ジグソーパズルがぜんぜん進まない。やたら難しい。子どもの頃、同じく1000ピースで「ウォーリーを探せ」のものをやったことがあり、そもそも実家で姪たちがそれを見つけたことから、今回の姉からの急なジグソーパズル送付は始まっているらしいのだが、あれはここまで難しくなかった。なぜならウォーリーの絵は、隙間がないくらいびっしりと人物や物が描かれているから、手に取ったピースがどこのものか箱を見れば大抵はすぐに分かったのだ。しかし今回の、絵の75%が大クスノキのこれは、トトロやメイなどの分かりやすい部分を嵌めてしまったあとは、ひたすら木の幹の茶色と黒(陰になっている部分)と、葉っぱの緑しかない。だからピースを見ても、全体のどの部分かさっぱり分からない。そのため、長時間やったのに2ピースくらいしか埋められなかった、なんてことになる。とてつもなく時間を無為にしている感がある。ただ上空からの光線に対して、木の幹の、葉っぱの生い茂っている上部は陰になりがちで、それに対して根元のほうは光が直接当たっているために茶色が若干明るいため、その濃淡の加減で、この明るさのピースはたぶんこのあたりだろう、と当たりをつけたりしていると、普段では考えられないほど繊細に色彩を味わっているような気がしてくる。しかし、だからなんだ、という話だ。そんな繊細なセンサーは、生活の中の別の場所で働かせたい。というか、パズルなんて本当にしたくない。一家の誰もしたくなかった。子どもも最初は食いついたけど、難易度の高さに自然と距離が生まれはじめた(当然だと思う)。勝手に送られてきた激ムズのジグソーパズルって、いったいどうすればいいのだろう。あとはもう、辞める勇気だろうか。
にわかに9月入学の話が持ち上がって、でももし実現したとしても、編成が変わるのはピイガのひとつ下の学年からになるようで、だとしたらギリギリセーフ感がある。
最初に話を聞いたとき、じゃあ今まで先輩だったのが同級生になったり、同級生だったのが後輩になったりするのだろうか、などということを思ったが、もう現時点で既に児童・学生になっている世代は(仮に実現したとしても)このままいくものらしい。それはそうか。
僕は9月20日生まれなので、年度が8ー9月区切りになると、4月3日生まれのファルマンほどではないが、学年の中のとても早いほうの生まれということになる。そしてもしも僕らの時代(もはや四半世紀も前)から制度がそうであったとするならば、同級生だった人の一部(たとえばファルマン)は先輩になり、後輩だった人の一部は同級生になるわけで、そんなこといいだしたらキリがないが、人生の形がだいぶ変わってくるなあと思う。今はまだ実現するのかどうか定かではないので、幼児のいる家庭はドキドキものだろう。親が友達同士で、それぞれの子どもが数ヶ月違いで生まれたとして、現行制度なら同学年だったのに、もしも9月入学ということになれば1学年差、なんて状況もある。これはもう現状を鑑みるに、数年後に蓋を開けてみなければ判らない。じゃあこれをシュレディンガーの同級生と呼ぼう。
オリンピックが延期になり、プロ野球、Jリーグ、大相撲も開催されず、スポーツ中継というものが日常からすっかり遠のいた。僕もプロ野球に関して、毎年それなりに愉しんでいるような気持ちになっていたが、なければないでこんなに困らないものかと思った。やってるから見てただけで、他の娯楽っていくらでもある。
その一方で、外出自粛だったり、そもそも施設が休業していたりで、一般の人々の運動欲というのはいよいよ高まっていると思う。かくいう僕がそうだ。プールが徐々に再開しはじめていて、いつ行ってやろうとうきうきしている。
つまり今回のコロナ禍で、人々はこんな結論に至ったと思う。
スポーツは観るものではない、やるもの。
考えてみたらそうだ。人がやってるのを観たって、メリットもないし、ぜんぜん愉しくない。レベルは関係ない。どんな超人的なスーパープレーを観たって、自分で体を動かすのに勝る快感はない。
そんな結論に人々は至り、そしてオリンピックは来年開催されるとかされないとか。