2023年12月26日火曜日

クリスマス顛末・わき腹・飛行機

 今年のクリスマスも無事に終わる。無事とはなにかと言えば、サンタが寝ている間に枕元にプレゼントを置く、のくだりのことである。
 ピイガに関してはいつも通り9時半に寝たのでなんの問題もなかったのだが(ピイガは僕に似て寝つきがいいのである)、厄介なのは中学生である姉のほうである。元来ファルマンに似て寝つきが悪いのに加え、「クリスマスだから徹夜しよ」などとホザき、ぜんぜん寝ようとしなかった。本人が寝ないのは最悪しょうがない(プレゼントが届かないだけの話だ)が、なにぶんポルガが起きている以上、ピイガの部屋にプレゼントを持っていくこともできないので、実に迷惑だった。
 結局、翌日は月曜日で出勤なので僕は寝て、ファルマンが零時過ぎにピイガのもとへプレゼントをフォッフォッフォした。そしてポルガへのプレゼントは、僕が朝にフォッフォッフォすることになった。
 そういう段取りになっていたのだが、意志の力か、あるいはサンタ力(りょく)とでも言うのか、3時40分くらいにふと目が覚めたので、朝よりもいい頃合だろうと考え、そのタイミングで持っていった。ドアをそーっと押しながら、もうこれで目を開けているポルガと目が合ったら堂々と開き直ろう、荒井注ばりに「なんだバカ野郎」と言おう、と思った。幸いさすがに寝ていたので、そっとベッドの隅に物品をフォッフォッフォし、自室に戻った。
 そして朝になり、出勤の準備をしていると、ピイガがプレゼントを抱えて起きてきた。プレゼントの中身は、アタッシュケースのような二つ折りのケースにぎっしり並んだ工具セット(おもちゃではなく実用的なもの)と、材木と、かんなであった。クリスマスプレゼントが工具だなんて、伊坂幸太郎の小説の、親に監禁されている子どもへのプレゼントのようだが、もちろん監禁していない。ものづくりが好きな本人の希望である。
 ポルガは朝は起きず(完全にファルマンと同じ体質なのである)、帰宅後に顔を合わせた。ポルガへのプレゼントは、クーピーの30色入りと、カラーペンの60色セット。こちらも本人の希望である。「サンタが来る時間が分かった。1時から3時50分の間だ。1時にはまだプレゼントがなくて、3時50分に起きたときにはあった」と言っていて、3時50分のそれは、おそらく僕の動きによって、少し遅れて目を覚ましたに違いなかった。危ないところだったと言うか、なんかもう、とことんめんどくせえな! と思った。
 まあ今年はそんなクリスマスでした。

 脇腹を痛めていた。もう1週間から10日くらい前のことで、もうさすがにだいぶ良くなったが、いまも違和感は残っている。寒さも影響したものか、やけに長引いた。
 痛めた原因はと言えば、筋膜ローラーである。あの、円柱形の、表面がごつごつした、トレーニング、ではないか、ストレッチ器具というのかな。あれである。ずっと前、筋トレに関する記事とかをネットで熱心に読んでいた頃、効率よく筋肉をつけたいなら絶対にこれが必要! みたいな文言を目にして、すかさず買ったのだった。
 しかし手に入れた当初から、使ってもあまりピンと来ず、いつしか押入れの奥に眠るようになっていたのを、先日ふと魔が差して、やっぱりこれってやったほうがいいんじゃないか、これをやっていないから俺の腹筋は割れないんじゃないかと思ってしまい、だいぶ久しぶりに使ったのである。
 床の上に置いた筋膜ローラーの上に覆い被さり、腹で押し付けながら回転させ、しばらくぐりぐり動いた。その最中にポルガが部屋を訪ねてきて、ノーコメントだったけれど、トレーニングパンツ一丁だったこともあり、なんかいま俺、娘に床オナを目撃された父親のようだな、ということを思った。
 痛めたのはその直後で、腹斜筋のことを思ってわき腹へも当てていた際に、左わき腹がグギッとなった。なってすぐはそうでもなかったが、翌日、翌々日と痛みが強まって、往生した。打ち身のような、捻挫のような、そういう痛みだった。
 おかげでこの1週間から10日はろくに筋トレもできず、筋膜ローラーで効率のいい筋力アップを目論んだはずが、完全に逆効果となった。実に教訓的な話で、今すぐには浮かばないけれど、一言で言い表せられることわざがいくつもありそうだ。
 筋膜ローラーはもう捨てようと思う。

