2020年9月29日火曜日

赤毛のアン・渡る世間は鬼ばかり・魔女の宅急便

  「赤毛のアン」(完訳版)を読んだ。全10巻の、はじめの1巻である。僕はこれまでこの作品には、児童小説版にもアニメ版にも、まったく触れたことがなかった。今後も縁がないはずだったが、先ごろからNHKでドラマ版の放送が始まり、自分のためではなく、ポルガが観たりしないだろうかと思って録画をした。その結果、ポルガではなく自分が嵌まった。こんなにも心が救われる、喜ばしい物語があるだろうか、と感激して、原作小説を読むことにしたのだった。ちなみに講談社の、掛川恭子翻訳版である。
 読んだ感想として、やっぱり心が救われ、喜ばしい気持ちになった。小説って、人間のものすごく嫌な、心の内側のただれた部分をえぐるような、重たい気持ちになるものもあって、そういうものこそ人間の本質であるなどといって、評価が高かったりもするけど、本来の小説ってこうあるべきなんじゃないか、というふうに思った。世界は美しい。人間は優しい。愛しい。努力は報われる。小説ってそれでいいんじゃないか。
 アンはこの物語がはじまるまで家族に恵まれず、よその家や孤児院で育ったが(今回のドラマ版では、現代的な解釈ということなのか、アンはやけにトラウマを抱えている)、それがひとたび物語がはじまると、そこからの幸福度はずっと右肩上がりなので、安心して心地よく読める。この、それまで冴えなかった境遇の主人公が、物語がはじまって以降はずっとハッピーなので安心して心地よく読める感じって、なにかに似ているな、と考えて、思い至ったのは二次元ドリーム文庫だった。お前はすぐになんでもエロ小説に置き換える、思考停止だ、と思われるかもしれない。しかしはじめからアンにデレデレのマシューはチョロインだし、最初は拒絶するけどやがてマシュー以上のデレデレになるマリラはツンデレで、それ以外にもダイアナやレイチェル・リンド、ギルバートにジョゼフィーヌ・バリーなど、アンはとにかく周囲の人物からモテにモテまくる。自己を投影する主人公がみんなから慕われるこの快感は、二次元ドリーム文庫を読んでいるときとまったく一緒である。だからいいのだ。これだよこれ、小説ってこれでいいんだよ、と思う。性をテーマにした小説の、その高尚なもの、ということになると、すぐに谷崎潤一郎とかのSMじみた世界ということになるのが、僕はずっと納得いかずにいる。性でも、人生でも、小説ってもっと、読んでいて純粋にしあわせな気持ちになれるか、ということを希求していけばいいんじゃないか。たぶん希求しすぎると、それは新興宗教みたいな感じになってしまうので注意が必要だけど、そこさえ気を付ければ、主人公がひたすらしあわせになっていく物語は成立する。無理にえぐらなくていいのだ。右肩上がりならば平板じゃないのだから、窮地なんかなくとも読者は意外と飽きず、ただ爽快感だけを味わって物語を読み終えることができる。しあわせだけの上り坂が続く物語。
 「赤毛のアン」とは、そういう意味で理想の物語なんじゃないかと思った。気づくのが遅い。

 papapokkeのアカウントのツイッターでもつぶやいたが、今年は敬老の日に「渡る世間は鬼ばかり」のスペシャルがなくて残念だった。しかし連続ドラマでさえ撮影ができずに放送が延びた今年の情勢を思えば仕方のないことだし、なにより脚本家(94歳)やプロデューサー(95歳)をはじめとして、このドラマは出演者も制作陣も一般のそれよりもだいぶ平均年齢が高そうなので、そういう意味でも制作は難しかったろうと思う。そんな状況に対して、それこそ「そんなこといったってしょうがないじゃないか」だなあ、というところまでを、140文字以内に収めて投稿した。
 「そんなこといったってしょうがないじゃないか」は言わずと知れた、えなりかずきのモノマネをする場合の常套フレーズだが、こういうのによくある現象として、実はえなりかずき(役名は眞)が劇中でそのセリフを発したことはないのだという。
 しかしながら今年のこの状況に起因して(本当にそれが理由なのかは一般人として知る由もないが)、敬老の日の渡鬼スペシャルがなかったということのみならず、コロナにまつわるありとあらゆること、不満や悲観、軋轢や憎悪などすべてひっくるめて、このえなりかずきの(上記の通り本当はえなりかずきの、ではないのだが)「そんなこといったってしょうがないじゃないか」が、ことのほか胸に響くと思った。感染病は、お互い様であると同時に、ひとりひとりの心掛けが肝要なものだから、とかく他人の動向が気にかかり、どうしたって殺伐となる。そんなときに大事になってくるのが、「そんなこといったってしょうがないじゃないか」の精神。遊びたい。騒ぎたい。マスクしたくない。「そんなこといったってしょうがないじゃないか」。Go Toトラベルなんてしないでほしい。制限を緩和してほしくない。外国人に来ないでほしい。「そんなこといったってしょうがないじゃないか」。こだまでしょうか。いいえ、だれでも。AC。

