2021年9月30日木曜日

スマホ嫌気・ファルマン芸・Myかご

 スマホに対してほとほと嫌気がさしている。今年の2月にスマホの人になって、7ヶ月あまりが経ったわけだが、もう嫌で嫌でしょうがない。
 スマホっていざ持ってみたら、「片手で持ててポケットに入る」という、タブレットに対して本当にそれだけしかメリットがないもので、それはスマホの小さいがゆえの扱いづらさをカバーできるほどの材料ではぜんぜんなく、日々ひたすらにストレスを溜めている。
 検索などの語句の音声入力って、している人間をとても気色悪いものとして見ていたが、スマホになって気持ちが理解できるようになった。画面の小ささから来る押し間違いがあまりにも多くて、あんなものキーボードとして成立していない。かといって僕はフリック操作というのもできず、できるようになるつもりもない。だから音声入力、ということに多くの人はなるのだろうが、機械に向かってしゃべるという行為の壁を、僕はいまだ越えられていない(機械の画面を指で触る、というのがやっと越えられたところだ)ため、それもできない。そうなるといよいよスマホは不自由だ。
 スマホにしたのは、長い時間にわたり電話を持ち歩かなければならない状況になったという理由があったからだが、諸般の事情によりその制約がなくなったため、頃合いを見てタブレットに回帰しようと思う。頃合いとはなにかといえば、ただただ金銭的な問題である。回帰という意味では、前に使っていたタブレットにSIMを移すだけで戻ることはでき、別に機能的にもそれで一切の問題はないのだが、そのタブレットはもうポルガたちのものになってしまっているため、さすがに「やっぱり返して」とは言いづらく、新しいものを買うしかないのである。
 子どもやファルマンのタブレットを目にするたびに、画面の大きさに憧憬の念を抱く。最低限この程度の大きさのものを覗き込むのでなければ、人の矜持というのは守られないのではないか、ということを思う。ガラケーからそのままタブレットはただの変わり者(ファルマン)だが、ガラケーからタブレット、スマホを挟んでの再びのタブレットには、説得力があると思う。

 ファルマンが、「マスクの外し方モノマネはどうだろう」といってくる。妻は何をいってきたのだ、と思う。
 妻曰く、政治家などが、会見の際にマスクを外すが、その外し方には個性があるので、その特徴を掴んでモノマネするとウケるんじゃないかと思う、とのことである。
 なんだその着眼点、とショックを受ける。HEY!たくちゃんのアゴものまね、ロバート秋山の体ものまねと、一部分に特化したモノマネというジャンルはたしかにあるけれど、マスクの外し方モノマネは、さすがにマニアックすぎると思う。ファルマンはあるときから、その視点でテレビを観るようになったから、この人はこう、というデータがあるのだろうが、一般の人にはその素養がまるでないものだから、それがどれほど特徴を捉えていようと、似ててウケる、という状態には絶対にならない。感想は常に「……ピンと来ない」だと思う。
 ちょっと妻はあまりにも、モノマネ界の高みに上り過ぎたのかもしれない。頂点に立つ人はいつも孤独だ。

 遅ればせながら我が家にも、というかスーパーでの買い物担当は主に僕なので、僕にも、というべきだが、My買い物かごがやってきて、そのあまりの便利さに腰が砕けそうになっている。前々から、使っている人を見かけるたびに、きっと便利なんだろうな、ということを感じていて、その気持ちの高まりが、ついにはかごを買うという行動に至ったわけだが、そちら側の人になってみれば、まだこちら側に来ていない人が信じられず、その無知蒙昧さが、不憫で居た堪れなくさえある。そこまでいうか。そこまでいうのだ。
 レジで読み取りと一緒にかごに詰めてもらえば、会計後にサッカー台で袋詰めをする必要がなく、そのまま店を出ることができる。そのときのサッカー台を素通りする瞬間、とてつもない快感がある。袋詰めしている人々を尻目に、というのがいい。まだ袋詰めしてんだ? と心の中ですごくバカにした笑みを浮かべている(実際に顔に出ているかもしれない)。
 世の中の人がみんなMyかごになれば、日々サッカー台で費やされている労力は減り、それは国の総計、人類の総計ではいかほどだろうと思う。さらにはサッカー台というスペースそのものが店からなくせるのだから、店としてはその分、売り場を広くしたり必要な設備を増やしたりできるわけで、とにかくいいことづくめだと思う。
 もっともこれは、スーパーに行く手段が必ず車である地方民であればこそで、仕事の帰りに最寄り駅近くのスーパーで買って帰るような都会の人間はどうしたってそんなことできないだろう。都会にも住み、田舎にも住んで、視野が広いので、そういうことも分かってあげる。一律に「レジ袋無料配布禁止、Myバッグを持ちましょう!」みたいな乱暴なことはいわないのです。