 飛行機について調べることにした。
 当面乗る予定はないのだけど、いま自分の中で飛行機に乗るという選択肢が完全になくなってしまっていて、それはよくない気がするので、なるべくなら克服したいと考えた。そのために、飛行機が空を飛ぶ仕組みをきちんと理屈として知ろうと思ったのだった。
 というわけで本を読んでいる。目的意識がある読書は愉しい。こういうの、ちょっと久しぶりで嬉しい。じっくり読み込んでいくつもりだ。
 本には、「とても重いジェットエンジンを何基も吊り下げて、どうして飛行機の主翼が折れてしまわないのか、不思議ですよね」という記述があり、もちろんそのあと「それは――」と、大丈夫である理由の説明が続くのだが、それはこれまで自分が気にもしていなかった、言われてみればたしかに不安だという要素だったので、案外この本を読むという行為は藪蛇かもしれないとも思いはじめている。涙ぐましい。

2023年12月19日火曜日

飲み物・ごん・重布

 職場で、立場が上の人から飲み物をもらうときってあるだろう。差し入れというか、自分の買う分のついでというか、なんかそんな感じで。
 先日もそういう場面があったのだけど、くれたのがペットボトルのホットのカフェオレで、見るからにだだ甘そうだったので、その場では「ありがとうございます」と礼だけ言って、あとで別の同僚にそのまま渡した。渡してから思い出したが、この同僚には前にも、同じようにして手に入れたコーラを渡したことがあった。もしかするとこの同僚の中で、僕はとても神経質な、意識の高い、添加物とかそういうものを忌避する、ちょっと厄介な人間のように思われているかもしれない。ただ甘い飲み物が嫌いというだけなのに。
 少し前に、うちの子どもはほぼ麦茶と牛乳でしか水分を摂ってない、と気付いて驚いたことがあったが、実は僕も世間一般に較べると、そこまで多彩というわけではなさそうだ。
 そう言えば飲み物をおごってくれる人と、自販機の前で出くわした際、欲しいものを選ばせてくれるパターンというのが前にあった。そのとき僕は、少し悩んだ末に、ミネラルウォーターを所望したのだった。一日に必要な分の水分は、家から持ってきた水筒の麦茶で足るので、いざというときのための備蓄として、ミネラルウォーターならば鞄の中に忍ばせておくのもいい、と考えたのである。「えっ」とその人は少し驚きの声を発した。意味が分からなかったのだろう。たしかに意味が分からない。合理的に考えてその選択をしたわけだが、たぶんあの場面はそういうことではなかった。

 ピイガの学校のテストの答案を見る。いい点数だったので、褒められようと思い見せつけてきたらしい。なるほど概ねいい点数だった。
 国語は往年の「ごんぎつね」であった。教科書の内容は時代で当然いろいろ変化しているが、たまにこうして不動のものがあるのも愉しい。ぼんやりした子どもだったので、当時の自分が「ごんぎつね」に触れてどういうことを思ったのかはまったく覚えていないけれど。
 ラストシーンからの出題で、ごんを鉄砲で撃ったあと、栗などを届けてくれていたのがごんであったことに気付いた兵十は、どんな気持ちだったか書きなさい、というのがあった。定番中の定番とも言える問題。要するにあの名フレーズ、「ごん、お前だったのか」が、どのようなテンションで唱えられたか、という問いかけである。
 ピイガの回答はこうだった。
「マジか。」
 そして〇だった。〇なんだ。マジか。

 年末年始の休みで縫い物をしたりしたいよね、それにあたって布がないから買わないとね、ということでネットで吟味の末に布を買ったのだが、届いた荷物を受け取ると、その重たさに驚愕した。間違えて鉄アレイでも買ったんか、というくらいに重かった。開けてみると、重たいのは複数買った布のうちの1点で、安いわりにそれなりの厚みがありそうで、柄も悪くないから掘り出し物かもな、と思って、ずいぶんな長さ、白状すると7メートル分も注文したものであった。それが人生で接した布史上いちばん重い布と言ってもいいくらい重たいものだったので、総重量としてとんでもないことになったのだった。
 7メートルというのは、コートでも作ろうかと思っての長さだったのだが、この布でコートを作ったら、もはやちょっとドラゴンボールの世界観であろう。でもそれじゃあ、コートで大量消費することを目論んで買った7メートルの布を、いったいどう処理すればいいのだろうか。目下、なにも案が浮かばない。ファルマンの目線も痛く、非常に困っている。

