2021年11月9日火曜日

遠慮の塊・ユーキャン・アル中

 多人数で大皿料理を食べているとき、たとえばそれが唐揚げだとして、最後の1個が残って、みんな取りづらい、遠慮の塊などと称される、そういう場面があるだろう。ああいうときってどうすればいいのか、自分の中で結論が出たのでここに記録しておく。
 僕が考えた方法、それは、たとえばテーブルを囲んでいるメンバーが5人であるとしたら、唐揚げが残り5個になったときに、「唐揚げをいまからひとり1個ずつ取ろう」と提案する、というものである。こうすれば後腐れなく、遠慮することなく、きれいに皿を片付けられる。すばらしい手法だと我ながら思う。
 またこの手法を思いついたのが、実地による演習を重ねた結果ではなく、あくまで思考の結果だ、というのも尊いと思う。多人数で大皿料理なんて、コロナ前もコロナ後も、一向にする機会がないにも関わらず、その際に発生する問題とその解決策を考えるだなんて、もはや僕はファンタジー作家の域に入ったのかもしれない。

 今年あえなく開催を見送ったcozy ripple新語・流行語大賞を嘲笑うかのように、ユーキャンのほうの候補語30が発表される。これがまあ、毎年どうしたって敵陣営としてやいのやいの僕はいうわけだが、それにしたって今年は例年以上にひどくないか、おたくも今年は見送ったらよかったんじゃないか、といいたくなるラインナップで、度肝を抜かされた。
 毎年の、「それは流行語ではなく流行」部門には、「イカゲーム」「うっせぇわ」「ウマ娘」「マリトッツォ」などが並ぶ。
 4年にいちど(今回は5年だが)の、「どうしてもオリンピックから流行語を出したいんじゃ」部門には、「エペジーーン」「カエル愛」「ゴン攻め/ビッタビタ」「13歳、真夏の大冒険」「スギムライジング」「チキータ」「チャタンヤラクーサンクー」「ピクトグラム」「ぼったくり男爵」と、要するにオリンピック関連の流行語なんて存在しなかったのだな、と思わせる言葉ばかりが並ぶ。それなのに関連語が8個も挙がるのだから、全体のパワーの弱さが如実に表れている。特に「カエル愛」がひどい。入江選手に関しては、「サンキューベリーサンキュー」という、きちんと流行語めいたフレーズがあったのに、いったいなんなのだ。なんなのだ、「カエル愛」という言葉は。彼女がカエル好きというのは知っている。それで「カエル愛」か。そんなのありか。なんだその不思議なセンスは。
 あとこちらも毎年恒例の、「わしはどうしても野球に関する言葉を入れたいんじゃ」部門からは、「ショータイム」と「リアル二刀流」がノミネートされ、今年も無事、誰かは知らないが、この部門に並々ならぬ情熱を持つ御仁の満足がいったことだろうと思う。そして来年は、新庄剛志が日ハムの監督になったことで、この部門は安泰だろう。
 ちなみに新型コロナ関連語からは、「変異株」「自宅療養」「副反応」「人流」「黙食/マスク会食」が選出。「黙食」で白けるが、それ以外の言葉はたしかに時世の新語だな、と思う。特に「副反応」という言葉は新鮮だった。副作用と微妙な使い分けの副反応。まさかそんな部分の言葉の使い分けへの意識が高まる日が来るだなんて。
 まあだいたいそんな感じ。大賞が「ぼったくり男爵」になってバッハが登壇したらおもしろいな。

