2023年8月27日日曜日

蛙化現象・王家の紋章・夏の終わり

 蛙を200匹くらい殺してしまった。
 労働で遅くなり、この時期にしては珍しく、会社を出たときにはすっかり暗くなっていた。会社のすぐ横には端から端まで数百メートルあるような広大な田んぼが広がっていて、その田んぼと田んぼの間に、慎ましやかに、田んぼの畔の事情なのだろう、やけにアップダウンのある道が拓かれ、そこが僕の通勤路なのだが(岡山の灘崎の風景もなかなかのものだったが、こちらも引けを取らない)、そこを走っていて、最初は、なにかやけに道に散らばってるものがあるな、植物かなにかかな、と思っていたのだが、ハイビームで照らされたそれが、たまにピョンピョンと跳ねたりするのを目にして、無数のそれが、すべて蛙であることを悟った。その道を通らないわけにはいかないので、悟らなければよかった。悟ってしまったばっかりに、ファルマンに帰宅を告げる電話を掛け、通話をしている最中だったのだが、「うひゃあ!」「いやあっ!」と絶叫を聞かせることとなり、ファルマンを動揺させた。これがほんとのカエルコールだね、というジョークは、いまこれを書いていて思いついた。
 ハンドル操作で避けようにも、避けた先にも蛙はいるのだから、どうしようもなかった。結局その晩、僕はたぶん、200匹くらいの蛙を轢き殺したことだろう。つらい出来事だった。もちろん轢き殺された蛙のほうがつらかったに違いないけれど。
 しかし翌朝、出勤で同じ道を走ると、生きた蛙はもちろんのこと、蛙の死骸もまるでない。まさか潰された蛙が、すべてタイヤの溝に詰まったわけではないだろう。これはいったいどうしたことかと思っていたら、道のすぐそばには何羽もの鷺がいて、6月にも書いたけれど、ああそういうことか、と思った。自然界はやけにシステマティックなところがあって、まるで、蛙500匹が鷺1羽とイコールです、と窓口で告げられたような、そんな気持ちになった。そして普段は丸呑みするのだろう蛙を、タイヤで潰した状態で食べることで、鷺の消化の負担が減り、普段なら新しい鷺を1羽発生させるのに必要な蛙が500匹であるところ、200匹で済んだ、などというのなら、昨晩の自分の抹殺走行も、少しは救われるな、などと思った。

 「王家の紋章」を、最新69巻まで読み終えた。34巻まで読んだと書いたのが8月20日なので、1週間で35冊、1日7冊ペースで読んだことになる。怒濤である。まるで母なるナイルの氾濫のようではないか。
 読み始めた頃は、この目まぐるしい展開が続くのだとしたら、いったい69巻ではどんなことが繰り広げられているのか、と途方もなく感じたけれど、いざ読んでみれば順当に、この漫画は35年だか40年をかけて、漫画世界の中ではたった数年ほどのことを、丁寧に丁寧に描いているのだった。絵柄もほとんど変わらないし、作者の理念のブレなさに、驚嘆を超えて、震撼する思いを抱いた。
 この1週間、おかげで筋トレもプールも裁縫もほとんどままならず、日常が瓦解し、特異な期間となった。それはまるで主人公であるキャロル(当初は20世紀から古代に来た少女という設定だったが、途中から21世紀ということになっていた)の追体験のようでもあった。現代と古代、そして昭和から平成、さらには令和と、さまざまな時代が、目まぐるしく移り変わり、少し疲れた。前回の記事で、おもしろい長編漫画は一種の蝗害のようなもの、と書いたが、読み尽くし、作物が食い尽くされたことで、僕はようやく蝗害から解放され、平和な日常を取り戻せそうだ。ものすごくおもしろかったけど、反面その嬉しさもある。ちなみに最新刊の刊行はほんの2ヶ月ほど前なので、続刊は当分先だろう。そしてこの読み方をしてしまったら、70巻が発売されても、1巻だけの追加分なんてどうせなあ……、などと思ってしまいそうで、まあとにかくあまり健全な読み方ではなかったな、と思う。

