2020年2月4日火曜日

乗り物・顕微鏡・ブラトップ

 ポルガに「いまいちばん乗りたい乗り物はなに?」と訊ねられ、悩む。乗りたい乗り物……、あまり考えたことがないテーマだ。飛行機、新幹線、船、バイク、どれも別に乗りたくない。目的地にもよるけれど、その移動手段にこだわりはない。なので本当に思い浮かばない。それで仕方なく、「ポルガは?」と訊き返したら、「タイムマシン!」という答えが返ってきて、えー、となった。乗り物としてのタイムマシン、ちょっと答えとしてずるくないか。ポルガのそれは間違いなくドラえもんのイメージでいっているわけだが、同じくドラえもんの中に、タイムベルトという道具も出てくる。これは機体に乗らない、ベルトタイプのタイムマシンである。タイムマシンに乗りたい、という願望は、要するに時間旅行がしたいという願望であり、ならばタイムベルトでもことは済む。その事実が証明するように、乗りたい乗り物という問いにタイムマシンと答えるのは、なんとなく真摯ではないと思う。その次に、横でこの会話を聞いていたピイガが、「ピイガはブランコ!」といってくる。バカでかわいい。バカでかわいいが、その答えも果たしてどうなのか。ブランコは、たしかに乗るけれど、乗り物ではなく、遊具だろう。これもまた質問に対する正面からの答えになっていない。挙げ句の果てには、「ちなみにお母さんはベッドだって」とポルガが告げてくる。ベッド! こいつがいちばん阿呆だ! と震撼する。あまりにひどい答え。乗り物という括りのお題に対してベッドという答えもえげつないし、そもそも生命体として、いちばん乗りたい乗り物を寝具と答えるその気概がよくない。膝から崩れ落ちそうになった。俺だけ真面目に、飛行機とか船とかに思いを馳せたのに、俺以外の家族3人とも、ぜんぜんまともに答えねえじゃんかよ……。こんなことならば9歳の娘からのその問いかけに、「女!」と即答すればよかった。

 ポルガの誕生日に顕微鏡をプレゼントした。別に勉学に役立つものでなければ与えない、などといったわけではなく、本人のリクエストである。それで繊維を見たり、葉っぱを見たり、さらには公園の池からちょっと水を掬ってきて見たり、先日からいろいろしている。しかし750倍までできるという触れ込みの製品なのだが、なかなか高倍率で焦点を合わすのは難しく、四苦八苦している。池の水は、藻の生えているあたり、いかにも微生物がたくさんいそうな所のものを採取したので、低倍率で見たとき、たしかになにか動いているものはいたっぽいのだが、高倍率ではてんで捉えることができず、そのため顕微鏡を覗いて、動き回る小さな生き物の姿を見て「うおおっ!」となる感動はまだちゃんと味わえずにいる。
 もちろん、これを味わうための最善策は初めから分かっているのだ。細かい無数のものが蠢いていることは確実(ウェブで検索したところ、400倍程度で、頭と尻尾のあの形がちゃんと確認できる模様)で、感動もいろんな意味でもれなく付いてくる。ちなみに顕微鏡を発明したレーウェンフックは、すなわち人類で初めてこれの姿をちゃんと見た人間だといわれているらしい。プレパラー射すれば、簡単にこの願いは叶う。プレパラー射……。
 しかし娘にやったプレゼントの顕微鏡でそれを見るというのも、ちょっと気が引けるというか、もちろん娘に見せるわけにもいかないし、ジレンマだな、と思っている。

