2019年4月9日火曜日

健康診断結果・神様・ガラケー愛

 健康診断の結果が出る。心待ちにしていた。だって3月、ほぼ酒を飲まなかった。そんな生活を25日も続けて、診断を受けたのだ。それはもう途轍もなくいい結果が出るだろうと期待していた。いや確信していた。それで大きい封筒を開けたら、中から「紹介状在中」という小さな封筒が出てきたので衝撃を受けた。今年の僕には入っていないはずだったやつ。今年も入っていた。いらない。いらないはずだったのに。
 表を確認すると、引っ掛かったのはもちろん肝機能だった。引っ掛かるのはそれ自体が嫌だけど、なんかしらに引っ掛からなければならないのだとしたら、なじみのある肝機能がいい。肝機能なら、原因が明白だから。ちなみに今年のGTPは106。正常は~50。去年は134。去年より良くなっていると言えば聞こえはいいが、いまいち効果が足りない。もっと落ちていてしかるべきだ。106は身の回りの酒飲みたちが武勇伝のように語る数値からすれば屁のようなものだが、それでも満足がいかない。さらに言えば、同じく肝機能のチェック項目であるASTやALTももちろん基準値を超えているのだが、それらの数値は去年とまるで変わっていない。変わっていないってなんだよ。3月も普通に飲んでいた去年と、3月ほぼ飲まなかった今年で、変わっていないっておかしいだろう。じゃあ飲むよ、って話になってくる。飲まない分だけ損じゃないか。こんなことがあっていいのか。
 それでこの結果を踏まえ、今後どうするか。酒をまた毎日飲むようにする、ということにはさすがにならない。もう気持ち的にも必要なくなったし。飲むにしたって週末だけだ。そしてオルニチンのサプリとか摂ってやろうと思う。1ヶ月で足りないなら1年だ。来年こそ基準値まで落す。もうトサカに来た。肝機能やってやんよ。1年そうやって努めて、そして来年それでもまだ紹介状が封入されていたら、そのときは大病院に行って精密検査をしてもらおうと思います。

 職場の有線で「トイレの神様」(植村花菜)が流れて、流れるたびになんとも言えない気持ちになるのだけど、流行った当時はただもう純粋に「へっ」としか思っていなかったこの曲が、年月が経ち、もう世間の熱がすっかり冷めたところで、ようやくおもしろく思えてきた。逆にいま「トイレの神様」を持ち出してきたらウケんじゃね、と思う。
 この曲はかつてとても流行ったことで、メロディだったり歌詞の内容だったりを、けっこうみんなが知っている。ここがいい。だから替え歌にして、カラオケで10分超、朗々と唄ったらば、それはけっこうなエンターテインメントになるのではないかと思った。
 それでどんな替え歌にすればいいかと考えた。テーマはもちろん性的なことで決まりだったのだけど、全寮制の中高一貫女子校を舞台にしたり、美術部のヌードデッサンのモデルが勃起してしまって構図が崩れる物語で考えたり、いろいろ思案した末に、シンプルにいちばんおもしろいのは、「トイレ」の部分だけを「チンポ」に替えることではないかという結論に至った。チンポにはそれはそれはきれいな女神さまがいるんやで。

 携帯電話がいよいよおかしなことになってきた。故障ではない。立ち位置の意味不明さの話である。スマホに対する嫌悪感から、ガラケーを保ちつつタブレットを持つようになったのがちょうど1年ほど前のことである。単純にスマホにしてしまわないところに、一種の矜持を持っていた。俺は蒙昧にスマホ窟に没落してしまわないのだぞ、と。
 しかし1年経って、タブレットでネットをしたり音楽を聴いたり文章を書いたり、わりと便利に使う横で、ガラケーの使わなさと来たらどうだ。それまでガラケーで行なわれていた家族内のやり取りもLINEでできるようになってしまったら、ガラケーは本当に鳴動しなくなった。あ、朝にだけ鳴動する。本当にその機能だけ生きている。それ以外ない。
 この状況になってみて思うことは、「ガラケーの矜持ってなんだよ」ということだ。スマホに対する嫌悪感が、僕のガラケーへの思いを無駄に掻き立ててしまっていたようで、別に僕にはガラケーに誇りを持つ義理なんてないのだった。スマホが嫌いなことと、ガラケーを愛することはイコールではない。別にガラケーに愛なんてなかった。
 だから、なんかもう、本当にタブレットだけでいい気がしてきた。