 今日で子どもたちの夏休みが終わる。まだまだ暑いので心配だが、暑さを理由に休業していたら、大学生並みの夏休みにしなければならないので、仕方ないだろう。
 夏休みは、大きくどこかへ出掛けるということはなかったが、もうこれはどうしようもない。連日警戒アラートなのだから。レジャーは、秋や春に集中して行なえばい(ポルガの部活もあり、これまでのようにはままならそうだが)。
 夏休み最終日の今日は、ピイガが「夏休みの間にいちどくらいホットケーキをしたかったな」などと、いじましいことを言ったので、滑り込みで行なった。ホイップクリームを立て、バニラアイスやチョコソースなども用意して、気を済まさせてやった。ピイガは1枚、ポルガは2枚、僕とファルマンは1枚を半分ずつという、まんま人間の生命力曲線グラフみたいな分量を食べた。1口目がとてもおいしかった。
 とにかく一刻も早く涼しくなってほしいが、週間予報を見れば暗澹たる数字が並んでいて、まだまだ我慢の時は続きそうだ。地を這うような曲線グラフの人間は、せっせとビールを飲んで耐えるしかない。われわれは文字を持たない、聖書に記述だけが残されている、ビールばかりをよすがに生きていたという謎多き民族。愛い奴。

2023年8月20日日曜日

王家・ハイカカオ・絵本

 夏休みに借りて読み始めた「王家の紋章」が滅法おもしろい。
 話そのものがもちろんおもしろいのだけど、それに加えて、「ガラスの仮面」とまったく同じ、「作者の情熱」としか言いようのない、読者の反応だとかマーケティングだとか、そんなものに囚われていない、混じりっ気のない「私はとにかくこれが描きたいのだ!」という強烈な業が、全編に渡って満ち溢れていて、それがたまらなくおもしろいのだ。作者が自分を愉しませるためだけに描かれている(実際はそんなことないのかもしれないが)ものが、なぜか「読者はこういうのが読みたいだろうな」と計算されて描かれたものよりもはるかにおもしろいという、その奇蹟的な現象を生み出す力こそ才能というのだろうな、などと読んでいて感じる。
 状況に恵まれ、いま実は、家に最新刊までの全巻が揃っている(完結ではない)。だから心置きなく読み進められる。それはもちろん嬉しいのだが、時間を取られるのも事実で、なかなか他の読書や、日記を書いたりということができずにいる。でもこれはもうしょうがないと、あきらめている。おもしろい漫画は、しょうがないのだ。喩えは悪いが、これはもう蝗害みたいなもので、食い尽くすまで収まらない。せいぜい早く読み終えようと思う。ただし夏休みから読み始めているのに、まだ34巻で、やっと半分というところ。先は長い。嬉しいけども。

 先月の体調不良の折に服んだ薬で、陰嚢が思うがままに寛ぐ姿を目の当たりにし、血流というのはなんと大事なものかと再認識し、恒常的に血流が良くなれば、いつでもあのような陰嚢でいられるのかと希望を抱き、インターネットで血流を良くする方法を検索したところ、ハイカカオチョコレートを紹介される。カカオ分が70%とか80%とか90%とかの、あれである。
 これまでもチョコレートは愛好していたが、それはハイカカオなどと謳っているものではなく、そしてそれは、ハイカカオチョコレートをおすすめするページにおいて、「ああいうチョコレートは飴です」という、なかなかセンセーショナルな文言でばっさりと切り捨てられていた。それ以来、まだ食べかけだったそれは、そのまま冷蔵庫で冷やされ続けている。薄々は感じていた。薄々というか、甘いチョコレートはそもそも、罪悪感を伴う妖しいおいしさが身上みたいな食べ物だったはずだ。
 しかしページを読んだ日からすっぱりと宗旨替えし、今はせっせと、カカオ分80%台のチョコレートを摂取している。これまで食べていたものより甘くなく、口どけもよくないが、でもただそれだけのことだな、と思った。幸い僕は、これまで食べていた飴チョコに、飴を求めていたわけではなく、それでもチョコレートらしさを得ようとしていたようで、チョコレートの濃さを希求した製品に、抵抗感はなかった。なにより、これを習慣的に食べることで、陰嚢が寛ぎ、さらにはアンチエイジング効果まで望めるのだと思うと、メリットしかないと思った。ありがとうございます。