2021年9月12日日曜日

小銭入れ・尿道・ワクチン

 小銭入れを持たない人生だった。
 僕の人生はまだまだ続くが(まだ始まってもいないともいえるレベル)、まず間違いなく小銭入れを持つようになることはないだろう。電子マネーとかが発展して、そもそも小銭の出番が減っていて、まあ僕は電子マネー、目下のところてんで活用できていないのだけど、それであっても小銭入れを持つような状況というのはイメージしづらい。たぶん自動販売機で、缶コーヒーだの、煙草だの、そういうものを買う人にとっては便利なんだろうと思う。
 あとやっぱり基本的に、荷物をあまり持ち歩きたくない美学の男が、小銭入れというアイテムに帰着するのだと思う。その観念が僕にはまるでない。むしろその真逆の観念で生きている。
 しかし荷物をあまり持ち歩きたくないという美学の真逆であればこそ、こんな思いが湧く。
 小銭入れというアイテムそのものへの憧れ。
 小銭入れって結局、極小のポーチのようなものであるから、こじんまりとしていてとても愛しいのだ。そのため物欲としてそそられる。しかし小銭入れを小銭入れとして活用できる気質は、上記の通り僕にはまるでない。
 結果として柄が気に入るなどして衝動的に購った小銭入れは、ちまちました手芸用品を入れておくための入れ物なんかになる。しかし実際は、ちまちました手芸用品は、引き出しのクリアケースに入れておいたほうが絶対に使いやすい。
 今生の僕と小銭入れの縁は薄い。

 これは「BUNS SEIN!」に書く話のような気もするのだけど、そう長くなる気もしないので、こちらにさらっと記しておく。
 使っているボディーソープが、ノズルの開口部分でとてもよく固まる。「カタマラナイヨウニナルヤーツ」的な添加物を入れろよ、と思うが、それだけ実直な作りなのかもしれないな、とも思う。
 開口部分で液剤が固まっていると、ヘッドを押して中身を出す際、穴が変なふうに塞がっているために、思いもよらない方向に勢いよく液剤が噴射するので困る。これが本当に、意思があるのではないかと思うほどに、こちらがボディスポンジで受け止めようとしていない方向にばかり、液剤が飛んでいく。長年その状態が続いているので、こちらも学習して、ゼロ距離くらいの位置までスポンジを近付けてヘッドを押すのだけど、それでも液剤はスポンジをかいくぐる。前方に突き出たノズルの開口部から、そんな斜め後ろみたいな方向に液剤が飛ぶことあるかよ、というような現象が起る。奇想天外である。
 という、この話を前置きにして、ある日ふと思ったのだけど、要するに穴が小さいと、液剤の噴き出る勢いは増すわけで、これってまあ、ソープという、白濁粘液からの連想もあるに違いないが、ちんこだって当然この理論は同じわけで、射精も小便も、年を取ると若かった頃のような勢いがなくなるというけれど、それってつまり、尿道とかが使い込んだことでこなれて、体内的には昔と同じ量の同じ勢いの液体が、余裕を持って発射できるようになったという、つまりそういうことなんじゃないだろうか。勢いがなくなったことを減退と捉えるから哀しくなってしまうわけで、尿道のこなれ感と捉えると、途端に円熟味が出てくる。精液や小便の出方のおだやかさこそが、大人の余裕。

