今年のクリスマスも無事に終わる。無事とはなにかと言えば、サンタが寝ている間に枕元にプレゼントを置く、のくだりのことである。
ピイガに関してはいつも通り9時半に寝たのでなんの問題もなかったのだが(ピイガは僕に似て寝つきがいいのである)、厄介なのは中学生である姉のほうである。元来ファルマンに似て寝つきが悪いのに加え、「クリスマスだから徹夜しよ」などとホザき、ぜんぜん寝ようとしなかった。本人が寝ないのは最悪しょうがない(プレゼントが届かないだけの話だ)が、なにぶんポルガが起きている以上、ピイガの部屋にプレゼントを持っていくこともできないので、実に迷惑だった。
結局、翌日は月曜日で出勤なので僕は寝て、ファルマンが零時過ぎにピイガのもとへプレゼントをフォッフォッフォした。そしてポルガへのプレゼントは、僕が朝にフォッフォッフォすることになった。
そういう段取りになっていたのだが、意志の力か、あるいはサンタ力(りょく)とでも言うのか、3時40分くらいにふと目が覚めたので、朝よりもいい頃合だろうと考え、そのタイミングで持っていった。ドアをそーっと押しながら、もうこれで目を開けているポルガと目が合ったら堂々と開き直ろう、荒井注ばりに「なんだバカ野郎」と言おう、と思った。幸いさすがに寝ていたので、そっとベッドの隅に物品をフォッフォッフォし、自室に戻った。
そして朝になり、出勤の準備をしていると、ピイガがプレゼントを抱えて起きてきた。プレゼントの中身は、アタッシュケースのような二つ折りのケースにぎっしり並んだ工具セット(おもちゃではなく実用的なもの)と、材木と、かんなであった。クリスマスプレゼントが工具だなんて、伊坂幸太郎の小説の、親に監禁されている子どもへのプレゼントのようだが、もちろん監禁していない。ものづくりが好きな本人の希望である。
ポルガは朝は起きず(完全にファルマンと同じ体質なのである)、帰宅後に顔を合わせた。ポルガへのプレゼントは、クーピーの30色入りと、カラーペンの60色セット。こちらも本人の希望である。「サンタが来る時間が分かった。1時から3時50分の間だ。1時にはまだプレゼントがなくて、3時50分に起きたときにはあった」と言っていて、3時50分のそれは、おそらく僕の動きによって、少し遅れて目を覚ましたに違いなかった。危ないところだったと言うか、なんかもう、とことんめんどくせえな! と思った。
まあ今年はそんなクリスマスでした。
脇腹を痛めていた。もう1週間から10日くらい前のことで、もうさすがにだいぶ良くなったが、いまも違和感は残っている。寒さも影響したものか、やけに長引いた。
痛めた原因はと言えば、筋膜ローラーである。あの、円柱形の、表面がごつごつした、トレーニング、ではないか、ストレッチ器具というのかな。あれである。ずっと前、筋トレに関する記事とかをネットで熱心に読んでいた頃、効率よく筋肉をつけたいなら絶対にこれが必要! みたいな文言を目にして、すかさず買ったのだった。
しかし手に入れた当初から、使ってもあまりピンと来ず、いつしか押入れの奥に眠るようになっていたのを、先日ふと魔が差して、やっぱりこれってやったほうがいいんじゃないか、これをやっていないから俺の腹筋は割れないんじゃないかと思ってしまい、だいぶ久しぶりに使ったのである。
床の上に置いた筋膜ローラーの上に覆い被さり、腹で押し付けながら回転させ、しばらくぐりぐり動いた。その最中にポルガが部屋を訪ねてきて、ノーコメントだったけれど、トレーニングパンツ一丁だったこともあり、なんかいま俺、娘に床オナを目撃された父親のようだな、ということを思った。
痛めたのはその直後で、腹斜筋のことを思ってわき腹へも当てていた際に、左わき腹がグギッとなった。なってすぐはそうでもなかったが、翌日、翌々日と痛みが強まって、往生した。打ち身のような、捻挫のような、そういう痛みだった。
おかげでこの1週間から10日はろくに筋トレもできず、筋膜ローラーで効率のいい筋力アップを目論んだはずが、完全に逆効果となった。実に教訓的な話で、今すぐには浮かばないけれど、一言で言い表せられることわざがいくつもありそうだ。
筋膜ローラーはもう捨てようと思う。
飛行機について調べることにした。
当面乗る予定はないのだけど、いま自分の中で飛行機に乗るという選択肢が完全になくなってしまっていて、それはよくない気がするので、なるべくなら克服したいと考えた。そのために、飛行機が空を飛ぶ仕組みをきちんと理屈として知ろうと思ったのだった。
というわけで本を読んでいる。目的意識がある読書は愉しい。こういうの、ちょっと久しぶりで嬉しい。じっくり読み込んでいくつもりだ。
本には、「とても重いジェットエンジンを何基も吊り下げて、どうして飛行機の主翼が折れてしまわないのか、不思議ですよね」という記述があり、もちろんそのあと「それは――」と、大丈夫である理由の説明が続くのだが、それはこれまで自分が気にもしていなかった、言われてみればたしかに不安だという要素だったので、案外この本を読むという行為は藪蛇かもしれないとも思いはじめている。涙ぐましい。