 夏休みに行なった図書館巡りには、スタンプラリーのほか、実はあともうひとつ個人的な目的があって、子どもたちに絵本を読んでやっていた頃に読んだものだと思うのだけど、断片的な場面だけが思い出され、しかしそれが誰の何の本だったかはっきりしないものがあって、家にある蔵書では見つけ出せず、図書館でその探し当てようと目論んでいたのだった。
 とはいえ、完全になんの取っ掛かりもなく、記憶の中の曖昧なひとつの場面だけを頼りに、絵本棚の端から端までを当たるわけもいかない。なんとなくイメージの中のそれは、五味太郎の絵ではないかという気がしていたので、行った先々の図書館で、五味太郎の本を片っ端に確認した。しかし「これだ!」というものは発見できなかった。もしかするとぜんぜん五味太郎じゃないのかもしれない。
 というわけで、今でもその本の正体は判明していない。
 思い浮かんでいる場面は、サーカスの情景が俯瞰で描かれていて、たぶん本の前半で、パフォーマンスを失敗し団員が怪我をするのだが、ショーの最後でその団員が再びステージに現れ、客は「大事なかったようだ」と安心する、みたいな、なんかそんな情景。
 どなたか、心当たりのある方は、お知らせください。なんてことを、妻以外ほぼほぼ誰も読んでいなさそうなブログで書くという、この行為の清廉と美しいこと。

2023年8月8日火曜日

不純・ナイトキャップ・京極堂

 ポップサーカスの松江公演を観て、大いに感動したのだけど、でもどうしたって大人なので、外国の人も大勢いるサーカス団員の、背景のことなどにも思いを馳せてしまい、それは不純であると思った。故郷の親はどう思っているのかとか、どういう環境で暮し、どの程度の自由が与えられているのかとか、つい考えてしまう。演目のひとつに、中国雑技団系の6人の少女による曲芸があり、これなんかはもう、完全に親の視点で見てしまい、いかにも先輩だろう相手の投げたものを、後輩と思しき少女がキャッチするのを失敗したりすると、舞台裏での叱責の情景が思い浮かんでしまい、それはもう芸そのもののハラハラドキドキとはまったく別のハラハラドキドキで、サーカスの見方としては間違っているに違いなかった。子どもは決してそんなことは思わないので、やはりピュアであることは尊いな、と思った。
 ちなみにサーカスは、動物も登場するのかと思いきや、ほぼ現れず、帰宅後にウェブで確認したところ、どうもいまどきのサーカスというものは、動物愛護の観点から、動物による曲芸というものは排斥されつつあるらしい。ほうそうか、と思う。動物は、文句を言うことも逃げ出すこともできないので、人間の勝手で芸を仕込まれてあっちこっちと引き回されて可哀相だ、というのはもっともな話だが、でもそれは人間自身だって同じようなものではないか、ということも思った。華やかなショーを眺めながら、「やりがい搾取」などというワードが頭に思い浮かぶので、ピュアでなくなった大人は哀しい生き物だと思う。

