2024年2月29日木曜日

褒美・ステルス・石ころ

 ポルガが学年末試験を終える。
 試験のたびに、「勉強しなさい」「嫌だ」「成績が悪かったら塾に行かすよ」「じゃあ逆にいい点数だったらご褒美ね」というやりとりがあり、結果としてポルガはこれまで順調に塾をすり抜け、褒美をゲットし、そして真摯に勉強をしないのにわりといい点数を取って帰ってくる娘に、ファルマンは自分の悲惨な思い出と照らし合わせて膝から崩れ落ちるという、そこまでが一連の流れとなっている。
 褒美は、これまではゲームのソフトや漫画だったのが、今回のポルガのリクエストは、スマホの1日の使用制限時間の拡大と、さらにはTikTokアプリのダウンロードの許可で、なんかあれだな、フェーズが変わったんだな、ということをしみじみと思った。そのことに一抹の寂しさを感じつつも、ご褒美に一切費用が掛からなくて助かるなあ、とも思った。
 TikTokは、どんなものかファルマンが試しにダウンロードして覗いてみたところ、1分くらいで「これはあかん」となり、かなりの高得点でなければ実現しない設定とした。僕自身はTikTokはまだ見たことがないけれど、ひとつだけ分かることは、もしも今回かなりの高得点を取ってTikTokを無事にゲットしたら、それ以降はもう高得点を取ることは絶対になくなるに違いない、ということだ。そのくらいの、バカまっしぐら装置だと認識している。YouTubeもその装置の機能としては大概だが、TikTokはそれをさらに加速させたものであろうと。
 それで試験の結果はどうだったかと言うと、どうも、塾に行かせなければならないほど悪くもなかったが、ろくに勉強しなくてもぜんぜん高得点という、これまでの流れには、ちょっと翳りが見え始めたのかな、という感じで、少々の使用時間の拡大はやぶさかではないけれど、TikTokは不許可という、そのあたりに落ち着きそうな案配だ。いい落しどころだな。

 昔とてもおいしく食べていたお菓子が、そこまでおいしいと思えなくなった、という現象があって、舌が肥えたというよりも、年を取ったことで、強い味のものを受け付けられなくなったんだなあ、などと感じたりしていたのだけど、先日ふと思ったこととして、量や大きさがダウンするステルス値上げという言葉があるけれど、それら物理的な要素のほかに、使用している材料の品質がステルスでダウンしている可能性だって大いに考えられるわけで、かつてはバターを使っていたのがマーガリンになったりとかして、本当においしくなくなっている場合も往々にしてあるのではないだろうか。そのように考えると自分の生きる力的には安心感が得られるのだけど、この世やこの社会という視点で考えると、ちょっと暗澹たる気持ちになる。安寧は得難い。

 ゆめタウン出雲で今週の日曜日、ドラえもんショーが行なわれるという情報が入ってきて、そのショーのタイトルが「石ころぼうしでひとりぼっち?」だったので、見出しをパッと見た瞬間に、ドラえもんの石ころ帽子をモチーフにした体験イベントが開催されるものと勘違いをしてしまい、夢を見てしまった。
 よくある「ドラえもんの道具でひとつ手に入るとしたら?」の問いに、「どこでもドア」や「もしもボックス」などと答えるのは浅はかだ。当たり前すぎて話が盛り上がらない。僕のその答えは断然「石ころ帽子」だ。石ころ帽子のなにがいいかって、もう20年にわたってこのブログで何度も言っているけれど、ただ相手に自分の姿が見えなくなるわけではなく、見えているけど石ころのように気にならなくなる、という点だ。ここが絶妙なのだ。
 だから石ころ帽子のイベントと聞いて(勘違いして)、ローションフェスであるとか、ヌーディストビーチであるとか、それこそ乱交パーティーとか、なんかそういう類のものかと思ってしまった。参加者がそれぞれ石ころ帽子を被り、その場にいる自分以外の人を、同時に気にならなくなって(というていで)、思いのままに振る舞うという、なんかそういう淫猥な匂いのするイベントかと。そんなものを開催するなんて、ゆめタウン猛ってるな、ランサムウエアに感染していろいろ大変そうなのに強気だな、などと思った。
 もちろんそれは大いなる誤解で、実際は冒頭に書いたと通りの、たぶん着ぐるみが出てくるショーで、のび太がピンチに陥るけど結局は一件落着するんだろう(身も蓋もない解釈)。着ぐるみのショーは、もうわが家の子どもたちは対象年齢ではなくなってしまった。たぶん観に行くことはない。もしも観に行ったとしたら、観客席でやけに感慨深い顔でショーを眺めている男性、それが僕です。気にしないでください。