 「魔女の宅急便」を観た。何年ぶりの何度目だろう。相変わらずよかった。昔はただの少女が主人公の冒険活劇くらいにしか感じていなかったものが、年々胸に突き刺さるようになってくる。それと今回は、この映画の脚本のすばらしさに気がついた。この映画には無駄なシーンが本当にひとつもなくて、実はパズルのようにカチッカチッと嵌まっている。すべてが連結して作用するので、トンボを助けるためにキキがデッキブラシで空を飛ぶシーンで、激しい感動が起る。この瞬間に瞳に分泌される涙の量が、自分が年を重ねて、観返すたびに増えているような気がする。今回はいよいよ本当に危なかったので、たぶん何年かあとの次回の観賞では、娘もいよいよキキの年齢に近付くし、決壊するんじゃないないかなと思う。

2020年9月24日木曜日

葡萄・ソファー・はてしない物語

 祖母から葡萄が届く。毎年忘れた頃にやってくる。いつも突然届くのだが、今回は僕がLINEでクロネコヤマトと繋がった関係で、「明日この荷物をこの時間に届けるよ」ということが告げられ、前日に分かったのだった。そして、それで気を重くしていた。ああ今年も例のあの葡萄が届くのか、と。食べるにはあまりにも酸っぱく、種が多く、どこまでもワイン醸造用の甲州。それの段ボールいっぱい分の房。野菜室を大きく占領して、いつまでも減らないが、「ちゃんと腐る」まで捨てるのも忍びないという、プロペ家の秋の風物詩、あの葡萄。
 そんなわけで翌日、きっかり所定の時間に配達されたそれを、ため息まじりに受け取った。そしてため息まじりにガムテープを剥ぎ、ため息まじりに箱を開けた。
 そこで「あっ」と思わず声が出た。
 中に入っていたのは、あの紫がかった薄いピンクの甲州ではなく、ザ・葡萄という感じの濃い紫色をした大ぶりの巨峰2房と、そしてきみどり色に発光する(本当に鮮やかで発光しているかのようだった)シャインマスカット1房なのだった。
 えっ、えっ、となって、テンションが爆上がりして、小躍りしながら冷蔵庫に移した。
 そのあと祖母にお礼の電話をしたところ、なぜ今年から甲州ではなくなったのかという説明は一切なかった。しかしこれはファルマンの証言によれば、僕は今年の正月の帰省の際、母に向かって「実は毎年の甲州に困ってるんだけど……」ということを普通に伝えていたらしい。だからそこからきっと母が、いいように祖母を操作してくれたんだと思う。感謝だ。なにに感謝って、母に訴えた正月の自分に感謝だ。「シャインマスカットは皮ごと食べられるやつ。値段はこれだけする」と、祖母は言わずにおれなかったのだろうシャインマスカットの値段を電話口で伝えてきた。「人から贈られなかったら絶対に買って食べない!」と僕は答えた。そして「どうもありがとう!」。これで来年以降のシャインマスカットも確定だろう。
 皮ごと食べられるシャインマスカット、というものは、存在は知っていたが、これまでいちども食べたことがなかった。叶姉妹とか、デヴィ夫人とか、あるいは中国の富裕層とかが食べるものだと思っていた。初体験のそれは、おいしさよりも感動のほうが大きかった。粒をもいで、そのまま口に運んで齧る。爽やかに甘い。夢みたいに満ち足りた果物だな、と思った。もうスーパーでデラウェアなんて買う気になれない。すれてしまった。

