ポルガの学校の課題で、生き物を捕ってきてそれをしばらく飼育する、というサイケデリックなことが行なわれる。当初それへ持っていく生き物として、かたつむりを想定していたようで、実際に近所を探し求めたりしたようだが、この時期にかたつむりは無理があったようで、ぜんぜん見つからなかったらしい。僕にも「もしも見つけたら捕まえて」というお達しがなされたが、僕は家族の中で最も外を出歩かないし、それにたとえかたつむりを見つけたとしても、かたつむりを持つことができないので、どうしようもなかった。もしもこのままなんの生き物も捕まえられなかったら、手ぶらで行って、「顔ダニを持ってきました」と言えばいいのではないかと思った。そんな折に、先日の連休で義父母がやってきて、孫たちと公園に出かけ、かたつむりはやっぱり見つからなかったのだけど、その代わりに巨大なバッタを3匹もゲットしてくれた。義父は素手でそれを掴んだというので、心の底から驚嘆した。僕は虫カゴの中で蠢くそれを見ただけでめまいがしそうになった。秋の昼休み散歩では、僕が歩くたびに周辺のバッタがピョンピョンと無数に飛び立つのを、朗らかな気持ちで眺めるけれど、あれは外での出来事だし、手では触らないし、なによりバッタはバッタでもトノサマバッタだ。トノサマバッタは、虫なのでもちろん気持ち悪いのは気持ち悪いのだが、それでもかすかにキャラクター性がある感じがあり、許容できる部分がある。それに対して義父の捕獲したそれは、トノサマバッタではない、あの流線型の細身のやつ、あれのでっけえやつなのだ。そっちは無理。そっちのバッタの怖さったらない。トノサマバッタが帝国軍人だとしたら、そっちのバッタは改造兵人という感じ。脳から、恐怖心とか痛覚とかが取っ払われて、体の半分がぶっ飛んでも気にせずこちらに向かってきそうな、そんな恐ろしさがある。学校に持っていくまでのひと晩、本当に怖かった。
勃起するという意味での「たつ」を、「勃つ」と書いたり、あるいは「起つ」と書いたりするの、もうやめようと思った。「立つ」でいい。「堕ちる」も基本的に「落ちる」でいいと思うし、「赦す」は「許す」でいいし、「還る」も「帰る」でいい。それらって、結局のところ中二病的な気持ちから使いたがっていたけれど、そろそろ俺もいい歳だし恥ずかしいんじゃないかな、と思った。
でもこの種の訓読み漢字の使い分けって、その国語的まっとうさと中二病的衒学趣味の線引きが難しいと思う。「分かる」「判る」「解る」は国語的まっとうさのほうであるのに対し、「見える」「視える」には中二病臭が若干漂う。そして自分で言っておきながら、「国語的まっとうさ」という言葉に、反権力の精神が刺激される部分もある。「作る」「造る」「創る」の使い分けは、国語的まっとうさの部類にどうやら入るらしいが、さてどうかな、という気がする。実はそれってちょっと中二なんじゃないの、と思う。なんだかんだですべて「作る」でいいんじゃないか。
前に読んだ本で、熟語は仕方ないとして、日本語には基本的に漢字を使わない、というスタンスの著者が書いたものがあって、その人に言わせれば「つくる」に漢字を使うことがそもそも異様だ、ということになり、「料理をつくってたべた」とか、「勉強にはげもうとおもう」などとするのが正しい、ということになるらしい。しかしこれはひらがなが多くてさすがに読みづらかった。
だからその中間として、使える部分はなるべく使うが、細かい使い分けは基本的にしないという、そんな立場がいちばんいいのではないかな、と想った。
明日は9月20日。毎年恒例の行事として、零時ちょうどのハッピーバースデーメッセージのことを憂えておきたい。今年は特にほら、タブレットを持ちはじめて、LINEなんか始めちゃったから、いよいよマジであり得る。あり得ると言うか、ないと逆に不自然だと思う。だってタイムラインに表示されるし。表示されるように設定したし。もうそれってあれじゃんね。「祝って!」じゃんね。そうですよ。祝ってほしいんですよ。でも零時にそれを見てすぐにメッセージっていうのは困るよ。寝てっから。平日だから。ほら、平日は零時になる前に寝るから。横で子どもも寝てるし。着信音で起されるのはマジ勘弁! いや、タブレットは寝室に持ち込まないし、そもそもLINEのメッセージが届いても音なんか出ない設定なんだけど、うん、そうだね、だからまあ、いいよ! オッケーだよ! 送りたいときに送っていいよ! 明日、俺、何度も何度もLINEを起動して、何度も何度も嘆息して、鼻くそを噴出して美川憲一ごっこするよ!