 居間にいつもファルマンの肌着が干してあって、よくぶつかったりするので、そういえばなんでこれはいつもこうして1枚だけ干されているのか、と訊ねたら、「これは下着だからだ」という答えが返ってきた。そういわれて見てみたら、なるほどただのいわゆるババシャツではなくて、胸の部分にカップが入っている、ユニクロのブラトップというやつだ。これでブラジャー要らず、という例のやつ。ブラジャー要らずなので、つまりブラジャー代わりであり、そのため下着である、という論理であるらしい。だからショーツ類(それはそれで子どもらのものも含めて小型のパラソルハンガーに吊るして室内に干している)と同じく外には出せないのだ、と。その論理そのものを否定するつもりはないが、それはあくまで着用する女性側の考え方で、女性が下着類を外に干さない理由であるところの、他者(主に男)の目からすれば、ユニクロのブラトップは、ぜんぜんブラジャーの代替にはなっていない。ブラジャーで得られる情趣を、われわれはブラトップからはひとつも受け取らない。どんなに好色な下着泥棒でもブラトップは盗らない。ブラトップというのはそういう存在だと思う。だからお前、安心して外にお干しよ、と諭して以降、わが家で歩いていてブラトップにぶつかることはなくなった。めでたしめでたし。

2020年1月31日金曜日

コロナ・オマーン・とうとう散髪

 新型コロナウィルスというものが流行っていて、ファルマンもその話ばかりしている。タピオカの次はバナナジュースとかいっていたが、そんなことなかった。コロナウィルスだった。
 ウィルスってやっぱり、生きものにとっていちばん大事な、生存に関わるものなので、その禍に際すると、普段なるべく取り繕っている自制心のある人間性みたいなものが取っ払われ、恥や外聞なんて概念のない、生きもの本来の姿がさらけ出されると思う。中国の、武漢の人々に対する、自警団によるあんまりな処置なんかを見ていると、しみじみとそう思う(もっともその様を眺めて半笑いを浮かべる我々もまた、それはそれで恥も外聞もないのかもしれない)。
 昨日観た映像では、自警団の人々は、武漢から帰ってきた一家の家のドアに木片を打ちつけて開けなくして、さらにはドアの横に、「この家の住民は武漢帰りだから接触してはならない」という貼り紙までしていた。ウィルスすごい。ウィルスひとつで、世界はこんなに簡単にディストピアめくのか、と感心した。
 ところでこの貼り紙というのが、もちろん中国語(簡体字)なのだが、それが赤い紙に黄色い文字で記されているのである。いかにも中国の人のセンスでデザインされたもので、なんだか目を奪われた。「nw」で記したように、カッティングマシンを買ってオリジナルTシャツ作りにハマっているところなので、わりと世の中の全てをその対象として見ているところがあり、それを見て「ありなのではないか?」などと思った。赤いTシャツに黄色いシートで、「この家の住民は武漢帰りだから接触してはならない」というTシャツ。不謹慎にもほどがある。

 今日の新聞に、1月10日に亡くなったという、オマーンのカブース前国王への追悼が、広告の扱いで一面を使ってなされていた。学がないので、カブース前国王のことはこれまで知らなかったし、オマーンという国が日本とどういう関係を持つのかも知らなかった。ただ去年の12月9日に、Twitterでこう詠んでいた。「我が国の国際情勢なぜそんな気にするのかとオマーン大使」。オマーンという国は、僕にとって本当に、本当に、国際情勢や国際空港のことしか思い浮かばない、そんな国なのである。なんかこう書くと、まるで救いようのない阿呆な子のようだ。そんなことないのに。新聞を見て、「オマーン国王、おまーんこくおう……」と2回呟いたけど、そんなことない。

 髪を切った。前にも書いたが、ずっと伸ばしていた。去年の8月からいちども切っておらず、そろそろ結べようかという頃合いだった。人生の最長記録だったろう。毎朝の爆発はとんでもなく、整髪剤とヘアピンが必須で、さらには入浴後のドライヤーも時間がかかったが、自分的にはとても満足していた。しかしファルマンからの評判はすこぶる悪かった。切れ、切らせろ、寝てる間に切ってやろうか、ということを、この2ヶ月くらいの間に何百回いわれたろう。何百回じゃない。千回を超える。でもぜんぜん切る気持ちにならなかった。ピイガと、卒園式までには切るという約束をしたので、まだまだ伸ばすつもりだった。
 つもりだったのだが、なんか唐突に、もういいかと思って、先ほど切ってもらった。そしたら、すごくいい! めっちゃすっきり! 頭が軽い! そして顔も明るい! 若返った! いま、その効果のほどに感動している。短い髪がこんなにいいものだったなんて。
 こんなによくなるんなら、なんでもっと熱心に、切るべきだといってくれなかったのか、とファルマンにいったところ、あああ!? とヤンキーみたいに凄まれた。

