変わらないしなあ」という思いはある。投票率が半数を切っているということは、投票しなかった側の人が結託すれば社会はひっくり返るんだなあ、などと思ったりもするけれど、そんなことは永遠に実現しない。投票したところで、すぐに個人的な見返りがあるわけではないからだ(逆に投票しなければ罰金という国はあったはず)。
マイナポイントはそうではない。作ったら、むちゃくちゃ即物的な見返りがある。ポイントと言うが、ポイント支払い全盛の現代において、それはもはや現ナマである。作ったら確実に、なかなかの金額の現ナマがもらえるのだ。そんなの作らない理由がないだろう。
政治的な思想を理由とする人々に対しては、なにも言わない。僕は、政治的な主張がある人と会話をしたくない選手権の世界チャンピオンなので、その人たちはいい。いいと言うか、不可侵である。しかしそんな人々は、ひと握りだろう。そうじゃない大抵の人たちは、なんとなく億劫でやっていないだけだろう。
結果的に、余剰金額は6000億円だそうだ。諸経費などいろいろあるだろうとは思うが、ひとり2万円で考えれば、3000万人分ということになる。なるほど。
昔の僕ならば、誰ももらおうとしないんなら、その6000億円、俺にくれよ、と思っていたことだろう。今はそうは思わない。6000億円もらっても困る。20億円くらいならやぶさかじゃないが、ひとりひとりがそういうことを言うとややこしくなるので、言わない。主張するとするならば、9月30日までにお利口にマイナカードのことをやったほうの国民で、その6000億円を山分けしようよ、ということだ。これなら誰も文句ないだろう。山分け分の支給は簡単だ。なぜならマイナンバーカードを作っていて、管理しやすいからだ。余剰金がなんとなく闇に消えるより、これは本当にいいアイディアのような気がする。
あまり女子女子した傾向がないこともあり、ポルガのことを、ずっと性別不明の奇妙な生き物として扱ってきた。願望というか、一種のモラトリアムというか、男親としての複雑な感情がここにはあったのだと思う。
ポルガがこのたび、初経を迎えまして。
あの、あの11年前に生まれた赤ん坊が、もう、もうそういう、女の子の、女の、そういう、そっちの、そのやつに足を踏み入れたのだと思うと、月日の速さ、その容赦のなさに、めまいがする思いだ。
もちろん本人から報告があったわけではなく、ファルマン伝いに僕は聞き、本人的にはどのような様子なのかと訊ねたら、「まあ別に平然としてたよ。健康な証拠だって言ったら嬉しそうだった」とのことで、安心した。おそらく授業であったり、クラスメイトであったり、母であったり、外堀はじわじわと埋まっていて、心の準備はそれなりに出来上がっていたのだろう。女子というのはさすがだな、としみじみと思った。そのことが少女にとってものすごくショッキングに描かれる創作というものを、これまでいくつか目にしたことがある気がするが、あれってもしかしたら、男性作者が、男性担当者に促され、男性読者に向けて描いたものだったのかもしれない。そう考えると非常に気持ち悪いな。
今回、その報告を聞いて、父親としての感慨深さからショックを受けると同時に、じゃあもうこれからは気軽にプールに誘えないな、ということをすぐ思い、我ながらその感想の無邪気さ、バカな男子っぽさに衝撃を受けた。女子のその感じをまざまざと見せつけられたことで、自分って、男って、なんでいつまで経ってもちんこでただひたすら愉しいんだろう、もしかしたらものすごく阿呆なのかな、ということを思った。