姉からジグソーパズルが届く。休校で子どもが退屈してるから買うことにしたから、そちらの分も一緒に注文しといた、という連絡があったのは4月の終わりごろのことで、世の中の人間みんな同じことを考えたのか(風が吹けば桶屋が儲かる的な感じで、コロナが流行ったことで売れているものは医薬衛生品以外にも世の中にたくさんあるようだ)、発送までずいぶん待たされ、つい数日前にようやく届いたのだった。なんの絵柄かは事前に教えてもらえなかったのだが(ポルガが期待したらまずい、ということで「ドラえもんではない」ということは明言された)、文字通り蓋を開けてみたら、「となりのトトロ」だった。そして1000ピース。
休校期間にじっくり取り組む用なので妥当なのかもしれないが、しかし1000ピース。多い。そして絵柄的に、下方にトトロとメイがいるほかは、画面のほとんどの部分が大木となっており、幹の茶色と葉の緑色ばかりで、なかなかの難易度である。もちろん9歳と6歳の娘だけでままなるものではない(また6歳のほうが壊す壊す)ので、親も駆り出される。親も、といったが正確には男親、すなわち僕だ。ファルマンはやらない。やらないというか、できないのである。考えてみたら、できるはずがない。右手に面倒臭がりの精霊、左手に大雑把の精霊を宿してこの世に降り立ったようなファルマンに、1000ピースの、茶色と緑色ばかりのジグソーパズルができるはずがない。「なんで絵をバラバラにしちゃったの」とファルマンはピースを掴んで憤っていた。パズルだからだ。
だから実質、僕が70%、ポルガが25%、残りのふたりで5%くらいの働きで進めている。70%も担っているというと、なんだかジグソーパズルが得意なような、なにしろ姉から届いたわけだし、もしかしてパズルを嗜む系の家の人なのかしら、と思われるかもしれないが、もちろんそんなことはない。(す、すごく時間の無駄だ……)と思いながらやっている。でも居間に簡易座卓を出してその上で取り組んでいるので、完成して額縁に入れてしまわないと(ご丁寧に額縁も送ってくれた)いつまでも部屋が片付かず、それが嫌で仕方なくやり進めているのだった。バイト代欲しい。
minneというハンドメイド作品販売サイトにお店を出して、オリジナルグッズを売り始めた。「nw」にも書いたことで、「nw」と「hophophop」で読者層が分かれているはずもないのだが(そもそも分かれるほどの分母がない)、こちらにもいちおう記し、リンクも貼っておく。商売なのでガツガツしているのである。→PAPAPOKKE
それでガツガツついでに、Twitterも始めた。悖鬼ではない。なんだボッキって。minne舐めてんのか。minneの世界に勃起はない。ただただ素敵な平常世界である。だからTwitterも当然、分ける。別アカウントというやつである。それがこちら。papapokkeである。こちらではminneに出品をしたとか、あるいは家族を中心としたほんわかした内容ばかりをつぶやいていくつもりだ。ちなみにこっちがパピロウの本当。悖鬼のエロ短歌とか、毎日すごく無理してやっている。でもアップしないと人質になっている親友が殺されるので、泣きながらやっている(たまに忘れてアップしない日もあるが、そのたびに死んでる)。それがこっちではのびのび、ただ自分が愛しいと思うことを素直につぶやけるのだ。ああ嬉しい。絶対に間違えてエロ短歌をアップしないようにしよう。
minneを始めて、まずはトートバッグを出品して、他になにを出そうかなあ、などと考えると、どうしたって布マスクという発想が頭をもたげる。実際、minneにおいても布マスク市場はなかなか活況のようである。
でもパピロウ、布マスクを作ったとき、山梨の中学生に敬意を表して布マスクで金儲けはしない、と宣言していたじゃない。もうなの? もう宗旨替えなの?
いや違うんですよ。あれなんですよ。聞いてくださいよ。状況が変わってきたじゃないですか。官製マスクが一向に届かないまま、世の中に不織布マスクが戻りはじめ、感染もちょっとひと段落した感じがあり、緊急事態宣言の解除もはじまって、しかも気候も暑くなってきて、普通に考えたら布マスク(しかも不織布に較べてウイルス対策での効果は乏しいとさんざんいわれる)の需要なんてもうあんまりないはずなんですよ。なのに売れてる。それはなぜかって話なんですよ。
それは、感染がひと段落したといっても今後は「ウィズコロナ」っつって(それにしても今年の流行語大賞はどうなるんだろう)、コロナと共存していく社会においてマスクは必須だし、不織布マスクが店に出はじめたといってもその値段は半年前の5倍以上するので、だから布マスクにはやっぱり需要があるのだ、ということになるわけだが、だからもうこの場合の、これからの社会における布マスクというのは、もう不織布マスクの代替品じゃなくて、着けるのが当たり前の衣料みたいな立ち位置になっていくんだと思う。これも布マスクを作ったときの「nw」の記事内(上のリンク参照)で書いたことだが、かつて白だけだったマスクにさまざまな色が使われはじめた(といってもコロナ前の話なのだが)のは「パンツみたい」な進化の仕方だ、という見方があるけれど、今回のコロナ禍を通してマスクの概念はさらに進化し、パンツから、ずばりTシャツになったのだと僕は思う。僕らはこれから、夏に自分のセンスに合ったさまざまなTシャツを着るように、気に入ったいろんな布マスクを着けて生きていくんだと思う。本当にそんな存在に布マスクはなったのだと、自分自身をはじめ、最近の街中の布マスク着用者を見ていて感じる。
そして僕はこれがとても嬉しい。たしかに暑い。5月でこれでは7月8月はさすがに無理かな、とは思うものの、何年か前から批判めいた口調で指摘されていた「伊達マスク症候群」に、人類は強制的に追いつかされ、価値観はひっくり返り、伊達マスク症候群こそが推奨され、マスクを頑なに拒むおっさんが忌避される世の中になり、僕はこれまでインフルエンザシーズンと具合が悪いとき以外は基本的にマスクをしない人間だったが、今回のことでずっとマスクをするようになって、そうしてしみじみと思うのは、マスクはしているとすごく楽なのだった。鼻と口が隠れていると、対外関係がすごく楽。たぶんコロナ前の「伊達マスク症候群」という指摘は、その楽さを、「社会において大事なことをサボりやがって!」という意味で糾弾していたわけだが、これからはそれが感染予防という大義名分の下、許される社会になる(客商売などのために透明パネルの飛沫ガードというのがあるようだが、なぜそこまでして鼻と口を見たいのだろう)。それはとても喜ばしいことだと思う(それにしてもこのあたりのことは、トランプ大統領が意地でもマスクを着けないことや、イスラム(の特に保守的なほう)の女性の目しか出さないあの頭巾のことなどを思うにつけ、なかなか文化人類学的に根深い問題なのだろうと思う)。
というわけで、話はだいぶ長くなったのだが、僕がもしも今後minneに布マスクを出品したらば、それは火事場泥棒や不安商法といったものではなく、Tシャツを売る感覚で売っているのだ、と解釈してほしい。つまり僕は、実際に作って売るかもまだ分からない布マスクのために、ここまで語ったわけである。なんだろうこれは。矜持だろうか。