2019年4月2日火曜日

新元号決定・山陰洗礼・あらすじ短歌の発見

 新元号が発表される。令和。ほほー、と思った。
 平易で読みやすくてMTSH以外で、といろいろ条件がある中で、国民があれだけ予想をしていたのに、それを見事にかいくぐったやつをババーンと出すのって、さぞ気持ちよかっただろうな、と思った。安永? 安久? ちげーよ! なに時代だよ! 応仁の乱かよ! センスが古いんだよ愚民どもめ! これだよ! ババーン、という。
 そうなのだ、令和って字面も音も、なんかシュッとしている感ある。垢抜けてる。もうイメージが湧く。明治大正昭和平成、令和。令和の未来感と来たらどうだ。そしていま未来感のある令和もきっと数十年後には、未来感がちゃんとなくなっていて、次の元号が次の時代らしい未来感のある言葉になるんだろうと思う。さすがは国語の重鎮が考えるだけあり、大したもんだと思った。
 ちなみに最終候補は令和を含めて6案あったとのことで、選ばれなかった5案がどんなものだったのかは、秘匿されるはずが、ずいぶんおしゃべりな政府関係者がいるようで早くもすべて明かされてしまったのだけど(我慢できなさすぎだろう)、それは「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽ)」だったという。こうして見ると令和の圧勝じゃねえか、と思うが、それは令和になった世界の僕が見るからかもしれなくて、パラレルワールドの「万和」に決まった僕が見れば、万和以外あり得ねえ、と感じるのかもしれない。もっとも皇太子の顔だけで考えると「広至」がなんとなくしっくり来るような気はした。それと最後の「万保」は、ドラクエ5のゲレゲレ的な感じがあると思った。どうしても「んぽ」に反応してしまう小学生男子が僕の中に巣食っている。こいつは平成が終わって令和になっても、ずっと僕の中に生き続けるんだろうと思う。って言うかそれが俺の本体だからね。

 おとといに日帰りで妻子を島根まで迎えに行って帰ってきたら、その夜から急に体調を崩し、いまはすっかり風邪のような状態になっている。それまで独り暮しのもんだから調子に乗って連日のようにプールに行ったりして、とても体調がよかったのに、本当にガクンと悪くなった。ただでさえ新年度寒波などと言って気温が下がっていたのに、それに加えて一段寒い地方に行ったものだから、もう体がついていけなかった。さらには黄砂とか、実家の犬の毛とか、喉を痛め鼻を苦しめる外敵がいっぺんに襲いかかってきた。ふだん温室の岡山でのほほんと暮している人間が、過酷すぎる山陰の環境に晒されて、滞在時間わずか半日にして、これほどのダメージを負った。おそろしい。あまりにもおそろし過ぎる、山陰。逆に言うと山陰で暮している人間のエネルギーすごい。なんかたぶん、鬱屈とした、濃厚な、なんかカルマ的なやつだ。おそろしい。

 先日「andp」に、あらすじ短歌というものを投稿した。これがすごくよかった。別に誰かから褒められたとかではなく、もちろん僕自身が思ったことなのだけど、すごい発見だと思う。短歌とか俳句とか、小説のようにきちんと設定や前後関係を語れるわけではない表現って、それが原因で題材が限られて、小説で言うなら私小説、すなわち作者本人の人生でしか創作ができないとされてきたけれど、ああやって短歌の前に散文であらすじを記しておけば、どんなテーマでも題材にすることができるのだ。できたんだ。みんなできないと思ってただろ。できるんだよ。前置きで説明しちゃえばよかったんだよ。逆に、作者の人生をきちんと知っていなければその短詩に込められた感情が汲み取れない、なんてもののほうが、考えてみたらよほど不健全だったのだ。
 エロ動画って、再生すればとりあえず男と女がまぐわっていて、それがどういう関係のふたりで、どういう経緯でそうなったのかなんていう説明はほとんどなされない。でも男と女がまぐわっているのを見ればとりあえず興奮する。それと一緒だと思う。詩情とか、背景とか、そういうのはどうでもいいのだ。そんな部分の表現をせっせとする必要はない。描きたい部分を描きたいように描けるように、最短で至ればそれでいいのだ(バカボンフィニッシュ)。