 わが家にソファーがやってきた。これまでもソファーが欲しいという話はずっとあったのだが、スペース的にままならず諦めていた。それがこのたび、あれを捨てて、あれも捨てて、あれをあっちへ移し、これをこっちへ移せば、居間にスペースができてソファーが置けるじゃないか、という計算が成立したので、とうとう実現したのだった。しかし考えてみたら居間には、7月に工業用ミシンがやってきている。さらにはこれまで子ども部屋にあった本棚までもが今回の大移動で居間にやってきて、そのうえソファーなのだから、どうも居間は空間が歪んでいるようだ(タンスが廊下に出ていった、というのはある)。
 それで実際のところ、そんな状態で導入されたソファーは成立しているのか、快適なのか、という話だが、これがとても快適なのである。買ったのはふたり掛けのもので、子どもとならば余裕で3人で座れる。これまで居間には座卓しかなく、そして座布団しかなく、つまり背を預けることのできるものが一切なかった。そのため居間は寛げる場所ではなかった。それがなんということでしょう。ソファーを置いた途端、家族が居間に集うようになったのです。ソファーに座り、優雅に読書なんてするようになったのです。こんなにいいものだったのか、ソファーは、と効果の程に驚いている。
 前回の模様替えでミシンとパソコンデスクが一体化し、居間は半分僕の部屋みたいになっているのだが、このたびそこへソファーまでやってきたわけで、その快適さはいよいよ天井知らずだ。もういっそ簡易トイレとかもあったらいい。よくない。

 ソファーが快適なので読書をしたくなり(ベタに秋になって過しやすくなったのもある)、それも「物語感のある物語」が読みてえな、ということで、ソファーに座ると自ずと目に飛び込んでくる本棚から、「はてしない物語」を選び、読んだ。やっぱり物語感のある物語といえば、ファンタジーだろう。本はファルマンが学生時代に買ったものだそうで、箱入りハードカバーの立派なものだ。
 読んだ感想としては、「なんかファンタジー小説って勝手が凄いな!」というもので、やっぱり大人になると主人公が少年のファンタジー世界に没入できるはずもなく、しかし物語は読者が世界に没入できていることを前提にずっと書かれるので(じゃなきゃおもしろくない)、大人の僕は終始、「勝手だな!」「勝手だな!」「勝手だなー!」と思いながら読み続けた。要するに「ついていけなかった」という感想になるのだと思う。
 小説を読み終えたあと、せっかくこのたびこうして小説を読んだのならば、あの映画「ネバーエンディングストーリー」も観てみたいものだと思い、試しにアマゾンプライムで検索したら幸いなことにあったので、観た。導入がけっこう丁寧に描かれ、しかし映画が90分ほどしかないことは画面で判っていたので、「えっ、どうなるの? これ、どうまとめるの?」と戸惑った。結果として、原作に対して信じられない端折り方だったが、しかしまあ話の骨子はこういうことで、むしろ原作の後半がいらなかったのかもなー、とも思った。
 そんな感じの「はてしない物語」体験だった。ファンタジー小説に対して我ながらピュア。

2020年9月14日月曜日

今年のブログ・ピイガゴリラ・ポルガ付箋

 9月に入り、朝晩は秋めいてきて、お店には来年のカレンダーが並びはじめた。信じられない。新型コロナで本当に先行きが見えなかった4月前後、「今年ってこの世の誰にとっても、まるでなかったような1年になるのではないか」といったが、まさにそんな感じになりつつある。新型コロナそのものは、1月の下旬あたりから人々の口に上りはじめたので、今年は本当にそれのことばかりに気を取られ続けて暮していた感じがある。
 そしてその影響に違いないが、今年は本当にブログが低調なのだった。ブログとはワールドワイドウェブの表現手段であり、ステイホームがかまびすしく呼びかけられたこのご時世にこそ本領を発揮するようでありながら、実際はそれとは真逆で、どうも委縮した。そもそも陰鬱な空気によってテンションが上がりづらいのに加え、人と交流した話、どこかへ出掛けた話などは書きづらい風潮もあり、記事を投稿する意欲が上がらなかった。ブログとは平時の世界でこそ花咲く装置なのだと痛感した(それに対してTwitterは乱世でこそ輝く)。
 来年のカレンダーが売られはじめたということは、11月23日発表の「cozy ripple流行語大賞」もだんだんと準備期間に入ってきたということを意味するが、はっきりいって今年は流行語も名言もあったもんじゃない。さらにいえばパピロウヌーボでおちょくれる時事ネタもない。振り返れば、3年前は安室奈美恵の引退、2年前はハヅキルーペをテーマにしてやっていた。なんと平和なのか。おととしはハヅキルーペの菊川怜がとにかくおもしろかった1年間だったのだ。そう考えて今年のことを思うと、思わず涙が出そうになる。