 近所のスーパーでは、1000円以上買うと卵が安くなったり景品がもらえたりという企画がたびたび行なわれるため、わりと重用している。自分で行けないときはファルマンに頼むのだけど、重い腰を上げて行ってもらうだけでひと苦労なので、そのうえ1000円あまりの賢い買い物を頼むなんてことは不可能で、それにそのスーパーは、安いものはそれなりに安いが、そこまで値下げしてないものも結構ある感じのお店で、物の底値を知らないファルマンに選ばせるのはなかなかリスキーで、さらには以前「1000円ちょっとになるよう買い物したのに、レジを通したら2000円超えてた」なんてこともあったので、こちらとしてもすっかり信用をなくし、頼む際はもう、ひたすら1000円ちょいのパック酒を買ってもらうことにしている。その一択なら失敗しようがないし、腐らないので、確実に消費するものだから買い置きがあっても支障がない。じつにいい作戦である。
 しかしこの結果、この店においてファルマンは、たまに来店してはひたすらパック酒だけを買って帰る女(しかもたまに子連れ)となっていて、なかなかのキャラクターだな、と思う。見た目もなんとなく、さもありなん、という感じがあるし。

2021年11月4日木曜日

知恵・あなず・沼

 季節が移ろい、空気の乾燥を感じはじめている。指にささくれができたり、洗顔後になにかを塗るのをサボると顔がかゆくなったりする。なにより喉が渇く。それも特に寝ているときだ。明け方に目が覚めると、口の中がカラカラになっている。しかし実はそれは、口の中がカラカラになったから目が覚めているわけではない。尿意で目が覚めているのだ。ここに不条理を感じる。下では水分を排出したいのに、上では水分を求めている。Aさんは渇き、Bさんは湿っている、というのなら分かるが、ひとりの体の中の話である。なんとなく釈然としない思いがする。そうだ、と左手の手のひらに、拳にした右手を振り下ろし、小便を飲めばいいんだ! とひらめく。人類のさまざまな知恵や知識が記録されているインターネット空間に、またひとつ新しい情報が加わった。このページにたどり着いた人は、ぜひ実践してほしい。

 職場のおばさんが、「あながち」のことを「あなずと」という。
 もしかして島根の方言かもしれないと思い検索したが、やはりそんなことはなく、どうしたって、「あながち」と「おのずと」が混ざっているのだと考えざるをえない。たまたまそのときいい間違えただけかと思ったが、もう3回くらいそういっているのを聞いているので、いい間違えではなく、インプット間違えだ。
 指摘するべきか、とも一瞬思ったが、指摘されたら恥ずいだろうな、と思うとできない。こういうとき、誰かが指摘しないとずっと恥ずかしいままなんだから、と断行する人間もいるだろうが、そういう人間がこの世からもれなく駆逐されて、僕みたいに、指摘されたら恥ずいだろうと周りが配慮し、死ぬまで指摘されずに済んだら、最期まで恥ずかしい思いをしないのだから、それでいいのだと思う。そんなやさしい世界がいい。

 おばあさんの住んでいる家などによくある、個包装の、保存料たっぷりで長く持つ、ひと口サイズの和菓子のアソートみたいのがあるじゃないか。最中とか、栗饅頭とか、大福とか、そういうものがいろいろ入っているやつ。
 あれにいまハマっている。
 もともとの性分としてそういう傾向はあったのだが、筋トレ的な意味でも、なるべく間を空けずにちょびちょび糖質とかを取ったほうがいい、ということを知って以来、これまで鈴カステラやチョコレート、飴など、いろいろ試してきたが、最近になってようやくこのジャンルの存在を発見し、これこそ僕の求めていたものだ、と感動したのだった。
 いちど発見してみると、わりとどこのスーパー、ドラッグストアにも、この種の商品は置いてあった。世界って、自分の意識しているもの以外は、視界に入っていても見ていないんだな、ということを再認識した。
 また店によって置いてある商品はそれぞれ異なり、そして大袋の中に小袋が何種類もたくさん入っているタイプの商品なので、ふたつもみっつも大袋を買うと、20も30も異なるお菓子が手に入ることとなり、なんだかとても愉しいのだった。ジャンルにハマることを「沼」と表現するのが、ここ数年ですっかり定着し、しかしこれまで僕はこの表現を使う機会がなかったのだが、ここに来てにわかに出現した。僕は、おばあさんの住んでいる家などによくある、個包装の、保存料たっぷりで長く持つ、ひと口サイズの和菓子のアソート沼にハマっている。