2020年1月19日日曜日

十二国記・クラT・Fっぽい

 ようやく十二国記の最新作「白銀の墟 玄の月」を読んだ。先週から読みはじめ、読みはじめたら全4冊を猛スピードで読むほかなかった。1、2巻と3、4巻が1ヶ月置いて刊行されるということで、4冊が出揃ったら読もうと思っていて、でも1、2巻が出た時点で好奇心からウェブ上のレビューを読んでしまい、そうしたら評判があまりよくないので、なんとなくテンションが下がってしまった。そしてこんなタイミングでの読書となった。4冊を読み終えた感想としては、1、2巻の時点で読むのがくじけそうになるのも仕方ないかなー、と思った。4冊一気に読んでも回避しきれずちょっとクラクラする局面があったので、これで1、2巻で1ヶ月間を置かれたら、それはつらかったろう。刊行されてすぐに読んでくれる熱心なファンに対して無慈悲な刊行形式をとったものだと思う。幸い僕は愉しめた。分かってはいたけど、この作者はとんでもないものを書くな、としみじみと思った。架空の世界で物語を書くとなったら、もっと華やかで気楽で派手なものを書こうとするもんだろう。こんな地味で細かくてせせこましいことを書くなら、もういっそ現実でいいじゃん、と思った。とはいえこれは解説の人もいっていたが、特殊設定下でのミステリ的な部分もあるので、だとすればこれは4巻目のあの場面のカタルシスのための、とてつもなく長い特殊設定の説明なのかもしれない。すさまじいことだな。今年には短編集が刊行予定とのことで、そっちは華やかな、ファン心を素直にくすぐるような話であればいいなと思う。肩の力を10分の1くらいまで抜いてほしい。

 ネットサーフィンをしていたら、受注生産のオリジナルデザインTシャツの制作販売のホームページに行きついた。受注生産のオリジナルTシャツとは、つまりクラスであったりアマチュアのスポーツチームであったり、なんかそういう集団が心をひとつにするために着用する、あれのことだ。僕の人生でこれまでいちどもなく、というか今後なんかしらの集団に所属して、おっさんおばさんと揃いのTシャツを着たってなんにも愉しくないので、高校時代に学校祭用のクラTを作らなかった時点で(そもそも男子校に進学した時点で)、僕の人生は既にこの文化とは完全に隔絶しているといっていい。そんな僕が、そのホームページを眺めていてなにを思ったかといえば、完全に架空のサンプルなのか、あるいは実際の制作例なのかは判然としないが、何点か表示されているそのクラT、それを買って着たいじゃないかよ、ということだ。たぶん美術部の奴とかがデザインしているので、それなりによくできていて、若者らしいまっすぐでさわやかなテイストで、そしてなにより、クラス全員のファーストネームが羅列されていたりする。ここがいい。ひとりも知らないけど、俺もこれを買って着れば彼らと結束できるんじゃないかと思う。あるいは女子校と思しき女子の名前しかないTシャツというのもそそる。それを着ているということは、じゃあ俺は彼女たちの担任なのかな、という気持ちになれる。いいなあ。実にいい。クラT部外者販売。けっこう需要があるんじゃないか。発注する高校生に対して、部外者販売をオッケーにしてくれたら割引とかにすればいいのだ。ウィンウィンではないか。ちなみにメルカリにクラTって出品されてないのかな、と覗いたがさすがになかった。

