「赤毛のアン」(完訳版)を読んだ。全10巻の、はじめの1巻である。僕はこれまでこの作品には、児童小説版にもアニメ版にも、まったく触れたことがなかった。今後も縁がないはずだったが、先ごろからNHKでドラマ版の放送が始まり、自分のためではなく、ポルガが観たりしないだろうかと思って録画をした。その結果、ポルガではなく自分が嵌まった。こんなにも心が救われる、喜ばしい物語があるだろうか、と感激して、原作小説を読むことにしたのだった。ちなみに講談社の、掛川恭子翻訳版である。
読んだ感想として、やっぱり心が救われ、喜ばしい気持ちになった。小説って、人間のものすごく嫌な、心の内側のただれた部分をえぐるような、重たい気持ちになるものもあって、そういうものこそ人間の本質であるなどといって、評価が高かったりもするけど、本来の小説ってこうあるべきなんじゃないか、というふうに思った。世界は美しい。人間は優しい。愛しい。努力は報われる。小説ってそれでいいんじゃないか。
アンはこの物語がはじまるまで家族に恵まれず、よその家や孤児院で育ったが(今回のドラマ版では、現代的な解釈ということなのか、アンはやけにトラウマを抱えている)、それがひとたび物語がはじまると、そこからの幸福度はずっと右肩上がりなので、安心して心地よく読める。この、それまで冴えなかった境遇の主人公が、物語がはじまって以降はずっとハッピーなので安心して心地よく読める感じって、なにかに似ているな、と考えて、思い至ったのは二次元ドリーム文庫だった。お前はすぐになんでもエロ小説に置き換える、思考停止だ、と思われるかもしれない。しかしはじめからアンにデレデレのマシューはチョロインだし、最初は拒絶するけどやがてマシュー以上のデレデレになるマリラはツンデレで、それ以外にもダイアナやレイチェル・リンド、ギルバートにジョゼフィーヌ・バリーなど、アンはとにかく周囲の人物からモテにモテまくる。自己を投影する主人公がみんなから慕われるこの快感は、二次元ドリーム文庫を読んでいるときとまったく一緒である。だからいいのだ。これだよこれ、小説ってこれでいいんだよ、と思う。性をテーマにした小説の、その高尚なもの、ということになると、すぐに谷崎潤一郎とかのSMじみた世界ということになるのが、僕はずっと納得いかずにいる。性でも、人生でも、小説ってもっと、読んでいて純粋にしあわせな気持ちになれるか、ということを希求していけばいいんじゃないか。たぶん希求しすぎると、それは新興宗教みたいな感じになってしまうので注意が必要だけど、そこさえ気を付ければ、主人公がひたすらしあわせになっていく物語は成立する。無理にえぐらなくていいのだ。右肩上がりならば平板じゃないのだから、窮地なんかなくとも読者は意外と飽きず、ただ爽快感だけを味わって物語を読み終えることができる。しあわせだけの上り坂が続く物語。
「赤毛のアン」とは、そういう意味で理想の物語なんじゃないかと思った。気づくのが遅い。
papapokkeのアカウントのツイッターでもつぶやいたが、今年は敬老の日に「渡る世間は鬼ばかり」のスペシャルがなくて残念だった。しかし連続ドラマでさえ撮影ができずに放送が延びた今年の情勢を思えば仕方のないことだし、なにより脚本家(94歳)やプロデューサー(95歳)をはじめとして、このドラマは出演者も制作陣も一般のそれよりもだいぶ平均年齢が高そうなので、そういう意味でも制作は難しかったろうと思う。そんな状況に対して、それこそ「そんなこといったってしょうがないじゃないか」だなあ、というところまでを、140文字以内に収めて投稿した。
「そんなこといったってしょうがないじゃないか」は言わずと知れた、えなりかずきのモノマネをする場合の常套フレーズだが、こういうのによくある現象として、実はえなりかずき(役名は眞)が劇中でそのセリフを発したことはないのだという。
しかしながら今年のこの状況に起因して(本当にそれが理由なのかは一般人として知る由もないが)、敬老の日の渡鬼スペシャルがなかったということのみならず、コロナにまつわるありとあらゆること、不満や悲観、軋轢や憎悪などすべてひっくるめて、このえなりかずきの(上記の通り本当はえなりかずきの、ではないのだが)「そんなこといったってしょうがないじゃないか」が、ことのほか胸に響くと思った。感染病は、お互い様であると同時に、ひとりひとりの心掛けが肝要なものだから、とかく他人の動向が気にかかり、どうしたって殺伐となる。そんなときに大事になってくるのが、「そんなこといったってしょうがないじゃないか」の精神。遊びたい。騒ぎたい。マスクしたくない。「そんなこといったってしょうがないじゃないか」。Go Toトラベルなんてしないでほしい。制限を緩和してほしくない。外国人に来ないでほしい。「そんなこといったってしょうがないじゃないか」。こだまでしょうか。いいえ、だれでも。AC。
「魔女の宅急便」を観た。何年ぶりの何度目だろう。相変わらずよかった。昔はただの少女が主人公の冒険活劇くらいにしか感じていなかったものが、年々胸に突き刺さるようになってくる。それと今回は、この映画の脚本のすばらしさに気がついた。この映画には無駄なシーンが本当にひとつもなくて、実はパズルのようにカチッカチッと嵌まっている。すべてが連結して作用するので、トンボを助けるためにキキがデッキブラシで空を飛ぶシーンで、激しい感動が起る。この瞬間に瞳に分泌される涙の量が、自分が年を重ねて、観返すたびに増えているような気がする。今回はいよいよ本当に危なかったので、たぶん何年かあとの次回の観賞では、娘もいよいよキキの年齢に近付くし、決壊するんじゃないないかなと思う。