 やけにブログを書かない日々が訪れていたが、この日々の中で、新型コロナワクチンを夫婦ともども接種していた。ファルマンは1、2回目ともまあまあの副反応が出て、接種の翌日は寝て過ごし、それに対して僕は1、2回目とも、打った腕の筋肉痛めいた疼痛以外は、ほとんど副反応らしいものはなかった。つまりなんとなく事前から予想していた通りの結果だった。
 僕はファルマンからしばしば、正常性バイアスの高まりを糾弾されるのだけど、それぞれの人の世界の見え方、捉え方なんて、その人のそれまでの人生経験のことを思えば、矯正することなんて不可能だろうと、今回の副反応の結果で、改めて思った。ファルマンは副反応が起るだろうと思って、果して起った。僕は副反応はあまり起らないだろうと思って、果してあまり起らなかった。どうしたって、その確率から、経験則が生まれ、人格は形成される。
 病は気から、なんて慣用句は、時代に合わなくなったのか、昨今あまり使われなくなったような気がするが、正常性バイアス勢から見れば、不安がり勢に対して、思わずいいたくなることもある(でも今どきの時代性を踏まえ、いわない)。
 そして正常性バイアス勢には、致命的なウィークポイントがあって、不安がり勢には絶対に勝てないようになっている。それは、人はいつか必ず死ぬ、ということである。人はいつか必ず死ぬので、正常性バイアス勢の正常性バイアスは、事故なり病気なり、いつか必ず裏切られる。それに対して、不安がり勢が、不安がっていたものから裏切られることはない。その不安はいつか必ずやってくるからだ。
 結局なにがいいたいのか、自分でもよく分からない。どうせ感染しないよ、といってフェスに行くわけではない。もっとも心のどこかでは、感染しない気でいるし、感染しても症状は軽く済むだろうと楽観視している部分がある。その一方で、ワクチン接種の機会が与えられれば迷いなく受ける。そしてその副反応は軽いだろうと思う。小市民だな、と思う。

2021年7月9日金曜日

交際記念日・コブクロの小さいほう・バズって売れまくる

 7月8日は交際開始記念日。それは19のことだったので、18年前ということになる。
 今年はなぜか、18年、ということを思う前に、19歳だった、というほうに思いが募った。そうか、かつて僕は、19歳だったのか。僕に19歳の頃があったのか。なんだかもはや信じられない。幼少期は幼少期で、それはまあ当然あるだろうと思う。しかし19歳は、もう子どもではない「こっち側」のようでいて、しかし今の僕とはあまりにも違う、淡い幻のような瞬間であると感じる。その頃(何度でも言うけれどファルマンは当時すでに20歳だ)に、僕らは付き合いはじめて、18年後の今がある。年月の経過は、信じられないくらい早いが、早いから軽いかと言えばそんなことはなくて、早いのに重い。そんな性質を持っている。
 最近、自分たちが中学生くらいだった頃の出来事が、四半世紀前の出来事ということになるのだと思い至り、なんだかくらくらした。四半世紀前ということは、四半とはいえ単位が世紀レベルになったわけで、なんかもう、こうなってくるとメソポタミア文明とかもわりと身近なもんだな、なんてことを思う。物差しが壊れはじめているのかもしれない。

 先日なんとなく気持ちが上向きにならなくて、こんなときはあれだ、あれしかない、とコブクロの小さいほうによる国歌斉唱をYouTubeで再生したのだけど、期待していたほど心が躍らず、さらに落ち込む結果になった。コブクロの小さいほうの国歌斉唱で愉しい気持ちになれない日が来るだなんて、ぜんぜん想像していなかった。
 それでファルマンに、「俺はもうコブクロの小さいほうの国歌斉唱でも喜べない人間になってしまったんだ……」と相談したら、「観過ぎ」と一蹴された。
 井森美幸のスカウトキャラバンでのダンスは、あまりにもおもしろくて有名だが、ホリプロはそれがテレビ番組で濫用されネタとして世間から飽きられるのを防ぐため(所属タレントがバカにされているから怒ったとかではぜんぜんないのがいい)、一定期間は映像を提供しないことにしたそうだが、コブクロの小さいほうの国歌斉唱も、なんらかの力によってその対策が取られるべきだったのだ。僕は濫用し過ぎた。もうすっかりオーバードーズで、市販薬ではぜんぜん効かない体になってしまった。