 最近ちょっと字を書いたり絵を描いたり、努めてそういうことをしているのだが、久しぶりに絵を描いて思ったことに、僕は相変わらず本当に動きのある絵が描けない。マネキンのように、直立している絵しか描けない。それに対し、近ごろドラえもんの絵ばかり描いているポルガは、それは要するにF先生の模写なので、シンプルながらも絵に動きがあり、羨ましく思う。僕も小学生の頃、ドラえもんの絵ばかり描いていたのだが、基本的に頭部の絵しか描かない子だった。もうその時点から、能力的なものは露呈していたということだろう。
 先日、動きのある絵の代表として、走っている絵が描けるかどうか、という話になった。ちなみに僕は描けないのである。ファイナルファンタジーのサボテンダーみたいなのしか描けない。それはつまり、「走っている人」のマネキンでしかないということだ。ところがポルガは「描けるよ」といって、スラスラと鉛筆を走らせはじめた。それで、マジかよすげえなあ、と思って眺めていたら、ドラえもんやのび太の顔がみんな正面を向いているではないか。「いや、走ってる絵を描けよ」と指摘したら、「走ってる絵だよ」と答える。どういうことかと思っていたら、紙の画面奥からこちら側に向かって走ってくる構図の絵だった。走ってる絵というお題でそのショットを描くかよ、と驚愕した。泳いでいる魚の絵が、得てして左向きに泳いでいるものであるように、走っている人の絵は、右から左に向かって走る様を描くものだと決めつけていたので、とても意外だった。振り上げている手なんか、ちょうど水平になっている袖の部分が、正円で表現されていた。なんかFっぽい、そんな部分ちゃんと見たことないけどたぶんFっぽい、と思った。

2020年1月16日木曜日

バナナ・炎・よそ者

 いつものサウナに入っていたら、ちょっと珍しく若者のグループがやってきた。高校生のようだ。いつも腹の突き出たおっさんしかいないので、その若さと細さに驚いた。
 その若者のひとりが、仲間の若者に向かって、こう問いかける。
「なあ、タピオカの次に流行るものって知ってる?」
 なになにその話、と食いついた。なんて興味をそそる導入だろうか。
 するとそれに対して、問いかけられた若者はこう答えた。
「知ってるよ。バナナジュースだろ」
 ええー! と心の中で驚きの声をあげた。いつものようにタオルを頭に被せながら、目を瞠った。
 タピオカの次はバナナジュース……、そういわれてみればたしかにありそうな絶妙のポイントだな……、しかしこの取って付けたような会話は本当だろうか……、なんか芸人のネタとかじゃないのか……、などと思念が渦巻いた。
 帰宅してからネットでバナナジュースを検索したら、なんか本当にそういうことをいっている人たちがいるようだった。若者のブームを生の声で先取りした、と思った。

 腹の突き出たおっさんたちは、場所中なので相撲の話に花を咲かせていた。田舎のおっさんどもはやっぱり外国人力士が嫌いなようで、メタメタにいっていた。稀勢の里や御嶽海にばかり声援を送り、白鵬へはブーイングをする勢いの観客ってどういう人たちなんだろうと思っていたが、なんのことはない普通のおっさんたちなのだった。
 その中で炎鵬の話題になり、「炎鵬はいいなあ」「炎鵬は小さいのによくやってる」と、おっさんたちはやっぱり小兵力士のことも好きであるらしかった。その話の際に、ひとりのおっさんが炎鵬のことを「れんほう」といってしまい、他のおっさんたちが「蓮舫はちがう」「蓮舫て」と総出でツッコむ、という一幕があった。
 そしてそのうちのひとりのツッコミがこうだった。
「炎じゃあ」
 この言い方が、さすがは岡山、リアルノブで、なんだか感動した。 

 斯様に地元密着の浴場に、もちろん顔見知りがいるはずもないので終始無言で、そしてそれなりの頻度で通っているのだが、たまに館内アナウンスが掛かり、「……近ごろ盗難事件が多発しております。貴重品の管理には十分お気を付けください……」みたいな内容が流れると、身に覚えなどないのになんだかうすら寒いものを感じる。この環境で、本当に盗難事件があったらば、僕のような存在は真っ先に疑われるのだろうな、と思う。