 

2024年2月23日金曜日

さなえ・大谷棒・成熟

 怖い話をする。
 昨晩未明、僕は寝言で突然こう言ったという。
「さなえちゃん、さむかったろう、まだまだ……」
 ファルマンによると、僕はそれを好々爺のように言ったのだという。わりと大きな、ともすれば普段の僕の話し声よりも大きな声だったという。そしてそのあとは黙ったという。ファルマンは慌てて暗闇の中でスマホのメモを起動し、この文面を記したそうだ。
 ちなみに僕の身の周りに「さなえ」という女性はいない。
 僕はわりと、現実とは乖離した、現実で知っている人がひとりも出てこない、知らない人しか出てこない夢を見たりするけれど、それでも思い出す限り、僕は常に僕だ。さなえちゃんの寒さに思いを寄せる老爺になったりすることはない。怖い。
 もしかすると、寝ている間の、使われていない体や脳の部分を、この世界のこの時代とはまるで違う存在に、勝手にレンタルされているのかもしれない。あるいは何十年後かに、孫や曾孫で「さなえ」が誕生したら、これもまた趣の異なる怖さだと思う。

 大谷翔平が初めてのドジャースのキャンプということで、注目度が高く、ニュースでよくやっている。今シーズンは打者に専念するわけだが、先日は実戦形式で、バッターボックスに入っていた。昨シーズンのホームラン王ということもあり、報道陣のほかに見物客もたくさん詰めかけ、大谷の姿を見つめていた。
 その第1打席がすごかった。
 大谷、いちどもバットを振らなかったのである。球筋などを確認するため、はじめからそのつもりだったのだろう。
 しかし大勢のドジャースファンが見守っていたのである。10年7億ドル、日本円にして1000億円を超えるという契約をした大谷がどれほどのものか、見定めてやろうと取り囲んでいたのである。そんな中で、バットを振りもしない、という精神力。もはやサイコパスではないかと思った。
 僕なら、「第1打席は見るだけにしよう」と思っていても、大勢のファンが「どうなの、こいつ実際どうなの、やれんの」という感じで見に来ていたら、「いいとこ見せなきゃヤバいかな、顰蹙を買うかな」と思って、すごく半端なスイングをしてしまうと思う。そしてフォームを崩し、1シーズンを棒に振ると思う。その点、大谷はバットを振らない。バットを振らないから、シーズンを棒に振らない。すごい。サイコパスだ。
 大谷のエピソードを目の当たりにするたびに、僕が大谷に勝っているのはちんこの大きさくらいのものだな、と思う。ちんこの大きさ以外は、すべてで負けている気がする。

 ドラクエ11をやっているのだが、十代の頃のプレイと大きく変わったなと思うこととして、最強の装備を揃え、最強の仲間を集め、最強の強さになろう、という気持ちはぜんぜんないのだった。十代の頃は、レベルを99にして、メタルキングの装備一式を身に着け、5や6だったら仲間にできるすべてのモンスターを仲間に、みたいな執念があった。
 今は、あるもの、手の届くもので、やらなければならないことがこなせればそれでいい、というスタンスである。世界のどこかには、もっといい装備品があるかもしれない。たぶんあるだろう。でも別にそれを手に入れなくてもボスは倒せるので、なくてもいい。
 この考え方の変化は、もちろん僕が大人になったというのもあるけれど、ゲーム自体もそういう傾向があって、スキルポイントの割り振りというのがあり、そのキャラクターの装備できる、剣だったり、槍だったり、杖だったりの、どのスキルを伸ばしていくか、というのが選べるようになっている。レベルを上げたら、あらかじめ定められた数値でそのキャラクターの能力が上昇していくという一本道ではなくて、育成の要素があるのだ。だから、槍を伸ばすことにしてそっちにポイントを全振りしたら、剣はそこまで得意ではないキャラクターになる。昔だったらなんとなくそれは据わりが悪く思ったかもしれない。欠損だと感じたかもしれない。今はそんなことない。これはとてもいいことだと思う。なんでもかんでも手に入るわけではない。そういうものだ。それでいいのだ。