 papapokkeのほうのツイッターで、なんか作者は「みんなの好きな!」みたいなテンションでminneでオリジナルグッズを売ってるけど、ヒットくんやクチバシなんてこの世のほぼ全員(70億分の55人くらいしか知らない)が知らなくて、それじゃあ売れるはずもないと気づき、キャラクター紹介のため、それぞれのイラストともに心の叫びおよびつぶやきみたいなものを、2週間ほど前からアップしているのだけど、「#イラスト」の効力によりポツポツと反応はあるものの、minneの購買層に訴求している気配はまるでなく、なによりヒットくんもクチバシも、結局のところ卑屈で性格が悪いわけで、その内容を見かねたファルマンから、「あれってやればやるほど作者が面倒臭い人だってことが明らかになるだけで、逆にどんどん買いづらくなるんじゃない」と指摘を受けた。
 「じゃあどうすればいいんだよ!」とガチギレして訊ねたところ、「性格悪いことをただ言っておしまいだと救いようがないから、人志くんとの掛け合いにしたら?」と提案され、「めちゃくちゃそれだよ!」と大採用した。
 というわけで今日のツイートからは、漫画といえば漫画の、人志くんとの会話形式になっております。みんな「いいね」したり、minneでバッグ買ったり、してほしい。

2021年6月15日火曜日

マスク・ボタンホール・車

 先日、結局は大事に至らなかったのだけど、喉が掠れる感じがあり、それは子どもたちが例のごとくどこかから持ち帰った風邪を、例のごとく順繰りにこなした直後のことだったので、ああやっぱり避けきれなかったか、と暗い気持ちになりながら、マスクをして眠ることにした。しかしマスクを着けて寝ようとしても、寝て肉体が本能に支配されると、どうせすぐにマスクは取ってしまうのだよな、と思った。思いながら寝た。そして数時間後に起きたところ、口元にマスクがそのままの形で残っていたので驚いた。ああ、もう体が、本能が、マスクのことを異物として捉えなくなったのだ、と思った。人類の、何十何百何千年の蓄積ともいうけれど、案外その一方で、1年くらいでがらりと変わることもいっぱいあると思った。

 ファルマンにブラウスを3着作り、基本的には軽快に作業を行なったのだが、最後に気の重い工程があって、それはボタンホール作りである。ボタンホール縫いは家庭用ミシンを使わねばならず、しかもそのミシンが、機能的にもともと頼りないのに加え、近ごろは寿命的な息切れも感じさせはじめてると来ては、スムーズに済むはずがなく、案の定おおいに難航した。特に困難なのは、襟とカフスの、生地が厚い部分の縫いだ。途中で糸が切れたり、送り歯が止まったり、何度も失敗を繰り返す。そして何度も失敗すると、生地がだんだん力なくなってくるので、ますますくしゃくしゃになりやすくなるし、なにより仕上がりに影響してくる。とにかく嫌で嫌でしょうがないのだった。それで苦労しながら、ああ、もっとボタンホールを縫うのが得意なミシンが欲しい、と心の底から思う。そこで検索してみたところ、そういうことを謳っているミシンは、普通のものよりちょっと高くて、7万円くらいしていた。7万……、ボタンホールのために7万……、と逡巡する。それにしたって失敗が続く。縫える気配がない。もう嫌だ。ほどくのに時間ばっかり掛かる。かといって7万のミシンをポンとは買えない。どうしよう、どうしよう、と悩んだ結果、もういっそのことこれでいいじゃねえか、とひらめく。すなわち、最後に開ける予定の穴の印の周りを、工業用ミシンで5周くらい縫うのである。毎周、少しずつずらして、太いステッチになるような感じで、穴を開ける部分を囲う。そんでもって穴を開ける。なんでえ、これでよかったんじゃんか、と思った。工業用ミシンでならば、正確に印を囲んで縫うことができるのだ。これで十分に、ボタンホールとしての要件は満たす。どうも「ボタンホール縫い」という言葉に縛られ過ぎていたようだ。縫製が終わったあと、家庭用ミシンを引っ張り出してきて、にっちもさっちもいかないボタンホール縫いをするという作業がなくなったことで、服作りに挑む気持ちがとても軽くなった。とても嬉しい。