2020年1月6日月曜日

ねずみ・ピイガ6歳・凄王

 昨年末に「今年の仲間内10大ニュース2019」を投稿したことで、年間の恒例行事は無事にすべて完了したのだった。多い。11月下旬から年末まで、恒例行事が多すぎる。皇室かよ、と思う。ちなみに本来ならば年始に干支4コマをアップしなければならず、だとすればそれも年賀状のように、年末のうちに準備をしておかないといけないのだが、それはもちろん年が明けた現時点でもやっていない。干支のネズミのキャラクターデザインそのものが、どうしたもんだろうかなあ、という感じで何度か紙に描いてみたりしたが、まだぜんぜん定まっていない。ネズミって既存のキャラクターが多いので扱いやすいような気がしていたが、案外そうでもない。なんとなく顔が尖っているイメージがあり、そうなってくるとかわいくしづらいのだった。まあでもほら、ネズミ年は1年あるから。

 ピイガが誕生日を迎えた。1月4日。なんともいえない日付だとしみじみと思う。三が日なら三が日で、もう親戚の集いの中で誕生日を祝ってしまえばいいと思う。でもそうじゃない(3日の25時半くらいに産まれたのだ)。その一方で、正月気分が完全に取り払われたかといえば、もちろんそうでもない。正月と日常のあわいの、まだ頭が現実に追いつかないぼんやりしている頃に、そこへ向けて誕生日の祝いの準備をしなければならないのである。これが6年目になっても慣れない。もしかしたらいつまでも戸惑うのかもしれないと思う。ケーキはクリスマスに続いて、オーソドックスないちごのショートケーキ。それにしてもいちごはやけに高かった。また1月4日の悪口みたいになるのだが、スーパーのチラシを眺めていたら、1月5日はいちごの日ということで、いちごがちょっとだけ安くなっていた。まったくもって間が悪い。
 それにしてもピイガが6歳。春からは小学生。まるで嘘のようだと思う。相変わらず小さいし。しかし小さいけど声はデカく、動作も激しく、わが家でいちばん音を発していることは間違いない。ポルガは基本的に物静かで、そして周囲のことを一切気にしない人間なので、その正反対であるピイガの存在は、とても尊い。ファルマンがダダかわいがってダダ甘やかすものだから、女王気質がいよいよ増長してきているきらいはあるが、今後も健やかに全力でバカ明るく生きていってほしいと思う。

 そんなわけで、今年の冬休みが終わる。長く愉しんだ。相変わらず家族や親類とばかりいて、他者とは一切絡まなかった。でもそれでいい。
 今年の目標としては、いろいろ思うことはあるが、一言でいうならば、ぼんやり生きたくないと思っているので、そのための具体的な方策として、「すごい」ってなるべくいわずに1年を過そうと思っている。実際の発言でも、文章でも、深く考えずに「すごい」っていい過ぎではないかと、昨年末にふと思ったのだった。だからこれまで「すごい」で済ましてしまっていたところを、ちゃんと別の表現でいうようにしようと思う。結果的にそれがぼんやり生きないことに繋がるのではないかな、と目論んでいる。目の付け所がすごいよね。