2021年10月30日土曜日

野戦・貧困・お知らせ

 季節の変わり目で、寒暖差も大きく、体調管理に四苦八苦している。さらには今週は子どもが順繰りに風邪を引いたこともあり(おろち湯ったり館のプールがいけなかった。やはり子どもは夏場以外のプールはダメなのだと悟った)、タイトロープの上を渡るような、とても緊迫した日々だった。結果的には必死の摂生により、大崩れは免れた。しかし喉に「おや?」というような気配はあったし、これもまた体調崩しかけの兆候のひとつに違いない、目がやけに痒くて充血して涙が出まくる、という症状も出た。目は軽い炎症のようで、目薬を差して、普通に過ごしている分には問題ないのだが、どうも寝ている間には自制心が掻き消え、違和感に対して思うがままに擦ってしまうようで、そのため朝起きたときがいちばん痛かった。こうなったら寝る際、喉を守るためにマスクを、目を守るために眼帯をして寝ようかな、と思ったが、それってどんな野戦病棟だよ、と思ってやめた。喉も目も、今はもう落ち着いた。乗り切った。

 生理の貧困ということがいわれ、切実だなあと思う。ナプキン代、たかが数百円ともいうが、数百円が少し重たく思える財布の状況って、たしかにある。男にはないその出費は、女性に課せられたハンデのひとつであるに違いない。そしてこういう話のときに、どうしても思い出されるのは、岡村隆史のことだ。ポロっと出てしまったいちどの不適切な発言を、何度もほじくり返すんじゃない、それはイジメだ、とも思う。いつまでも失敗を許してあげない社会には問題がある、とも思う。そう思うし、彼がいま普通に芸能活動していることも別に構わないが、とはいえやっぱり、普通に考えて、NHKの子ども向け番組は、降板すべきだったろうと思う。それはイジメでもなんでもない、当たり前の制裁だ。あの発言をした人が、あの番組に変わらず出続けているのは、やっぱりどうも釈然としない。間違っていると思う。

 10月もぼちぼちおしまいで、紅白歌合戦の司会も発表となり、そろそろ1年の締めくくりが意識される時期だが、僕のブログに関しても、ここで大事な発表をしておく。
 毎年この時期は、11月23日、破皮狼感謝の日に発表となるcozy ripple新語・流行語大賞に向けて、この1年間で書かれたブログ記事を読み返し、フレーズをピックアップする作業に励むのだけど、今年はそれを一切していない。なぜか。今年はcozy ripple新語・流行語大賞の開催が見送られる運びとなったからだ。ここ半月ほど、30分ブログの発明によって気を吐いているが、年間という単位で見ると、今年は記事の投稿数があまりにも少なく、ここからノミネートにふさわしいフレーズを抜き出すのは不可能であると、運営本部は判断をした。よって第13回cozy ripple新語・流行語大賞は、2022年に2年分の記事を対象に行なう。期待してくれていたファンには申し訳ないが、来年は必ずや充実したボリュームでの開催を実現することを約束する所存なので、悪しからずご承知のほどをお願い申し上げる次第である。

2021年10月25日月曜日

すっかり気分がよくなった話3連発(ただの自慢話)

 オーバーオールが欲しいが、街でオーバーオールを着ている男を見ると大抵は嫌な気持ちになるので自重している、ということを数か月前にツイッターで呟いたが、そのあとオーバーオールどころかサロペット、それも女性用のものを買って、夏用の薄手の素材だったので、今年の夏はそればかり着ていた。とはいえ傍から見て異様なのか異様じゃないのかよく分からず(ファルマンにファッションのことを聞いてもしょうがないし)、まあいいやと思って過していたのだが、あるとき近所のスーパーで買い物をしていたら、レジの女性から、「とてもおしゃれな格好をしていますね。そういうの、どこで買うんですか?」と訊ねられたので、すっかり気分がよくなった。あなたたちはスーパーで食料品の買い物をしていて、レジの店員さんに服を褒められたことがありますか。その一件以来、確信を持って着ることができるようになった。ところが夏の終わり、ファルマンの実家に顔を出した際、僕のその格好を見た義母が、「スーパーマリオかと思った」といったので、ぼちぼち寒くて着られなくなるタイミングだったこともあり、ぽっきりと心が折れ、その日で今年のサロペットは終わった。でも客観的に見て、サロペットにキャスケット、たしかにマリオだった。期せずしてマリオのコスプレみたいになるなんてことがあるんだな。