 ピイガは相変わらずやけにゴリラのことが好きで、家にいて寝ていない間は基本的に声を発しているのだが、発している言葉(ともいえないもの)の中身は、常にゴリラかウンコかの二択である。それくらいゴリラが好き。意味が分からない。
 先日も、車中で音楽が流れているというのに、後部座席でずっとゴリラとウンコの話をハイテンションでし続けるため、いよいよ両親の脳が破壊されそうになり、どうにかしなければと考えたファルマンが、延々と続く意味不明のガヤみたいなものを、なんとか最低限意味のあるやりとりに昇華させようと思ったのだろう、「ピイガ、それじゃあゴリラのモノマネしてよ」と呼びかけた。すると、それまでミュージカルかのように声を張って「ゴリラ! ウンコ! ゴリラ!」などと唱えていたピイガが、ひと呼吸おいたのち、「…………ホゥー」と、とても小さい、ウィスパーボイスでリクエストに応えてみせたので、それまでの無意味なハイテンション叫びと、ゴリラモノマネに対するクオリティーの希求の真摯さのギャップに、車内が爆笑に包まれた。ピイガは、ゴリラのことが好きすぎるので、ゴリラのモノマネを求められたとき、安易に「ウホウホ!」なんていわない。とてもリアルに「ホゥー」という。なんだそのプロフェッショナル。

 小学生が、国語の辞書で調べた言葉のところに付箋を貼って、やがてどんどん付箋が増えて、ページがきちんと閉じなくなって、なんかやけにカラフルでゴワゴワした、異様な見た目の辞書になってゆく、というのがあるだろう。やる子とやらない子がいるんだろうが、なんか「学習法特集」みたいなので、いちどは目にしたことがある、そういう事象があるだろう。
 ポルガがいままさにその沼にハマっていて、辞書に付箋を貼りまくっている。ひたすら貼り、カラフルでゴワゴワになっている。そして辞書をその姿にした小学生に対し、大人がいう言葉はただひとつである。
「お前それ、辞書をめくるとか、新しい言葉を知るとかじゃなくて、ただ付箋を貼るのが目的になってるだろう」
 なにしろポルガはひとしきりその作業をしたあと、「ほら、こんなに貼れた!」といいながら見せにくるのだ。もはやその指摘されている点をごまかす意図もない(この素直さが怖い)。
 僕が子どもの頃は、まだこの学習法は提唱されていなかったように思うが、それは僕に興味がなかっただけかもしれない。ポルガが辞書に嬉々として付箋を貼っているさまを見て、僕が人生中で唯一、本に付箋をたくさん貼っていた時期のことを思い出した。それは20代半ばくらいの、エロ小説をとにかく読みまくっていた時代。付箋を貼る位置は、主人公が射精をした場面。そうすると1冊でだいたい10~15枚ほどの付箋が張られることになる。こうして射精場面付箋処理がなされた小説を、ずらっと並べて、付箋の作り出す凹凸を手のひらで愛でるのが好きだった。何十冊ものエロ小説の射精の行に付箋を貼った、この連なりの生み出す曲線こそ、イデアとしての女体なのかもしれないと考えたりした。
 娘が国語の辞書に付箋を貼るのを見て、その頃のことを思い出した。