2023年12月9日土曜日

健康診断・目頭・ボクサー

 職場の健康診断を受ける。
 去年は意気込んで、半月くらいほとんどアルコールを摂取せずに検診に臨み、まんまといい数字をゲットしたが、今年はその期間が3日ほどと短かったので、ガンマ的な部分に不安がある。でも特別な断酒をしてその数値を良くしたところでなんだよ、という達観に至ったので、もう結果に振り回されないことにした。と、まるで精神的に成長したかのような口ぶりで言ってみたが、要するに長く禁酒できなかっただけの話である。
 結果に振り回されないと言えば、去年おととしと、なぜか165センチ台という屈辱的な数字を叩き出していた身長は、今年166.1だった。とてもめでたい。165.7と166.1という4ミリでそんなに違うか、という話だが、まあ違うのだ。166センチ台の人間は、165センチ台の人間をどんなに悪しざまに言ってもいいという権利が発生する。だからめでたい。それは同時に167センチ以上の人間からの侮蔑を受け入れることを意味するが、身長というのはそういうものだと思う。上には上がいて、下には下がいて、だから誰も決してしあわせになれない世界。それが身長世界というものだ。なんて嫌な世界だろう。
 ところで同僚のおじさんが、「私は毎年、測るたびに身長が1センチ短くなる」と言っていて、すりこぎのようでおもしろいな、と思った。「じゃあ160年後には〇〇さんは存在が完全に消失する計算ですね」と言おうかとも思ったが、しかしそれは僕も同じだな、と思ったので口には出さなかった。

 「目頭が熱くなる」という表現は巧みだと思った。
 「泣きました」や「涙が出ました」では、目から液体がこぼれ出たという事実がないと嘘になる。しかしそんな嘘が、面と向かって対話しているわけではないウェブ世界には蔓延っていて、Twitter改めX(笑)の、140文字未満の文面で、そんな作用が頻繁に起っている。140文字未満で本当に泣くわけないだろう。本当にそれで泣くんだとしたら、お前の情緒がいよいよおかしいんだよ、あるいはお前はウミガメの一種なんだよ、と思う。
 それに対して「目頭が熱くなる」は、どんなときでも嘘ではない。ちょっと心が動かされただけで、実際のところ涙腺にはちっとも響いていなくても、人が目頭に思いを馳せたとき、目頭は普段よりもいくらか熱くなっているのだから、決して嘘にはならない。なにしろ僕は嘘というものが本当に嫌いなので、その点は本当に大事なのである。
 その上、「目頭が熱くなる」という表現は、「泣きました」「涙が出ました」に対して、少し知的な印象がある。偏差値が低い学校を出た人は、あまり「目頭が熱くなった」とは言わないと思う。とんでもないアクロバティックな偏見に、目頭が熱くなる思いだ。今後の人生で多用していこうと思う。多用し過ぎて面倒になったら、メガアツと略すのもいいだろう。

 健康診断の日、もしもの場合に備えて、オリジナルのショーツではなく、既製品のボクサーパンツを穿いていった。もちろん結果としてはそんな必要はぜんぜんなかったのだが、社会人として念のために予防線を張った次第である。
 去年の健康診断の際どうしたのか記憶がないが、とにかく既製の、ローライズと謳っているわけでもないボクサーパンツというものを穿いたのが、何年ぶりかというくらいに本当に久しぶりだったので、穿き心地にびっくりした。
 めっちゃ包むやん!
 と思った。肉棒も、金玉肉袋も、肛門も、とにかく全てを覆い、包み隠す。ボクサーパンツというものは、こんなにも男の下半身の要素を削ぎ落すものだったか、と思った。
 これに較べると、ガーリーライクにしろ、のび助にしろ、最近作っているローライズボクサーにしろ、あれらというのは、ほとんど穿いていないようなものだな、薄々そんな気はしていたけど、本当にそうなんだな、と思った。
 その違いは、単純に使われている布の面積の違いもあるけれど、理念も関係していると思う。既製のボクサーパンツは、覆おうとしている。それに対して僕のハンドメイドは、やはりのびのびさせようとしている。ちんこに対するアプローチが異なるのだ。
 ブロイラーと放し飼い、というワードを連想する。
「味が濃い!」
「野性味がすごい!」
「本来はこういうものなんですね!」
 喜ぶ客の姿が目に浮かんだ。なによりです。