 ファルマンがとうとう免許を取るということで、5月の終わりごろに、車の購入の手続きをした。車がなければどこにもいけないこの地域で、ファルマンが行動をするために免許を取ったわけで、車がもう1台なければどうしようもない。なので買うほかない。これまでのMRワゴンを主にファルマン用とし、主に僕用として新しい車を買うことにした。そしてどうせ買うならば、やっぱり軽というわけにはいかず、普通車、それも実家の近くに住んでいるということを思えば、いざというときにもう少し多く人が乗れる車のほうがいいのではないか、などと考え、かといってワゴン車ほど大仰なものはさすがに嫌なので、まあ現代においてこのあたりの希望を持つ輩というのは、ほぼ二択、ホンダのフリードか、トヨタのシエンタのどちらかを選ぶことになるわけで、どちらにも試乗した結果、わが家は前者を選んだ。「ちょうどいい」のやつ。かつてCMに東出昌大が出ていたやつ。納車はまだなのだが、試乗した感想として、軽自動車の世界の、愛嬌などの尺度とはまるで異なる、どこまでも実用的な車で、完全に語彙が喪失してしまっているが、これは「車」だなー、ということを思った。この「車」さを前にしたら、軽自動車ってあれ、もしかしたら本当は車じゃないんじゃないかと思えてくるほど、実に「車」だった。僕はこれから、やっと「車」に乗るのかもしれない。車って、そうか、車なんだな、と新しい車観が啓けた。納車が愉しみ。

2021年6月14日月曜日

みょうが・インスタ・直角二等辺三角形

 先日、今日のメニューは天ざるうどんだな、と心に決めてスーパーに行った際、ふと目に入ったみょうがを、なんとなくカゴに入れた。これまでいちども口に入れたことがなく、味の予想もつかなかったのだけど、絶賛する人は絶賛しているし、なんとなくだけど俺もそろそろみょうがの年齢になったのではないか、と思ったのだ。
 それで薄切りにして、青ねぎやしょうがとともにつゆに浸し、麵を啜ってみたところ、ファルマンと目を見合わせ、互いに目を丸くするほどに、それは衝撃的に絶妙な味で、ねぎと、青じそと、しょうがの、いい部分だけをひとつの肉体の中に内包させたかのような、マッドサイエンティストが生み出した悪魔のごとき食物だと思った。こんな、人類にとって都合のいい食べ物が、この世にあるのかよ、と震撼した。もうみょうがなしでは冷麺を食べられない体になってしまった気がする。
 それくらいおいしかったのだけど、とはいえ、これまで俺はどうしてみょうがを食べずに生きてきたのか、という後悔はまるでない。これまではみょうがを必要としない人生で、これからはみょうがを必要とする人生という、ただそれだけのことだからだ。この考え方は、みょうがが教えてくれたが、みょうが以外の事柄にも応用できると思う。みょうが人生訓。人生に大事なことはすべてみょうがが教えてくれた。