 職場で同僚から年齢を訊ねられ、岡山では常に嘘をついて、10歳くらい若く答えていたのだが、こちらではまだそこまで心がほぐれていないこともあり、そのままの年齢を答えてしまった。しかし「38」の十の位、「さんじゅう……」といった時点で相手が「えー!」と声を上げ、それから「はちです」というと、「そんなに? ぜんぜん見えない!」と驚いてくれたので、すっかり気分がよくなった。特に、「さんじゅうはちです」に対してではなく、十の位の時点でびっくりしてくれた点、すなわちそれは20代と捉えていたことを意味するので、とても嬉しかった。僕も今度やろうと思う。十の位の時点で驚くやつ。

 先日ローソンで買い物をしていたら、僕が提げていたオリジナル生地のヒットくんバッグを見て、20代前半くらいの女性の店員が、「すごくかわいいバッグですね。どこで売ってるんですか?」と話しかけてきてくれたので、すっかり気分がよくなった。世の中にはいろいろな褒めパターンがあるけれど、ローソンのアルバイトの20代前半の女性の感性からの褒めというのは、なかなかの上位に入ってくるのではないかと思う。なぜなら、もうそれは世間の若者そのものだからだ。ローソンの店員に訴求するということは世間に訴求するということである。さっぱり売れないものだから少々不安になっていたが、なんだよ、やっぱり世間にはとても好意的に受け入れられるんじゃないか、と安心した。ちなみにその問いかけに対してどう答えたかというと、僕が義兄のような積極的な人間であれば、これは自分のパパポッケというレーベルのオリジナル商品で、minneで販売しているんですよ、ということを普通に伝えるのだろうけど、もちろんそんなことはできず、「ありがとうございます、ネットです……」と答えるのが精一杯だった。こういうところなんだろうな、としみじみと思った。でも本当に嬉しかった。

2021年10月21日木曜日

WATAONI、ボディメンテ、二の腕

 ほんの1、2ヶ月前のことだが、ファルマンが母親に「THIS IS US」を薦めたところ、義母はドハマりし、今現在アマゾンプライムで公開されている全てのシリーズを、あっという間に観終わったらしい。有閑マダムの海外ドラマ視聴の勢い、半端ないな。
 そして最新話まで観終えた余韻に浸りながら、感想としてファルマンにこういったという。
「うちの家でもあんなお話を作ってほしいわ」
 それを聞いてファルマンは、
(うちで「THIS IS US」を作ろうとしたら、それは「渡鬼」……)
 と思ったが、口には出さなかったそうだ。英断だと思う。
 まあ「THIS IS US」は、ただ人間関係・家族関係を描いた話ではなく、時代が行ったり来たりするところに骨子があるので、「渡鬼」や「北の国から」とは、同じようでぜんぜん違う。逆にいうと、「渡鬼」を再編集して、「THIS IS US」方式にしたら、むちゃくちゃおもしろくなるのではないかともちょっと思った。なにぶんこっちは子役も本人だ。説得力の重みが違う。僕はもともと「渡鬼」も好きだし、それが「THIS IS US」の手法で描かれたら、掛け算でとてつもないパワーになるかもしれない。誰か暇な人が作ってくれないだろうか。