2019年3月27日水曜日

静寂・デスブログ・水泳

 健康診断はつつがなく終了した。と言っても詳しい結果はもちろん後日なので、当日の時点でつつがなくなかったら問題である。唯一ちょっと懸念があるとすれば、聴力検査で、いちど目はぜんぜん音が聴こえなくて、係の人に「おや?」という感じをされてしまった。僕も聴力検査でそんな風になると思っていなかったので、「おやおや?」と思った。それでもやり直したらなんとか聴こえたので事なきを得た。最初はヘッドホンの着け方が悪かったのかもしれない。あるいは本当に耳が悪くなったという可能性ももちろんある。その原因について考えたところ、すぐに子どもたちの顔が思い浮かんだ。思えばこの健診の前は4日間、連休で子どもたちと過したのだ。さらにはカラオケにも行った。耳はちょうどずいぶんダメージを受けていたのではないか。
 そんな疑念を渦巻かせつつ、今の僕は静寂の中にいる。春休みに入った子どもとファルマンは、今日から島根に里帰りなのである。というわけでここから数日の独り暮し。寂しい男やもめ。帰宅すると、静かで、部屋がきれいで、寂しくって辛抱たまらん。

 健康診断を終えたあと、少しだけチューハイを飲んだが、ビールはまだ飲んでいない。やっぱり情熱がだいぶ下がった。飲まなくても大丈夫感がすごい。
 思い返せば僕は今年の1月に、「僕等は瞳を輝かせ、沢山の話をした」に、「ビールは友達」という文章を書いた。ビールは僕のことを労い、優しくしてくれる。だからビールは僕の友達だ、という内容だった。
 あんな文章を書いたからではないか、と思った。ビールを友達としてしまったから、僕とビールの間には距離が生まれる結果になったのではないか。僕という人間と、友達という存在は、どうしたって離別していく運命なのではないか。万有引力の逆バージョンのような、謎の力がここには存在するのではないか。
 第1弾がビールだった「〇〇は友達」シリーズは、これから「ブログ」とか「ちんこ」とかでも書こうと思っていた。でも上記のデスブログ的な恐怖から書くのをやめた。そのかわり、「人の悪意」や「人の哀しむ顔」を友達と言えば、僕の人生からそれらは遠のくのではないかと思う。でもそんな文章、書いたら頭おかしいと思う。

 プールは4月も月会員を継続することにした。労働帰りのエクササイズの充実感、いちど知ってしまったらそうそうやめられない。
 それに週に3回くらいせっせと泳いでいるだけあって、ひと月でかなり泳げるようになってきた。はじめは小刻みにプールから上がって、ベンチでしばらく休んだりしながら、騙し騙し300メートルから400メートルほどを泳いでいたものが、今ではぶっ通しでその倍くらいの距離を泳いでいる。そして息も全然あがらない。
 肺活量とかが鍛えられたのもあるだろうし、なによりこのところめっちゃ本を読んでいるのだ。クロールの泳法の本。もう10冊くらい読んだ。どうすれば楽に長い距離を泳げるのか、作者や出版年によって、書かれている内容はもちろん微妙に異なっていて、そのときどきで直前に読んだ本の泳法を試している。いろいろ意識しすぎて泳ぎ方がぎこちなくなっているきらいもあるけれど、採用できる部分は採用している。どの本を読んでいても共通しているのは、どれだけ水の抵抗を減らせるかが鍵だ、という点だ。水中の運動は、水の抵抗があるからこそ地上の運動よりも効果的だが、しかし大事なのはその抵抗をどれだけ受けずに運動できるかなのである。ここにスイミングの情趣がある。泳ぐ習慣のないあなた方にはまるで理解できない情趣でしょうけれども。

2019年3月13日水曜日

Vネック・ファスナー・ボトルカバー

 Vネックの意味が分からない。どうして世の中にVネックなんてものがあるのだろう。出す必要なんてないだろう、首の下のあの部分。ぜんぶ丸襟でいいだろう。
 百歩譲って、ワイシャツとかポロシャツを着た際の肌着としてのVネックは許す。それらの第1ボタンを開けたときのVのスペースに丸襟の肌着が覗けていたらちょっとダサい。それは解る。だからそのときだけVネックの肌着は有用だ。でもそのときだけだ。
 去年やおととしあたりから、VネックのTシャツというのがちょっと流行っている。あれが本当に嫌なのだ。着るのが嫌なのではない。それ以前の問題で、世の中にあんなものが生み出されるのが嫌だ。アパレル業界がVネックのTシャツに費やすエネルギーの分、丸襟のTシャツがこの世から減るのである。せっかくいいデザインだと思っても、Vネックだから買えないという悲劇は、もう金輪際この世で起らないでほしい。
 そもそもVネックに勝算なんてないだろうと思う。ただ丸襟にちょっと飽きて、それでなんとなく肌着のそれを外に持ってきただけだと思う。そんな志のなさを感じる。早く気付いてほしい。Vネックは肌着なんだってことに。