2024年2月15日木曜日

ジョグ・休肝・ドラクエ

 「おこめとおふろ」にも書いたが、いつものプールが閉鎖していて、地方民なのでそのプールが閉鎖するとそれはもうほぼプール難民ということになり、哀しみに喘いでいる。しかしなにぶん性根が前向きなので、打開策としてジョギングをぽつぽつとやっている。偉い。本当に偉いと思う。俺だけの国があれば、俺は俺に国民栄誉賞をあげたい。
 ジョギングは、プールほどはおもしろくないけれど、非日常感もそれなりに得られ、多少の気分転換になる気がする。そのついでに脂肪が燃焼されるのなら万々歳だ。
 夜に、車が来ないからという理由で近所の土手を走ったりすると、遠くに街の灯はあるものの、道や足元は本当に真っ暗で、平衡感覚が失われるほどだ。土手なので、片側は川べり、片側は道路となっており、転がろうものなら危険だし、もしも倒れたら朝まで発見されないな、などと思いながら走っている。
 空を見上げれば、冬の星がすごい。なにがすごいって、数がすごい。
 そんな星空を眺めて思ったのだが、にわかに変なことを言うようだけど、星の配置って、なんとなく線で繋いで、形を想像で補ったりすると、なんかしらの生き物や物品のように見えてきて、それらが星空を舞台に、呼応するように巡っているのだと思うと、ストーリー性さえ帯びてくるような気がする。あまりに荒唐無稽というか、無茶があるので、こんなことを考えるのなんて、過去現在未来併せても僕くらいのものだと思うけども。

 いつまで続くか知らんが、酒を飲むのは次の日が休みの晩だけにしようじゃないか、と思い立ち、実行している。いつからか。昨日からだ。昨日から始めた禁酒を、さも最近の暮しの報告です、みたいな面をして述べてみた次第である。
 酒を飲むことは、肝臓に悪いのはもちろん、なんかしら食べることになるので太るし、寝る前の飲酒はトイレが近くなるし、もちろん酒代も掛かる。冷静に考えるとメリットはデメリットに較べてとても少ないのだ。定期的にこの事実を噛み締めて、禁酒を誓う。それだのにいつの間にかこの誓いは破られるのだから不思議だ。頭おかしいんじゃないか。
 寝る前2時間くらいは食べないほうがいいとか、22時以降は食べないほうがいいとか、そういうことが言われるけれど、晩ごはんを食べたあと、寝るまでの数時間、なにも摂取せずに寝るのって、ちょっと寂しすぎると思う。これまではその思いから晩酌をしていたわけだが、禁酒ということになると、酒の代わりになにか別のものを用意しなければならず、これがけっこう難しい。コーヒーなどのカフェインを摂るわけにはいかないし、ホットミルクというのも大げさだ。じゃあぐい呑みに日本酒を一杯だけ、というのがいちばん簡単な話なのだが、しかし酒がぐい呑み一杯で終わるはずもなく、たぶんそこらへんから禁酒の誓いはいつも綻ぶのだ。
 昨日はどうしたかと言えば、沸かしたばかりの熱い麦茶を飲み、手作りのクッキーを2枚ほど食んだ。健康的だな、とも思うと同時に、それで人生の歓びは得られているのか、という自問も浮かんだ。時間の問題だな。

 ドラクエ11を買う。ポルガがお年玉で買う。それでポルガと同時進行で、僕も冒険の書を作り、プレイしている。実はポルガに買わせたのも、だいぶ僕が焚きつけたところがある。せこい父親だな。もっともドラクエというものは、人生の素養のひとつとして、ひとつくらい摘んでおいても損はないと思う。古い考えかもしれない。
 ドラクエは、たしかDSの9はしたのだったと思う。そしてオンラインの10には触れず、2作ぶりにこうしてまた巡り合った。やり始めてすぐは、ドラクエはもとよりRPGというものが久しぶりだったためか、いまいち気持ちが盛り上がらず、危機感を抱いたが、しばらくやっているうちに、乾燥していた土地に水が染み渡るように、きちんと愉しくなった。
 画面は、はじめにポルガが3Dでやるのを眺めていたら酔ったので、自分は2Dで進めていたのだが、せっかくの美麗なグラフィックを拒否し、ファイナルファンタジー6やドラクエ6あたりの感じのドット絵でプレイしているのが、なんだかすごく偏屈な行為であるように感じられ、途中から3Dに変更した。慣れたらぜんぜん大丈夫だった。これは経験則だ。「初見で拒否感があっても、だんだん慣れて大丈夫になる」のだ。これまでの半生で、さまざまな変遷に対峙し、そんなことは何度も何度も繰り返し学習しているはずなのに、なおも初見での拒否感に付き従ってしまう。年を取ると余計にその傾向が加速している気さえする。不思議だ。「初見で拒否感があっても、だんだん慣れて大丈夫になるんじゃよ……」と若者に諭せるようになれればいいのに、実態はその逆である。人は哀しいな。
 プレイしていると、子どもの頃のドラクエの愉しかった思い出がよみがえってきて、なるほど僕は過ぎ去りし時を求めて、ドラクエ11をしているのかもしれないと思う。

