2018年9月8日土曜日

フロイト・平成・石ころ

 しばらくバトンを回していない。昼休みなど、回したいなー、とは思うのだが、なんとなく手が伸びない。誕生日のプレゼントにブルートゥースのイヤフォンをもらう心積もりがあって、まだ持っていないのに、もう手に入ったあとの気持ちになっているため、ワイヤレスじゃないイヤフォンのコードをタブレットから伸ばしてバトンを回すのってちょっと不便なんだよね、と、すでにその「ちょっと不便」を許容できなくなっている。人間はどんどん堕落するな。
 そんな回さないバトンだが、毎日やはり携えて出勤している。回す回さないじゃなくて、これは俺の基本的な持ち物だから、という気持ちで携えている。しかしここ数日のことなのだが、中国地方は雨がちの天候で、駐車場から会社まで、傘を手に持つ必要があった(しかし考えてみたら数日間でいちども差さなかった)。するとなんとなく、バトンはまあいいか、という気持ちになり、バトンは車内に置きっ放し、という現象が起った。これには我ながら、そうなのか、と思った。要するにあれだ、フロイトのやつだ。僕は長い棒を持って歩きたいのだ。そういうことだったのだ。しかし不思議じゃないか。長い棒なら、いつだって1本、立派な物を携えているはずなのに。
 よく言ったな、立派って。その度胸が少なくとも立派だわ。

 有名人の死去や天災が多く、世紀末ならぬ元号末らしい感じがあるけれど、そんなそれやこれやによって、みんな今ちょっと、「平成の終わりを感じさせる」って口にするのが前のめりになっている感があると思う。僕だけだろうか。吉澤ひとみの飲酒ひき逃げ事件には驚いたが、それに関しても「平成の終わりを感じさせるなあ」という思いを抱いた自分の心の動きにはもっと驚いた。僕にとっての平成とは一体なんだったのか。
 近ごろ職場で掛かっている有線は、30代向けのヒット曲みたいなチャンネルになっていて、そこではモーニング娘。とB'zとミスチルがやけに高頻度で流れるのだった。30代ヒッツってそうだろう、と言われたら、まあたしかにそうかも、と答えるほかないような、微妙な気持ち。

 ガラケーを家に忘れて出勤する。なんの問題も起らない。ファルマンとの連絡も、近ごろはほぼLINEなのである。あまりにも問題がないので、さすがにちょっと「あれ?」みたいな気持ちになった。ガラケー機能のついてるあの目覚まし時計、……あれ? あれって、うん、必要……? だよ、ね? と、一瞬ちょっとフワッとなってしまった。どうしたんだろ、貧血なのかな。
 それで昼にファルマンにLINEで、
「携帯忘れたわー。鳴り響いてうるさいでしょ、ごめんね」
 とメッセージを送った。
 それに対する受け答えがこう。
「石ころのよう」
 着信音や通話音で、あんなにも世界をうるさくした携帯電話が、今はもう石ころみたいになっただなんて、なんだかラピュタのような話だな、と思った。ラピュタは本当にあったんだ。しかも僕のガラケーの待ち受け画面と来たら、ファルマンの描いた巨木の絵なのだ。シータ!