2020年9月6日日曜日

車検・モンペ・ペイ

 先日、車検を行なう。2年前の車検はどんな感じだったろうと日記を振り返ろうとしたら、どうやらなにも書いたりしていないようだった。ダッシュボードに入れたままだった2年前の明細を見ると、5万円にも届かない、とてもリーズナブルな値段で済んでいたので、書くほどのことがなかったのだろう。今回はタイヤの交換をする必要があったので(前の会社の人間や義父など、少しでも車に関心のある人はわが家の車のタイヤを見てすかさず進言した)、どうしたって10万円くらいにはなってしまうだろう、と思っていたら、それ以外にもいろいろ交換の必要があり、12万円を超えた。12万円! と思ったが、なにしろ車のことは一切わからないので、向こうが「(しなくても車検は通りますけど)交換がお薦めですね」といったものを、「結構です」とはねのける胆力はなく、「お願いします」「お願いします」と応じたらそういう結果になった。まあ仕方ない。今回そうして大幅に部品を改めたので、「次回はまた安くて済みますよ」と伝えられた。受け取りは翌日だったので、代車を出してくれ、それが真っ赤な新型ハスラーだった。ハスラーって、ちょうど島根から岡山に出ようとして、車を買おうとしていたあたりの時期、人気すぎて供給が追い付かないみたいな状況だったので、その頃から淡い憧れがあった。かといってたぶん次にわが家が車を買うときは軽自動車ではないんじゃないかという気がするので、このままハスラーには縁がないんだろうと思っていた。そのため1日とはいえハスラー体験ができて嬉しかった。真っ赤なハスラーは、その見た目にテンションが上がった。しかし乗ってみたら中から外装は見えないので、すぐに気が済んだ。車の外装って中からは見えないし、そして自家用車なんて基本的に内側からしか味わわないので、外装って実はどうでもいいんだな、と学習した。翌日に受け取ったMRワゴンは、いろいろ整備・交換をして、走りが見違えたような気もしたし、別にそこまで変わっていない気もした。タイヤは誰かからすり減り具合を指摘されるたびに「怖いこというなよ!」と思わされていたので、新しくなってとても安心感がある。すっきりした。

 ポルガの小学校の担任は、去年度とは別の先生ながら、年は同じくらいで、20代前半とか半ばくらいのものだそうで、僕が子どもの頃はそこまで若い小学校の先生なんていなかった気もするのだけど、最近よくいわれているように、学校の先生というのは労働時間が長すぎて、ぜんぜん長続きしないものなのだろうか。それで若い先生しかいないのだろうか。そう考えるとちょっと不安な気持ちになる。ところでその若い先生が授業中、学んでいるその単元に関するYoutube動画を、教室のディスプレイで再生して生徒たちに見せるのだそうで、しかもそれは文科省が作成した学習ビデオとかではなく、普通にユーチューバーとかの動画だったりするそうで、マジか、と思う。時代はとうとうそんなことになったのか。
 僕はそれを聞いて思わず、「うちの子がバカになるからそんな動画は見せないでくれ」と学校に抗議の電話をかけたくなったが、ファルマンに止められた。でも。だって。ユーチューバーって。ユーチューバーって。学校の無機質な授業に対して、「♪こんな感じの覚え方もあるぜっ」みたいな、内緒の、裏技の、あんちょこだろう、ユーチューバーのああいうのは。それを学校で見せるのはちがうだろう、と強く思う。古いのか。おっさんなのか。モンペなのか。だってユーチューブからは悪い電磁波が出てるんでしょ?

  マイナポイントとかいってくるので、とうとうわが家でも電子マネー(なんとかペイのやつ)を導入することにした。選んだのは楽天ペイ。楽天ポイントと関連するのならそれがいちばんいいかな、という発想。しかしながらいざ楽天ペイのアプリをダウンロードして街に繰り出してみれば、意外と行動範囲に楽天ペイを受け付けているところが少なかった。ペイペイとかLINEペイはやってるけど楽天ペイはダメ、みたいなところがけっこうある。アプリを入れる前は、世の中のすべての店で楽天ペイは使えるんじゃないかという印象だったのに、いざちゃんと使う段になって眺めてみたら、意外と現実はシビアだった。
 しかも楽天ペイが使用可能だという店で、じゃあ「楽天ペイで」とタブレットの画面を差し出してみても、どうやらレジのバーコードリーダーによっては、スマホサイズしか想定していない仕様で作られているようで、読み取るにはバーコードが大きすぎるようで、「これ、もうちょっと縮小した画面になりませんか?」などといわれ、でも指2本でえいってやってもそんなことできなくて、レジでぜんぜんスマートじゃなくて、「じゃあもう現金で払います!」なんてことになったりする。そしてペイ論議のとき往々にしてたどり着きがちな、「現金最強」という結論に至る。
 それにしても最近の小売って、ウイルス対策と、ペイ対策と、ビニール袋対策で、ちょっと負担が掛かり過ぎなんじゃないかと思う。店にとっても客にとっても、買い物が面倒臭すぎる。どうしてこんなことになってしまったんだろう。