2024年2月8日木曜日

いよいよ・保守・ヘアケア

 年末の買い出しでちょっと浮かれた気持ちになって、20代半ば以来の白ワインを買って飲んだら、意外と美味しく飲めてしまって、そうだよな、白ワインはわりと美味しいんだよな、とは言え赤はさすがに無理だな、あのエグみはどうしたって無理だな、などと思っていたのだが、白ワインを2本ほど飲んだあと、次のものを買うためにお店のワインコーナーに行ったところ、気づけば白ワインと一緒に赤ワインもかごの中に入っていた(無意識状態で酒を買ったなどと言うと不穏な感じがある)。ただし不信感があったので、白ワインに較べてとても小さボトルである。もしもダメだったらハンバーグを焼くときとかに使えばいい、と思った。しかし飲んでみたところ、これがぜんぜんいけるのだ。あっさりした白ワインとはまた別の、こっくりとした味わいがあって、美味しい。ワインを飲もうと思ったのは、ひたすらビールと日本酒と缶チューハイしか飲まない、自分のアルコールのバリエーションの少なさに飽きが来ていたという理由もあり、白と赤、立て続けにふたつも選択肢が増えたのは喜ばしかった。
 それにしても、かつてエグくて受け付けなかったものが、いまは受け入れられるようになった、ということで確信したのだけど、年を取るとさまざまな意味で、あらゆる感覚が鈍感になるのだと思う。「これの良さが分からないなんて、まだまだだな」なんてことを年配者が言ったりするけれど、そんなはずないのだ。むしろ「それが受け入れられるだなんて、いよいよですね」だと思う。そう思いながら、赤ワインを飲んでいる。

 子どもが、主にピイガが、「ちびまる子ちゃん」にハマる。漫画を読み、アニメを観ている。ピイガは最近になって児童書から漫画へとステップアップし、「ちびまる子ちゃん」の前は「ドラえもん」をがっつり読んでいた。それはまっとうな流れのような気もするが、30年前の、自分やファルマンもまったく同じ筋道であったことを思うと、驚嘆すべき事実のような気もする。なんで子どもが居間のこたつで寝そべって読む漫画が、30年前から変わっていないんだ、と。それともウチが特殊なのだろうか。たしかにポルガの岡山時代の友達は、好きな漫画が、「鬼滅の刃」から「呪術廻戦」になり、「東京リベンジャーズ」、「スパイファミリー」と来て、いまは「葬送のフリーレン」だそうなので、その可能性も十分ある。もしかしたらわが家は、漫画アーミッシュなのかもしれない。

 先日髪を切ったわけだが、仕上がったさまを眺めてファルマンが、「あなたって眉毛を整えないよね、なんで?」と訊ねてくる。僕はわりと眉毛が太く、濃い。わりと整えがいのある眉毛だと思う。でも人生でいちどもいじったことがない。なぜかという問いの答えは、「眉毛を整えるのはヤンキーか野球部かビジュアル系だから」ということになる。ひとつ目とふたつ目は、ベン図で言うとだいぶ重なっていて、世代は違うけれど中田翔なんかは、まさにその例であると思う。そして彼らは必ず金色の鎖みたいなネックレスをする。眉毛を整える男というのは、そういう輩だという、時代によるすり込みがあるので、決して自分がする行為ではないと捉えているのだった。そう説明したところ、「でも陰毛は整えるよね」と言われたので、それはまたぜんぜん別の話だ、と思った。陰毛の生やし方、残し方については、一家言ある。こと陰毛に関しては、ビジュアル系に属するとも言える。