 先日子どもたちと公園を歩いていたら、山がそのまま公園になっているタイプの公園なので、遊歩道の途中にお地蔵さんがあって、やはり散歩をするお年寄りが多いからか、管理が行き届いている様子で、お供え物も充実していた。
 そのお供え物の中に、まんじゅうやペットボトルのお茶に混ざって、大塚製薬の「ボディメンテ」が並んでいたのが、すごく印象に残っている。
 まだけっこう暑い時期だったので、百歩譲ってポカリやアクエリアスならば、「お地蔵さんのことをマジで親身に思う、心の優しいお年寄りがいるもんだな」くらいの感想だったろうが、これが「ボディメンテ」となると、ボケが高等というか、お年寄りの話題でボケというキーワードを出すと話がややこしくなるが、いろんな意味で「意識が高いな!」と思った。

 相も変わらずそれなりに筋トレをして、それなりにプロテインを飲んでいるが、それなりの半分くらいの度合の効果しか得られていないような、いや、それらの行為をしていなければ、30代も後半になり、滅法ひどいことになっていたところを、現状維持できているのだから御の字と考えるべきだという気もするような、結局ずっとそんな感じである。
 ところで先日、やはりプロテインを飲もうとして、シェイカーに低脂肪乳やらプロテインやらミロやらを入れて、溶かし混ぜるために思い切り振ったところ、半袖から伸びた二の腕が、この表現はあまりよくない気もするが、しかしあまりにもそれだったのであえて使うが、夏にノースリーブで手を振る中年女性のそれそのもので、すなわち筋肉とはあまりにも無縁の、脂肪しかないような具合で、しかしそんな二の腕で、なにをしているのかといえば、プロテインを溶かすためにシェイカーを振っているわけで、さすがに「おかしいな?」と思った。おかしいな、飲んだプロテインと筋トレの効果、どこへ行ってんのかな。配線が間違ってて、それら入力したものの出力先が、僕以外の誰かのところへ行ってしまっているんじゃないか。誰か、心当たりないのに二の腕がやけにムキムキな人、いませんか。それたぶん、僕のです。

2021年9月30日木曜日

スマホ嫌気・ファルマン芸・Myかご

 スマホに対してほとほと嫌気がさしている。今年の2月にスマホの人になって、7ヶ月あまりが経ったわけだが、もう嫌で嫌でしょうがない。
 スマホっていざ持ってみたら、「片手で持ててポケットに入る」という、タブレットに対して本当にそれだけしかメリットがないもので、それはスマホの小さいがゆえの扱いづらさをカバーできるほどの材料ではぜんぜんなく、日々ひたすらにストレスを溜めている。
 検索などの語句の音声入力って、している人間をとても気色悪いものとして見ていたが、スマホになって気持ちが理解できるようになった。画面の小ささから来る押し間違いがあまりにも多くて、あんなものキーボードとして成立していない。かといって僕はフリック操作というのもできず、できるようになるつもりもない。だから音声入力、ということに多くの人はなるのだろうが、機械に向かってしゃべるという行為の壁を、僕はいまだ越えられていない(機械の画面を指で触る、というのがやっと越えられたところだ)ため、それもできない。そうなるといよいよスマホは不自由だ。
 スマホにしたのは、長い時間にわたり電話を持ち歩かなければならない状況になったという理由があったからだが、諸般の事情によりその制約がなくなったため、頃合いを見てタブレットに回帰しようと思う。頃合いとはなにかといえば、ただただ金銭的な問題である。回帰という意味では、前に使っていたタブレットにSIMを移すだけで戻ることはでき、別に機能的にもそれで一切の問題はないのだが、そのタブレットはもうポルガたちのものになってしまっているため、さすがに「やっぱり返して」とは言いづらく、新しいものを買うしかないのである。
 子どもやファルマンのタブレットを目にするたびに、画面の大きさに憧憬の念を抱く。最低限この程度の大きさのものを覗き込むのでなければ、人の矜持というのは守られないのではないか、ということを思う。ガラケーからそのままタブレットはただの変わり者(ファルマン)だが、ガラケーからタブレット、スマホを挟んでの再びのタブレットには、説得力があると思う。

