ポルガが一丁前に音楽を聴くようになった。なにを聴いているのかと言えば、主にボーカロイドの曲のようである。いまどきだな。いまどき、なんだよな? もはや正確ないまどきというものが察せなさ過ぎて、なにを言っても間違っているような気がする。
一家で車で出掛けるということになると、誰かしらのスマホと接続し、プレイリストを再生させるのだけど、どうしたってそれは子どものものになりがちで、そうなるとボーカロイドの曲ばかりが流れることになり、運転手はだんだん心が死んでゆくこととなる。これは本当におっさんぽい症状だと我ながら思うのだけど、ボーカロイドの歌って、聴いているとだんだん気持ち悪くなってくるのだった。声がまず異様だし、テンポも速く、さらには繰り返しのフレーズが多かったり、音の重ね方がすごかったりするので、3曲くらい聴くと堪らずギブアップとなる。
ところで走行中は車載オーディオのBluetooth接続の操作が不可になるため、ずっと停止しない高速道路などでは、途中でプレイリストを再生するスマホを変えたくても変えられず、ずっとひとりの音楽ばかりが再生されることとなり、それがちょっと不便だなあと思っていたのだけど、先日、共有のプレイリストというものを作れるということが判明し、それに各自の聴きたい曲を入れて、誰のスマホを接続するということもなく、それをひたすら再生すればいいのだ、となった。それはとても簡潔ですばらしいのだけど、そうなるとやはり、そこにガンガン曲を入れるのはポルガで、ティーンというのは音楽を聴くものなのだなあと、自分のことを思い出すにつけしみじみと感じるのだけど、しかしその行為をそのままのさばらせておくと、わが家共有の「ドライブ」プレイリストはボーカロイドの曲ばかりになってしまい、運転に支障を来すので、ティーンのような音楽への情熱はまるでないけれど、自衛策として、自分を救うための曲をダウンロードし、入れた。研ナオコの「ひとりぽっちで踊らせて」や、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」、松任谷由実の「ANNIVERSARY」などだ。ポルガのボーカロイドの曲30曲くらいと、ファルマンのロック15曲くらいの中に、まだこの3曲だけ。給水ポイントが少なすぎる。
義兄が友達5人くらいと一緒にソロキャンプをしたんだって、という話を何ヶ月か前に母から聞いて、大爆笑した。僕とファルマンの中で、世界でいちばん友達の多い人間である義兄。そんな義兄が、巷で話題のソロキャンプというものをしてみたいと考えた結果、友達を誘ってみんなでソロキャンプをするという、とてつもない奇策に至ってしまったのだと思った。それはもはや浅ましいを超えて、いじらしいと思った。流行りに乗りたい。でもひとりぼっちは嫌だ。だからみんなでソロキャンプ。情けなくて愛しいじゃないか。
しかし、そんな阿呆なことをするのはこの世で義兄(とその周辺)だけだろうと思っていたら、しばらくしてヤフーの記事で、その名も「ソログルキャン」として、そういう趣向がひそかなブーム、などと伝えられていたので、そうなんだ、義兄だけじゃないんだ、と驚いた。
ソログルキャンのメリットは、それぞれテントや食事などは独立していて自由でありながら、いざというときはすぐ近くに仲間がいるので安心感がある、という所らしい。
言いたいことはいろいろある。ツッコミどころを挙げていったらキリがない。もっとも、そもそものキャンプに魅力を感じない人間が、その上にふたつも修飾語のつく、すなわちさらに細分化されたジャンルのキャンプの情趣を理解できるはずがないのである。
ツッコミではなく、どうしてもひとつだけ言いたいこととして、基本的につるむのが好きな人間が「ソロキャンプ~♪」などと言うのって、まるで中学時代、普段アニメなど観ない層の同級生がエヴァンゲリオンの話で盛り上がっていたときのような、なんかそんな気持ちになる。なんか、同じものを観て、同じ言葉を使っても、我々と彼らは、たぶんぜんぜん交わっていない。時空レベルの違いを感じる。
先日のレジャーで、ファルマンは1年以上ぶりにプールに入り、だから僕の泳ぐ姿というものも1年以上ぶりに見たことになるので、年間会員として日々切磋琢磨していることもあり、「どうだった?」と泳ぎについて訊ねたら、「ぜんぜん気配がしないから急に近づいてきて気持ち悪かった」という答えが返ってきた。
水の抵抗を減らすことを念頭に、手を水中に入れるときやキックなど、なるべく水を荒立てずに泳ぐよう普段から心掛けていたのだけど、自分では分からなかったが、どうやらずいぶんな境地にまで到達していたようだ。嬉しい。ただ水の抵抗を減らしたことで、泳ぐのが速くなったとか、長い距離を泳げるようになったということは、実はあまりない気もする。
以前、筋トレにおいても同じ現象が起こったが、どうも僕は運動神経があまりに良すぎるようで、トレーニングをしようと思っても、体が自然と無駄のない最適解の動きをしてしまい、そのためそれなりに淡々とできてしまい、成長が起らないのだった。要するに、伸びしろがない。磨く部分がないのである。これはこれで考えものだと思う。なんでもできていいじゃないかと思われるかもしれないが、案外これも、寂しいものですよ、はい。