そんな回さないバトンだが、毎日やはり携えて出勤している。回す回さないじゃなくて、これは俺の基本的な持ち物だから、という気持ちで携えている。しかしここ数日のことなのだが、中国地方は雨がちの天候で、駐車場から会社まで、傘を手に持つ必要があった(しかし考えてみたら数日間でいちども差さなかった)。するとなんとなく、バトンはまあいいか、という気持ちになり、バトンは車内に置きっ放し、という現象が起った。これには我ながら、そうなのか、と思った。要するにあれだ、フロイトのやつだ。僕は長い棒を持って歩きたいのだ。そういうことだったのだ。しかし不思議じゃないか。長い棒なら、いつだって1本、立派な物を携えているはずなのに。
よく言ったな、立派って。その度胸が少なくとも立派だわ。
有名人の死去や天災が多く、世紀末ならぬ元号末らしい感じがあるけれど、そんなそれやこれやによって、みんな今ちょっと、「平成の終わりを感じさせる」って口にするのが前のめりになっている感があると思う。僕だけだろうか。吉澤ひとみの飲酒ひき逃げ事件には驚いたが、それに関しても「平成の終わりを感じさせるなあ」という思いを抱いた自分の心の動きにはもっと驚いた。僕にとっての平成とは一体なんだったのか。
近ごろ職場で掛かっている有線は、30代向けのヒット曲みたいなチャンネルになっていて、そこではモーニング娘。とB'zとミスチルがやけに高頻度で流れるのだった。30代ヒッツってそうだろう、と言われたら、まあたしかにそうかも、と答えるほかないような、微妙な気持ち。
ガラケーを家に忘れて出勤する。なんの問題も起らない。ファルマンとの連絡も、近ごろはほぼLINEなのである。あまりにも問題がないので、さすがにちょっと「あれ?」みたいな気持ちになった。ガラケー機能のついてるあの目覚まし時計、……あれ? あれって、うん、必要……? だよ、ね? と、一瞬ちょっとフワッとなってしまった。どうしたんだろ、貧血なのかな。
それで昼にファルマンにLINEで、
「携帯忘れたわー。鳴り響いてうるさいでしょ、ごめんね」
とメッセージを送った。
それに対する受け答えがこう。
「石ころのよう」
着信音や通話音で、あんなにも世界をうるさくした携帯電話が、今はもう石ころみたいになっただなんて、なんだかラピュタのような話だな、と思った。ラピュタは本当にあったんだ。しかも僕のガラケーの待ち受け画面と来たら、ファルマンの描いた巨木の絵なのだ。シータ!