 ファルマンが、「マスクの外し方モノマネはどうだろう」といってくる。妻は何をいってきたのだ、と思う。
 妻曰く、政治家などが、会見の際にマスクを外すが、その外し方には個性があるので、その特徴を掴んでモノマネするとウケるんじゃないかと思う、とのことである。
 なんだその着眼点、とショックを受ける。HEY!たくちゃんのアゴものまね、ロバート秋山の体ものまねと、一部分に特化したモノマネというジャンルはたしかにあるけれど、マスクの外し方モノマネは、さすがにマニアックすぎると思う。ファルマンはあるときから、その視点でテレビを観るようになったから、この人はこう、というデータがあるのだろうが、一般の人にはその素養がまるでないものだから、それがどれほど特徴を捉えていようと、似ててウケる、という状態には絶対にならない。感想は常に「……ピンと来ない」だと思う。
 ちょっと妻はあまりにも、モノマネ界の高みに上り過ぎたのかもしれない。頂点に立つ人はいつも孤独だ。

 遅ればせながら我が家にも、というかスーパーでの買い物担当は主に僕なので、僕にも、というべきだが、My買い物かごがやってきて、そのあまりの便利さに腰が砕けそうになっている。前々から、使っている人を見かけるたびに、きっと便利なんだろうな、ということを感じていて、その気持ちの高まりが、ついにはかごを買うという行動に至ったわけだが、そちら側の人になってみれば、まだこちら側に来ていない人が信じられず、その無知蒙昧さが、不憫で居た堪れなくさえある。そこまでいうか。そこまでいうのだ。
 レジで読み取りと一緒にかごに詰めてもらえば、会計後にサッカー台で袋詰めをする必要がなく、そのまま店を出ることができる。そのときのサッカー台を素通りする瞬間、とてつもない快感がある。袋詰めしている人々を尻目に、というのがいい。まだ袋詰めしてんだ? と心の中ですごくバカにした笑みを浮かべている(実際に顔に出ているかもしれない)。
 世の中の人がみんなMyかごになれば、日々サッカー台で費やされている労力は減り、それは国の総計、人類の総計ではいかほどだろうと思う。さらにはサッカー台というスペースそのものが店からなくせるのだから、店としてはその分、売り場を広くしたり必要な設備を増やしたりできるわけで、とにかくいいことづくめだと思う。
 もっともこれは、スーパーに行く手段が必ず車である地方民であればこそで、仕事の帰りに最寄り駅近くのスーパーで買って帰るような都会の人間はどうしたってそんなことできないだろう。都会にも住み、田舎にも住んで、視野が広いので、そういうことも分かってあげる。一律に「レジ袋無料配布禁止、Myバッグを持ちましょう!」みたいな乱暴なことはいわないのです。

2021年9月12日日曜日

小銭入れ・尿道・ワクチン

 小銭入れを持たない人生だった。
 僕の人生はまだまだ続くが(まだ始まってもいないともいえるレベル)、まず間違いなく小銭入れを持つようになることはないだろう。電子マネーとかが発展して、そもそも小銭の出番が減っていて、まあ僕は電子マネー、目下のところてんで活用できていないのだけど、それであっても小銭入れを持つような状況というのはイメージしづらい。たぶん自動販売機で、缶コーヒーだの、煙草だの、そういうものを買う人にとっては便利なんだろうと思う。
 あとやっぱり基本的に、荷物をあまり持ち歩きたくない美学の男が、小銭入れというアイテムに帰着するのだと思う。その観念が僕にはまるでない。むしろその真逆の観念で生きている。
 しかし荷物をあまり持ち歩きたくないという美学の真逆であればこそ、こんな思いが湧く。
 小銭入れというアイテムそのものへの憧れ。
 小銭入れって結局、極小のポーチのようなものであるから、こじんまりとしていてとても愛しいのだ。そのため物欲としてそそられる。しかし小銭入れを小銭入れとして活用できる気質は、上記の通り僕にはまるでない。
 結果として柄が気に入るなどして衝動的に購った小銭入れは、ちまちました手芸用品を入れておくための入れ物なんかになる。しかし実際は、ちまちました手芸用品は、引き出しのクリアケースに入れておいたほうが絶対に使いやすい。
 今生の僕と小銭入れの縁は薄い。