 洋式便座に向かって立ちションすると飛び散る、という話があるだろう。まあそれは事実なので、なるべく座って行なったほうがいいとされる。ファルマンにも言われる。家族で男は僕ひとりなので、我が家に立ちションの市民権は一切ない。
 それで意識を高くして、小便だけのときも必ず座って行なっているかと言われると、まあしたりしなかったりというのが正直なところである。夜、パジャマ姿ならば座ってするのもやぶさかではないが、日中は立って済ませてしまうことが多い。なぜか。ベルトを外すのが面倒くさいからだ。立ってする場合ファスナーを降ろしてちんこを取り出せば済むところを、座ってしようとすると、ベルトを外してちゃんとズボンを脱がなければならない(そして事後はもちろん再び穿いてベルトも締めなければならない)。パジャマのときと較べて、この労力の差が大きすぎるのだ。それでなかなか座りションが徹底できない。
 でもこの悩ましさにこそ、発明の種が隠されているのではないかと思う。とにかく面倒なのはベルトなのだ。パジャマならば座るのだから。だからベルトのズボンでも、ベルトを外さず、便座に座ってファスナーを開ければ、ちゃんと小便が便器に入っていくような、そんな仕組みがあればいいのだと思う。そんなデザインのズボンを考えればいい。
 それで少し考えて、ファスナーがちんこの前面だけじゃなく、その向こう側、蟻の門渡り、いわゆるプィーボコクスィヅィアスマッスルの部分まで延長してあれば、座ってそこを開けて(あるいは開けてから座って)、ちんこの先端が真下の便座の中にちゃんと向くように姿勢を調整すれば、ベルトを外すことなく座って排尿できるのではないかと思った。
 そして次の瞬間、これは乳児が着る、股ぐりがスナップボタンになっているサロペットだったり、あるいは中国の子どもが穿くという、尻周りが丸ごと開放されている穴あきパンツの発想だな、と思った。いや、そんなかわいいもんじゃない。面倒くさがりのおっさんが想起したのだ、だとすればこれは介護服の範疇に入れるべきかもしれない。
 観念して、面倒くさがらずベルトを外そうと思います。

 100均に最近、とてもシンプルなプラスチックのボトルが売られているだろう。本当に単なる筒で、筒の大きさのままの蓋がついていて、洗いやすいやつ。もちろん魔法瓶でもなんでもないのだが、日常でそこまでヒエヒエアツアツは求めないので、常温の麦茶を入れて仕事に持っていって、日がなチビチビ飲むという、あのボトルである。
 基本的に500ミリリットルなのだが、先日350ミリリットルの、太さはそのままで少し丈の短いものを目にし、こんなサイズのも持っとけば要所で便利なんじゃないか、と思って買った。併せて布製のカバーも買う。カバーは350ミリリットルのそれ専用のものではなく、それなりに伸縮性のある生地で作られていて、350のボトルにも500のボトルにもどっちにも対応する、というものだった。
 それで今日、350ミリリットルのそれを持って出たのだけど、カバーを被せてみたら、どっちにも対応と言いつつ、やっぱり丈の短い350ミリリットルボトルだと、生地が少し余り気味で、なんか筒の丈が短くてカバーがダブついているというその様に、男子として、やけに切ない気持ちにさせられたのだった。買い物に失敗した。俺は800ミリリットルくらいのボトルを買うべき男だのにね。

2019年3月7日木曜日

社交界・画像・特定外来生物

 新しくしたLINEアイコン(キュアミルキー)の評判がとても悪い。ファルマンが「気持ち悪い! 事案だよ!」などと喚くのは想像通りだったけど、滅多に連絡が来ない姉から、「そのアイコンはやめな」ととても冷徹に忠告されたのはダメージが大きかった。姉って「世間そのもの」みたいな人間なので、言うことに説得力があるのだ。その点ファルマンはほら、アレだから。ファルマンがなんか言っても、特殊な意見だなあくらいにしか思わなくて響かないのだけど、姉は何事に関しても世間から決して大きくズレない、羅針盤のような人間なので、姉に窘められるということは世間的に間違っていることを意味する。それでも別のことなら世間とのズレなんか気にしなかったりもするのだが、LINEというのはどこまでも世間のツールなので、その道の達人の意見は聞いておいたほうがいい。社交界には社交界のルールがあるのだ。おで、山から出てきたばっかで、里のことはよくわがんねっけど。というわけでキュアミルキーのアイコンは2日でやめることにした。すごく気に入っていたのに。あーあ、社交界は息が詰まるな!