 夏の暑さが原因であるに違いないが、髪が傷んでいて、キシキシする。それをファルマンに訴えたところ、「上の妹はナイトキャップを着けて寝ているらしいよ。髪にいいらしいよ。シルクがいいらしいよ」という答えが返ってきて、へえ、となった。
 ナイトキャップ。amazonで見てみると、「赤ずきん」に出てくるおばあさんのような、あれである。あの時代、それどころかもっと前から、ナイトキャップというものはまるで進化していないようだ。それでも美容に造詣の深い次女が言うのだからということで、1枚注文することにした。
 選ぶにあたり、頭に密着させる仕組みがゴムでないというのは絶対条件だった。とにかく就寝時のゴムを毛嫌いしているので、それだけは避けなければならなかった。というわけで、リボンで結ぶタイプのものにした。
 まだ着けて寝るようになって3日目なので、効果のほどは分からない。実は商品が届いたその日に、ファルマンに髪を切ってもらい、それでキシキシ感がだいぶ緩和されたので、ナイトキャップそのものによる効果というものは計測できなくなってしまった。なんやそれ。
 ちなみにだが、ナイトキャップを頭に被りつつ、相変わらず全裸で寝ている。全裸就寝に関してはファルマンからずっと呆れられていて、「せめて下着だけでも」と懇願されたりもするのだが、ずっと拒み続けていた。それだのにここへ来て、ナイトキャップだけが採用された。全裸ナイトキャップ。いよいよファルマンの眉間の皺は深くなる。「寝るときに全裸である」と「寝るときにナイトキャップを着ける」のベン図の重なりは、どのくらいだろう。同志はどれくらいいるのだろうな。

 おもひでぶぉろろぉぉんで過去の日記を読んでいたら、2006年の8月に僕は京極夏彦の京極堂シリーズを読んでいて、ああ京極堂シリーズ懐かしいな、などと思っていたら、なんとものすごくタイムリーに、9月にシリーズ最新作(「鵼の碑」だそう)が発売される、というニュースが飛び込んできたので、だいぶ驚いた。シンクロニシティ。
 ちなみに17年ぶりだそうで、そういう意味でもシンクロがある。当時の再読は、その年に刊行された「邪魅の雫」とは無関係のようだが(自分が「邪魅の雫」を読んだのか読んでいないのか定かでない)、17年ぶりの時を経て、ちょうど読み返している当時の日記の自分とともに京極堂シリーズの最新作を読むというのも一興だな、などと思う。
 でも腰が引ける。果たして17年経った今の自分に、京極堂シリーズが読めるだろうか。読む気力、体力があるだろうか。やってみたらぜんぜん無理だった、ということになったら、ちょっとショックを受けそうで、挑戦そのものをスルーしたい気もしている。そもそもキャラクターをほとんど覚えていない。いきなり最新作を読んでもいいのだろうか。過去作を再読するべきなのだろうか。でもだとしたら本当に壮大な計画になってしまう。悩んでいる。

2023年8月2日水曜日

副産物・よよよよ400・あだち充足

 新型コロナに罹患した疑惑があり、その後遺症として名高い、「ちんこが小さくなる」について、「その様子は見受けられない」という報告をした(だからみんな安心したと思う)。しかしながら、まだサンプル数(回数)が少ないため確かなことは言えないのだけれど、なんとなく、罹患前に較べて、発射が早くなったような気が、しないでもない。前までなら耐えられていた度合で、「あっ、あっ」となる。ちょっとそんな傾向を感じる。
 そこで「新型コロナ 後遺症 早漏」で検索してみたところ、やはり「ちんこが小さくなる」や「勃起不全」ばかりが出てきて、早漏ということを言っているページは見つけられなかった。もしかしたら世界初の症例なのかもしれない。
 もっとも早漏かどうかというのは、長さや固さ以上に感覚的なものなので、それが事実かどうかは確かめようがない。あるいは発想の転換で、性器に問題が生じて早漏になったと考えるのではなく、コロナ罹患を経て、俺の指使いに磨きが掛かったと捉えることも可能だ。だとすれば後遺症ではなく、副産物だ。新型コロナの副産物、自慰のテクニックの上昇。力が抜けたことで、絶妙なタッチが実現したのかもしれない。