 これは「BUNS SEIN!」に書く話のような気もするのだけど、そう長くなる気もしないので、こちらにさらっと記しておく。
 使っているボディーソープが、ノズルの開口部分でとてもよく固まる。「カタマラナイヨウニナルヤーツ」的な添加物を入れろよ、と思うが、それだけ実直な作りなのかもしれないな、とも思う。
 開口部分で液剤が固まっていると、ヘッドを押して中身を出す際、穴が変なふうに塞がっているために、思いもよらない方向に勢いよく液剤が噴射するので困る。これが本当に、意思があるのではないかと思うほどに、こちらがボディスポンジで受け止めようとしていない方向にばかり、液剤が飛んでいく。長年その状態が続いているので、こちらも学習して、ゼロ距離くらいの位置までスポンジを近付けてヘッドを押すのだけど、それでも液剤はスポンジをかいくぐる。前方に突き出たノズルの開口部から、そんな斜め後ろみたいな方向に液剤が飛ぶことあるかよ、というような現象が起る。奇想天外である。
 という、この話を前置きにして、ある日ふと思ったのだけど、要するに穴が小さいと、液剤の噴き出る勢いは増すわけで、これってまあ、ソープという、白濁粘液からの連想もあるに違いないが、ちんこだって当然この理論は同じわけで、射精も小便も、年を取ると若かった頃のような勢いがなくなるというけれど、それってつまり、尿道とかが使い込んだことでこなれて、体内的には昔と同じ量の同じ勢いの液体が、余裕を持って発射できるようになったという、つまりそういうことなんじゃないだろうか。勢いがなくなったことを減退と捉えるから哀しくなってしまうわけで、尿道のこなれ感と捉えると、途端に円熟味が出てくる。精液や小便の出方のおだやかさこそが、大人の余裕。

 やけにブログを書かない日々が訪れていたが、この日々の中で、新型コロナワクチンを夫婦ともども接種していた。ファルマンは1、2回目ともまあまあの副反応が出て、接種の翌日は寝て過ごし、それに対して僕は1、2回目とも、打った腕の筋肉痛めいた疼痛以外は、ほとんど副反応らしいものはなかった。つまりなんとなく事前から予想していた通りの結果だった。
 僕はファルマンからしばしば、正常性バイアスの高まりを糾弾されるのだけど、それぞれの人の世界の見え方、捉え方なんて、その人のそれまでの人生経験のことを思えば、矯正することなんて不可能だろうと、今回の副反応の結果で、改めて思った。ファルマンは副反応が起るだろうと思って、果して起った。僕は副反応はあまり起らないだろうと思って、果してあまり起らなかった。どうしたって、その確率から、経験則が生まれ、人格は形成される。
 病は気から、なんて慣用句は、時代に合わなくなったのか、昨今あまり使われなくなったような気がするが、正常性バイアス勢から見れば、不安がり勢に対して、思わずいいたくなることもある(でも今どきの時代性を踏まえ、いわない)。
 そして正常性バイアス勢には、致命的なウィークポイントがあって、不安がり勢には絶対に勝てないようになっている。それは、人はいつか必ず死ぬ、ということである。人はいつか必ず死ぬので、正常性バイアス勢の正常性バイアスは、事故なり病気なり、いつか必ず裏切られる。それに対して、不安がり勢が、不安がっていたものから裏切られることはない。その不安はいつか必ずやってくるからだ。
 結局なにがいいたいのか、自分でもよく分からない。どうせ感染しないよ、といってフェスに行くわけではない。もっとも心のどこかでは、感染しない気でいるし、感染しても症状は軽く済むだろうと楽観視している部分がある。その一方で、ワクチン接種の機会が与えられれば迷いなく受ける。そしてその副反応は軽いだろうと思う。小市民だな、と思う。