2019年12月27日金曜日

クリスマス・髪・労働

 クリスマスは平穏無事に過した。
 小学3年生のポルガは、サンタクロースの存在を少し疑いはじめた様子があったものの、なんとか今年も切り抜けた。たくさん本を読んで、親も知らないような知識を仕入れている一方で、サンタクロースが寝ている間にプレゼントを枕元に置いていくという荒唐無稽な話を信じることができてしまう、子どもというのは変な生き物だとしみじみと思う。
 クリスマスディナーのあとはケーキだったのだが、今年はなにしろ12月23日が休みではないし、そして24日は火曜日という、クリスマスを祝うにはあまりにも恵まれない日程であり、ケーキ作りにまったく参画することができなかった。もっとも誰が作っても同じといえば同じで、買ってきたスポンジに生クリームと苺をやる、いつものやつである。ただし毎年クリスマスは6号の上に5号を乗せた豪華なものを作っていたが、今年は6号だけにした。なぜか。学習したからである。わが家はこれから約1ヶ月の間に娘の誕生日がふたつ控えていて、年間スケジュールで考えればあまりにもバランスの悪いケーキラッシュに見舞われるのである。クリスマスはつい浮かれ、またなにより苺のショートケーキへの渇望感が強いので、これまで特大のものを作ってきたが、ここで満足いくほどケーキを堪能してしまうと、1月22日のポルガのときにはもう飽き飽きしていたりするので、今年は自制したというわけである。賢くなったことだ。
 ところでクリスマスケーキを前にして、「えーと、ここでなにするんだっけ?」と途方に暮れてしまったのだが、本当にこのときってどんなことをすればいいのだろうか。誕生日みたいに、「ハッピーバースデー」を唄って、ロウソクの火を吹き消し、クラッカーを鳴らす、という一連の流れがなにもない。あぐねた結果、子どもたちに「「あわてんぼうのサンタクロース」でも唄いなさい」と命じ、唄わせた。そうしたら「あわてんぼうのサンタクロース」というのは、物語仕立てのわりと長い歌で、途切れるタイミングがないため子どもたちは5番までしっかり唄った。素直に唄うなあ、と感心しつつ、(クリスマスイブに「あわてんぼうのサンタクロース」ってこれはこれでちょっと間違えている気もするが、じゃあこれはいつ唄うのがふさわしいのかよく分からない歌だな)などと思った。唄っているところは、ファルマンがタブレットで撮影したように見せかけて、操作ミスで撮れていなかった。大失態だと思った。「これも思い出」と本人だけがやけにいっていた。
 それから子どもたちが寝、しばらくして我々が寝つく直前に、今年も我々にサンタクロースが憑依し、抗うことのできない強い力で、音を立てないよう繊細な動作を取らされ、子どもたちのベッドにプレゼントの袋を置かされた。毎年この自分が自分でなくなる瞬間は緊張する。

 夏の帰省のすぐあと、ファルマンに散髪とヘアカラーを頼み、しかしそのとき使用したヘアカラー剤がすごくよくなかったせいで、髪を短くしたことと相俟って頭髪がやけに頼りない感じになって、しばらく哀しみに打ちひしがれながら暮したのだが、その半月後くらいに髪を黒くしたら悲愴感が払拭され、それからは安らかな心で過すことができていた。もとい、できている。それが9月のはじめで、そしてそろそろ12月が終わろうとしているので、4ヶ月間である。4ヶ月間、僕の頭髪は手つかず状態で、ひたすら安寧の時を過している。たぶん11月に入ったあたりからファルマンには散髪を勧められているのだが、「もう俺の散髪は8月に今年の打ち上げ会したから。今年はもうないから」と言い張って、逃げ続けた。逃げ続けた結果、どうやらこのままめでたく年を越せそうだ。
 4ヶ月間伸ばし続けているとなると、もちろんだいぶ長い。結ぼうと思えば結べるほどである。しかしさすがに結んで外には出ていない。ほどほどの長さのを無理やり結んでも仕方ない。結ぶならきちんとポニーテールができるくらいの長さで結びたい。ただし12月に入ってから、横の広がりを抑えるためにヘアピンは使いはじめている。黒いヘアピンなので、誰にも指摘されたことはないけど(そもそも誰も僕のことなんか見ていない)。
 当人としては、年明け後もまだまだ切るつもりはない。ファルマンはそろそろ焦れてきていて、頻りに散髪を持ちかけるのだが、僕は全力で拒むのだった。それで先日とうとう、「ピイガの卒園式までには切ってよ……」という大譲歩の言質を引き出すことに成功した。これにより1月2月も散髪からは免れられそうだし、これから2ヶ月間も伸ばせば、本当にちゃんと長い髪の人になって、「成立」をさせてしまえて、卒園式もそれで突っ走れるのではないかと青写真を描いている。

