9月に入り、朝晩は秋めいてきて、お店には来年のカレンダーが並びはじめた。信じられない。新型コロナで本当に先行きが見えなかった4月前後、「今年ってこの世の誰にとっても、まるでなかったような1年になるのではないか」といったが、まさにそんな感じになりつつある。新型コロナそのものは、1月の下旬あたりから人々の口に上りはじめたので、今年は本当にそれのことばかりに気を取られ続けて暮していた感じがある。
そしてその影響に違いないが、今年は本当にブログが低調なのだった。ブログとはワールドワイドウェブの表現手段であり、ステイホームがかまびすしく呼びかけられたこのご時世にこそ本領を発揮するようでありながら、実際はそれとは真逆で、どうも委縮した。そもそも陰鬱な空気によってテンションが上がりづらいのに加え、人と交流した話、どこかへ出掛けた話などは書きづらい風潮もあり、記事を投稿する意欲が上がらなかった。ブログとは平時の世界でこそ花咲く装置なのだと痛感した(それに対してTwitterは乱世でこそ輝く)。
ピイガは相変わらずやけにゴリラのことが好きで、家にいて寝ていない間は基本的に声を発しているのだが、発している言葉(ともいえないもの)の中身は、常にゴリラかウンコかの二択である。それくらいゴリラが好き。意味が分からない。
先日も、車中で音楽が流れているというのに、後部座席でずっとゴリラとウンコの話をハイテンションでし続けるため、いよいよ両親の脳が破壊されそうになり、どうにかしなければと考えたファルマンが、延々と続く意味不明のガヤみたいなものを、なんとか最低限意味のあるやりとりに昇華させようと思ったのだろう、「ピイガ、それじゃあゴリラのモノマネしてよ」と呼びかけた。すると、それまでミュージカルかのように声を張って「ゴリラ! ウンコ! ゴリラ!」などと唱えていたピイガが、ひと呼吸おいたのち、「…………ホゥー」と、とても小さい、ウィスパーボイスでリクエストに応えてみせたので、それまでの無意味なハイテンション叫びと、ゴリラモノマネに対するクオリティーの希求の真摯さのギャップに、車内が爆笑に包まれた。ピイガは、ゴリラのことが好きすぎるので、ゴリラのモノマネを求められたとき、安易に「ウホウホ!」なんていわない。とてもリアルに「ホゥー」という。なんだそのプロフェッショナル。
小学生が、国語の辞書で調べた言葉のところに付箋を貼って、やがてどんどん付箋が増えて、ページがきちんと閉じなくなって、なんかやけにカラフルでゴワゴワした、異様な見た目の辞書になってゆく、というのがあるだろう。やる子とやらない子がいるんだろうが、なんか「学習法特集」みたいなので、いちどは目にしたことがある、そういう事象があるだろう。
ポルガがいままさにその沼にハマっていて、辞書に付箋を貼りまくっている。ひたすら貼り、カラフルでゴワゴワになっている。そして辞書をその姿にした小学生に対し、大人がいう言葉はただひとつである。
「お前それ、辞書をめくるとか、新しい言葉を知るとかじゃなくて、ただ付箋を貼るのが目的になってるだろう」
なにしろポルガはひとしきりその作業をしたあと、「ほら、こんなに貼れた!」といいながら見せにくるのだ。もはやその指摘されている点をごまかす意図もない(この素直さが怖い)。
僕が子どもの頃は、まだこの学習法は提唱されていなかったように思うが、それは僕に興味がなかっただけかもしれない。ポルガが辞書に嬉々として付箋を貼っているさまを見て、僕が人生中で唯一、本に付箋をたくさん貼っていた時期のことを思い出した。それは20代半ばくらいの、エロ小説をとにかく読みまくっていた時代。付箋を貼る位置は、主人公が射精をした場面。そうすると1冊でだいたい10~15枚ほどの付箋が張られることになる。こうして射精場面付箋処理がなされた小説を、ずらっと並べて、付箋の作り出す凹凸を手のひらで愛でるのが好きだった。何十冊ものエロ小説の射精の行に付箋を貼った、この連なりの生み出す曲線こそ、イデアとしての女体なのかもしれないと考えたりした。