 ヒットくんオリジナル生地で作ったトートバッグが、本当にたくさん売れてほしいので、販促活動の一環として、インスタグラムを始めようと思い、アカウントを取得した。しかし取得したものの、記事はまだひとつもアップしていない。なにをどうアップしていいのか、さっぱり分からないのだ。思えばTwitterに関しては、始める前から一応の予備知識はあった。別に誰かのTwitterを熱心に読んでいたわけではないが、それでもインターネットをしていたらTwitterの画面というのは自然と目に入ってくる。そのため、ああいうものだな、ああいう文脈のものだな、というのが判っていた。しかしインスタグラムにはそれがまるでない。これまで、目に入ってきたことがない。「インスタグラムで話題」というウェブ記事は頻繁に目にするものの、インスタグラムのページそのものは見たことがなかった。本当にセンサーに引っ掛からなかったのだと思う。
 アカウントを取得すると、まず「おすすめ」として、芸能人とかのアカウントが列挙され、それらをボタンひとつでフォローできる。もちろんするはずもない。芸能人に限らず、僕は別に人の情報なんか欲しくないのだ。僕はただ、自分の作ったトートバッグの販促活動がしたいのだ。しかしSNSにおいて、情報というのは決して一方通行には進行しない。動脈と静脈のように、循環することによってようやく巡るようになっている。フォローしない、つながらない人間の放つ情報は、本当に誰の目にも届かない。本当にだ。なぜならそこには光がないからだ。光がなければ物は見えない。光とはすなわちつながりの関係性だ。世の中はいま、そういうことになっている。ブログ→Twitter→インスタグラムと、どうもこの順番に、その度合は濃くなるように思う。インスタグラムを始めて、誰のこともフォローしていない僕はいわば、「どろろ」の最初の状態のようなもので、ここから仮にいろいろな人をフォローして、つながりを持っていけば、手や足が手に入り、人間らしくなっていくことができるという、どうもそんなような世界観のようだ。厳しいな。
 スマホで「インスタグラムの愉しみ方」などで検索をかけ、出てきたページを必死で読んだりするが(やっていることがあまりにもおっさんらしい悲哀に満ちている)、読めば読むほど、いったいなにがおもしろいのかさっぱり解らず、途方に暮れる。画像と、短文と、ハッシュタグで、だからなんなんだ。他人のそれが、なんなんだ。もうおととしになるか、タピオカドリンクの写真を撮って、インスタにアップして、飲まずに捨てる輩が多くて社会問題になったりしていたが、実際にインスタグラムのアカウントを取得したことで、ますますこの話が奇異に思えてきた。タ、タピオカドリンクの写真……? いったいそれになんの価値が……?
 こんなに情趣が解らないのに、とにかく物を売りたくてとりあえずアカウントを取得してみるだなんて、まるで中小企業の役員のようだと思う。「なんか、あれだろ、若者は、ほら、エスエス……? エスエヌ……? なんかそういうので、すごく話題になるんだろ? あれやってみろよ。まずそういう行動をしてみることなんだよ」みたいな。完全にそれ。

 トートバッグのマチは5センチなのだけど、マチを縫う前のアイロンというのが、微妙に面倒臭い。片側にズレると不格好な三角になり、出来上がりのバッグの形も歪んでしまうので、けっこう気を遣う。最初に作った3枚(すぐに完売してしまった)は、それでもいちいちものさしを置いて、微調整してアイロンを当てたのだけど、今後さらに量産していくにあたり、どうすれば効率化できるか考え、ゲージを作ることにした。アイロンに耐える素材で、欲しい大きさの三角形を作り、それを布にピッタリ当てることで、一発で求める形の三角形を作り出すという寸法だ。
 それで、どういうゲージになるかということを頭の中で考え、下の辺の長さが5センチの、二等辺直角三角形ということだよな、と思う。そこまでは考えられた。でもそこから先がさっぱり解らない。一辺が5センチだとして、同じ長さとなる残りの二辺の長さはなにか。そして三角形の高さはなにか。まさかこの年になって、生活の中でこんな三平方の定理的な、サインコサインタンジェント的なことで頭を悩ますとは思ってなかった。
 考えても分からないので、試験問題ではない特権で、方眼紙に5センチの直線を引き、目的の直角二等辺三角形を切り出す。その形さえ手に入ればそれ以外の情報は別にいらないのだが、いちおう測ったところ、残りの二辺の長さは3.5センチとなり、そして高さは2.5センチだった。こうして測ってから気づいたが、5センチの下辺を合わせてこの三角形をふたつくっつけたら、対角線が5センチとなる正四角形になるわけで、そう考えたら高さが2.5センチなのは自明の理だった。さらにいえば、その正四角形の1辺の長さは3.5センチなので、面積は12.25平方センチとなり、これって対角線の5センチを2倍にした数字の半分だけど、そういう法則でもあるのかしら、と思って検索したら、「四角形の面積は対角線の二乗÷2」なのだそうで、大正解だった。僕は十代の頃、戦争がひどくて学校に通えなかったから、こういうことをまるで学ぶことができなかったのだけど、こうして自分で必要に迫られて考えると、とてもおもしろいもんなんだな、と思った。