 本日で今年の労働が納まった。今年の労働はなんだかふわっとしていた。プライベートが充実していた、といえば聞こえはいい。しかし実際、去年までは一切なかった、労働後のプールや筋トレなんてものを始めたわけで、家と職場以外にそういう場所を持つことができたのはよかったんじゃないかなあと思っている。来年以降も、職場で急に気さくな人格が発動するはずもなく、淡々と労働の日々は続くのだろうと思う。続くならばなによりだ。とりあえず今年1年の労をねぎらいたい。「労をねぎらう」って、労がふたつ続くのだけど、用法として本当に正しいのだろうか。こんなの検索すればすぐに解決する気もするが、そういうことに限って検索しないんだよな。

2019年12月18日水曜日

遊戯・P線・元年

 先日、ピイガの幼稚園の生活発表会が催され、わざわざ有休を取って見にいった。
 生活発表会とはどんなものかというと、要するにお遊戯会だ。なぜお遊戯会といわないのだろうか。やっぱりあれか、桃色遊戯を連想するからか。しかし発表会の会場のドアには、しっかりと「遊戯室」と記されていた。よく分からない。
 内容は、歌とダンスと劇で、なかなか愉しめた。なぜなら我が子が出ていたからだ。そうでなければもちろんぐだぐだできつい。来賓などといって、保護者でもなんでもない教育関係者みたいなのが紹介され、運動会のときも思ったが、子や孫の出ていないこんなものを見なければいけないのって拷問だろうと思う。僕なら絶対寝る。なぜあいつらは寝ないのか。前日17時間くらい寝てきたんじゃないのか。
 あと園長が嫌な感じだった。僕の教師嫌い、学校嫌いの要素が具現化したような人物で、見たり声を聞いたりするだけで往時の気持ちを思い出し、とてもイライラした。卒園式もこの園長のもとでなされるのが嫌だな、と心の底から思った。その園長が、今回「ワンチーム」という言葉を多用していて、そのことにもとてもうんざりした。これまでラグビーに対して好意的な印象があったから気にしていなかったけど、考えてみたらそれは僕が好きな意味の言葉であるはずがなく、園長のおかげですっかり嫌いな言葉になった。それになにより気づいてしまった。「ワンチーム」って、ただの「チーム一丸」じゃないか。

 「G線上のあなたと私」が終わった。3ヶ月、愉しませてもらった。
 連続ドラマなので当然だが、はじめ婚約破棄されて職も失って、どん底状態だった主人公の波瑠は、話が進むにつれて尻上がりにハッピーになっていき、最後は大勢の仲間に祝福されながら中川大志とくっついて終わった。それはとても幸福なエンディングではあったのだけど、この3ヶ月で別にぜんぜん友達ができたりしていない僕は、なんだか忸怩たる気持ちになった。G線上には中川大志と波瑠がいたわけだけど、P線上には僕以外だれもいないらしい。P線上を動く点Pは、行けども行けども誰もいない、山之辺の過した30億年のような果てしない時空を延々とさまよい続けるのだ。ちなみに「G線上のあなたと私」は、別に友達を作ろうという話ではなく、ラブストーリーなので、これを観て友達ができて羨ましい云々なんて感想を持つ人間は、もうどんな話も素直に愉しめないだろうと思う。

 年賀状の印刷をした。いちど危篤状態になったプリンターは、ファルマンの懸命の看病(クリーニング)によって一命を取り留め、なんとかギリギリのクオリティーで今回の年賀状までは務めを果たすことができたのだった。しかし翌年はいよいよダメだろう。
 あと文面のデザインをしていて思ったが、「令和初の年賀状」ということが、世間的にも言われるわけだが、年賀状的にはそれは「令和2年」なわけで、元号の元年の年賀状というものは絶対に存在しないのだった。今回は生前退位だったのだから、本気で狙えばやれないこともなかったはずだが、しかし元日から新元号というのはやっぱりいろいろ大変か。元年の年賀状を生み出すためだけにするにはリスクが大きすぎる。もっとも、天然で「令和元年」と書いてしまう輩は少なからずいるんだろうと予測する。