そしてその影響に違いないが、今年は本当にブログが低調なのだった。ブログとはワールドワイドウェブの表現手段であり、ステイホームがかまびすしく呼びかけられたこのご時世にこそ本領を発揮するようでありながら、実際はそれとは真逆で、どうも委縮した。そもそも陰鬱な空気によってテンションが上がりづらいのに加え、人と交流した話、どこかへ出掛けた話などは書きづらい風潮もあり、記事を投稿する意欲が上がらなかった。ブログとは平時の世界でこそ花咲く装置なのだと痛感した(それに対してTwitterは乱世でこそ輝く)。
来年のカレンダーが売られはじめたということは、11月23日発表の「cozy ripple流行語大賞」もだんだんと準備期間に入ってきたということを意味するが、はっきりいって今年は流行語も名言もあったもんじゃない。さらにいえばパピロウヌーボでおちょくれる時事ネタもない。振り返れば、3年前は安室奈美恵の引退、2年前はハヅキルーペをテーマにしてやっていた。なんと平和なのか。おととしはハヅキルーペの菊川怜がとにかくおもしろかった1年間だったのだ。そう考えて今年のことを思うと、思わず涙が出そうになる。
ピイガは相変わらずやけにゴリラのことが好きで、家にいて寝ていない間は基本的に声を発しているのだが、発している言葉(ともいえないもの)の中身は、常にゴリラかウンコかの二択である。それくらいゴリラが好き。意味が分からない。
先日も、車中で音楽が流れているというのに、後部座席でずっとゴリラとウンコの話をハイテンションでし続けるため、いよいよ両親の脳が破壊されそうになり、どうにかしなければと考えたファルマンが、延々と続く意味不明のガヤみたいなものを、なんとか最低限意味のあるやりとりに昇華させようと思ったのだろう、「ピイガ、それじゃあゴリラのモノマネしてよ」と呼びかけた。すると、それまでミュージカルかのように声を張って「ゴリラ! ウンコ! ゴリラ!」などと唱えていたピイガが、ひと呼吸おいたのち、「…………ホゥー」と、とても小さい、ウィスパーボイスでリクエストに応えてみせたので、それまでの無意味なハイテンション叫びと、ゴリラモノマネに対するクオリティーの希求の真摯さのギャップに、車内が爆笑に包まれた。ピイガは、ゴリラのことが好きすぎるので、ゴリラのモノマネを求められたとき、安易に「ウホウホ!」なんていわない。とてもリアルに「ホゥー」という。なんだそのプロフェッショナル。
小学生が、国語の辞書で調べた言葉のところに付箋を貼って、やがてどんどん付箋が増えて、ページがきちんと閉じなくなって、なんかやけにカラフルでゴワゴワした、異様な見た目の辞書になってゆく、というのがあるだろう。やる子とやらない子がいるんだろうが、なんか「学習法特集」みたいなので、いちどは目にしたことがある、そういう事象があるだろう。
ポルガがいままさにその沼にハマっていて、辞書に付箋を貼りまくっている。ひたすら貼り、カラフルでゴワゴワになっている。そして辞書をその姿にした小学生に対し、大人がいう言葉はただひとつである。
「お前それ、辞書をめくるとか、新しい言葉を知るとかじゃなくて、ただ付箋を貼るのが目的になってるだろう」
なにしろポルガはひとしきりその作業をしたあと、「ほら、こんなに貼れた!」といいながら見せにくるのだ。もはやその指摘されている点をごまかす意図もない(この素直さが怖い)。
僕が子どもの頃は、まだこの学習法は提唱されていなかったように思うが、それは僕に興味がなかっただけかもしれない。ポルガが辞書に嬉々として付箋を貼っているさまを見て、僕が人生中で唯一、本に付箋をたくさん貼っていた時期のことを思い出した。それは20代半ばくらいの、エロ小説をとにかく読みまくっていた時代。付箋を貼る位置は、主人公が射精をした場面。そうすると1冊でだいたい10~15枚ほどの付箋が張られることになる。こうして射精場面付箋処理がなされた小説を、ずらっと並べて、付箋の作り出す凹凸を手のひらで愛でるのが好きだった。何十冊ものエロ小説の射精の行に付箋を貼った、この連なりの生み出す曲線こそ、イデアとしての女体なのかもしれないと考えたりした。
娘が国語の辞書に付箋を貼るのを見て、その頃のことを思い出した。