2021年5月23日日曜日

オオキンケイギク・友情・百年前日記

 今年は異様に早く梅雨入りし、そもそも山陽から山陰に冬に出てきて、ようやく本格的な春となり、これからは山陰のとても限られた、明るい天候の日々になると思っていたら、見事に期待を裏切られた。やー、ぐずつく。日本海側は本当にぐずつくな。
 それで、向こうとは気候があまりにも違うし、生活もなにかとバタバタしていたりで、すっかり失念していたのだけど、先日車で走っていた道の端に、オオキンケイギクが咲いていて、「あっ」と思った。そういえば、5月下旬は、オオキンケイギクの咲く時期だった。
 あまりにも悪名高く、好きだなんていったら白眼視されるオオキンケイギクだけど、でもやっぱり形といい、色といい、好みだ。
 そのとき見かけたのは道路と歩道の間のちょっとした土の部分に咲いていたもので、目にして思い出した感慨はあったものの、スケールとしてはあまりにも物足りなかった。それ以来、どこかに群生していないものかな、と期待しているのだけど、行動範囲には残念ながら見当たらない。川や湖など、近所に水辺はけっこうあるのだが、どうやらこの土地はあまりオオキンケイギクに侵食されていないようだ。それはたぶん世の中的にはいいことなのだが、個人的には少し悲しい。
 ちなみに僕のLINEのプロフィール画像はオオキンケイギクだ。

 相変わらず「ズッコケ三人組」を読みまくっている。元のシリーズはもちろん、中年のほうももう半分くらい読んだ。前回これについて述べたとき、よく考えたらズッコケ三人組って友達の物語じゃないかよ、といまさらながらに憤慨したが、読めば読むほどその思いは強まっている。このシリーズは、友情とか親友とかの大切さを押し付ける、説教臭い児童文学ではなく、たとえば「おいしい」という言葉を使わずにおいしさを表現する、みたいなもので、ハチベエ、ハカセ、モーちゃんの3人は、ことさら友情を確かめ合うわけではなく、むしろその結びつきは友達と呼ぶには足りないくらい淡白のような気さえするのだけど、しかしやっぱり強い友情がここにはあるのだ。その友情はあまりにも強固で当たり前のものだから、わざわざ語るまでもないのだ。それだから僕は時間差でそのことに気づいて、なんだよこれめっちゃうらやましいやつじゃん、と身悶えることとなった。
 友達が欲しい、などといっている間はダメなのだ。友達とは気づいたらなってるもの(「君に届け」)だし、なんとなくいつも一緒にいて、周囲から「ズッコケ三人組だ」と評されるものなのだ。すなわち、友情とは無自覚であるべきなのかもしれない。友情は無自覚であるべきだと自覚した僕と、誰か友達になってくれないだろうか。