 先日、夏祭りが3年ぶりだか4年ぶりだかに執り行なわれたので、家族で参加した。コロナ以降、初めてだし、コロナ以前も、なぜか倉敷では不思議なほどに夏祭りというものに縁がなかったので、ポルガも含めて、子どもたちはほぼ人生初の夏祭りなのだった(ポルガは第一次島根移住の際に連れて行ったこともあったが、記憶にないという)。
 数年ぶりの開催だったからか、島根のくせにすごい人出で、身動きが取れなくなるほどの瞬間もあり、そもそもそういう状況に慣れていないし、さらには暑さもあって、ひどく疲弊した。来年からは子どもだけで行ってくれよとも思うが、夏祭りの日のティーンのハイテンションを思うと(目の当たりにした)、なかなか娘を野放しにする気にもなれないのだった。
 屋台もたくさん出ていて、僕はもちろんこういう所のものは決して口に入れたくないのだけど、子どもたちはピュアなので「あれも食べたい」「これも食べたい」と言ってきて、でもだいたいのお店が行列だったので買うこともままならず、それでもひとつくらいはということで、チョコバナナの店の列に並び、購った。値段がどこにも書いておらず、いくらなんだろう、どうせお祭り価格だから高いんだろうなと思いながら、ポルガとピイガの分、2本を注文したら、「800円です」と言われたので、聞き間違いかと思った。あるいは、4人で並んでいたので、ひとり1本、4本の注文だと思われたかと思った。いいいい1本、よよよよ400円? ここここの、いかにも安そうな貧弱なバナナを、衛生面に大いに不安のあるチョコレートのプールにくぐらせ、そこにカラフルな粒粒のやつを振りかけただけの、これで、400円? 400円取るの? マジで? えっ、マジで言ってんの? たこ焼き600円とか、りんご飴500円とかは、まあ「お祭り価格だから」の許容範囲だ。でもこのチョコバナナ1本400円は、さすがに限度を超えている。易々と超えてるだろ……、と思いながら、子どもを引き連れて並んだ手前、「じゃあいいです」とも言えず、忸怩たる思いで1000円札を出し、200円だけ返ってきた。カツアゲかと思った。子どもたちは「おいしい」と言って嬉しそうに食べていて、まあ子どもが喜んでいるならいっか……、というふうに思えればいいのだが、あんな不衛生で法外な値段のものを喜んで喰うなよ、むしろ唾棄しろよ、と思ってしまうので、いつまでも溜飲が下がらなかった。今もだ。この半年くらいで、いちばん無駄に使ったお金だったんじゃないかと思う。
 そのあとに見た花火も、この衝撃には敵わず、久々の夏祭りの思い出は、チョコバナナ1本400円という驚き一色に染まってしまった。だって、ほんとに、あれが400円は、さすがに間違ってるだろう。あまりに儲けが出過ぎだろう。将来もうチョコバナナ屋さんになろうかな。おっさんのチョコバナナも咥えてくれーや。

 「タッチ」を読み終えた。途中でも書いたが、結局は浅倉南なんだな、ということを思った。あだち充が描きたかったのは、上杉兄弟でもなく、もちろん野球でもなく、ただ浅倉南なのだ。あだち充が描く物語は、主人公とヒロインが、表面上は紆余曲折ありながらも、結局は深い部分で一切揺らがず強く結びついていて、それは少年が物語を読むときの願望である、「とにかく無条件に主人公(俺)がモテ続ける」に他ならないが、あだち充はたぶんそれをビジネスライクにやっているのではなく、さらにその上位の存在として、「それを描いているのは俺である」という、自身の歪んだ欲求の充足のためにやっているのだと思う。それだからこんなにも、人の情欲をくすぐるのだと思った。大いに参考にすべき創作法だろう。