 というわけで新しいアイコンはなににしようかと考えている。あんまりコロコロ変えたくないので、もう失敗したくない。しかしなににすればいいのかさっぱりわからない。ちんことキュアミルキー、どっちもダメなんだとしたら(ちんこに関しては自力でダメなことに気づけた)、いったいなにをアイコンにしたらいいのか。
 まず思い浮かんだのはポチャッコである。サンリオの犬のキャラクター。別にぜんぜん好きじゃないのだけど、マイメロやキキララのように狙い過ぎてなく、また逆にけろけろけろっぴとかハンギョドンのように外し過ぎてもない、ポチャッコというのが絶妙なのではないか、これが世間でいちばん受け入れられる度合なのではないかと思った。
 次に、もういっそペリーヌの画像にしてはどうかと考えた。プリキュアをやめてペリーヌの流れ、ファルマンにしかウケないのだけど、ファルマンにウケたらそれでいいや、という気もする。それから世界名作劇場の流れで、マルコとかネロとかロミオとか、いろいろ画像を見たが、どれもいまいちしっくり来ない。
 それから、アイコンにちんこはダメだけど、ちんこに特徴のあるサルならどうだろうと発想し、ボノボやカニクイザルの画像を検索する。しかしサルの顔写真って、なんかやっぱり嫌だな、友達のアイコンがサルだったらやだな、と思ってやめた。
 ああ悩ましい。こんなことなら朝青龍から変えなければよかった。

 それからも悩み続け、でもこんなことにそう時間を割いてもいられないので、もうこれでいいやと決定した。それで結局なんの画像にしたか。
 群生するオオキンケイギクの写真である。
 花て。

2019年3月5日火曜日

プリキュア・ペリーヌ・プリキュア

 地方局による毎朝の放送により、ピイガが去年の暮れからプリキュアに嵌まり、しかしそんなタイミングでの覚醒だったので、もう話の終盤だった本放送中の最新作「HUGっと! プリキュア」には途中参加できず、先月より始まった「スター☆トゥインクルプリキュア」から、ピイガ(わが家の)のきちんとリアルタイムで観るプリキュアの歴史が始まった。
 そしてリアルタイムで観てみたら、プリキュアって本当にすごい。なにがすごいって、マーケティングがすごい。ものすごい商売の仕組みが出来上がっている。お店に行けばもう「スター☆トゥインクルプリキュア」のものだらけ。それを見るたびに「ほしい!」と言うピイガ。まずい。我々は「キラやば」な世界に突入してしまったらしい。スーパーに行くたびにいろいろ見つけ、とても面倒臭い。極めつけはなんてったっておもちゃだ。プリキュアに変身するためのおもちゃ。スターカラーペンダントですって。5000円とかですって。もちろん「ほしい!」。これまでほぼ無菌状態で、オセアニアの有袋類のごとくのどかに生きてきたので、それらが海の向こうからやってきた伝染病や犬によってあっという間に絶滅の危機に瀕したように、うちの娘はコマーシャルへの耐性が途轍もなく低いのだった。非常にまずい。キラやばだ。

 毎日1話放送で、CMはプリキュアとは一切関係ない、旅館とか銘菓とかのものが流れていた、地方局の例の放送は、観はじめた「スマイルプリキュア!」から「ドキドキ!プリキュア」へと進み、それが先々週くらいに終わったあと、次は「ハピネスチャージプリキュア!」かと一家で愉しみにしていたら、たぶん最近のほうの作品になるにしたがって放映権料が高いとか、そんなような事情に違いないが、ここでいちどプリキュアの流れがぶった切られて、それで翌日からなにが始まったかと言えば、「ペリーヌ物語」なのだった。
 「ペリーヌ物語」は1978年に放送された、世界名作劇場の流れの作品で、エクトール・アンリ・マロの「家なき娘」を原作とした、とても味わい深く、とても地味で、とても貧乏臭い話である。もちろん魔法少女に変身なんてしない。父親が死んで、母親と懸命に生きようとするが母親も死んで、孤児になったペリーヌも栄養失調で死にかけたりするらしい。つ、つらい……。
 なにより、これまでのプリキュアからの落差である。なんだか地方局の編成担当者の強烈なメッセージを感じる。ペリーヌはパンがなくて死にそうなのに、スターカラーペンダント(プラスチック製、約5000円)を欲しがるなんて現代の子はおかしくないだろうか。担当者はそういうことを言いたいのかもしれない。僕もまったくもって同感だ。
 毎朝その時間にテレビを観るのが慣習になっていたため、ファルマンとピイガは「ペリーヌ物語」を観ているらしい。当然ピイガは白けた反応のようだが、ファルマンはやけに嵌まっていて、ペリーヌ母娘のモノマネをすごいしてくる。俺の妻、1978年放送の「ペリーヌ物語」のモノマネを、なんかすごいしてくる。どうしてしまったんだ。