 ブログが拡散し、ふたたびこの「hophophop」や「おこめとおふろ」を投稿するようになったことで、それまで収束していた「百年前日記」を今後どう扱ったものか悩んだ結果、去年から書いている、去年からの日々を綴った、その名も「百年前日記」を、不定期に更新している。しかしあまりに赤裸々な内容なので、いちいち投稿報告はしていない。しかし投稿報告をしないと、あまりにも誰にも読まれていないような気がして、もっともこれは投稿報告をしたところでそう変わる気もしないのだけど、とにかく広く読まれたいような、あまり読んでもらいたくないような、いかにも、あえてこの時代にブログなんてものをやっている、こじらせ感が横溢している次第だが、しかしこの複雑な心境こそブログの真髄だろうとも思うわけで、その思いの発露として、やっぱり投稿報告はしないのだけど、このたびここに、そんなものを不定期に更新しているんですよ、ということを記した。こじらせている。

2021年5月11日火曜日

体・夏・友

 サウナやプールで自分の体を見るたびに、首をかしげる。
 この体は……、締まっているのか? それともただ痩せているのか?
 自分でも、どうにも判断がつかないのだ。167センチで53キロなので、瘦せ型ではある。だから知らない人から見たら、僕は筋肉がついている人ではなくて、贅肉がないものだから必要最低限の筋肉が表面に露出しているほうの人にしか見えないだろうと思う。しかし曲がりなりにも、僕は実は筋トレをしている人間なのだ。筋肉がきわめてつきにくい体質ではあるけれど、そうはいっても体としてもなんかしらの反応は示しているはずだ。これはその筋肉だ、だからこの人物はいわゆる細マッチョなのだ、という気もする。
 筋トレを始めてもう2年あまりになるが、それなのにまだこの段階、というのが切ない。

 先日とある場所で見かけた女性が、非常にどこかで見たことのある気がする顔の人で、誰だっけ誰だっけ、としばらく悩んだ。島根県生活も2度目なので、かつての職場で知り合った人物であるとか、いろいろ選択肢はある。しかしなんとなくの印象で、どうもそんな最近の交流ではないような気がする。あの人を見たのは、もっとずっと前、たとえば僕が十代の頃だったのではないか。しかし十代ということは横浜市時代である。そんな頃に知り合った人と、まさかこんなふうに島根県でばったり出会うものだろうか。まあ自分自身がこうして島根県に来ているのだから、相手だってなんかしらの事情により島根県にたどり着く可能性はいくらでもある。しかしそれにしたって思い出せない。絶対にどこかで見たことあるのに、どの時代のどの集団にいた人なのか、まるで見当がつかない。もっともよくよく思い返してみれば、別にそこまで特徴のあるわけでもない、よくある顔だ。どこで出会ったということもなく、人生の端々にあの手の顔の女性というのは存在していたのではないか。そんなふうにも思った。
 それでもずっと頭の中で、その女性の顔を思い浮かべていた。
 そして夜になって、つまり5時間くらい経って、ようやく思い至った。
 まさか本人ではないと思うが、あの女性は、モーニング娘。の振り付けで知られる、夏まゆみ先生にそっくりだったのだ。なるほどあれはよくある顔だ。同級生の母親とかに、必ずひとりはいる顔。そして自分が十代の頃に交流があった(「ASAYAN」などでよく目にしていた)、というのもぴったり当て嵌まる。特定できてとてもすっきりした。

 「ズッコケ中年三人組」に手を出す。目下「ズッコケ三人組」を僕と競い合うように読んでいるポルガと、これも一緒に読もうと思っていたが、冒頭からハチベエは水商売の女をホテルに誘い、不倫をしようとしていたため、とても読ませられない、と思った。あくまで、かつて「ズッコケ三人組」を読んでいた元子どもの大人、すなわち僕みたいな人間向けに書かれたものであって、リアルタイムで児童書のそれを読んでいる子どもには向けていないらしい。挿絵もないし、ここまできっぱり貫いていると気持ちがいいと思った。
 この本で主人公たちは40歳になり、それぞれの実生活においてそれなりに苦労をしているが、しかし彼らがどれほど苦境に立たされたところで、やはり「三人組」というくらいで、その友達の存在がずるいと思った。「ズッコケ三人組」は、それほど友情物語というわけでもないけれど、しかし三人組だ。そういえばずるい。いまさら気づいて、そのずるさにおののいている。