2024年2月1日木曜日

髪を切らない1月・でしたが妻・髪を切った2月

 ぼちぼち髪を切ると思う。
 Googleのフォトの機能で、同じ日付のあたりの過去の写真というのが、勝手に「思い出ですよ」という感じで表示されるのだけど、そこに写っていた1年前の自分は、いまの僕とまったく同じ髪型をしていた。すなわち、半年以上髪を伸ばして、やっと結べるようになって、喜んで結んでいる、そんな状態である。
 しかし日々鏡を見て薄々感じ、そして1年前の自分の写真を客観的に見て確信に変わったこととして、なんかこの長髪、自分が期待しているものにぜんぜんなっていない。
 なにを期待しているのかと問われると、「こうだ」という具体的な答えがあるわけではないのだけど、漠然と求めている「すてきな感じ」から、だいぶ離れているのは間違いない。金髪で長髪ということもあり、正月に映像通話をした横浜の実家の面々からは、「プロレスラーみたいだね」という遠慮のない言葉を投げられた。おととしだったか、長髪だったところへブリーチをしたら、高山善廣のようになってしまい慌てて散髪したという出来事があったが、今回は金髪が先だったためか、自分としてはそんな印象はなかった。自分的には、「ガラスの仮面」でヘレン・ケラー役のオーディションに参加していた演技派の少女、もちろん名前など憶えていないので検索したのだが、金谷英美という、あの子を彷彿とさせるな、と鏡を見て思ったことは何度かあった。ちなみに高山善廣にしろ金谷英美にしろ、やけにがっしりタイプの印象だが、もちろん僕自身はそういうタイプではない。そしてどちらにせよ、思い描いている理想とは乖離している。
 去年は2月の下旬に切っていた。その記事の中に、体の中にあったものが、外に出した途端に汚物になる、そんな感じに長い髪の毛が疎ましくなった、という記述がある。さすがは自分だ。大いに共感する。そして今年はそれが少し早まりそうな情勢である。

 それまでの38年あまりに渡る蒙が啓かれた、パンツを脱いで寝る健康法の本を、再び図書館で借りて読んでいる。パンツを脱いで寝る健康法は、ビギナー向けも上級者向けもなく、本当にもうそのタイトル通りの内容しかないのだが、じゃあ本1冊にどんなことが書いてあるのかと言えば、パンツを脱いで寝るようになった結果、自分の身にどんないいことがあったかという、実践者たちのレポートである。そればかりがずっと続くのである。しかしその文章が、活気に満ちているというか、みずみずしくて、読んでいてとても心地よい。これが宗教とかの、うちの神様を崇めればどんなにいいことがあるか、という内容であったら、その心地よさには胡散臭さ、すなわち商売っ気が横溢することだろう。しかしこの健康法はそうではない。セミナーがあったり、器具を売ったりするわけではない。読者が信じようが信じまいが、彼等にはなんの損得もないのだ。それなのにこんなにも必死に良さを伝えようとするのだから、そこには真の慈愛と誠実さがある。ような気がする。
 入信した僕は、全裸で布団に入り、夜な夜なこの本を読んでいる(感心な信者だ)。そして隣の布団のファルマンに、内容を伝えている。そのファルマンはもちろん寝間着を着ているし、僕が全裸で寝ることもいまだに不服そうだ。だから僕が喋った内容を、片っ端から否定してくるのだけど、この妻はいったいいつまでこの無駄な抵抗を続けるのだろう、と思う。続ければ続けるほど、伏線というか、前フリというか、『……と、はじめは否定していた妻でしたが、今ではすっかり私以上に……』という、自分がいつか書くであろう、パンツを脱いで寝る健康法のレポートの文面が思い浮かぶ。

 髪を切った。ファルマンに切ってもらった。
 ひとつ目の文を書いたのが昨日1月31日で、そして今日2月1日に切ってもらったので、今回の記事は地味に月を跨いで紡がれているのだった。
 髪はいつもの、切りたいとなったら途端に、長いのがひたすらウザったくなるという例のやつで、平日ながらお願いしてやってもらった。おかげでとてもすっきりした。
 ファルマンはもちろんだいぶ前から「切れ、切らせろ」ということを何度も言ってきていたのだが、拒み続けていた。いま切ってしまったら、去年とぜんぜん変わらないことになる。せっかく1年後にこうしてまた伸ばしたのだから、去年以上のさらなる地平に進むべきではないかと、そんなふうに思っていた。切るほうに振れた今となっては、髪を伸ばす地平ってなんだよ、と思う。
 ファルマンが髪を切るよう促す言い回しの中に、「どうせ切るんだから」というのがあって、これには少し考えさせられた。そうだな、やっぱり切ろうかな、と心が揺れたわけではない。髪はどうせいつかは切る。それはそうなのだけど、その理由で髪を切っていては、じゃあ「どうせ死ぬんだから」も言えてしまうことになり、生きる意義を見失ってしまうのではないかと思ったのだった。髪を伸ばそうと思って伸ばしている間は、そんなことさえ思う。思っていたのに、あるとき急に「切ろ!」となる。我ながら不思議だ。