 それはそれとして「スター☆トゥインクルプリキュア」の話に戻るのだが、これに出てくるキュアミルキーが非常にかわいい。2話の変身シーンを観た瞬間から、心を奪われた。なんか「スター☆トゥインクルプリキュア」は、昨今のラノベ発信とかの得体の知れないアニメについていけず、すっかりアニメ離れした僕のような親世代にも、すごく訴求する要素が詰め込まれていて、とてもいいのだった。ずいぶん久しぶりにアニメのキャラクターを純粋にかわいいと思った。天にあまねくミルキーウェイ! キュアミルキーですよ。今年のプリキュアは変身の際、歌を唄うのが斬新でいい。
 思わずLINEのプロフィール画像を、朝青龍からキュアミルキーに替えてしまった。母親とか、職場の人とかもいるのに、やってしまった。でもこんなとき娘がいるといい。ほら、娘がさ、プリキュア好きだから。まあピイガが好きなのはキュアセレーネなんだけども。

2019年2月28日木曜日

前夜・カレーハードル・新元号

 あまりブログを書かなかった2月が終わる。なぜ書かなかったか。特に理由はない。なんとか2ケタには乗ったのでまあよしとしよう。
 3月は休肝月にする、という宣言をした。とんでもない宣言をぶち上げたものだと思う。3月までまだあと数日ある、3月の俺と関係のない俺だから言えた。今の俺なら言えない。今日の俺は、明日から酒が飲めない俺なのだ。とんでもないことだ。さっき労働の帰りにスーパーに寄って、棚を見て回ったのだが、おいしそうだなと思うものがあっても、(ビールを飲まない俺がこんなものを食べていったいどうするんだ……)と手が伸びなかった。3月はずっとそんな風に、伏し目がちに生きていくんだと思う。ビールのない世界の果てをきっと僕は目にする。

 ファルマンのカレー好きが加速しているのだけど、その好きの加速というのが、カレー好きが高じてオリジナルの調合をしてこだわりのカレーを作るとかじゃなくて、そういう頂きを目指す方向でなく、カレーならばどんなカレーでもアリだ、という、裾野を広げるほうの加速なのだった。そっちか、と思う。例えばコーヒーがすごく好きな人というのは、缶コーヒーを受け入れない。嗜好というものは得てしてそのように尖鋭化してゆくものだと思っていた。そうじゃないパターンもあるということを伴侶のおかげで初めて知った。そして裾野が広がるほうに加速した結果、ファルマンはこの頃とても広い心でカレーを作るようになった。だって汁にカレールウが溶けていれば本人としてはもうオッケーなのだ。そのハードルの低さ。僕が(このカレーはちょっとどうなんだろう……)と思うカレーを、おいしいおいしいと食べる。「カレーにいいカレーも悪いカレーもない」のだと言う。この現象が、いいことなのか悪いことなのか、ずっと判断がつかないでいる。

 職場の女の子で、新元号が始まる5月1日に婚姻届を提出する予定だという子がいて、まあせっかく結婚するんならそういうエピソードが付加される日に出したほうがお得な気分だよね、と2008年8月8日に提出した身として感じ入る部分がある。ちなみに新元号は3、40年にいちどのペースで訪れるが、080808というゾロ目は100年にいちどしか訪れないので、レア度で言えば我々夫婦のほうが勝っている。だからこっちのほうが偉い。ひれ伏してほしい。
 それでいつもの新元号を当てていこう企画なのだけど、イニシャルKが来るんじゃないかという予感もあるので、いっそこういうのはどうかと思った。
 結婚。
 これなら職場の女の子がすごく便利だろうと思う。