2023年12月3日日曜日

流行語大賞・牛乳と子ども・年末年始の帰省について

 cozy rippleじゃないほうの流行語大賞が発表された。大賞は予想通りの「アレ」。もうひとつの、とにかく明るい安村も登壇するだろうから授賞式も久しぶりに盛り上がるだろうという予想は、受賞(選考委員特別賞という、「大賞」や「トップテン」に対してどういう序列になるのか意味不明なやつだが)というのは正解したが、安村は授賞式には出席せず、映像でのスピーチとなったようなので、まあ外れたと言うべきだろう。そしてこれは、予想が外れたことが残念というよりも、いよいよユーキャン流行語大賞がベストジーニスト化してきたというか、昔ならばお笑い芸人がこの賞を獲るとなれば、万難を排して出席したに違いないのに、もうそんな存在でなくなったということを象徴しているようで、一抹の寂しさを感じた。
 3年連続で野球関連の言葉が大賞になったこともあり、やくみつるが槍玉に上がって、感覚があまりにも時代遅れだ、ということが例年以上に叫ばれている様子があるけれど、かと言ってネット流行語大賞やSNS流行語大賞といったものがより世相を反映しているかと言えばそんなこともないわけで、現代はメディアが多様化しているので昔と違ってあらゆる世代で全般的に流行するものなんてないのだ、という意見は、それを言ったらおしまいだよ、という正論ではあるのだけど、やはりもうしばらくはユーキャンのそれが、このジャンルでの最高権威ということでやっていくしかないと思う。最高と言っても、もはや本当に乏しい高さだけども。

 牛乳の1リットルパックが2日もたないので、日々せっせと買う。1ヶ月に15本以上20本未満くらい買っているのだと考えると、毎月4000円近くを牛乳代として使っている計算だ。ちなみに僕は成分無調整の生乳は飲まず、低脂肪乳を別で買っているので、これは僕以外の3人による消費である。3人というか、ファルマンはたぶん朝のミルクティー以外では牛乳は飲まないので、ほぼほぼ子どもたちふたりということになる。
 うちの子は本当に牛乳をよく飲むものだな、と牛乳を買いながら考えていて、あることに思い至る。それは、うちの子って水分を、牛乳と麦茶でしかほぼ摂ってない、という事実である。ジュースの類を進んで与えることはしないし、炭酸やカフェインはふたりともまったく飲めない。であれば、子どもというのは、牛乳と麦茶ばかりをせっせと飲むほかないのだ。自明の理と言えば自明の理なのだけど、改めてこのことを認識して、なんだかびっくりした。あいつらって、そんなに水分補給のバリエーションが少ない生き物だったのか。この多彩な世界において、そんな野生動物のような暮しをしていたとは。どうりで冬になり、ココアが食卓に現れると異様にテンションを上げるわけだな、と腑に落ちた。

 この年末年始には帰省をしないことにした。理由は複合的で、複合的な理由をひとつひとつ挙げて説明していくと、どうしても言い訳めくというか、(行かないという)結論を正当化するための材料探しに余念がないっすね、という感じになってしまうのだけど、それでも述べてゆく。
 まず、自分が思っていたよりも新幹線の料金というものは高額であった、ということ。これまでファルマンに任せきりだったのだけど、聞いてみたらすごい金額だった。これは今回からポルガが大人料金になるというのも影響している。
 そしてその新幹線が、今回の年末年始期間から、自由席車両というものがなくなるそうで、それ自体はいつも指定席を取っていたから関係ないのだけど、じゃあこれまで自由席車両にぎゅうぎゅう詰めになっていた、指定席を取らない輩はどうするのかと言えば、どうもデッキ部分や指定席車両の通路部分などに立って乗車するようで、これを聞いたとき、起りそうなトラブルや気まずさ(すぐ横に高齢者や赤子連れが立ったらどうすればいいのか)などを想像し、とてもそこに身を置きたくないと思った。
 さらには、そんな苦労をして年末年始に帰省をしても、年末年始なので、せっかく首都圏に行ったのだから行きたいと思うような施設もほぼ休業しており、現地でできることは実家で酒を飲んでダラダラすることだけだ、というのもある。それでも顔を出すことが大事なんだ、という意見もあろうが、それならば年末年始じゃなくてもいいはずだ。
 95歳になる祖母の存在はもちろん気にかかるのだけど(元気だそうだが)、先日17年前に書いた日記を読んでいたら、23歳の僕が、年末年始の帰省に際し、「行かなくて祖母になにかあったらいけないので行く」と書いていて、急に気が楽になった。もうその懸案は長年じゅうぶんにしたので、ローンで言うなら払い終わったと言っていいと思う。もうこの案件は自分の所有になったので、好きにして許されると思う。
 というわけで、僕はこの年末年始の帰省をやめた。やめることにしたらとても身軽な気持ちになった。よほど気重だったのだな、と気付いた。