クリスマスは平穏無事に過した。
小学3年生のポルガは、サンタクロースの存在を少し疑いはじめた様子があったものの、なんとか今年も切り抜けた。たくさん本を読んで、親も知らないような知識を仕入れている一方で、サンタクロースが寝ている間にプレゼントを枕元に置いていくという荒唐無稽な話を信じることができてしまう、子どもというのは変な生き物だとしみじみと思う。
クリスマスディナーのあとはケーキだったのだが、今年はなにしろ12月23日が休みではないし、そして24日は火曜日という、クリスマスを祝うにはあまりにも恵まれない日程であり、ケーキ作りにまったく参画することができなかった。もっとも誰が作っても同じといえば同じで、買ってきたスポンジに生クリームと苺をやる、いつものやつである。ただし毎年クリスマスは6号の上に5号を乗せた豪華なものを作っていたが、今年は6号だけにした。なぜか。学習したからである。わが家はこれから約1ヶ月の間に娘の誕生日がふたつ控えていて、年間スケジュールで考えればあまりにもバランスの悪いケーキラッシュに見舞われるのである。クリスマスはつい浮かれ、またなにより苺のショートケーキへの渇望感が強いので、これまで特大のものを作ってきたが、ここで満足いくほどケーキを堪能してしまうと、1月22日のポルガのときにはもう飽き飽きしていたりするので、今年は自制したというわけである。賢くなったことだ。
ところでクリスマスケーキを前にして、「えーと、ここでなにするんだっけ?」と途方に暮れてしまったのだが、本当にこのときってどんなことをすればいいのだろうか。誕生日みたいに、「ハッピーバースデー」を唄って、ロウソクの火を吹き消し、クラッカーを鳴らす、という一連の流れがなにもない。あぐねた結果、子どもたちに「「あわてんぼうのサンタクロース」でも唄いなさい」と命じ、唄わせた。そうしたら「あわてんぼうのサンタクロース」というのは、物語仕立てのわりと長い歌で、途切れるタイミングがないため子どもたちは5番までしっかり唄った。素直に唄うなあ、と感心しつつ、(クリスマスイブに「あわてんぼうのサンタクロース」ってこれはこれでちょっと間違えている気もするが、じゃあこれはいつ唄うのがふさわしいのかよく分からない歌だな)などと思った。唄っているところは、ファルマンがタブレットで撮影したように見せかけて、操作ミスで撮れていなかった。大失態だと思った。「これも思い出」と本人だけがやけにいっていた。
それから子どもたちが寝、しばらくして我々が寝つく直前に、今年も我々にサンタクロースが憑依し、抗うことのできない強い力で、音を立てないよう繊細な動作を取らされ、子どもたちのベッドにプレゼントの袋を置かされた。毎年この自分が自分でなくなる瞬間は緊張する。
夏の帰省のすぐあと、ファルマンに散髪とヘアカラーを頼み、しかしそのとき使用したヘアカラー剤がすごくよくなかったせいで、髪を短くしたことと相俟って頭髪がやけに頼りない感じになって、しばらく哀しみに打ちひしがれながら暮したのだが、その半月後くらいに髪を黒くしたら悲愴感が払拭され、それからは安らかな心で過すことができていた。もとい、できている。それが9月のはじめで、そしてそろそろ12月が終わろうとしているので、4ヶ月間である。4ヶ月間、僕の頭髪は手つかず状態で、ひたすら安寧の時を過している。たぶん11月に入ったあたりからファルマンには散髪を勧められているのだが、「もう俺の散髪は8月に今年の打ち上げ会したから。今年はもうないから」と言い張って、逃げ続けた。逃げ続けた結果、どうやらこのままめでたく年を越せそうだ。
4ヶ月間伸ばし続けているとなると、もちろんだいぶ長い。結ぼうと思えば結べるほどである。しかしさすがに結んで外には出ていない。ほどほどの長さのを無理やり結んでも仕方ない。結ぶならきちんとポニーテールができるくらいの長さで結びたい。ただし12月に入ってから、横の広がりを抑えるためにヘアピンは使いはじめている。黒いヘアピンなので、誰にも指摘されたことはないけど(そもそも誰も僕のことなんか見ていない)。
当人としては、年明け後もまだまだ切るつもりはない。ファルマンはそろそろ焦れてきていて、頻りに散髪を持ちかけるのだが、僕は全力で拒むのだった。それで先日とうとう、「ピイガの卒園式までには切ってよ……」という大譲歩の言質を引き出すことに成功した。これにより1月2月も散髪からは免れられそうだし、これから2ヶ月間も伸ばせば、本当にちゃんと長い髪の人になって、「成立」をさせてしまえて、卒園式もそれで突っ走れるのではないかと青写真を描いている。
本日で今年の労働が納まった。今年の労働はなんだかふわっとしていた。プライベートが充実していた、といえば聞こえはいい。しかし実際、去年までは一切なかった、労働後のプールや筋トレなんてものを始めたわけで、家と職場以外にそういう場所を持つことができたのはよかったんじゃないかなあと思っている。来年以降も、職場で急に気さくな人格が発動するはずもなく、淡々と労働の日々は続くのだろうと思う。続くならばなによりだ。とりあえず今年1年の労をねぎらいたい。「労をねぎらう」って、労がふたつ続くのだけど、用法として本当に正しいのだろうか。こんなの検索すればすぐに解決する気もするが、そういうことに限って検索しないんだよな。